2024/08/25 - 2024/08/25
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gianiさん
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この旅行記のスケジュール
2024/08/25
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1611年に毛利水軍の本拠地が置かれたことで三田尻の町は誕生し、宿場町/港町/代官所/藩主別邸が置かれ、歴史を紡ぎ始めました。
隣接地に1699年以降塩田が操業すると、赤穂に次ぐ塩の産地として「三田尻」は全国区の名前になります。
製塩は大蔵省専売局/専売公社へ引き継がれ、1952年に防府の試験場で画期的な製塩法が実用化され、日本の塩産業に大きな爪痕を遺します。
そんな三田尻を味わい尽くす旅です。
防府前編はコチラ↓
https://4travel.jp/travelogue/11924435
- 旅行の満足度
- 5.0
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貸自転車は安くて、観光の強い味方です。17時閉店までフル活用しました。
防府市サイクリングターミナル 宿・ホテル
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縄文~古代の防府
下は縄文時代、上は古代の地形です。佐波川沿い(黄色)に平野が形成されます。海上には、下から向島/田島が浮かびます。平野と山地の境界に山陽道が通っています。赤丸は国府津の船所、青丸は三田尻港です。
緑色は、桑山です。桑山の西に位置する防府市郷土資料館/県道185号線付近が縄文時代の海岸線、古代の佐波川流路だと分かります。 -
江戸時代の干拓地
防府市の平野部の多くが、この時期に人工的に誕生したことが分かります。 -
干拓黎明期
江戸時代は全国規模で新田開発が進行し、長州(萩)藩の防府でも、1628年の潮合(しあい)開作を皮切りに干拓がスタートします。長州藩では新田を「開作」と呼び、防府では山野の開拓/埋立ではなく、干拓が行われます。写真のように佐波川の旧流路に当たり、干潟が形成されたと考えられます。
1646年の宗金開作/泥江開作で田島は陸続きになり、田島山になります。
佐波川旧河道に沿って、1647年に伊佐江開作/1648年に野村開作が誕生します。
西浦では、吉原/内浜田開作が誕生します。 -
実際の光景
江戸時代前の陸地と干拓地の西の境界線は、現在の県道190号線です。玉祖神社の先に架かる大崎橋の橋詰には大崎渡しの跡があります。写真では田島山が見えます。 -
八河内交差点で左折し、陸自/空自が入る防府北基地の北縁が境界線になります。防風林で囲まれた部分が基地です。1944年の陸軍航空隊防府飛行場がルーツです。
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基地の先は、現住所でいうと伊佐江/仁井令/華浦/警固町が概ね江戸時代以前の陸地です。写真は警固町(道路側)と、勝間(畑側)の住所境界線。
警固町は、三田尻御船倉勤務の組織名から採られた地名です。 -
江戸時代に干拓された勝間とは、はっきりとした高低差が見られます。これは勝間が埋立地ではなく、堤防で仕切って排水した干拓地であることの明白な証拠です。
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周防国の国府津があった船所地区(現住所:警固町2/国衙5)は、現在水田になっています。山陽本線高架橋手前の白いガードレール沿いに水路があり、そこが江戸時代前までの海岸線でした。橋の名前として、船所/浜宮という旧地名が残ります。
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干拓事業
干潮時に、潮留と呼ばれる防潮堤を築きます。潮が満ちるまでの短時間で作業するため、とにかく人海戦術です。木杭を打ち込み、土で壁を作り、外側を石で敷き詰めて覆います。堤防は、満潮時の水位よりも高くします。
三田尻大開作では、一度に7万人が従事して堤防で仕切りました。せっかく堤防で仕切っても、台風や高波で決壊することも度々でした。 -
17世紀後半の干拓地(黄色)
1688年の三田尻自力開作は、公儀/勤功/寺社といった権力系ではなく、領民自らがおこなった自力開作です。東半分は、自力町という住所として名前が残ります。
1699年の三田尻大開作は大規模なものでしたが、一部の土地は塩の抜けが悪く、塩田を建設します。それが古浜塩田です。結果は良好で、三田尻大開作の殆どが塩田化されます。 -
