2024/08/24 - 2024/08/24
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gianiさん
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周防国の国府だから防府。そんな歴史ある町を観光スポット中心に回ります。阿弥陀寺/右田地区以外は駅から徒歩圏で、バスを使えばどこへでも行けます。工業都市でもあるので、ビジネスホテルには困りません。
藩政時代は、萩に続く重要拠点だった歴史てんこ盛りの町です。
新幹線が通っていないのが、玉に瑕です。
一筆書きの位置情報も参考にしてみて下さい。
- 旅行の満足度
- 5.0
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旅のはじまりは防府駅、改札口横の観光案内所でレンタサイクル。1日500円と良心的価格なので、開店と同時に借ります。
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まずは、文化財郷土資料館へ。役場的インテリアですが、展示内容はエクセレントです。縄文/弥生時代についても、充実した内容でした。
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地形
市街地の西側を流れる一級河川佐波川の堆積作用で、河口域に防府平野が形成されました。人類の古い痕跡は、佐波川流域が多いです。
古代の佐波川は、防府駅の西側、写真右端に写るヤマダ電機の辺りで左折(南進)し、今の中関港へ流れ込んでいました。佐波川 自然・景勝地
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玉祖(たまのお)神社
ヤマトタケルの父である第12代景行天皇は、熊襲征伐の際に立ち寄ったとの伝承が残ります。全国にある玉祖神社の総本山です。神功皇后(13代天皇皇后)が三韓征伐の際にも立ち寄っています。
佐波川右岸の右田地区に鎮座します。 -
玉祖命は岩戸隠れの際に勾玉を作った神で、天孫降臨の段では五伴緒として天孫とともに天降ったりと、日本創世紀に関わっています。宝石/時計業従事者に信仰されます。
玉祖神社 寺・神社・教会
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統一国家成立後は、周防国一宮になります。
右田は、周防国佐波郡の役所が置かれました。 -
境内には、希少な黒柏鶏(古種 国の天然記念物)が飼育されています。天照大神が岩戸隠れした際に、彼女が顔を出すようけたたましく鳴いた鶏とされます。
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佐波神社
第14代仲哀天皇が熊襲征伐の際に、岡県(現在の北九州市)主が周防の佐波浦まで出迎えに来て三種の宝物および魚塩の地を献じて恭順の意を示したので、天皇は平定の吉兆であると喜ばれ、天照大御神ほか13柱の神を祀ったのが起源とされます。 -
古墳時代
ヤマト政権が、その地域を傘下に置き始めた時期です。地域支配者はヤマト政権への服従を示し、その見返りとして彼らの権威の「お墨付き」を与えました。古墳や鉄製品/馬などは、彼らの権力の目に見える証しで、領民を従える力になりました。防府市内は県内最多の古墳銀座で、大日/車塚/鋳物師大師塚古墳などがあります。 -
大日古墳
7世紀前半の古墳。石室は奈良の岩屋古墳と酷似しており、被葬者はヤマト政権との結び付きが強い人物と思われます。玉祖神社近く、右田地区にあります。大日古墳 名所・史跡
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家形の石棺は県内唯一のもので、兵庫県産の石材を使用しています。
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車塚古墳
市街地にある6世紀半ばの前方後円墳。九州と共通する石室の構造は、被葬者が九州とヤマト政権を繋ぐ存在だったことを窺わせます。車塚古墳 名所・史跡
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鋳物師大師塚古墳
7世紀前半のもので、石室のスタイルは九州と共通します。鋳物師大師塚 名所・史跡
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大師像が祀られ、専光寺の持ち物となっています。
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桑山塔ノ尾古墳
