中学3年生の夏のはじめ、入院をした。
初めて聞いた
特発性血小板減少性紫斑病と言う言葉。
自分の免疫が自分を攻撃してしまう
自己免疫疾患の一種らしい。
血が止まりにくい以外は体調も悪くない。
当然すぐに退院できるものと思っていた。
入ったのは個室だった。
毎晩、家族が晩ご飯を持って病室に来る。
全員で一緒に食べる。
毎晩じゃなくても良いのにと言いながら
特別な行事のようで楽しかった。
甘やかされたせいかかなり太った。
後に点滴薬の副作用の浮腫だと知った。
1ヶ月を過ぎた頃、学校は夏休みに入った。
級友が受験の話をし始め、焦りを感じた。
公立の高校を受験する場合
中学の出席日数や内申点は不可欠だった。
回診に来た主治医に聞いてみると、
退院はできないから
高校受験は諦めてもらうしかない。
と言う返答だった。がっかりした。
やっぱり間に合わないのか。
冗談めかしてもう少し早く退院できないか
聞いてみたが笑われただけだった。
その夜も家族で晩ご飯を食べた。
私と主治医の会話は
親に伝わっていたようだった。
病気を治すことだけを考えてと諭された。
あーあ。こんな事なら今までも
勉強なんて頑張るんじゃなかったな。
それは突然の出来事だった。
ある日、
職場にいる父から病室に電話があった。
今から偉いお医者さんがそっちに行く。
見た目はバカボンのパパに似ている。
それだけ伝えて電話は切れた。
意味がわからない。
すぐにドアが開いて主治医が入って来た。
今から偉いお医者さんが来ると言う。
そして彼は入って来た。
片脚を引きずりながら不自由そうに歩く
バカボンのパパによく似たおじいちゃん。
私に近づき、ゆこちゃん?と言う。
はい、そうです。と答える。
治るから、大丈夫。と言って
主治医と一緒に病室を出て行った。
何が起こったのかよくわからない。
でもこの偉いおじいちゃん先生だったら
私を早く退院させてくれるのかもしれない。
心が弾んだ。
ことの起こりはこうだ。
うちの近所に馴染みの寿司屋がある。
馴染みと言うより互いの家を行き来するほど
長い付き合いの友人のような関係だった。
私が入院してからも父は1人で店に通った。
空いてきた店内のカウンターで大将と話す。
その夜も父と大将は私のことを話していた。
カウンターの逆側の端に
その人は秘書の女性と座っていた。
父の言葉を注意深く聞いていたのか
父が帰った後に大将に私のことを尋ねた。
そしてその日の夜遅く、
大将から我が家に電話がかかってきた。
酔っ払った爺さんが、
てっちゃん(父)を呼べって言ってきかん。
自分は医者で血液のケンイやって言っとる。
悪いけど、もっぺん来てくれんか?
寿司屋に戻った父は
そのケンイだと言うおじいちゃんに
私の病名と
退院の見込みは無いことと
余命を告げられたことを話した。
主治医が私に言った「退院できない」は
事実、退院できないと言うことだった。
後で知った。当時知らなくて良かった。
すぐに転院が決まった。
おじいちゃん先生は大学病院の教授だった。
血液学、免疫学の研究をしていた。
田舎の寿司屋で絡んできた酔っ払いは
本当に権威だった。
私は無事退院し、復学が叶い
出席日数が足りなかった分を
教師達とのマンツーマンの補習で埋め、
おかげで望外の進学校に入ってしまった。
2週間に1度、大学病院に血液検査に通う。
待合室中に響くスピーカーで
「〇〇さん、どうぞ」
と先生に診察室に呼ばれる。
私はいつも
「ゆこちゃん、ゆこちゃんどうぞ」
と呼ばれる。
待合室にいる重篤な患者もつい笑った。
おじいちゃん先生とは最初から気が合った。
先生が大学病院とは別に開いた診療所で
週末にアルバイトをするようになり、
定期的に性病とエイズ検査に通ってくる
風俗嬢のお姉さん達と親しくなった。
平気で10歳〜25歳のサバを読む。
男にも親族にも他人にもたかられて貢ぐ。
自分と正反対の人種だと思った。
誤解を恐れず言えばアホなのに、
人間としての強烈なタフさに惹かれた。
命も体も使うための借り物だと言っていた。
お姉さん曰く仏教の教えだそうだ。
初めて外国に行ったのは高校2年生の時。
おじいちゃん先生はかつて、
良家の生まれのお坊ちゃまだった。
大学院生時代、優秀な中国人留学生の
清貧ぶりを見て感心し、
彼をよく誘い、食事やら賭け事やら何やら
大いに生活の面倒を見てあげたそうだ。
その留学生は母国に帰り、
後に国会議員になり、大きな病院を建て、
レセプションパーティーに先生を招待した。
私は高校をサボってくっついて行った。
先生と秘書と私だけが乗るチャーター機。
飛んでいる機内のコクピットに入った。
初めて降り立った中国。人が元気過ぎる。
ずっと憧れていた万里の長城に登った。
それほどの健康を私は取り戻していた。
高校生活を終えて名古屋の大学に入学し
上京するために中退を決めた。
お芝居で生活して行きたいと思った。
声優なら持病が一番ハンデにならない。
