自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

満員電車にて痴漢してるオッサンを発見した話。

 昨日の話。大学の講義が終わり、電車に乗って自宅へ向かう。19時頃に電車に乗ったので、仕事終わりの方々が溢れていて、車内はこれでもかというほどの人口密度。

 自意識過剰な僕は、「痴漢冤罪になったらやだな~。」とか思ってしまうので、満員電車の中では両手を挙げて吊り革を持つことにしている。満員電車の中は暇だ。暇な時は周りにいる人間を観察することが癖になっているため、特にやることがないギュウギュウの車内の中で、周りの人間たちのことを観察していた。

 

 一昨日、鳥飼茜さんの『先生の白い嘘』を読み終え、男と女の体格差という生まれながらの不平等について少し考えを巡らせたこともあり、満員電車内での人間観察もそこのところに目がいく。

(参照:鳥飼茜さんの『先生の白い嘘』を読んで考えたこと。フェミ寄りの人のことが気になりつつも、どこか近づきがたさを感じてしまうことについて。 - 自意識をひっぱたきたい)

 

 やはり基本的には、男の身体に比べ女の身体の方が小さいため、女体持ちの多くの人は満員電車において、人の中に埋もれるような形になっている。『先生の白い嘘』に出てきた美鈴先生のように、『男の身体』というだけで恐怖感を感じている人もこの中にはいるのだろうか、それは僕が2m級の外国人に囲まれたり、体格の良いスポーツ選手に囲まれたりするようなものだろうか、そんな状況になったら確かに萎縮し、どこか居心地が悪くなりそうである。そんなことを考えながら、今度は女の人を囲む形になってしまっている男の人たちの方に視線を向ける。広告ばかり見ている人がいたり、どこか遠くを見ている人がいたり、やたらと下を気にしている人がいたり。下を気にしている人は何を気にしているのだろうか。チャンスがあれば女の人の身体を触りたいと思っているのかもしれないし、もしくは僕と同じように「痴漢冤罪になったらやだな~。」と思いながら自分の振る舞いに注意しているのかもしれない。下ばかり見ている人は下に下ろしていた片方の手を挙げて、両手で吊り革を持つ形にしたため、後者だったのだろう。

 そうこうしているうちに、電車は次の駅に着き、大量の人が出て、大量に人が入ってくる。車内の人が流れる中、埋もれている女の人を中心に、周りにいる男の人がどんなポジション取りをするのだろうかと観察していると、少し不自然な動きをしているオッサンを発見。周りの人の1.2倍ほどの強い動きでポジション取りをしようとしている。そして、そのポジション取りの仕方は、わざわざ女の人の真正面に立ち、わざわざ顔を女の人の方向に向けるというものだった。ふつう何等かの力学が働いて、満員電車の中において人は人の顔と対面するようなポジションは取らない。仮に取ってしまったとしても、どこか決まりが悪いような表情や仕草を見せるものだ。しかしそのオッサンは全くそんな身振りを見せなかった。オッサンは女の人の顔に自分の顔を近づけ、寝てるフリでもして不可抗力にでも見せたかったのだろう、目を瞑り、電車の揺れに合わせて、目を瞑った顔をゆらゆらさせている。時々強めの揺れがやってくると、これでもかと言わんばかりに女の人の顔に自分の顔を急接近させる。見るからに確信犯である。女の人は自分の顔を真横に向け、明らかに嫌がっている。そしてその光景に気付いている僕。一体何をするべきなのだろうか。それこそ電車の揺れに合わせて二人の間にでも入り込むことができたら良いが、僕は僕の前にいる男の人2人の肩越しにその光景を見ているため、ギュウギュウの車内でセクハラオッサンの近くまで自分の身体を移動することはできない。それでは、「それセクハラですよー。」と注意するべきなのだろうか。オッサンはあくまで不可抗力を装っているので注意がしづらい。「そんなことねーよ!」と逆ギレされそうである。でも、セクハラをやめさせることが目的であるため「あ、そうでしたか、すいませんでした。」とでも返しておけば、それはそれで良いのかも知れない。一度でも注意されたらその後はできなくなるから。もっと穏便に「顔の向き変えた方が良いですよ(^.^)」みたいな感じで言うのもありかもしれない。しかし、僕は何もすることができなかった。なぜなら、もし注意したら自分が何されるかわからないからである。

 

anond.hatelabo.jp

 