日本書紀によると、603年に征新羅将軍として出征した来目皇子(聖徳太子の同母弟)が九州で亡くなり、遺体を奈良へ戻す途中に防府で殯(もがり:葬式)を行ったとされます。宮内庁所有ですが、学術的にはもっと古い6世紀のものとされます。桑山公園 公園・植物園
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統一国家へ
聖徳太子から始まる中国を手本とした国づくりは中大兄皇子に引き継がれ、律令制度の下で国内を五畿七道に区分して、律令国を配置します。山口県東部は、周防国となります。防府=周防国の国府のこと(長府/甲府/駿府も同義)で、国衙跡が見つかっています。現在でいう県庁所在地に相当します。 -
国庁
日本で初めて国の史跡に指定された国衙跡で、実態解明も最も進んでいます。八町(約850m)四方の領域で、エリアごとの機能が特定されています。真ん中の正方形(二町(218m)四方)が当初の政庁で、右下が国府津、左上が国分寺です。 -
政庁の中央は、朱雀大路が南北へ貫きました(写真)。政庁の北側には、国司の宿舎がありました。
聖武天皇は仏教による統治を重視し、741年に国分寺建立を命じ、政庁の北西に開基され現在に至ります。ちなみに国分寺の総寺は、奈良の東大寺です。 -
防府天満宮(904-)
菅原道真が失脚して大宰府へ流される際、周防国府で勤務していた親類のもとへ立ち寄っています。周防国司の土師氏は、道真の死の翌年に道真を祀った天満宮を建てます。大宰府天満宮(905)/北野天満宮(947)と並ぶ三大天満宮の一つです。
門前は、防府最古の市街地(宮市)となります。 -
国府津(こうづ)
飛鳥時代から瀬戸内海は海賊が頻出し、都へのルートは専ら陸路(山陽道)に頼っていましたが、10世紀になると海路へシフトします。
幼少の清少納言は、父親の清原元輔が周防国司として赴任する際に海路でアプローチしています。国衙の南東には国府の津(=港)が設けられ、政庁もこちらへ移動しました。 -
跡地は、防府市が買い上げて公有地になっています。南にJR山陽本線が走ります。現在は、堆積と埋立が進み、海岸線は2km近く後退しています。周防は、国府津の存在が発掘で確認された唯一の事例です。
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乾元大宝
余談ですが、清原元輔が国司の代まで周防では銅貨が鋳造されていました。周防鋳銭司長官を兼任していましたが、周防国鉱山の品質が悪く、和同開珎から続く皇朝十二銭は終焉を迎え、専ら中国からの輸入(宋銭)になります。防府市文化財郷土資料館 美術館・博物館
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国府津の繁栄を裏付けるように、10世紀以降の貴重品が多く発掘されています。写真左は中国の青磁(陶磁器)、右は漆器。
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武士の台頭
歴史の流れに沿って平安時代後半から武士が台頭します。周防国在庁の船奉行である船所五郎正利は、壇ノ浦の戦いの三日前に数十艘の軍船を源義経に献上して鎌倉の御家人になります(「吾妻鏡」)。
防府から先の瀬戸内海は、島に囲まれた状態から広い海(周防灘)に変わり、潮流が大きく変化する要所でした。 -
東大寺造営料国(1186-1867)
平重衡による南都焼討ちで東大寺は焼失します。1186年に後白河法皇は重源を大勧進職に任命し、大仏や諸堂の再興に当たらせます。朝廷より周防国は東大寺造営料国に指定され、佐波川流域から再建用の木材を切り出します。 -
阿弥陀寺
重源は国府の北東に東大寺別院阿弥陀寺を開基(1187年)し、再建を指揮します。峠を越えると、最短距離で上流の材木積出地へアクセスできる立地です。 -
重源には周防の国務が任され、以後東大寺から派遣された僧が代々国務を行います。大内氏の台頭で国領は浸食され八町四方(国庁のみ)まで縮小されますが、周防国庁は明治維新まで続きます。長州藩は、周防国庁を東大寺と分離させて国庁寺とします。そして明治4年に廃寺になります。
全国の国衙/国庁は武家政権で衰退/消失しますが、周防国は幕末まで存続した歴史的に貴重な例です。 -
長州藩
毛利氏は永らく安芸高田城を本拠地とし、後に広島城へ移りましたが、直後の関ケ原の戦いで大左遷され、防長2国のみに減封されます。佐波川流域の小野/右田、阿弥陀寺周辺の牟礼等は、1625年に一族の右田毛利氏が拝領します。右田毛利氏は、毛利元就七男の元政の家系です。
市街地(宮市)等は、藩の直轄領となります。 -
交通の要衝
