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但馬一ノ宮出石神社を後に、県道706号線を南下、県道2号経由で出石城西隣の出石市営西の丸駐車場までは10分程で到着。<br /><br />兵庫県北東部に位置し、周囲を山々に囲まれた出石盆地で、円山川の支流出石川が町の中央を流れ、少し下流で豊岡盆地を流れる円山川と合流しています。<br />古くから但馬の政治、経済の中心地だった。<br />町並みには視界を遮る高い建物はなく、落ち着いた佇まいの町並みが続く。<br />それだけに興味深い見所や名物皿蕎麦などあり、ゆっくりと回りたいがそうもいかない。<br />見所多い出石町のほんの一部だけですが掲載しておきます。<br />

兵庫県豊岡市出石町街歩き「呉服神社・八坂神社」、「國朝天女稲荷」、「天満宮」

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2021/10/26 - 2021/10/26

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kimi shinさん

但馬一ノ宮出石神社を後に、県道706号線を南下、県道2号経由で出石城西隣の出石市営西の丸駐車場までは10分程で到着。

兵庫県北東部に位置し、周囲を山々に囲まれた出石盆地で、円山川の支流出石川が町の中央を流れ、少し下流で豊岡盆地を流れる円山川と合流しています。
古くから但馬の政治、経済の中心地だった。
町並みには視界を遮る高い建物はなく、落ち着いた佇まいの町並みが続く。
それだけに興味深い見所や名物皿蕎麦などあり、ゆっくりと回りたいがそうもいかない。
見所多い出石町のほんの一部だけですが掲載しておきます。

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
グルメ
3.0
同行者
カップル・夫婦(シニア)
交通手段
自家用車
  • 但馬一ノ宮出石神社を後に、県道706号線を南下、県道2号経由で出石城西隣の出石市営西の丸駐車場までは10分程で到着。<br /><br />兵庫県北東部に位置し、周囲を山々に囲まれた出石盆地で、円山川の支流出石川が町の中央を流れ、少し下流で豊岡盆地を流れる円山川と合流しています。<br />現在の豊岡市の中心は豊岡盆地ですが、明治以前の但馬の中心は出石盆地だった。<br />出石神社が鎮座する北には此隅山城、後の1604年(慶長9)に当時の藩主小出吉英により有子山(ありこやま)北の山裾に出石城が築かれ城下町として整備されたのが現在の出石町、古くから但馬の政治、経済の中心地だった。<br />町並みには視界を遮る高い建物はなく、落ち着いた佇まいの町並みが続く。<br />それだけに興味深い見所や名物皿蕎麦などあり、ゆっくりと回りたいがそうもいかない。<br />見所多い出石町のほんの一部だけですが掲載しておきます。

    但馬一ノ宮出石神社を後に、県道706号線を南下、県道2号経由で出石城西隣の出石市営西の丸駐車場までは10分程で到着。

    兵庫県北東部に位置し、周囲を山々に囲まれた出石盆地で、円山川の支流出石川が町の中央を流れ、少し下流で豊岡盆地を流れる円山川と合流しています。
    現在の豊岡市の中心は豊岡盆地ですが、明治以前の但馬の中心は出石盆地だった。
    出石神社が鎮座する北には此隅山城、後の1604年(慶長9)に当時の藩主小出吉英により有子山(ありこやま)北の山裾に出石城が築かれ城下町として整備されたのが現在の出石町、古くから但馬の政治、経済の中心地だった。
    町並みには視界を遮る高い建物はなく、落ち着いた佇まいの町並みが続く。
    それだけに興味深い見所や名物皿蕎麦などあり、ゆっくりと回りたいがそうもいかない。
    見所多い出石町のほんの一部だけですが掲載しておきます。

