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マラソンの女王 野口の欠場の原因を斬る

マラソンの女王 野口の欠場の原因を斬る

  • 高岡英夫[語り手]
  • 運動科学者。「ゆる」開発者。現在、運動科学総合研究所所長、NPO法人日本ゆる協会理事長・推進委員。東京大学、同大学院教育学研究科卒。東大大学院時代に西洋科学と東洋哲学を統合した「運動科学」を創始し、オリンピック選手、芸術家などを指導しながら、年齢・性別を問わず幅広い人々の身体・脳機能を高める「ゆる体操」「ゆる呼吸法」「ゆるウォーク」「ゆるスキー」「歌ゆる」を開発。

一流スポーツ選手から主婦・高齢者や運動嫌いの人まで、多くの人々に支持されている。大学・病院・企業などの研究機関と共同研究を進める一方、地方公共団体の健康増進計画での運動療法責任者も務める。ビデオ、DVD多数、著書は80冊を越える。

野口みずき【後編】(2008.09.05 掲載)

身体のズレは自身の脳活動で修正するしかない

今度は、この話を脳の面からしていきます。たとえば肩甲骨の位置がニュートラルな状態で、どこにあったらいいのかというのは当然あります。競技によって多少違うにしても、そこからはずれた位置にあれば、よくありません。

ですが、そのズレは自身の脳活動で直す以外にありません。脳が間違った身体制御をしているからそうなっているわけで、その脳をこそ改善しないといけないのです。

そのやり方はいろいろありますが、基本は脳に間違っていることを教えてやることです。時に部分的にトレーナーなどが身体の調整をしてやってわかりやすくしてやるとか、あるいは位置を修正する情報をより提供してやることはあります。ですが、最初から最後までベースにあるのは、自身の脳活動です。これまでの脳活動水準では間違っていたのですから、それを間違わないようにしてやるわけです。

数学でより優れた脳活動をするようにしてやらなければ、より高度な問題は解けないのと同じ。身体も間違った使い方を良しとしていた脳の働きを高めてやるしかありません。

ですから、ウエアなどの外力による締めつけで、肩甲骨の位置を修正したところで何もならない、どころか、そんなことをしては、脳をバカにするだけなのです。

胸郭を締めつけると、呼吸活動が低下する

さらに、身体の面からいえば、そのようなウエアで肩甲骨の位置を修正するには、多くの場合胸郭全体に圧をかけることになるわけでしょうから、肋骨や肋間筋全体の働きが落ち、呼吸運動自体が妨げられ、息苦しくなることがありえます。これは、一時的に高齢者の身体になったようなものです。

高齢者の身体は肋間筋が固まって、結果肋骨が固まってきているから呼吸量が減ってきて、それが活動力や脳活動の低下を引き起こす原因になっているわけです。ですから、若いスポーツ選手にそのようなものを着けさせて、一時的にも高齢者の状態に陥らせる結果を引き起こすことがあるとしたら、大問題です。

偏った動機づけも、脳活動を狂わせる

といっても、脳活動がちゃんとしていれば、あるいは動機づけが偏っていない限りは、選手自身がその違和感に気がつくものです。息苦しくてたまらないとか、これでは、体がおかしくなるとか、かえって筋肉が痛くなって困るとか。

しかしながら、今回の野口の動機づけは半端なものではありませんでした。なにしろ、全国民の期待を背負っているわけですから、あれほど動機づけが強い状態のスポーツ選手はめったにいません。だから、今のままの自分では勝てないかもしれないという状態に追い込まれれば、適切な判断力を担当する脳活動は偏ります。身体の異変を感じないように、感じないようになっていく可能性もあるのです。

人間の身体に係ることで商売をしすぎてはいけない

繰り返しますが、今回、野口がそのようなウエアを着たり、装着具をつけたりしたかどうかはわかりません。でも、私は常々、ウエアの開発やトレーニング用具の開発など、人間の体に係るもので、商売をしすぎてはいけないと思ってきました。企業の「売らんかな」の論理の下に開発が行われていくと、しばしば、余計なもの、時には危険なものを作ってしまうことが起きるわけです。

この辺はスポーツの強化に携わる人たちも、スポーツに関わる器具や用品を作る人たち、特に企業の経営者たちには今一度、根本から考え直してもらいたいところです。

野口がアテネで勝てたのは、ゆるんでいたから

ゆるんでいる身体は、血液・体液の循環に優れ、代謝機能も高く、疲労回復力に優れていることは、今さら言うまでもありません。ゆるめる対策を施さずに筋トレで筋力を強化することでガチガチに固まった身体は、実は単位筋量当たりの疲労回復力が低下するのです。

しかし筋肉でガチガチに固まった身体の恐ろしいところは、これだけではありません。それは走運動で一歩ごとに地面から受け続ける衝撃力を吸収する「全身クッション機能」が低下する、というマイナスです。

ゆるんでいる身体とは、全身体の200の骨とそれをつなぐ500の筋肉の自由度が高い状態にある身体のことなのですが、この骨格と筋肉の自由度の大きさが衝撃力を全身体中に分散し吸収する装置になるのです。アテネの野口はゆるゆるな身体に全身クッション装置をたくさん持っていたが故に、あの大きなストライドでも身体を痛めなかったのです。

北京前に左太腿裏を痛めた、さらに根本的な原因は、この全身クッション装置を失ったことにあることは、間違いないところでしょう。

野口の場合、自己改善の成否は北京の結果でしか問えない

こうして野口陣営の北京に向けての対策を見ていると、アテネで野口がなぜ勝ったのかということが、申し訳ないけれど見えていなかったのだと思えてならないのです。

陸上関係者では、野口が昨年11月の東京国際女子マラソンを大会新で優勝。後半の坂をあれほどのスピードで駆け上がれたのは、フォーム改善が成功した、アテネの時より強くなっている、北京に向けての対策が順調に進んでいると評価していたようですね。