18世紀の干拓
現代の海岸線とあまり変わらない状況になっています。
注目すべきは、18世紀後半の開作が専ら塩田開発(赤枠)だった点です。左より、西浦の前ヶ浜塩田(1787)、大浜塩田(1767)/鶴浜塩田(1764)/中浜塩田(1717)/古浜塩田(1699)と、東から西へ拡張したことが分かります。右は、江泊塩田(1759)です。 -
19世紀の干拓
面積も僅かで、1830年以降は90年代まで開作は60年間ストップします。
干拓事業が始まる前の防府の米の生産量は20978石でしたが、明治維新の頃は68110石と3倍以上に増加しています。
では、現地へ赴きます。 -
防府駅南口から出ているバスは、干拓地の旧市街を通ります。のどかな景観ですが、山口銀行の支店があることからも、歴史を感じさせます。
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中野開作
1717年から開削され、昔からの陸地という景観。水田が多いです。
厚狭毛利家の毛利就久が勤功開作地として拝領しました。 -
中野開作の南端を通るバス通りを西進します。下新前町バス停のある山縣医院のところでクランクします。
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クランク部分には、磯崎神社があります。
中野開作は堤防決潰を繰り返し、難航します。そのため1733年に厳島神社の分霊を勧請し、中野開作の鎮守として奉祀します。それでも決潰は止まず、毛利就久は開作地を藩府へ返還し、公儀開作として完遂します。神社の入口には、排水路(後の灌漑用水路)が通ります。1758年の上地新開作/1767年の大浜塩田が開削されることで、中野開作は四方を陸地に囲まれます。 -
長平橋で左折して、南進します。写真の水路を挟んで対岸が中浜塩田(1717)跡です。
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右折して、西進します。
この道路は中野開作(右枠外)と大浜塩田の境界線です。中央は、旧塩田内を走る入川です。入川の水位は、潮位(海水位)と同じ高さです。 -
上の写真の右枠外の構図。中野開作の用水路(兼排水路)は、入川よりも低い水位です。左手前が水門で、干潮時に開門して自然排水する仕組みです。
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そのまま西進します。
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入川の幅が6mまで狭まり、石橋が架かっています。
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中央の吊り桁は、3.8m×1.8m×15cmの一枚板です。両側10cmの突き出しの上に載せてあります。橋の中央は、基盤部から階段状に60cm盛り上がっています。
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枡築(ますつき)欄干橋
大浜塩田が築かれた1767年に、入川(塩田の用水路)に9か所掛けられましたが、現存するのはここだけです。かつては、木製の欄干が付いていました。
満潮時でも船が通行できるよう、アーチ型になっています。枡築らんかん橋 名所・史跡
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田島山まで入川は続いていますが、引き返します。
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欄干橋より西側は、道路の両側が大浜塩田でした。塩田と農地の境界線は、現住所の浜方/田島の境界線と一致します。
三田尻の塩田は、塩業整備臨時措置法に基づく第3次塩業整備に伴い1960年に姿を消します。跡地を埋め立てて工場が誘致され、大浜塩田跡には西から順に東海カーボン/ブリヂストンが入居します。 -
という訳で、1976年に操業開始したブリヂストン防府工場。大浜塩田跡のエースです。
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大きな工場です。
この奥には、1981年操業開始のマツダの工場があります。 -
東進すると、大きな水路(西入川)を渡ります。
手前が大浜塩田跡で、向こうが鶴浜塩田跡です。対岸の左枠外は、中浜塩田跡です。 -
右側を見ると、向島が見えます。この水路の先が小田港です。
塩の積出港および海上交通をチェックする中関番所が置かれ、上関/下関と並び、防長三海関を構成しました。海峡の幅が一番狭い部分は140mで、番所を置くには好都合です。 -