  • 出石町は「古事記」「日本書紀」にも記されている程の歴史ある町で、但馬の小京都とも称されるだけに<br />どことなく京都の雰囲気が漂う落ち着いた街並みが残っている。<br />但馬開発の祖神とされる新羅の王子天日槍は垂仁天皇3年(BC27年)に渡来し但馬を拓いたと伝えられ、町名の出石は天日槍の宝物『出石小刀』からきているとされる。<br />古くは但馬の国衙が置かれたとも伝えられ、それらを裏付けるように袴狭地区の田多地公園付近の遺跡から祓いの道具(人形や斎串)が発見されているという。<br />上<br />辰鼓楼<br />大手前通り沿いに建ち、マンホールにも描かれている出石町のシンボル的な建物。<br />1871年(明治4 )旧三の丸大手門脇の櫓台に1881年大時計が寄贈され以降は時計台として親しまれている。現在の時計が3代目で今も時を刻み続けている。<br />写真を撮っていると観光協会の方だろうか、他府県の新聞を手に最近記事として取り上げられた事を説明してくれた、地元に住む者のシンボルとして辰鼓楼やこの街並みを大切に保存していると熱く語ってくれた。<br />古いものは取り壊し建て替える都会では、子供の頃に見慣れたシンボルは残っていないものです。<br />幼稚園の散歩コースなんだろう、辰鼓楼を指さして通り過ぎて行く子供たちがいた。<br />彼らが大きくなり、辰鼓楼はじめ情緒ある町並みに誇りを持ち受け継いで行ってくれると思いますよ、そう話すと「そうなんだよ、取材があるから」と云って立ち去って行った。<br />熱く語れるものがあって羨ましい限り、我が町の誇り?あったかな。<br /><br />下<br />これも出石町のシンボル出石城跡の登城橋。<br />1604年(慶長9)、出石藩主小出吉英により有子山の麓に築城された城で、この城と共に城下町が整備され<br />現在の町並みが作られていった、小出氏、松平氏、仙石氏と城主を代えながら、1868年(明治元)廃藩置県により城が取り壊されるまで威容を誇っていました。<br />それでも辰鼓楼や野面積みの石垣、堀などは残り、1968年(昭和43)隅櫓、1994年(平成6)登城門など復元され、登城橋河川公園として出石の観光スポットになっているようです。

    出石町は「古事記」「日本書紀」にも記されている程の歴史ある町で、但馬の小京都とも称されるだけに
    どことなく京都の雰囲気が漂う落ち着いた街並みが残っている。
    但馬開発の祖神とされる新羅の王子天日槍は垂仁天皇3年(BC27年)に渡来し但馬を拓いたと伝えられ、町名の出石は天日槍の宝物『出石小刀』からきているとされる。
    古くは但馬の国衙が置かれたとも伝えられ、それらを裏付けるように袴狭地区の田多地公園付近の遺跡から祓いの道具(人形や斎串)が発見されているという。

    辰鼓楼
    大手前通り沿いに建ち、マンホールにも描かれている出石町のシンボル的な建物。
    1871年(明治4 )旧三の丸大手門脇の櫓台に1881年大時計が寄贈され以降は時計台として親しまれている。現在の時計が3代目で今も時を刻み続けている。
    写真を撮っていると観光協会の方だろうか、他府県の新聞を手に最近記事として取り上げられた事を説明してくれた、地元に住む者のシンボルとして辰鼓楼やこの街並みを大切に保存していると熱く語ってくれた。
    古いものは取り壊し建て替える都会では、子供の頃に見慣れたシンボルは残っていないものです。
    幼稚園の散歩コースなんだろう、辰鼓楼を指さして通り過ぎて行く子供たちがいた。
    彼らが大きくなり、辰鼓楼はじめ情緒ある町並みに誇りを持ち受け継いで行ってくれると思いますよ、そう話すと「そうなんだよ、取材があるから」と云って立ち去って行った。
    熱く語れるものがあって羨ましい限り、我が町の誇り?あったかな。


