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寒さの中に

まだまだ寒い日が続きます。

空き地は枯れ草の天下

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ちょと、脇を見れば
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水仙が花を咲かせました。
もう春がちょっと手前まで来ているようです。

急に寒くなりました

急に寒くなりました。

童謡「たきび」歌詞2番
<さざんか さざんか さいたみち たきびだ たきびだ おちばたき あたろうか あたろうよ しもやけ おててが もうかゆい>
こんな光景は令和の現在ではもう見られないでしょうが、寒さという季節感には相当します。

茶梅(サザンカ)
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茶梅や椿の仲間でもあるお茶の花
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そしてお茶の実
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近くにある銀杏から風に吹かれて銀杏の葉が舞ってきて地面を覆っています。
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枯れた草にも銀杏の葉が絡みついています。
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これから冬、寒い風が身に沁みます。

学校はなにをするところ?

朝日新聞10月14日(月)の『くらし』欄に
<塾や習い事「学校外教育費」過去最高>という記事がでていました。
習い事や学習塾などへの子ども一人当たりの「学校外教育費」が今年、過去最高を記録したそうです。ある調査によると月に、平均で未就学児は9,218円、小学生は18,914円、中高生は25,675円。15年前に比べて未就学児は2倍、小学校低学年でも1.8倍に増えているそうです。



学校教育の枠外の内容の習い事などへの支出もあろうと思いますが、学習塾や予備校などの内容は学校教育の内容と重複しているのではないでしょうか。
なぜ学校でも行い、同じような学習範囲を学校外の塾や予備校などでもやらなければならないのでしょうか?
なぜ学校内で学習が完結しないのでしょうか?
金額だけではなく、時間的にも<無駄>なこと、1日は24時間です。自由な時間も削られているのです。

学校だけでは不完全であるとしたら、学校とは何をするところなのか?本来の役目はなんなの?
文部科学省をはじめとして、行政機関は真摯に考え直さねばならないと考えます。
また高額な学校外教育費を支出できる家庭と、そうでない家庭とに格差が生じてしまうという問題も生じてしまいます。

この記事で東京大学教授の本田由紀さんも述べられているように
「〜本来は学校教育の枠内でしっか学ぶことができ、放課後はお金をかけなくても地域や公共施設でスポーツや芸術などの充実した経験ができるように環境を整備すべきです。〜」

私事ですが、中学〜高校期間、ある塾に通っていました。
内容は高度!今思えば大学教養課程くらいの内容でした。全くわからないことも多かったのですが、先生は生徒がわかっているつもりで、一緒に内容を共有していると思っておられたようでした。そんな先生の思いに撃たれた期間でした。
大学生になって以降時折、先生を訪ねて、塾生だった頃の内容をもう一度確かめたりしたものでした。
学校では経験することのできなかった、「知る」とか「考える」とかを教えられた期間でした。そんな経験が私の思考の基礎になっているような気がします。


理解する、わかった!

妻が持病のあるところに腰骨の骨折が重なり、日常生活に不便をきたし、痛み、痺れ、精神的な不安の状態にあります。
内科と整形外科の2つの医院に通院しています。
レントゲン写真やMRI画像を基にして問診、投薬の治療を受けています。
今までの持病と骨折という複合的な状態ですが、対応してもらっている内科医、整形外科位は自分の専門外のことにはよくわからない状態のようです。
ですから本人は状態を訴えても安心できる回答を受けられず、悶々としている状態です。



もう半世紀も昔の学生時代のこと
大学内の広報誌にこんな記事があったのを覚えています。
医学部の名誉教授が書かれた記事でした。
<自分が専門領域としていた病気に自分自身が罹ってしまった。自分の弟子筋の医師が担当となり、医師看護師などスタッフが「先生大丈夫です!安心してください!・・・・」といってくれる。しかし自分自身はそんなスタッフの言葉には安心できず、不安でたまらなかった。自分が現役の医師だった頃、患者に対して同じような言葉を投げかけていたのだろう。そんな言葉掛けでは患者は安心できなかったのだろうと初めてわかったような気がした。発病した自分は患者の痛み、不安などを実態体験として理解したわけで、ようやく『一人前』の医師になれるような気持ちになった・・・>
といった内容だった思います。

医師はレントゲンやMRIなどの検査機器からのデータなどに基づいて治療をしていくが、ほとんどの医師は患者の痛み不安など実体験として体験したことはないので、それらに対して<感覚に訴えるような>的確な対処は難しいのかもしれません。
医学部での医師養成のプロブラムにはこのような患者サイドに沿ったものはあるのでしょうか?