同じ構図で、塩田だった頃の写真。塩田の煙突が見えます。
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水路の反対側は、長平橋まで続きます。
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鶴浜塩田跡には、手前より塩田を保存した記念公園、鶴浜鉄工団地(工業団地)があります。
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防府の塩業
昔から塩焼きが盛んに行われます。藻塩焼と呼ばれる製法は、まず海水を汲んで砂浜に並べた海藻に掛けて乾燥させます。海藻に海水を掛けて出来た濃い塩水を土器に入れ、竈で煮詰めて完成です。不純物が多く、茶色をしています。 -
塩田:揚浜式から入浜式へ
奈良時代には、藻塩焼から塩田へシフトします。13世紀には「鞠府塩」のブランドで知られました。鞠府松原(現在の華城小学校付近)が主産地です。近似ポイントを位置情報に入れてあります。
塩田では、海藻ではなく砂に塩を付けること付着させます。揚浜式では、海水を桶に汲み、海水面よりも高い塩田へ人力で運びました。塩田の基盤は粘土で固めて、海水を通さないようにします。大変な労力と生産性の問題があって、入浜式へシフトします。古浜塩田は、最初から最新技法の入浜方式で建設されました。1610年の藩の塩の生産量は年間122tでした。こだわりとんかつ一丁 防府店 グルメ・レストラン
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防長三白
毛利重就(在1753~82)は、藩政改革の一環として3つの特産品(米/紙/塩)を奨励します。三田尻には古浜(青)/中浜(黄)塩田が操業していましたが、江泊(橙)/鶴浜(緑)/大浜(桃)塩田が開作されます。1787年には西浦塩田(紫)も開作され、これらは三田尻6ヶ所浜と呼ばれ、播州赤穂に次ぐ全国第二の塩生産量となります。広さは3.5平方kmに及びます。
また中関港(赤丸)/小田港(青丸)も開港します。 -
中関港/小田港
毛利重就は撫育方という役所を創設し、特別会計の財源として産業振興を図りました。撫育方の運用資金で中関港が整備され、藩生産量の半分を占める三田尻塩の移出港となりました。北前船を通して日本海側へ移出され、塩を三田尻と呼ぶ地域もあります。佐波川上流の徳地産の紙も積み出されました。
中関港には藩の海上番所が置かれ、通行船の監視と徴税を行いました。本土と向島の海峡幅は僅かに140mという条件を活かしています。小田港は海峡の西側に位置し、風向きに応じて東口の中関を補完しました。 -
入浜式塩田
潮の干満差を利用して浜へ海水を引き入れ、毛細管現象を利用して表面に出た海水の水分を蒸発させます。
条件は、干拓地/穏やかな波(内海/入り江)/潮の干満差が大きく干潟が多いことです。あと、大前提として雨が少なく、日照時間が長いことです。 -
塩田は中間位(満潮位~干潮位の中間地点)を基準に建設します。
海と塩田の間に堤防を築き、海水を引き入れる樋門を中間位~干潮位のレベルに設けます。満潮時に導水します(干潮時に樋門を開く際は、雨水等を排水します)。
樋門から塩田へ入った海水は塩溜枡に蓄えられ、前溝を通して浜溝へ流れます。水位が地場の11cm下に達すると、樋門を閉め切ります。 -
実際の光景
写真奥が堤防で、海と塩田の仕切りです。堤防はかなりの幅を確保しています。塩溜枡の奥に樋門があります。今は閉まっている状態です。 -
水路と地場を遮る前道(畦道)に導水管が通り、地場の浜溝に海水が入ります。
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実際の配置
現在地には手前に入川と商店2店分の浜屋(左:北国屋/右:越中屋)が建ち、その先に海へ向かって地場が広がります。
1軒分の地場は67.5×216m(1.5ha)で、短冊状に5分割(各13.5×216m)されました。 -
現地では、上記の13.5×36m分が再現されています。地場(塩浜)の周囲に浜溝があり、海水が流れ込みます。浜溝から地場の砂に海水が浸透していきます。
地場の地盤の厚さは170cm、4つの層で構成されます。海水が流れ込むと、基盤から159cmの高さまで、海水に浸かります。 -
塩田地場
最下層(第4層)の厚さは100cmで、海底の砂が敷き詰められています。第3層の厚さは55cmで、米粒大の「つけすな」が敷き詰められます。第2層の厚さは11cmで、さらに小さい粒の「張砂」が敷き詰められます。表面の厚さは4cmで、持砂と呼ばれる直径0.1mm以下の細砂が敷き詰められます。海水は毛細管現象で表面まで引き上げられ、太陽熱と風で水分が蒸発すると塩の結晶が持砂に付着します。 -