    これも出石町のシンボル出石城跡の登城橋。
    1604年(慶長9)、出石藩主小出吉英により有子山の麓に築城された城で、この城と共に城下町が整備され
    現在の町並みが作られていった、小出氏、松平氏、仙石氏と城主を代えながら、1868年(明治元)廃藩置県により城が取り壊されるまで威容を誇っていました。
    それでも辰鼓楼や野面積みの石垣、堀などは残り、1968年(昭和43)隅櫓、1994年(平成6)登城門など復元され、登城橋河川公園として出石の観光スポットになっているようです。

    辰鼓楼 名所・史跡

  • 出石町のシンボル「辰鼓楼」<br />出石城登橋門の大手前通り沿いに建ち、出石町の住民のシンボル的な建物。<br />1871年(明治4)旧三の丸大手門脇の櫓台に1881年(明治14)大時計が寄贈され、以降は時計台として親しまれている。現在の時計が3代目で今も時を刻み続けている。

    出石町のシンボル「辰鼓楼」
    出石城登橋門の大手前通り沿いに建ち、出石町の住民のシンボル的な建物。
    1871年(明治4)旧三の丸大手門脇の櫓台に1881年(明治14)大時計が寄贈され、以降は時計台として親しまれている。現在の時計が3代目で今も時を刻み続けている。

  • 出石町のシンボル辰鼓楼(しんころう)、その姿はマンホールにも誇らしく描かれている。

    出石町のシンボル辰鼓楼(しんころう)、その姿はマンホールにも誇らしく描かれている。

  • 出石町と云えば出石蕎麦。<br />街にはとにかく蕎麦屋が多い、その数は50軒ほどあるらしい。<br />

    出石町と云えば出石蕎麦。
    街にはとにかく蕎麦屋が多い、その数は50軒ほどあるらしい。

  • 彷徨った挙句、お地蔵様の近くにある「そば庄 鉄砲店」で遅い昼食。<br />割り子そばの様に出石焼きの小皿に盛られた蕎麦、出石そばの特徴といってもいい。<br />五枚一組が一人前で、わさび、ねぎ、大根おろし、とろろ、玉子などの薬味に徳利に入れられた鰹と昆布の出汁でいただく、もちろん蕎麦湯も出してもらえます。<br />小さな小皿に盛られた蕎麦が机に並ぶ、朝食を普段以上に食べた事もあり5枚の蕎麦は手ごわかった。

    彷徨った挙句、お地蔵様の近くにある「そば庄 鉄砲店」で遅い昼食。
    割り子そばの様に出石焼きの小皿に盛られた蕎麦、出石そばの特徴といってもいい。
    五枚一組が一人前で、わさび、ねぎ、大根おろし、とろろ、玉子などの薬味に徳利に入れられた鰹と昆布の出汁でいただく、もちろん蕎麦湯も出してもらえます。
    小さな小皿に盛られた蕎麦が机に並ぶ、朝食を普段以上に食べた事もあり5枚の蕎麦は手ごわかった。

    そば庄 鉄砲店 グルメ・レストラン

  • 八木通りを東から西方向に眺める。<br />出石川までの東西約1㌔程の道筋で、道沿いに名物の皿蕎麦のお店が多く点在する。<br />写真右手に鳥居が見えます。

    八木通りを東から西方向に眺める。
    出石川までの東西約1㌔程の道筋で、道沿いに名物の皿蕎麦のお店が多く点在する。
    写真右手に鳥居が見えます。

  • 社頭全景。<br />明神鳥居と瓦葺の鞘堂があり、右に小さな社と左に祠がある。

    社頭全景。
    明神鳥居と瓦葺の鞘堂があり、右に小さな社と左に祠がある。

  • 社頭正面。<br />鳥居の額には「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」とある。<br />左手の建物は「やさかぎおん会館」、地本の人には「くれはとり」や「やさか」神社より「祇園さん」の方が通じるようです。

    社頭正面。
    鳥居の額には「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」とある。
    左手の建物は「やさかぎおん会館」、地本の人には「くれはとり」や「やさか」神社より「祇園さん」の方が通じるようです。

