【四国犬の古典鑑賞】
現在の日本犬中型 四国犬に影響を与えた犬
40:陸奥号(出生と古城先生3)
故古城九州男博士のこと
古城先生は副鼻空炎根治手術の手技「中鼻道及び下鼻道粘膜処理法」を考案され医学博士となり、九州大学で非常勤講師をされていました。大正13年に同大学より高知病院の耳鼻科科長として赴任し、後に高知市本町3丁目に古城耳鼻科を開業されていました。昭和63年に体調を崩されたため、東京の御子息の方に居を移されました。
アルバムの陸奥と古城先生の写真を見ながら話す。
古城先生の写真は、二代目が医院に伺った際に写させていただいたもの。診療の合間に白衣のまま、マスクを外して話してくださっていた。
※古城先生の肖像部分に保護のため加工をしています。
先生はなんとも多趣味、多芸な方です。音楽においては昭和6年に高知オーケストラを立ち上げられ、ご自身もチェロを弾かれていました。昭和34年には第10回高知県文化賞を音楽の部で受賞されています。絵画では油彩もたしなまれました。先生の作品は、高知の大丸百貨店で催された展覧会で私も拝見しましたが、色彩の濁りない、冴えた色使いの真に清々しい絵でした。他にも高知の尾戸焼きの収集は第一人者であり、個人的に史跡「能茶山山上窯跡」を所有されるほどでした。そのコレクションは、先生が高知を離れられる時に市に寄贈されたと聞いています。古城先生のなさることは、全ての面で趣味の域を越えていて、高いレベルの考えをされる方でした。
日本犬においては、高知へ来られた後に、四国犬の良さに目を止めて飼い始められたと聞きます。
昭和9年。先生は、四国犬の保存、特に本川系統の保存を目的として、同業の岡崎真積氏より長春号を譲り受けました。長春号を基礎犬とした日本犬保存の活動の始まりです。もしもこの時、古城先生がゴマ号を基礎犬として四国犬の保存を始められていたならば、今の四国犬の姿は大きく異なっていたことでしょう。
私が古城九州男先生を最初にお見かけしたのは、昭和24年に伊予三島町で行なわれた、第2回愛媛支部展です。松本克郎氏とご一緒に審査員として来られていました。当時中学生であった私は、大人の犬談に耳をそばだてていたものですが、その先に古城先生がいらっしゃったという訳です。
先生の審美眼は、多方面に向いた芸術への嗜好と知識から培われたものでしょう。大変鋭く犬を識別されていました。
その後、昭和31年に真鍋正利叔父の紹介で高知市の先生の医院兼ご自宅を訪れ、初めて正式にお目にかかりました。先生は「古い犬のアルバムを見てなさい。」とおっしゃってから、医院の方に行かれて診察をし、患者さんが途切れた合間をみて応接間に来られて、色々と犬の話をしてくださいました。それから私は、毎年高知へ出張する度にお訪ねし、話を伺うようになりました。先生は甘党で、お土産で持参した愛媛銘菓のタルトを好まれましたね。
先生は、犬の話に花が咲いて、大学へ講義に行く時間を忘れて穴をあけてしまったこともあるほど、犬の話に夢中になることがあったそうです。また、当時の審査員であった里田原三、安原峻一両氏に長春号の系統保存と系統繁殖の計画を話すと、里田氏はまるで総理の施政方針を聞くようだと評した、という逸話もあります。
私が先生に犬の見方や疑問をお尋ねすると、先生は、いつも必ず「長春号」「長昭号」「陸奥号」「長秋号」「定太号」の写真を縦に並べ「保存と系統繁殖は、このように継続して狂わない作出が続かないといけませんよ。」とおっしゃっていました。
先生は陸奥号を手元においてからは、たいそう大切になさっていた様子でした。先生との雑談の折、
「陸奥の餌などの世話をしていたばあやが暇を乞うた時に、何でもやるから欲しいものを言ってごらん、と言うと、ばあやはこの犬(陸奥)をください、と言ったので、慌ててそれだけは勘弁してくれと断ったのだよ。」
と笑っておっしゃっていたことが印象に残っています。
古城先生が作出された陸奥号を父とした1代目の犬群は、長秋号、黒旋風号、定太号、或羽号等、すばらしい犬達でした。しかしこれ以後、先生のは健康上のことなどから土佐純研会とその貴重な資料を大舘友重氏に譲られたのです。(be-so)
古城先生、凄い方ですね。
次はいよいよ血統の話。少しお時間いただきます。
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