地場を図説すると、上の図のようになります。
浜引
表面の持砂は、竹子で筋を作ることで表面積を増やし、水分の蒸発を促進させます。蒸発は、地場の毛細管現象を促進し、新たな塩水が上昇します(灌漑で誕生した農地で起きる塩害と全く同じ原理です)。筋は太陽の角度に合わせて引き、炎天下で1,2時間おきに行う重労働です。 -
浜引作業の現場
禅寺の石庭のように、きれいな模様ができています。 -
往時の浜引
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入鍬作業
1,2日経つと持砂に塩の結晶が付着します。そうすると入鍬で持砂を搔き集めて、地場中央にある沼井(ぬい)の周りへ寄せ、中へ投入します。 -
入鍬で作業している様子
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寄せ板作業
入鍬作業が終わると(写真)、細い模様として残っている部分の持砂を寄せ板で丁寧に沼井(ぬい)の前まで押して行きました。写真では女性2人と子供2人が従事しており、力の弱い人の作業とされました。寄せ板で集められた持砂は、入鍬で沼井へ投入され踏み固められます。 -
塩取(はなえ)作業
担い桶に浜溝から海水を汲んで、沼井に注ぎ込む作業を「はなえ」といいます。二斗(36リットル)入りの桶を2つ担ぐのは重労働です。四斗の海水(72リットル)は75kgの重さがあり、一荷と数えました。 -
沼井(ぬい)
沼井は、通常一辺1.5mの正方形が2つ並んでいる形状です。
1.5haの地場に90台(18台×5列)の沼井が割り当てられます。
沼井の壁と底は粘土と赤土でコーティングされました。写真のようにセメントが登場するとセメント製に替わります。 -
沼井の底には根太木を組んで簀子状にし、その上に割竹を並べ、更にその上に簾竹を敷いて、更に藁や茅の菰を敷きます。
入鍬で持砂を沼井に投入し、浜溝から汲んだ海水を掛けて、持砂に付着した塩の結晶を洗い流します。 -
菰~割竹の透過層を通って濾過されて、濃い海水だけが藻垂壺(右)と受箱(左)に滴り落ちるようになっています。藻垂壺の直径は70cmです。海水(塩分濃度3%)を持砂に掛けること塩分濃度15%以上の鹹水ができます。
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鹹水は、大壺(台壺)へ運ばれ、次のステージへ進みます。
三田尻塩田では、暗溝(あんこう)と呼ばれる独自のシステムで省力化が図られました。一軒の塩田の中央の2箇所に櫓を設け、櫓(比高4m)から鹹水を流し込むと、地下の竹菅を通して大壺まで鹹水が流れるシステムです。 -
沼井の藻垂壺から汲み出した鹹水を担い桶に担いで、板の坂を上って投入します。台壺から遠い所では、桶を担ぐ距離を節約できます。台壺に近い地場では、直接担いで運びました。
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暗溝と台壺の距離が遠い場合、途中に助壺を中継して送られました。
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採鹹作業まとめ
①浜起こし:浜作業を休む冬の間に固くなった地場を六本金子で掻き起こします。
②浜引:竹子でさらに細かく掻き起こします。①②を何度も繰り返します。
③かじき土の移動:鍬で塩分の少ない砂を沼井の周囲に搔き集めて、稜線が三日月型の低い砂山を築きます。
④沼井掘り:沼井掘鍬で沼井内の持砂を掻き出し、沼井の四隅(かじき土の砂山の内側)に積み上げます。 -
⑤持浜作業(入鍬/寄板):塩分が付着した持砂を入鍬/寄板で沼井へ入れます。
⑥沼井踏み:塩分がムラなく溶けるよう、平らにして踏み固めます。
⑦塩取(はなえ):浜溝から海水を汲んで沼井へ注ぎ、濾過された濃い鹹水が藻垂壺に溜まります。
⑧暗溝作業:藻垂壺から鹹水を汲み出し、櫓上から注いで大壺まで流れるようにします。
⑨撒砂:③④の砂を地場に撒いて持砂を補充し、浜引します。
⑩撒潮:乾いた砂では毛細管現象が起きないので、表面に打杓で海水を撒いて地場床の毛細管現象を誘発します。
シーズン中は④~⑩を繰り返します。 -
大壺(台壺/鹹水溜)
鹹水を溜める水槽で、地面を掘って設置します。通常は壺の上に床を張って、写真のように瓦葺/茅葺の道具小屋を建てます。 -
内部はこんな感じで、床下の台壺は見えません。
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内部構造