ここで、私は<理解する、わかる>ということは感覚のレベルまでいってはじめて成立することだと思うのです。
患者のことを<理解する、わかる>ということは患者の痛みや不安など患者と同じ感覚のレベルまでいって成立することだと思うのです。なかなか難しいことだと思います。

医師と患者の関係だけではなく、人間関係全般にも当てはまることだと思います。お互いに<理解し合う、わかる>ということは、<感覚のレベル>まで掘り下げて成立することだと。

私は長く幼稚園の教員をしてきました。
大人である私と園児たちとは年齢、身体、動作、思考、感情など様々に異なります。
全く同じようにはできませんが、なるたけ園児たちのレベルに近づこうとして志してきました。
その際大変参考になったのは園児たちが描く絵画でした。
そこには大人とは異なる、思考、表現方法、身体的な動作の違い、感情の表れなどが凝縮されていました。
それらを参考にして<感覚のレベル>で園児たちと接し、修正をしながら関わってきたつもりです。
今振り返ってみて満点とはいかないまでも、最低レベルの<合格点>には達していたかな?と思っています。

記号(文字以外)との出会い

はるか遠い幼児期の記憶



通っていた幼稚園は私の祖父が開園した幼稚園でした。
その頃私たち家族は幼稚園から6kmほど離れた母の実家のそばに住んでいました。
父は基本的には私の母の実家が経営していた綿織物の工場に勤めており、園長だった祖父の具合があまり良くないこともあって、週に何回かは午前とか、午後とか幼稚園にも行っておりました。
その当時通園バスなどあるはずもなく、通うには母方の祖母に送ってもらっていました。時々父が幼稚園にきている時は一緒に自転車に乗って帰ったこともあったようです。

年長になって、帰りは路線バスに乗って帰ることになりました。
幼稚園から自宅まで、一度駅のバス乗り場で乗り換えなくてはなりませんでした。
何回か練習で祖母から、この番号のバス乗り場で、行き先が<〇〇>や<△△>行きと「漢字で書かれた」バスに乗るんだよ!<✖️✖️>行きと書いてあるバスに乗ったらダメだと注意を受けました。実際に祖母と一緒に漢字で書かれたバスの行き先を見ながら練習を繰り返しました。
それから一人でバスに乗って駅で乗り換えて自宅に帰ることになりました。
間違えないで帰るだろうか、と心配したようですが、一度も間違えなく帰ってきました。
そしたら、祖母や家族や周囲の者が私が漢字を読めると思ったようで『マサクニは漢字が読める!」と驚いたようでした。

私は周りの大人たちから「漢字が読める!」と言われても何のことかわかりませんでした。
漢字がわからないのに行き先が漢字で書かれているバスを区別して、間違えなく帰ってこれたのは、バスの形で判断していたからでした。自宅方面に行くバスと、そうではないバスはバスの製造会社が異なっていてはっきりと区別ができたのでした。

大人は文字で判断するのが当然で、バスの形など意識外のことでした。
漢字のわからない当時の私にとって区別する記号はバスの形だったのです。
きっと当時の私は必死で区別する記号ーバスの形を見出したのではないでしょうか。

私たち大人は当然のように文字という記号に慣れてしまっていて、他の記号的なものに注意がいかなくなっているのでしょう。
しかし文字という記号を習得前あるいは慣れていない幼児期以前の子供にとって文字以外の記号(他と区別する指標)を見つけ出して利用しているのでしょう。
私たち大人も文字以外にもいろいろな記号があることを思い起こすことが必要だと思いませんか?

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プロフィール

m.k.masa

Author:m.k.masa
諸々の事柄に、なぜ?、どうして?という感覚をも持ち続けたい幼稚園園長です。
京大理学部卒、大学院修了
(うさぎ年です)

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