  • 社頭の解説板、祇園社由緒。<br />「祇園さんは八坂神社の旧称。<br />祭神は建速須佐之男命である。<br />朝野の信仰深く、祇園祭で著名な京都の祇園社より勧請した。<br />相殿に呉服(くれはとり)神社を奉斎し、祭神の袴幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)は織物の神。<br />1876年(明治9)の大火災で文献が焼失し勧請年月日は不詳。<br />火災後社殿一坪を建築し、1917年(大正6)7月現在の本殿に改築。<br />また1931年(昭和6)6月石鳥居並びに狛犬を建築して現在に至る」<br />とある。<br /><br />出石町は幾度となく大火を経験しているようで、出石町の年表に大火は二回程おきている。<br />一つは1744年(延享元年)の出石大火と1876年(明治9)の出石大火。<br />明治の大火の発端はイワシを焼いた際の火の不始末が原因らしく、強風に煽られ延焼し、出石川から東の谷山、伊木、東条、入佐、魚屋、本町、宵田、鉄砲、川原、柳、田結庄の各町と水上村の一部を焼き尽くす大火となったという、焼失面積は全体の80%だという。<br />神社が鎮座するこのあたりは出石町魚屋、直球で分かりやすい町名ですが、この周辺も焼き尽くされています。多くの人命と1千戸近くを全焼し、寺社も被災し住民にとっては絶望的な光景だっただろう。<br /><br />こうして見る街並みはその後復興されたもの、町で見かける解説にこの大火の事は必ず触れられている。<br />八木の道筋に軒を連ねる光景は大火以前から変わらない運命共同体として成り立っているようだ。<br />そうした事もあり出石町には11の組があり、毎年秋には豊作を祈願し喧嘩だんじりが行われ、魚屋一帯の八木組のだんじりはこの境内で組み上げられ出陣していくそうだ。

    社頭の解説板、祇園社由緒。
    「祇園さんは八坂神社の旧称。
    祭神は建速須佐之男命である。
    朝野の信仰深く、祇園祭で著名な京都の祇園社より勧請した。
    相殿に呉服(くれはとり)神社を奉斎し、祭神の袴幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)は織物の神。
    1876年(明治9)の大火災で文献が焼失し勧請年月日は不詳。
    火災後社殿一坪を建築し、1917年(大正6)7月現在の本殿に改築。
    また1931年(昭和6)6月石鳥居並びに狛犬を建築して現在に至る」
    とある。

    出石町は幾度となく大火を経験しているようで、出石町の年表に大火は二回程おきている。
    一つは1744年(延享元年)の出石大火と1876年(明治9)の出石大火。
    明治の大火の発端はイワシを焼いた際の火の不始末が原因らしく、強風に煽られ延焼し、出石川から東の谷山、伊木、東条、入佐、魚屋、本町、宵田、鉄砲、川原、柳、田結庄の各町と水上村の一部を焼き尽くす大火となったという、焼失面積は全体の80%だという。
    神社が鎮座するこのあたりは出石町魚屋、直球で分かりやすい町名ですが、この周辺も焼き尽くされています。多くの人命と1千戸近くを全焼し、寺社も被災し住民にとっては絶望的な光景だっただろう。

    こうして見る街並みはその後復興されたもの、町で見かける解説にこの大火の事は必ず触れられている。
    八木の道筋に軒を連ねる光景は大火以前から変わらない運命共同体として成り立っているようだ。
    そうした事もあり出石町には11の組があり、毎年秋には豊作を祈願し喧嘩だんじりが行われ、魚屋一帯の八木組のだんじりはこの境内で組み上げられ出陣していくそうだ。

  • 鳥居右側の赤い社、社名も詳細も分からない。<br />幾度となく大火を経験している出石町、赤い社と云えば…何だろうが、お札も見ていないので不明社です。

    鳥居右側の赤い社、社名も詳細も分からない。
    幾度となく大火を経験している出石町、赤い社と云えば…何だろうが、お札も見ていないので不明社です。

  • 鞘堂前の狛犬。<br />解説にある様に石鳥居や狛犬は1931年に寄進されたもの。<br />小さな狛犬ですが、風貌はそれより古くからここを守護している貫禄が漂う。