律令制度で整備された官道の山陽道は、西国街道(現国道2号線)として武家政権下でも重要度を増します。江戸時代は、江戸と長崎/日田といった天領を結ぶ一級の幹線路でした。参勤交代制度により繁栄は加速し、沿道の防府も恩恵にあずかります。豊海/宮市/大道といった宿場が拠点となります。 -
萩往還(52.7km)
関ヶ原で西軍総大将を務めた毛利輝元は、藩庁を西国街道沿いではなく僻地の萩へ移すことで、野心がないことを示しました。とはいえ、藩を運営する必要に迫られ、萩と瀬戸内海を結ぶ幅4mの道路を整備します。それが萩往還です。複数の峠を越えますが、トンネル/橋のない当時の道路としては珍しく、直線的ルート設定でした。萩から一番近い瀬戸内海は、ズバリ防府でした。 -
特に、西国街道と萩往還が交差する宮市は、繁栄を極めます。宮市は防府天満宮の門前町でもありました。写真は、1642年以降は宮市宿本陣に指定された兄部家です。
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三田尻
萩往還は海まで通じ、終点の三田尻には藩の御舟倉がありました。防府は藩の海の表玄関になります。元々は下松にありましたが、1611年に三田尻に移転します。群雄割拠の時代に名を馳せた毛利水軍の本拠地(海軍本部)です。幕府への奉仕(普請)の際には資材運搬が割り当てられたり、参勤交代が義務付けられると大坂まで藩主が移動する船団を運用する等の任務がありました。1863年に洋式艦隊の海軍局へ改変されます。
三田尻は商家が多く建ち、商港としても繁栄します。 -
産業振興:新田開発
長州藩は、豊臣政権下で得ていた領地を大幅に減らされ、それに伴い生産力は7割以上低下します。大勢の家臣を養うために生産高を上げるべく、積極的に新田開発(開作)が行われます。
防府では沖合へ農地を増やす干拓が進行し、防府平野は山口県下最大の面積を持つ平野に躍り出ます。干拓地では、経済の主役である米の生産(稲作)が行われます。 -
三田尻塩田
1699年の三田尻大開作(青)では、干拓地の塩分がうまく抜けず農地にできませんでした。そこで、塩田に転化すると田畑よりも収益が良かったので、藩は塩業に力を入れます。三田尻六ヶ塩田(写真)が開発されました。日本は海に囲まれていますが、塩を自給できたのは防長を含む僅か8か国だけでした。 -
田中藤六
18世紀は全国で塩田が増え、供給過剰のために塩価が下落します。三田尻の田中藤六は三八替持法を提案し、日差しの強い旧暦3-8月以外は製塩業者が足並みを揃えて一斉休業する等で生産調整し、価格を維持しました。このカルテルは瀬戸内海一円に広まります。三田尻塩田は、幕末まで藩の塩生産の半分を占め、赤穂に次ぐ全国第二の塩の産地となります。 -
防長三白
七代目藩主毛利重就(1725-89)は、藩の産業振興等で中興の祖とされます。防長三白は、藩の代表的特産品で米/塩/紙を指します。太閤検地で長州藩(防長)の石高は36万石(36万人を1年間養える量の米)とされましたが、開作の積み重ねで米の生産高は3倍以上になります。三田尻を始めとする塩田の生産は36万石(5.4万t)に、佐波川上流域(現山口市域)の徳地を中心とした和紙製造は、全国一番の生産量になります。 -
中関(なかのせき)港
撫育方という役所を開設して藩の財政基盤を安定させた重就は、撫育方の資金で三田尻に中関港を整備します。三田尻塩田と向島に挟まれた海峡に位置する海上交通の要所です。室積が米の積出港なら、中関は塩の積出港とされます。また上関/下関と並ぶ海上番所を設けて、航行船から徴税しつつ監視しました。塩目当ての北前船が寄港し、大いに栄えました。 -
英雲荘
西国街道が整備されると、参勤交代は海路ではなく陸路(萩往還→西国街道→東海道)へシフトします。萩往還終点の三田尻には、藩主が風待ちする御茶屋(藩主別邸)がありましたが、重就は隠居後にここを住まいとします。1783年に改修され、県内で現存する唯一の御茶屋です。明治維新後は、毛利家の別邸となります。毛利家から防府市へ寄付された際に、英雲荘(重就の法名)と命名されます。 -
幕末
朝廷の所在する京都と海陸で繋がる防府は、幕末も大忙しです。1863年の政変で京を追われた七卿は、三田尻御茶屋で長期滞在します。1864年5月の攘夷実行をロンドンで知った長州ファイブ(伊藤博文等)は留学を中断して急遽帰国した際に富海で体制を整えます。さらに海軍局を襲って、洋式軍艦3隻を手に入れます。1866年の第二次長州征伐では、高杉晋作が海軍総督として三田尻を出港し、大島口の緒戦を勝利に導きます。1867年には、倒幕の密勅が御茶屋で毛利敬親に届けられます。写真は、海軍局に設置された金庫。船材が再利用されています。 -
明治の近代化