(後にそうでもないと知る。)
私を止められなかった両親に代わり、
説得に臨んだおじいちゃん先生は
すぐに反転して私の味方になった。
私達は気が合うんだから仕方ない。
当面のお小遣いまでくれた先生に
両親は呆れながら
私をしぶしぶ東京に送り出した。
オーディションに受かり事務所に所属した。
新人の頃は主に外国映画の吹き替えをした。
なんとか食べて行けた。夢中になった。
そんな折、妹が亡くなった。
大学生だった。
学生寮で暮らしていて、ある夜
心不全の発作を起こした。
突然だったと言う。
健康な人でも起こす事がある症状だと言う。
亡くなった人を写真におさめてはダメだと
注意された母にせがまれ、
私はその時の妹を描いた。
東京に戻った。
私の人生の中でこれより悲しい出来事は
もう起こりえないだろう。
仕事のNGのジャンルを無くした。
全部の時間を埋めたかった。
仕事をしている時だけ心から楽しかった。
望んだ通り、何も考えられないくらい
忙しい日々が始まった。
10年以上が経った。
哀しみは穏やかな哀しみになった。
そうして心が落ち着いた頃、
体がもたなくなった。
緊急入院。また自己免疫疾患だった。
今度の病名は全身性エリテマトーデス。
私の病状はかなり悪かったらしい。
主治医は医者人生で初めて見た数値と言う。
ステロイドと抗がん剤の治療になるそうだ。
でもこの病では死なないと言われ安心した。
初めて自己免疫疾患を経験してから20年以上
医学は進んでいたんだな。
昔、おじいちゃん先生の言っていた通りだ。
あと20年もすれば自己免疫疾患も癌も
治る病気になると。
ところが入院して1年が経つ頃、
私はなかなかにボロボロだった。
主治医から、ピンチです!と告げられた時
あーあ、やっぱりな。と思った。
薬に体が負けたのかもしれない。
更に厳しい治療を提案された。
イチかバチかと言う説明に臆して断った。
いま命が終わることはそんなに嫌でもない。
だってあっち側(あるのか?)には
もう好きな人が何人もいる。
中3で終わっていたかもしれない命は
運良くたくましく続いた。
悔い無しと言えばウソだけど上出来だ。
ただ親は可哀想だな。2人ともなんてな。
でもこんなこともあろうかと遺書はある。
できるだけポップな言葉を選んで書いた。
願わくば笑ってくれるくらいに。
薬で頭が回らないせいもあった。
ぼんやりゆっくり受け入れようとしていた。
そうして余命を告げられた。
2度目だけど初めての経験。
そうか子供の頃は本人には言わないもんな。
大人は面と向かって言われるんだな。
思いのほか短く刻まれて目が覚めた。
外出許可をもらえないため
友人の協力で病院を抜け出した。
自宅は病院から歩いて1分の距離。
部屋に入るなり捨てる物をまとめる。
使う人がいなくなれば、
物には大した意味は無くなる。
それなのに捨てられない物になる。
実家には妹の部屋が、
妹がいた時のままにある。
何時間経ったか、もうすぐ夕食の配膳だ。
バレないようにこっそり病室に戻ろうとして
病棟に入った途端に捕獲された。
さらに愛知から両親が呼び出されていた。
主治医と親にダブルで叱られる。
なんだなんだ、人の気も知らないで。
しかし明日以降はどうやって抜け出そう。
監視が厳しくなるだろうからな。
それにしても疲れた。
久々に動いたせいか眠れない。
てゆうかお前こんなに足掻けるんやんけ。
その夜、唐突に笑えてきた。
セカンドオピニオンを探し始めた。
2度の転院を経て出会った新しい主治医に
え?2週間?何で?的な返答をされた。
え?違うの?私、大丈夫なの?
どうやらやつら、もとい
一定数の医者には盛り癖がある。
またしても無事退院。
しばらくは実家で暮らした。
妹の部屋を片付けた。
そっちに行くのは先延ばしになったよ。
会いたい人も増えた。
会えるのかな。
会えると信じる以外ないから信じるか。
上京して仕事を再開した。
持病はずいぶん軽くなった。
ちゃんと休む時間を取れば
普通の生活をして良いと言われる。
もう普通がどんなか忘れかけていたけど
これはとても嬉しい。
薬の後遺症だけは少し手強かった。
が先々週、
その手術が成功した。
術後2日目にリハビリが始まる。
早い早い痛い痛いひぎぃ。
具体的に表現するのは憚られるが
まだ上にも下にも管が付いている状態で
数人の看護師が私のそれぞれの管を持ち
私と医師の動きの妨げにならないよう
見事なパスプレーで補助する光景が
異様で笑える。痛い。お腹も痛い。
こうして借り物の体はまた強くなった。
本日、無事退院。
悪くない。
悪くないと思える時間がまだ続く。
きっと私は幸運なんだろう。
今これを書けて嬉しい。
みんなに聞いて欲しかったんだな。
ツブヤキと言うにはあまりに長いね(笑)
読んでくれてありがとう。
2012年と2013年は病棟からお送りしました。
どんな時も黙らない性質(たち)らしい。
私はけっこう元気みたいです♪