アンチョビのある風景
オイルサーディンについて書いたときに言及したアンチョビ缶を数日前に別の店で発見したので、昨夜はそれをポテトグラタンにしてみた。余っていた食パンもクルトン状にして入れてみる。グラタンソースとよく馴染んで食感をより豊かにしてくれる。
昨夜の晩御飯。
メニュー
・ アンチョビポテトグラタン
・ 肉団子の中華スープ(残り物)
・ サラダ菜とミニトマトのサラダ
・ 黒米入り御飯
月曜日の朝日新聞朝刊の「私の視点」に、宗教哲学者の稲垣久和氏が寄稿され、教育基本法の改正案について押さえておくべき真っ当な論点を展開されていたので、簡単にメモしておきたい。
氏は今回の改正案において、「公共」という概念が「公」という概念と混同され、曖昧化されていると説く。一方で、「公共」とは「特定の国民だけではなくすべての人に開かれている共通の関心事」で「異質な他者と対話し、触れあいながら、協働で生活を築き上げる広場」を意味している。他方で、「「公」は従来の日本語では、国、官、政府、お上、天皇といった「おほやけ」の意味で使われて」きた。したがって、「公共の精神を養う」ということと、「公の秩序を守る」ということは、日本語の用法を尊重するならばまったく異なる意味をもってくる。にもかかわらず、改正案ではこれらが混同され、前者が後者に回収されていくような仕方で修正がなされている。このような言葉の遣い方はまるで「伝統と文化を尊重」(2条5項)していない。それゆえ、法改正を進める前に、これらの重要な概念についての反省も含め、もっと十分に国民的な議論を深めてゆくべきである。以上が氏の論点の骨子である。
一般に、成熟した市民社会を形成するためには、「公共の精神を養い」、それによって「公共空間」を社会のなかに創出してゆくことが必要である。例えば、合意形成や説明責任といった主題群がこの系に属する。他方、「公の秩序を守る」といった文言は、それが「おほやけ」に繋がる意味において使用されるなら、「滅私奉公の心」の涵養という方向へと繋がりかねない危険性をもつ。当然のことながら、国家は個人のためにあるのであって、個人が国家のためにあるのではない。現今の教育基本法においても、教育の目的は第一に「人格の完成」に置かれている。公教育は個人の人格的陶冶を第一に目標とすべきであり、国家有用の人材の創出にそれを当てるべきではない。「人格の完成」という語が曖昧だとして条文から削除しようと提案している政治家たちは、「人格」という歴史ある概念についてきちんと勉強し、その上で必要な議論を尽くしたのか、疑問である。
そもそも政治上の言説においては、多義的に解釈可能な言葉を盛り込むのが常態と化している感がある。かつて三島由紀夫が国会答弁か何かの原稿を頼まれて作成したとき、文章があまりに簡潔明瞭すぎて使い物にならないと判断されたという逸話を聞いたことがある。外交戦略などでそうした多義的な言説が有効に機能する場面もあるとは思うが、今回のような重要な法改正においては、使用される概念がもつ曖昧性は徹底的に排除されるべきである。法律の文章というのは、そこに登場するひらがなを一語変えるだけでも別様な解釈が可能となる場合があるので、それをチェックする際にも、われわれは余程の慎重を期す必要がある。ましてや、立法過程に携わる者が、自らの使用する概念に対して厳密な態度をとるべきなのは言うまでもない。