    鞘堂前の狛犬。
    解説にある様に石鳥居や狛犬は1931年に寄進されたもの。
    小さな狛犬ですが、風貌はそれより古くからここを守護している貫禄が漂う。

  • 境内から見る「祇園さん」の眺め。<br />切妻瓦葺で平入の鞘堂は前方の軒が長く張り出し向拝の役目もしているようです。<br />創建等は不明。<br />祭神は建速須佐之男命。<br />相殿神は袴幡千々姫命。<br />再建は1917年(大正6)<br />但馬ちりめんや古代製鉄技術「たたら製鉄」の郷、海の向こうの新羅とのつながりは深そうです。

    境内から見る「祇園さん」の眺め。
    切妻瓦葺で平入の鞘堂は前方の軒が長く張り出し向拝の役目もしているようです。
    創建等は不明。
    祭神は建速須佐之男命。
    相殿神は袴幡千々姫命。
    再建は1917年(大正6)
    但馬ちりめんや古代製鉄技術「たたら製鉄」の郷、海の向こうの新羅とのつながりは深そうです。

  • 境内左の祠。<br />祠の前に1937年(昭和12)の石標が立っている。

    境内左の祠。
    祠の前に1937年(昭和12)の石標が立っている。

  • 中には色が塗られた4体の石像が安置されています。<br />何れも長い年月を経ているようで彫られた姿は見にくい、彩色されている事で鮮明になっている。<br />「八木町上南側 延享五辰十一月」とある、延享の大火に見舞われた4年後のものです。<br />この年なにがあったのか定かではないけれど、思うところあって彫られたもの。<br />観光客がそぞろ歩く観光の通り八木通り、そんな道筋もここに住む者には日常の路。<br />そうした路のそこかしこに、小さな神社や祠が大切に祀られている、そんな光景を目にすると形容の出来ない温かいものが伝わってくるいい町だ。<br /><br />「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」(祇園さん)<br />創建 / 不明<br />再建 / 1917年(大正6)<br />祭神 / 建速須佐之男命<br />相殿神 / 袴幡千々姫命<br />例祭 / 7月9日<br />所在地 / ?兵庫県豊岡市出石町魚屋43

    中には色が塗られた4体の石像が安置されています。
    何れも長い年月を経ているようで彫られた姿は見にくい、彩色されている事で鮮明になっている。
    「八木町上南側 延享五辰十一月」とある、延享の大火に見舞われた4年後のものです。
    この年なにがあったのか定かではないけれど、思うところあって彫られたもの。
    観光客がそぞろ歩く観光の通り八木通り、そんな道筋もここに住む者には日常の路。
    そうした路のそこかしこに、小さな神社や祠が大切に祀られている、そんな光景を目にすると形容の出来ない温かいものが伝わってくるいい町だ。

    「呉服(くれはとり)神社、八坂神社」(祇園さん)
    創建 / 不明
    再建 / 1917年(大正6)
    祭神 / 建速須佐之男命
    相殿神 / 袴幡千々姫命
    例祭 / 7月9日
    所在地 / ?兵庫県豊岡市出石町魚屋43