でも、私に言わせると、対策が間違っていなかったと言えるのは、北京五輪を制したときだけです。アテネで優勝した選手ですから、自己改善が正しかったというには、次のオリンピックで優勝するしかありません。東京国際女子はオリンピックではありません。国際大会で優勝することは、野口のレベルの選手にとっては自己改善の指標には全くならないのです。このような厳しい見方が必要です。

優勝したことはただの通過点にすぎません。ですから、優勝をしたことは忘れて、本当に選手がどのような身体使いをしているかを徹底的、厳格に見取らないといけない。優勝という結果がついてくると、つい、ものの見方が甘くなる。ここが難しいところです。

左右のアンバランス修正は、弊害のともなう部分修正でしかなかった

さて、ここから、野口が行ったフォーム改善について、私の見解をお話します。

左脚と上半身が強くなってバランスがよくなったと判断していたようですが、私の分析は違います。

左脚に故障が多い、シューズの底の外側が左だけすり減ることから、左脚を筋トレで強化したわけですが、結果、左の下腿筋群を右に比べて強く使うようになってしまったのです。それもしなやかに使えていない。筋肉はより強く収縮する時と、ダラッと弛緩する時を繰り返すわけですが、その幅が狭くなってしまったのです。ある強さで常時締まりっぱなし、これが固まる、硬直するということですが、左の下腿筋群がそうなってしまったのです。

つまり、全身がトータルに改善されて、身体の操作、身体の使いこなしが良くなって、全身の協調性が高まったことによって、左足も接地が改善されたということでは全くないのです。結果として、さらに別の弊害をもたらす、部分修正にしかなっていなかったのです。

野口はピョンピョン走りでセンターを作っていた

ピョンピョン走りの修正においても、間違いを犯していると考えます。

確かに、上下動の大きいピョンピョン走りは、単純な物理学、力学から見るとロスに見えます。でも、このように人間を単なる死せる物体として見て、それがどういう方向に力を出して進んでいるか、どういう方向に力を出したらいいのか、それは水平な方がいいだろう、上に行く力は効率が悪いからロスだ、というだけでは、全容が見えてきません。

私もバイオメカニクスを勉強している人間ですから、そのような見方で身体運動にアプローチもします。と同時に、身体意識学的なものの見方とか脳科学的な見方などをいろいろ駆使します。そうでないと、現象全体を正しく見ることはできませんから。

そのような見方をすると、野口は上下動をしながら、実はセンター(※参照)、身体の中心軸を常に上に伸ばしていき、センターによって吊られるような走感覚を生み出していたと、考えるべきなのです。

※センター(中央軸)とは、身体の中央を天地に貫く身体意識。『究極の身体』(講談社)の第2章「重心感知と脱力のメカニズム」(49ページ~)で詳しく解説しています。

その結果、一番わかりやすいたとえでいうと、脚に羽が生えたように軽く運ばれるというような潜在意識が生まれ、感覚的にとても走りやすかったはずなのです。

もう一つ、センターがあるとバランス機能がアップします。それでもなお、崩れそうになって走っていたのですが、それがなかったらもっと崩れてしまっていたはずです。センターは、全身運動として身体のバランスを取る支柱になるものだからです。

この二つをもたらすセンターを、彼女は一歩ごとにピョンピョン走りながら作り出していたのです。これは大変大事なことです。

ピョンピョン跳ぶ代わりに、おでこをより強く吊り上げて走る野口

そして上半身の筋力強化によって、このピョンピョンができなくなった野口は、その代りに、ものすごく、おでこを吊り上げて走るようになったのです。このことは、『陸上競技マガジン2008年9月号』(ベースボール・マガジン社)の表紙を見るとよくわかります。

元々彼女はその傾向がありましたが、よりその意識が強くなっていることが見て取れます。おでこに深い3段じわができるほど、一生懸命になって瞼を吊り上げています。吊り上げずにいられないのです。そうしなかったら、走りにくくてしかたがない、前へ前へつぶされていきそうな感覚に襲われるからです。

はじめに指摘した、重心が低くなったのも、センターが作りにくくなったことが原因です。

  • 陸上競技マガジン2008年9月号
  • 陸上競技マガジン
    2008年9月号(ベースボール・マガジン社)

競技スポーツ界にオンブズマン制度の導入を

このように身体運動をする人間の存在は、それほどトータルなものなのです。生きる選手は非常に複雑な統合体です。そのあたりを専門家の方々にはぜひ勉強していただきたいものです。

とはいえ、いくら現場の指導者たちが勉強しても、自分たちのしていることを客観的に評価することはなかなか難しいことです。

ですから、今後の競技スポーツの発展には、オンブズマン制度のようなものが必要なのではないかと思うのです。

NHKが、自身の体たらくの改革を内部の人間にやらせていてはだめだから、部外者の識者で独立性のある経営委員会を作って批判、評価させているように、オリンピック委員会から委嘱された専門機関がどの選手、チームも独立的な立場から見てあげて、建設的な批判と意見を言うのです。

そのことに不慣れな選手や指導者の中には、批判的なことを言われたがために、がっくりしたり混乱して、それからの対策が間に合わなかったなどということもあるかもしれませんから、その点での配慮も必要です。しかし、表面的、即効的にはプラスだけの結果にならない場合が生じたとしても、事実をより広く深く客観的に知りながら対策を練って歩んでいくというプロセスを、合理的な段階を踏みながら押し進めることが、日本のこれからの競技スポーツ全体の強化には必要不可欠であると、私は考えるのです。

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