明治期も、西国街道/萩往還の宿場等で栄えた宮市/富海、港町/行政府の三田尻/小野~右田は繁栄します。鉄道の開通で、商業地等はシフトします。 -
山陽鉄道開通
1898年に山陽鉄道が徳山から三田尻へ伸延し、東京と鉄路で結ばれます。1901年には下関とも結ばれ、駅周辺が防府の官庁街となります。1962年に防府駅へ改称されます。2009年に東京駅発のブルートレインが全廃されるまで、停車駅でした。 -
富海
瀬戸内海の飛船(速達便)が航行する港/かつ西国街道の宿場町で、商業が発展しましたが、1898年の鉄道開通で変化します。旧宿場町としての宿泊施設と、駅から海が近い条件を活かして、海水浴地/別荘地へと様変わりします。 -
防石鉄道(1919-64)
佐波川沿いに走る鉄道で、1920年に三田尻~堀18.8kmが全通。材木や焼物/沿線住民の運搬に携わります。
社名は周防と石見(益田)を結ぶ遠大な計画を示唆し、電気王と呼ばれた才賀藤吉と伊予鉄道創業者の小林信近が発起人でしたが、JR山口線に先を越されて断念、中関港への延長計画も頓挫します。 -
宮市
山麓の防府天満宮の門前町は、官庁街/鉄道駅の三田尻市街まで連続する市街地となります。商業の中心地として変わらぬ地位を享受します。
1902年には、三田尻村と佐波村が合併して防府町が誕生します。 -
製塩業
1894年には三田尻塩売捌所設立、96年には塩田貯蓄銀行が設立されます。
1905年に日露戦争の財制収入のために塩は専売化され、大蔵省専売局三田尻塩務局が設置されます。1909年には専売局三田尻試験場、18年には向島製塩工場が開設されます。専売化に伴い、塩は国が買い取ることになります。 -
工業都市/軍都
三田尻港と佐波川の水は工場立地に最適で、1918年に専売局向島製塩工場(緑)が開業します。その後、2013年に閉鎖されるまで本土側にも拡張(1968-)します。
1930年には寿酒造が防府駅南側に工場を竣工(1940年に宝酒造防府工場へ)、1995年まで操業します。
1934年には敷島紡績の子会社福島人絹防府工場(赤)が操業します(1949年以降は協和発酵/協和キリン)。
1936年には鐘紡の化繊部門として防府工場が竣工します(青)。カネボウ経営破綻に伴い、閉鎖されます。
1936年には、防府町/中関町/ほか2村が合併して、防府市が誕生します。1944年には陸軍防府飛行場が完成し、繊維工場も軍需工場へ転換されていたので、1945年7月に空襲の標的とされます。 -
毛利公爵家本邸(1916)
明治3年の勅令で、大名華族は東京在住が義務付けられ、政府の監視下に置かれました。ただし旧領地に本宅を持つのが通常で、帰省時に滞在しました。毛利公爵家本邸は、萩ではなく地の利のある防府へ建設されました。用地選定は、旧藩士の井上馨が行いました。 -
戦後
流下式製塩法の普及で、天塩の生産効率上昇に伴う余剰が生じます。食塩普及も併せて、塩田は1960年に消滅します。向島の製塩工場は煙草工場へ転化します。三田尻塩田跡には、1966年に専売公社防府原料工場/1976年にブリヂストン/東海カーボン/1981年に東洋工業、西浦塩田跡には1982年に東洋工業(現マツダ)防府工場が開業します。 -
では、資料館を出て主なスポットを実際に訪問してみます。
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防府駅の高架に沿って西へ350m行くと、防石鉄道の機関車が展示されています。
1891年にミュンヘンのKurauss社製、全長7.8m125HPと低出力の中古品を使用していました。
※防府駅周辺は、1994年に高架化されました。 -
機関室にも入れます。
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溶接技術が未熟だったので、リベットで留めてあるのが時代を感じさせます。
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保存状態は良いです。
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客車は全長6mと、今の車両の3割未満の長さです。
建設費が不足して佐波川を渡れず、ひたすら左岸を走行しました。 -
防府駅の東側には、旧萩往還が通ります。宮市地区です。現在も、銀行のレトロ建築が昭和の防府を展示するスペースになっています。
ほうふ昭和館 美術館・博物館
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旧萩往還はアーケードが続き、天満宮が近づくと野天の商店街が続きます。といっても、殆どのお店が閉店状態です。
天神町銀座商店街 市場・商店街