  • 祇園さんを後に八木通りを少し東に進み、ひと区画東の角へ、正面にレトロな出石明治館が見える。<br />その西向いの角に赤い鳥居と赤い社が鎮座しています。

    祇園さんを後に八木通りを少し東に進み、ひと区画東の角へ、正面にレトロな出石明治館が見える。
    その西向いの角に赤い鳥居と赤い社が鎮座しています。

  • 民家の敷地の一部を社地として与えられているようだ。<br />鳥居のすぐ先にコンクリートの台座上に赤い板宮造りの本殿が祀られている。

    民家の敷地の一部を社地として与えられているようだ。
    鳥居のすぐ先にコンクリートの台座上に赤い板宮造りの本殿が祀られている。

  • 狐の姿は微塵もないが稲荷社か?<br />台座に由緒が掲げられている。<br />

    狐の姿は微塵もないが稲荷社か?
    台座に由緒が掲げられている。

  • 國朝天女稲荷(くにともてんにょいなり)<br />「明治9年、出石に大火がありました。<br />約千軒が焼失しています。<br />それは南風の強い三月二十六日のこと(出石町史より)<br />現在この場所にお祭りされている國朝天女稲荷様、大火以前からこの近くに鎮座されていたが、大火以降に移転され、火の神様として崇敬されている。<br />この御稲荷様の御使いは女狐と云われています。<br />祭礼は毎年十一月一五日」<br /><br />明治の出石大火はここにも語り継がれていました。<br />この稲荷もその影響を受け、この場所に移らざるを得ない状況に追い込まれたようです。<br />稲荷と言えば商売繁盛や五穀豊穣の神の印象が強い、大火を幾度となく経験する出石の町では火の神様。<br />出石町を歩いているとこうした稲荷を見かけるが、不思議に秋葉社に出逢うことが無かった。<br />祇園さんの北側でも見かけたが、何れも狐の姿はなく國朝天女稲荷のような形態で祀られていました。<br />女狐にお逢いしたかった。<br />城下街の風情漂う出石町、その町を守護するのがこの國朝天女稲荷。<br />二度と大火は起こさない。<br />但馬の中心が出石から豊岡に移っていた背景に、焼け野原となり絶望感しかない町から離れるきっかけにもなった。<br /><br />現在の町はその絶望感の中から懸命に復興させた住民の不屈の思いが形になった町だ。<br />辰鼓楼の付近で出会った地元ボランティアの熱弁はそうした郷土愛からくるものだろう。<br />そこまで熱く語れる町、実に羨ましいものがある。<br /><br />國朝天女稲荷(くにともてんにょいなり)<br />創建 / 不明<br />再建 / 不明<br />祭神 / 不明<br />例祭 / 11月15日<br />所在地 / ?兵庫県豊岡市出石町魚屋53

    國朝天女稲荷(くにともてんにょいなり)
    「明治9年、出石に大火がありました。
    約千軒が焼失しています。
    それは南風の強い三月二十六日のこと(出石町史より)
    現在この場所にお祭りされている國朝天女稲荷様、大火以前からこの近くに鎮座されていたが、大火以降に移転され、火の神様として崇敬されている。
    この御稲荷様の御使いは女狐と云われています。
    祭礼は毎年十一月一五日」

    明治の出石大火はここにも語り継がれていました。
    この稲荷もその影響を受け、この場所に移らざるを得ない状況に追い込まれたようです。
    稲荷と言えば商売繁盛や五穀豊穣の神の印象が強い、大火を幾度となく経験する出石の町では火の神様。
    出石町を歩いているとこうした稲荷を見かけるが、不思議に秋葉社に出逢うことが無かった。
    祇園さんの北側でも見かけたが、何れも狐の姿はなく國朝天女稲荷のような形態で祀られていました。
    女狐にお逢いしたかった。
    城下街の風情漂う出石町、その町を守護するのがこの國朝天女稲荷。
    二度と大火は起こさない。
    但馬の中心が出石から豊岡に移っていた背景に、焼け野原となり絶望感しかない町から離れるきっかけにもなった。

    現在の町はその絶望感の中から懸命に復興させた住民の不屈の思いが形になった町だ。
    辰鼓楼の付近で出会った地元ボランティアの熱弁はそうした郷土愛からくるものだろう。
    そこまで熱く語れる町、実に羨ましいものがある。

    國朝天女稲荷(くにともてんにょいなり)
    創建 / 不明
    再建 / 不明
    祭神 / 不明
    例祭 / 11月15日
    所在地 / ?兵庫県豊岡市出石町魚屋53

  • 出石明治館<br />城下街に明治の香りが漂う建物は、1887年(明治20)に郡役所として建造された木造洋風建築の建物で、桜井勉をはじめ郷土の偉人を伝える出石明治館として残っている。