 上の記事は男の痴漢被害者の方の体験談なのだけど、痴漢されたことの恐怖について、「触られること(実際の被害)よりも、相手の意思を無視して相手を自分の欲望のために使うっていう、理解できない存在に対する根源的な恐怖があるんだと思う。」と述べられている。この恐怖は注意する側の人間にも適応されるだろう。むしろ明らかに人の身体を触っていて、こっちも周りの人と協力して正当性のもとに相手が身動きが取れなくなるほど力づくで抑え込むことができるのならば、相手が理解できる存在であろうが理解できない存在であろうが関係ない。しかし、不可抗力を装っていて、注意することくらいしかできない相手だからこそ、注意した後に「理解できない存在に自分が何されるかわからない」という恐怖が付き纏ってしまう。それが触らない痴漢・セクハラの一番厄介なところなのかもしれない。女体持ちの人は「理解できない存在」が腕力を持っているという二重の脅威に脅かされているということにも想像を働かせよう。

 そんなこんなで躊躇していたら、電車は次の駅に止まる。「あ、これを機に女の人は場所を移動できるんじゃないか。」と思っていると、予想通り、女の人は場所を移動しようと一度車内から出て、もう一度入り直す。しかし恐ろしいことに、セクハラオッサンも女の人の後ろを追いかけ、車内から出てもう一度入りなおす。そしてまた同じ女の人の真正面にポジションを取り、また目を瞑り出す。鳥肌が立つくらい気持ちが悪い。人が降りたことによって少しだけ車内にスペースができていたため、僕はオッサンと女の人と隣接するポジションまで動いて、オッサンが目を瞑っている隙に、女の人にジェスチャーで僕の後ろに頑張って移動するように促して、オッサンと女の人の間に自然を装って割り込むことに成功した。しかし僕は2つ次の駅で降りてしまうため、その後はどうなってしまうのだろうと思ったので、女の人にどこで降りるのか聞こうとした。その時に「怖かったですよね。」とか「もう大丈夫ですよ。」とか、気の利いた言葉の一つでも投げかけることができれば多分良いのだろうけど、いかんせんコミュ障のため、

「どこで降りるんですか。」

「次の駅で降ります。」

「そうですか(棒読み)」

みたいな感じで自分の意思が果たして伝わったかもわからないまま会話終了。もう少しうまく意思を伝えられるようになれれば良いのにな、と思った。

 

 この場面で、自分の意思をどうにか伝えようとすることはとても重要であると思う。『先生の白い嘘』の美鈴先生もそうなのだけど、性犯罪の被害に遭った女体持ちの人は、加害者の人に対してだけではなく、男の身体そのものに対して恐怖を感じてしまう可能性が高いから。そして男の身体そのものに恐怖を感じてしまうことは、自分が持っている女の身体を否定することに繋がり、その後の人生を自己否定しながら生きることになってしまう。そうならないために一番有効なのは、男の身体を持った人の中にもセクハラオッサンみたいなのとは違う人もいるということを、男の身体を持っている人が意思表示するということだろう。それが伝われば、男の身体そのものに恐怖を感じてしまい、男と女の生まれ持った身体の違いに絶望して自己否定することは免れることができるかもしれない。身体的な不平等があることと、不平等に絶望することは別問題であり、不平等があることに気付いていると意思表示をする人がいれば、不平等への絶望は緩和されると思う。つまり、男の身体を持っている僕が、オッサンにセクハラされている女の人がいるという状況に気付くということは、「どうかこの世の男の身体全てを嫌いにならないでください。そして生まれ持った身体の構造の不平等に絶望しか感じないようにはならないでください。」ということを、その女の人に伝えることができる可能性を自分が所持していることにも気づくということである。そして、それはもちろん自分が気付いただけでは相手に伝わる可能性なんてないので、どうにか意思表示をすることが大切である。

 今回は、「理解できない存在」が怖くて注意ができなかったけど、その後に都合よく自然を装って間に割り込むことで、女の人に対して意思表示が(多分)できたからまだ良かったとは思う。しかし僕がセクハラオッサンと女の人に物理的に近づけないままだったらどうだっただろうか。多分怖くて注意することもできなかっただろう。そしてそれはもしかすると、その女の人の男の身体に対する嫌悪、それに伴う自己否定に繋がってしまったかもしれない。だからできるのなら注意という形で意思表示をした方が良かったのだろう。痴漢やセクハラに気付いたとしても意思表示が無いのならば、殺伐とした空気の中で「痴漢冤罪になったらやだな~。」と思いながら吊り革を両手で持って電車に乗る日々が加速していくだけである。

 

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