水槽は12×3.6×0.9mの大きさで、赤土と粘土でコーティングされます。隣接する釜屋と竹管で繋がっています。 -
煎熬(せんごう)
釜屋で行われます。釜屋の中央に竈を築き、石窯/鉄釜を設置しました。写真では、ステンレス槽になっています。石釜は熱に強い花崗岩製で、小石をたくさん並べて漆喰で固めたものでしたが、20世紀に入って鉄釜に替わりました。
釜の下に煙道が通り、背後の煙突へ通じます。燃料は松薪でしたが、1778年以降は石炭へ変わります。 -
大壺から繋がる竹管は、釜屋の地中に埋めた桶(瓢箪)へ通じます。瓢箪に溜めた鹹水は瓢箪釣瓶(ひょうたんつるべ)で濾し桶(写真左)へ移し、濾過したものは底の管を経て温め釜(中央奥)へ移され、煙道の熱で温めます(予熱)。結晶釜へ流し、煮詰めて塩の結晶を取り出します。
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海水由来の鹹水には様々な物質が溶け込んでいます。そこから塩化ナトリウムを取り出すのが煎ごう作業です。
海水を煮詰めると最初に酸化鉄が結晶化し、続いて塩分(炭酸カルシウム/硫酸カルシウム/塩化ナトリウム/硫酸マグネシウム/塩化マグネシウム/臭化マグネシウム)の順に結晶化します。 -
鹹水を煮続けると、白く濁ってきます。
これは硫酸カルシウム(鹹水中の質量は塩化ナトリウムの僅か20分の1)が飽和して結晶化する兆候です。 -
更に煮詰めると、塩化ナトリウムが飽和して結晶ができてきます。
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網で結晶を掬い上げ、塩取り箱に集めます。塩水も含まれた状態です。
ここで掬い上げないと、硫酸マグネシウム以降も結晶化し、苦い塩になってしまいます。 -
塩取箱から簾竹の上に載せて、居出場に1週間ほど置いて乾燥させます。すると、にがり成分が滴り落ちてまろやかな塩が出来上がります。塩水にはMgSO4,MgCl2,KCl等が溶け込んでいます。僅かに残ったにがり成分は、塩味に奥行きを与えます。
居出場は2×6mの区画で、地面を1mほど掘り下げ、緩い傾斜を付けます。根太木を組み、その上に竹の簀子/粗砂/細砂/竹簀子の順に敷きます(写真)。構図の手前枠外には、にがり壺が埋め込まれ、にがりが溜まるようになっています。 -
最後の計量して、蒲簀(かます)へ袋詰めします。蒲簀は、藁莚を二つ折りにし、縁を縫い閉じた袋です。梱包したものは塩俵と呼ばれ、大俵(54リットル 一般的な米俵に相当)/中俵(29リットル)/小俵(14-16リットル)がありました。中関/小田の港から各地へ出荷されました。
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釜屋
30尺(9.09m)四方の建物で、幅6尺(1.818m)の出入口を設けます(写真)。左奥に直径/深さ1.5mの桶(瓢箪)を地中に埋め、手前(左壁沿い)に居出場、右の壁沿いに燃料置き場です。昭和の建築なので、屋根は瓦葺きです。 -
竈と煙道の先には煙突があります。写真は、昭和初期まで越中屋で使用されたものです。外壁は、石釜と同じ石を輪形に並べて270段ほど積み上げています。内壁は、自然石を加工したものを漆喰で塗り固めています。高さ12.45m、頂部の円周は4.15mです。内径は40㎝の楕円形です。基部の手前には、灰を掻き出す扉が設けられています。
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釜屋と煙突は、このようにつながっています。
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大正時代の釜屋
まだ藁葺き屋根が主流でした。 -
塩田の一日
製造工程を見ていきましたが、タイムスケジュールは太陽の動きに従います。
AM2:00~浜引きをして、乾燥を早めます。
PM1:00~持砂を集めて、沼井へ入れます。
PM4:00~沼井へ海水を注ぎ込んで採鹹します。PM7:00まで続きます。
釜屋は、24時間稼働して煎ごうします。 -
流下式塩田
膨大な量の海水が持つ重力は長年塩田を席巻し、砂を移動することが塩田の根幹で、膨大な労力を要しました。プラント内を海水(鹹水)が移動すれば効率的という発想の基に、1952年に流下式塩田が稼働しました。電動ポンプの普及が重要な背景です。 -
海水はポンプで汲み上げられ、1/100の勾配が付いた流下盤(濃縮台)に流されます。ゆっくりと流れ落ちる中で、太陽熱と風で水分が蒸発させて濃度を上げます。一定濃度になるまで、エンドレスで循環します。写真ではトタン板ですが、往時はアスファルト盤でした。
入浜式でも流下盤は編入され、助壺から流下盤を経て大壺に至るシステムが展示されています。 -