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門前町の宮市は、種子田山頭火の生育の地です。周囲はレンガ壁や堀などが残り、山頭火の小径として観光整備されています。
山頭火の小径 名所・史跡
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旧山陽道
律令時代からの幹線道路、江戸時代は西国街道の宮市宿が置かれました。萩往還と交差するので、交通の要所です。旧西国街道沿いにスポットを巡ります。 -
兄部家は、萩藩から宿場の本陣を許されました。大名や幕府高級官僚が宿泊する宿舎です。
残念ながら2011年7月の火災で焼失、現在は更地です。宮市本陣兄部家 名所・史跡
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焼失直前の姿。1798年築です。
兄部家は中世から鯖の合物(あいもの 塩と天日干しで加工、生と干物の間の状態)が名物で、14世紀後半に京都で著された『庭訓往来』の中に周防名物として取り上げられています。 -
防府天満宮
永らく松崎天神と呼ばれ、当時は海岸線に近かったことを窺わせます。 -
梅のマークがしっかりと活きています。
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境内には、10代藩主が建てた楼閣があります。本来は五重塔になるはずでしたが、予算が不足してこうなりました。台座は、五重塔の基礎です。
春風楼 名所・史跡
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楼内から西方(佐波川方面)の眺め。
防府天満宮 寺・神社・教会
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市街も見下ろせます。
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紫雲石
宮市の松原屋を営む松原弘基は、この石に願い事をし豪商になりました。幸福をお裾分けすべく、霊石を天満宮へ移したのが偉いです。紫雲石【防府天満宮】 公園・植物園
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このように、高い場所に天満宮はあります。
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大専坊
1557年に毛利元就が大内義長を討った際の本陣が置かれました。さりげない歴史スポットです。参道の階段の左中ほどにあります。 -
周防国分寺
741年の勅令で建造が始まり、周防では756年までには完成しています。大内氏/毛利氏など、時の権力者の庇護を受けます。仁王門(写真)は、1596年に毛利輝元が再建しています。
現在も寺として機能している国分寺は数少ないです。国分寺金堂 美術館・博物館
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五本線の筋塀
問責寺院/勅願寺等皇室ゆかりの寺院に施され、五本線は最高の格式を表します。武家政権まで、朝廷の篤い庇護を受けていた証です。 -
金堂
いわゆる本堂です。
明治維新まで60haの境内を誇り、寺勢を誇りました。 -
内部は、こんな感じです。
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西国街道を東進すると、周防国衙の北西角に接します。
周防国衙跡 名所・史跡
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国衙の向かいには、仲哀天皇が立ち寄った金切宮を合祀した佐波神社があります。
佐波神社 寺・神社・教会
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さらに進むと、小さなお堂がありました。
多々良大仏が安置されています。
平城京と東大寺の関係と同じく、周防国衙北側の辻福寺に建立された大仏です。多々良大仏 名所・史跡
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寺が毛利邸建設予定地に含まれたために、現在地へ移転しました。
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毛利のお殿様の家系(本家)の本邸です。
門も立派です。旧毛利家本邸 美術館・博物館
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現在は、子供部屋だった部分が博物館になっています。国宝指定の雪舟の水墨画等の至宝が展示されています。