    出石明治館
    城下街に明治の香りが漂う建物は、1887年(明治20)に郡役所として建造された木造洋風建築の建物で、桜井勉をはじめ郷土の偉人を伝える出石明治館として残っている。

    出石明治館 名所・史跡

  • エキゾチックな外観のこの建物は1887年(明治20)に郡役所として建造された木造建築の建物。<br />現在は地元出身で、出石藩の藩政改革や地租改正や気象測候所の創設などに尽力した桜井勉(1843~1931)をはじめとする郷土の偉人を伝える出石明治館として公開されている。<br />出石の町に唯一残る明治年間の建築物で1983年(昭和58)に保存整備されたものという。<br />古い建築物を伝え残す、辰鼓楼で熱く語りかけてきた地元の方がそうであったように、出石に住む者の郷土の誇りが伝わってくる。

    エキゾチックな外観のこの建物は1887年(明治20)に郡役所として建造された木造建築の建物。
    現在は地元出身で、出石藩の藩政改革や地租改正や気象測候所の創設などに尽力した桜井勉(1843~1931)をはじめとする郷土の偉人を伝える出石明治館として公開されている。
    出石の町に唯一残る明治年間の建築物で1983年(昭和58)に保存整備されたものという。
    古い建築物を伝え残す、辰鼓楼で熱く語りかけてきた地元の方がそうであったように、出石に住む者の郷土の誇りが伝わってくる。

  • 天満宮<br />路の先に石の明神鳥居を構え、右手に祠が祀られています。<br />天満宮 <br />九州大宰府天満宮の分社で祭神は菅原道真。<br />明治の初めの神仏分離に伴い現在地に祀られたものだという。

    天満宮
    路の先に石の明神鳥居を構え、右手に祠が祀られています。
    天満宮
    九州大宰府天満宮の分社で祭神は菅原道真。
    明治の初めの神仏分離に伴い現在地に祀られたものだという。

  • 社頭全景。<br />祠後方に境内唯一のもみじの樹。<br />年輪を重ね太く成長した幹は立派なもの。<br />社頭左に由緒書きが立てられています。

    社頭全景。
    祠後方に境内唯一のもみじの樹。
    年輪を重ね太く成長した幹は立派なもの。
    社頭左に由緒書きが立てられています。

  • 天満宮由緒<br />「当天満宮は学問の神さまとして有名な九州大宰府天満宮の分社。<br />御祭神は管原道真公。<br />明治の始め「神仏分離」により藩校弘道館正門跡の現在地に祀られたもの。<br />弘道館は維新期の東京大学初代総長加藤弘之博士など多数の人材を輩出した。<br />当地東隣には町人に儒学を教えた義倉役所もあった。<br />現在もこの付近に弘道館跡碑(聖堂跡)や藩儒桜井氏の屋敷跡など学問に所縁のある文雅な遺跡が散在する。<br />毎年7月24・25日、学業成就・家内安全祈願大祭を行っている」<br /><br />神仏分離でこの地に遷座したようですが由緒から創建時期や元々の鎮座地について記されていなかった。<br />兵庫県神社庁など調べて見るも足取りは掴めませんが、出石町材木に鎮座し2世紀ほど、今も町民から崇敬される天満宮。

    天満宮由緒
    「当天満宮は学問の神さまとして有名な九州大宰府天満宮の分社。
    御祭神は管原道真公。
    明治の始め「神仏分離」により藩校弘道館正門跡の現在地に祀られたもの。
    弘道館は維新期の東京大学初代総長加藤弘之博士など多数の人材を輩出した。
    当地東隣には町人に儒学を教えた義倉役所もあった。
    現在もこの付近に弘道館跡碑(聖堂跡)や藩儒桜井氏の屋敷跡など学問に所縁のある文雅な遺跡が散在する。
    毎年7月24・25日、学業成就・家内安全祈願大祭を行っている」