流下盤を経て、枝条架式濃縮装置を通ります。ポンプで天井の樋に送られた鹹水は、竹の枝へ流され、太陽熱と風を受けながら滴り落ち、濃い鹹水が出来上がります。
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流下式塩田の光景
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左は、竹枝の代わりに合成繊維の漁網を用いた濃縮装置の模型。
流下式は入浜式と比べて少ない人員(1/10)で、多くの塩(3倍)を生産できる(3×10=30倍)ために塩の余剰が生じ、国策で1959年に三田尻塩田は終焉を迎えます。
三田尻塩田記念産業公園は、非常に見ごたえのある施設でした。 -
参考:往時の配置
矢印が現在の記念館の入口で、道路に面しています。奥が北国屋、手前が越中屋で、記念館の塩田は当時と90度ずれた配置になっています。この模型は、1956年に昭和天皇夫妻が巡視の折に、説明用に作成された尊い一品です。 -
塩田で使用された道具
1/10スケールで再現。実物は相当の種類に及び、すべて国の重文指定です。隣の建物に保管/展示されています。 -
北国屋の浜屋から地場を撮ると、当方の江泊山が正面に写っています。
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園内には、枡築欄干橋の一つが移設されています。
周囲は、鉄工団地になっています。 -
記念公園の向かい
西入川と入川が交差しています。左奥が中浜塩田跡、右奥が鶴浜塩田跡、撮影地点は大浜塩田跡です。 -
現在の干拓地は、排水ポンプ付きの水門で管理されています。
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鶴浜塩田跡の西端(記念公園)を後に東端まで歩くと、磯崎神社御旅所の鳥居が残っています。
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三田尻浜大会所跡
1771年に毛利重就は、鶴浜に大会所(=藩の役所)を設置し、大年寄を置いて休浜法の遵守を取り締りました。藩は塩を専売品とし、受注/生産割当/移出を一手に握り、相場を掌握しました。塩の収益は、幕末の倒幕運動の資金源となります。 -
田中藤六(?-1777)の碑
毛利重就の藩政改革で防長三白の生産が奨励されると、三田尻塩田の塩は生産過剰になり、卸売価格が下落します。鶴浜の塩業者だった藤六は、三八替持法(旧暦3-8月以外は一斉休業する/塩田は一日おきに操業する)と呼ばれる生産調整を藩へ提案し、価格維持に成功します。
藩は、藤六を大会所の初代大年寄(地役人のトップ)に任命し、功績を評価しました。
※1610年=122t→1770年=10.7万t(三田尻は4.7万t)。 -
藤六は、塩製造の大半を占める十州塩田(播磨~長門/阿波~伊予の瀬戸内10か国)にも生産調整を呼びかけ十州協定が成立、1874年まで機能し続けました。
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明治になると1896年に、地元の塩田主らが共同出資して塩田貯蓄銀行を開設(塩田主の時政梅吉が頭取)、山口県初の貯蓄専業銀行でした。写真は、未使用の小切手帳。
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1916年に普通銀行へ転換し、三田尻塩田銀行となります。写真は、三田尻出張所時代。1923年には百十銀行(山口銀行の前身)と合併します。
背景からして、現三田尻支店ではなく中関支店と思われます。 -
塩の専売
1905年に日露戦争の財源確保のために塩の専売制が決まり、大蔵省専売局三田尻塩務局が鶴浜の東先端に開設されます。 -
大会所跡(鶴浜 右手前)と古浜を仕切る東入川の先には、向島が写ります。東入川の先に塩務局が置かれました。
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東入川を遡ると、行き止まります。右側が中浜塩田跡で、正面と左側は中野開作です。
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専売局三田尻製塩試験場
製塩技術の向上を図るために1909年に創設、採鹹では枝条架による流下式に重点を絞り、煎ごうでは真空式製塩法を開発、三田尻塩田を廃業に追い込んだ画期的技術を生み出しました。その後イオン交換膜に代わった1972年に閉鎖。中浜塩田の中央部に位置しました。磯崎神社/山縣医院から100mほど南側です。 -