毛利博物館【旧毛利家本邸】 公園・植物園
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建坪は1212坪、部屋数60です。
1916年完成ということもあり、専用の上水道/自家発電が完備しており、発電量は永らく電力会社が供給する防府市内の電力使用量を上回っていました。さすがは公爵です。井戸水を利用した冷蔵庫もありました。 -
1階には、居間があります。
大正天皇/昭和天皇が行幸時に宿泊された部屋です。 -
公爵専用の化粧間
公爵は、メディア注目の公人でもあります。 -
屋根もおしゃれ。
ヒノキは木曽、杉は屋久島産、ケヤキは台湾産です。屋根の杉材は、富山黒部杉です。 -
2階へ移動
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夏でも、外からの風で快適に過ごせるように設計されています。
実際に涼しかったです。 -
庭園の眺め
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書院
江戸時代に書院造りは、大名家のみに許されました。 -
目の前には、毛利庭園。
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近代的造園を取り入れた回遊式庭園です。
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広さも大名級。メンテナンスは、毛利庭園ゴルフ倶楽部が行っています。
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公爵を名乗れた旧大名家は、長州/薩摩/水戸/将軍家だけでした。
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邸宅の三方を囲むように、毛利庭園ゴルフ倶楽部が鎮座。戦後の華族特権終焉に伴い、多額の納税財源を賄うべく財界のアドバイスを受けて建設されました。
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北東へ進路を変え、阿弥陀寺へ向かいます。
半端ない坂道なので、高速道路と交差する辺りに駐輪して徒歩でアプローチしました。
仁王門の金剛力士像は、快慶一派の作品で国の重文指定です。東大寺別院 阿弥陀寺 寺・神社・教会
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美しい体付き
身長273cm -
足元
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阿形の身長は270cm
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仁王門を後にします
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平氏によって破壊された東大寺を再建すべく、後白河法皇と源頼朝は、1186年に周防国を東大寺に事実上寄進します。重源は、木材供給地の阿弥陀寺~運搬の要所にかけて7つの別所を設置し、自らは阿弥陀寺(1187年)で指揮を執りました。後白河法皇の安穏を祈願した寺です。
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本堂
1731年に右田毛利広政によって再建、本尊は阿弥陀如来立像、左に大日如来坐像、右に弥勒菩薩座像が鎮座します。 -
石風呂
いわゆるサウナで、仏教とともに日本に伝わった原始の入浴法。着衣のまま莚の上に座ります。
重源が木材を運び出す人夫の疲労回復のために設置されたとされます。 -
湯屋
重源が開設し、1670年代に復興されたもの。 -
内部の様子
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脱衣所を越えると、石畳の洗い場と石の湯舟があります。男女に分かれています。
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壁を隔てて竈でお湯を沸かします。
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こちらは焚き場。
後編では三田尻塩田を中心に回ります↓
https://4travel.jp/travelogue/11926828
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