    神仏分離でこの地に遷座したようですが由緒から創建時期や元々の鎮座地について記されていなかった。
    兵庫県神社庁など調べて見るも足取りは掴めませんが、出石町材木に鎮座し2世紀ほど、今も町民から崇敬される天満宮。

  • 奥に長い社地、間口一杯に建てられた入母屋瓦葺の拝所。<br />後方を谷山川が流れ、その背後の山は出石城のあった有子山が迫っている。

    奥に長い社地、間口一杯に建てられた入母屋瓦葺の拝所。
    後方を谷山川が流れ、その背後の山は出石城のあった有子山が迫っている。

  • 拝所に掲げられた「天満宮」の額。

    拝所に掲げられた「天満宮」の額。

  • 拝所内にはいくつかの奉納絵馬が掛けられている。<br />行人包の武将が振りかざす刃を軍配で受け止める武将、描かれているのは川中嶋合戦の謙信と信玄だろうか。奉納年度は記されているも既に消えかけ、推測すらできなかった。<br />拝所内の両脇に長椅子が置かれていたのが印象に残ります。<br />ここで井戸端会議に花を咲かせるのだろうか。<br /><br />いつの間にやら、黒雲が湧きポツン〃と降り出してきた。<br />散策中に急な雨に降られても、天満宮が受け入れてくれそうだ。

    拝所内にはいくつかの奉納絵馬が掛けられている。
    行人包の武将が振りかざす刃を軍配で受け止める武将、描かれているのは川中嶋合戦の謙信と信玄だろうか。奉納年度は記されているも既に消えかけ、推測すらできなかった。
    拝所内の両脇に長椅子が置かれていたのが印象に残ります。
    ここで井戸端会議に花を咲かせるのだろうか。

    いつの間にやら、黒雲が湧きポツン〃と降り出してきた。
    散策中に急な雨に降られても、天満宮が受け入れてくれそうだ。

  • 社頭の祠は弘法堂の様です。

    社頭の祠は弘法堂の様です。

  • 中を窺うとカラフルに色付けされた大師像と左にも一体の石像が安置されていました。<br />放射状の赤い線は光背を描いたのだろうか?、供えられた花の陰で姿をよく拝めなかった。<br />こちらの大師像は祇園さんで見かけた弘法大師以上に色使いに拘りを持っている。

    中を窺うとカラフルに色付けされた大師像と左にも一体の石像が安置されていました。
    放射状の赤い線は光背を描いたのだろうか?、供えられた花の陰で姿をよく拝めなかった。
    こちらの大師像は祇園さんで見かけた弘法大師以上に色使いに拘りを持っている。

  • 天満宮全景。<br />本殿を祀る鞘堂は切妻瓦葺の平入で拝殿と一体になっている。<br />参拝時堂内を窺うも本殿の姿は分からなかった。<br />材木の街並みにポツンと鎮座していますが、手入れの行き届いた境内や社殿から人の温もりが伝わってくる天満宮です。<br /><br />天満宮<br />創建 / 不明<br />祭神 / 管原道真<br />所在地 / ?兵庫県豊岡市出石町材木25<br />國朝天女稲荷から天満宮徒歩ルート /  ?南に約150㍍程?、徒歩数分<br /><br />本降りになる前に社頭から右の登城橋方向に向かいます。<br />2021/10/26

    天満宮全景。
    本殿を祀る鞘堂は切妻瓦葺の平入で拝殿と一体になっている。
    参拝時堂内を窺うも本殿の姿は分からなかった。
    材木の街並みにポツンと鎮座していますが、手入れの行き届いた境内や社殿から人の温もりが伝わってくる天満宮です。

    天満宮
    創建 / 不明
    祭神 / 管原道真
    所在地 / ?兵庫県豊岡市出石町材木25
    國朝天女稲荷から天満宮徒歩ルート / ?南に約150㍍程?、徒歩数分

    本降りになる前に社頭から右の登城橋方向に向かいます。
    2021/10/26

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