行き止まりの一筋向こうは、山口銀行中関支店があります。塩田貯蓄銀行の系譜を引く店舗です。
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三田尻専売支局直轄工場(向島製塩工場)
1918年には、対岸の製塩工場も開設します。塩田廃止後は、煙草の中骨工場へ転化しました。跡地は現在の向島運動公園となっています。向島 自然・景勝地
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先ほどの西入川(鶴浜と大浜の境界)の延長線上に、工場がありました。周囲は小田港で、海峡の西口に位置し、東口の中関と対になって機能していました。
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向島
古浜塩田跡に、向島に架かる唯一の橋(錦橋)があります。島は狸の生息地となっており、大正時代に生息域が国の天然記念物に指定されています。島ではなく本土側に設置されてる理由は謎です。 -
向島から本土を眺めると、左に鶴浜(角に塩務局が写る)右に古浜が、遠くに桑山が見えます。
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とても狭い海峡で、海関を置くにはぴったりです。
向島の沿岸部は、1815年の市川開作と1818年の御撫育開作で直線化されます。藩の撫育方が開作しており、中関港整備の一環と思われます。 -
錦橋
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良く見ると回旋橋です。1950年架設。
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踏切と信号が付いています。東側は狭いうえに曲がりくねっていて、中関港は良い場所を選んだのだと感じます。
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山頂からの写真を見ても、左下の向島の水道の特殊性が分かります。
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錦橋から西方を眺めると、右側の古浜開作が堤防で仕切られているのが良くわかります。藩政時代から多くの廻船問屋が軒を連ねました。
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三田尻港
古浜開作の先は、国が施工(1956-71)した三田尻百間沖埋立地です。干拓や埋立の度に、三田尻港は沖へ移動しました。
干拓による国府津の内陸化と1611年に藩の船倉が移転して以来、港として繁栄し現在に至ります。現在は三田尻・中関港として重要港湾にランクされます。かつてはカネボウの積出港でしたが、現在はトヨタがメインです。 -
カネボウは防府進出の古参工場で、1990年代に工場整理を試みるも地元の猛反対に遭い頓挫しています。経営破綻で遂に整理され、跡地はイオンショッピングセンター等になります。写真は防府エネルギーサービスの施設で、1935年に鐘紡防府工場の動力部門としてスタートして、2004年に独立した唯一の工場遺構です。一帯の住所は、今も鐘紡町です。
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道路の左の部分は、国鉄防府駅から専売防府工場へ通じた専用線跡です。線路は、途中のカネボウ/協和発酵の構内へも分岐しました。
※名称は、往時のものを使用。 -
水路をさらに遡ると、住吉神社の石造灯台があります。
一言でいえば、ここが江戸時代の海岸線でした。灯台の左が昭和の埋立地で、右が1699年干拓の古浜開作地です。住吉神社の石造燈台 名所・史跡
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住吉神社は、毛利水軍の船頭たちによって1715年に勧請され、灯台は1863年に設置されました。
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現状では灯台から50mほど上流で、道路建設(土橋)と公園設置のために入川は埋立てられています。本来は、船倉まで入川が続いていました。この地点は古浜開作で、対岸が1776年干拓の勝間開作です。
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三田尻御船倉跡
萩藩毛利水軍の本拠地として、1611年に下松から移転しました。豊臣氏との戦い/幕府普請を念頭に太平洋側を選んだと思われます。その後、参勤交代等で藩主が出航する港となりました。当時は海に面していましたが、18世紀には、入川を通って海に出ました。三田尻御舟倉跡 名所・史跡
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1742年の図を見ると、古浜開作が誕生したとはいえ、海に面しつつも波を避けるプラットフォームだとわかります。ドックなどもありました。周囲には、船員/船大工等の職業集団が工房と住居を構えました。警固町は、現在も住所表記として現役です。
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当初は右側(現在の防府市記念モデル児童公園)が瀬戸内海でしたが、勝間開作で四方を陸地に囲まれました。
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奥の岸壁は広く、石垣の状態も良いです。
中期に参勤交代は陸路へシフトしましたが、幕末に海防が重視されると海軍局へ改められ、洋式軍艦も係留します。1864年に伊藤博文らが洋式軍艦を奪い、第一次長州征伐で粛清された尊王攘夷派を表舞台に引き揚げました。1865年には海軍学校が設置され、海軍士官を養成します。海軍の本部として、四境戦争では高杉晋作率いる艦隊が出航してます。 -
現在の地図に重ね合わせると、こんな感じです。
三田尻交番向かいの三田尻3丁目10番地を一周すると、遊郭だった頃の名残を見ることができます。 -
御船蔵の近くには、1654年開設の三田尻御茶屋(藩主別邸)があります。
七代藩主毛利重就が隠居先に選んだことから、建て増しされます。
幕末の藩主毛利敬親も、京都と便の良い三田尻を重視します。
明治になって毛利家山口別邸の役割を果たし、毛利公爵家本邸が完成するまで当主はここに滞在しました。三田尻御茶屋 名所・史跡
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毛利公爵家本邸と比べて、こちらは江戸時代築の落ち着いた情緒が魅力です。
1863年の七卿の都落ちの際は、こちらに滞在して接待/藩主と対談しました。他にも、1867年10月には西郷/毛利会見も行われ、公に堂々と行えない政治活動の舞台となりました -
庭園も落ち着きます。
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例外としては、1866年12月に行われた英国海軍東洋艦隊司令官ジョージ・キング提督との会談です。過激な攘夷論者が残存していたこともあって、問屋口(三田尻大開作)の貞永隼太邸(厚狭毛利家家臣)で行われました。東隣は叔父の6代目貞永庄右衛門邸です。関屋の屋号で塩田20枚/千石船11艘を所有する豪商です。
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現在の光景
対岸の問屋口は堤防で覆われ、廻船問屋が並んだ往時の光景は見出せません。 -
三田尻宿
1611年の御船倉移転に伴い、三田尻の町割りが整備され、萩往還の終点の港町として宿場が置かれ(現在の三田尻本町)、五十君家が本陣を務めました。1650年には三田尻宰判の勘場が設置され、地域行政の拠点となりました。
本来の三田尻はこの地区ですが、区域境に三田尻大開作が干拓され、塩田に転化されると塩のブランド名として全国に知られたために(絆創膏=バンドエイドのような感じ)、防府全体を三田尻と表現するようになりました。
※長州藩は領土を18の宰判に区分して統治し、勘場(代官所)を設置しました。 -
桑山麓の大楽寺には、毛利水軍が使用した時鐘が活躍しています。
大楽寺 寺・神社・教会
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三田尻御船倉で就業時刻を知らせる鐘でしたが、明治の廃藩で役目を終え、1874年にこちらに引き取られました。
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三田尻で隠居生活を送った毛利重就の分骨が納められています。
境内には女優夏目雅子さんの墓もあります。 -
おまけ
西浦塩田跡は、1982年にマツダの工場になります。本社/宇品工場と並ぶ国内工場です。それに先行して1981年には、大浜塩田沖の埋立地に変速機工場/完成車積出港が開業し、中関地区は三田尻・中関港でも最大の設備を有しています。こちらはブリヂストン(大浜塩田跡)の先に位置していて、本土からは見えません。
次は、山口市を訪れます↓
https://4travel.jp/travelogue/11926828#google_vignette
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