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JBの『ライヴ・アット・ジ・アポロ』を大ヒットに導いた老女の叫び声

2024.12.26

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ジェームス・ブラウンが初めてアポロ・シアターにショーを観に行ったのは1956年、ツアーでニューヨークを訪れたときのことだ。

俺たちのなかの誰もそれ以前に<アポロ>の中に入ったことはなかったが、ここに足を踏み入れることが何を意味するかは知っていた。黒人ショー・ビジネスの歴史におけるすべての最高のショーがここで演じられ、そしてここの観客は世界で最も厳しかった。(『ジェームス・ブラウン自叙伝 俺がJBだ!』より)


いつか自分もそのステージに上がることを胸に誓ったJBはそれから3年後、はじめてアポロ・シアターに出演する。他にもいくつかのミュージシャンが出演する中でJBの出番はトップバッターだったが、“世界で最も厳しい”観客の心をあっという間に掴み、翌1960年にはヘッドライナーを飾るまでになった。

JBのショーは単に演奏して歌うだけではなく、様々な踊りやパフォーマンス、演出があり、それに観客が熱狂することによって歌も演奏もヒートアップしていく。それは決してスタジオでは録音することのできない音楽だった。

俺は俺のショーがどういうものかファンが少なくとも聴くことだけはできるよう、ライブ・アルバムを出したいと思うようになっていた。


しかし、メンバーにそのアイディアを伝えると気違いだと言われ、レコード会社からも猛反対されてしまう。当時のポップスシーンにおいて売上の大半を占めるのはシングルであり、アルバムはあくまでヒット曲を集めたものにすぎなかった。ましてやライヴ・アルバムなど出しても売れるはずがない、というのがレコード業界の常識だった。

結局レコード会社は一切お金を出さず、全てJBが自費で制作するということで話はまとまった。ライヴ・アルバムを作るために必要なお金は5700ドル、当時のJBにとってかなりの大金だったが、それだけのリスクを背負ってでもライヴ・アルバムを出したいという思いがあり、同時にヒットするはずだという自信があった。

1962年10月、アポロ・シアターを貸し切ったJBはレコーディングのための準備をすすめ、24日にその本番を迎える。ショーは全部で4回、その中から出来のいいテイクをピックアップするという算段だった。

JBはいつになく緊張していた。すでに大金を注ぎ込んでいたし、レコード会社に自分が正しいということを証明できるものを録音しなくてはならなかったからだ。

「さあ、会場のみなさん、スターの登場です!スターを迎える準備はできていますか?」

オルガンのファッツ・ゴンダーによるお決まりの紹介とバンドによるファンファーレによって1回目のショーが幕を開けた。客席から歓声が上がり、短い演奏を挟んで1曲目の「アイル・ゴー・クレイジー」へとなだれ込んでいく。

そのまま順調に進んでいくかに思われたが、ショーの途中で予想だにしないハプニングが起きた。最前列にいた老女が興奮のあまり卑猥な言葉で叫び始めたのだ。しかも老女のところには、客席の声を拾うためのマイクが立てられていた。JBはステージで熱唱しながら、内心で今のテイクが使えないことを感じ取るのだった。

1回目のショーが終わると、メンバーや関係者は控室に集まり、早速録音したテープを聴いてみた。演奏も録音も上々だったが、老女の卑猥な叫び声が聞こえてきた瞬間、全員が噴き出した。

キング・レコードの副社長でJBの良き友人でもあったハル・ニーリーは、録音したものが使い物にならないことに落胆したが、その後もみなが繰り返し聴いては笑い続けている様子を見て、考えを改めるのだった。

「おい、もしかしたら、こいつは掘り出し物かもしれないぞ」

ニーリーは会場に戻って老女を見つけると、食べ物とお金をプレゼントするので最後のショーまで観ていってほしい、とお願いした。

客席に立ててあるマイクの位置を変えて2回目のショーがスタートする。老女が叫びはじめると、その興奮は他の観客にも伝播し、会場は熱気に包まれた。

全てのショーが終わると、ニーリーが興奮した様子でテープを控室に持ってきた。そこには最高の演奏、そしてこれ以上ないほど熱狂的な歓声が素晴らしい音質で収められていた。録音された音を聴いたJBはその出来に満足し、これならいけると確信するのだった。

ところが、後日キングの社長に聴かせると「これは出さない」と言われてしまう。その一番の理由は、曲と曲の合間に切れ目がないことだった。これではラジオ局で流してもらえない、というのが会社側の考えだ。それでも懸命に説得するとその熱意に押されたのか、ようやっとライヴ・アルバムを発売することに同意してくれた。

翌1963年5月に『ライヴ・アット・ジ・アポロ』はリリースされると、思いもよらない事態が起きた。

黒人向けラジオ局の多くが、1曲ではなくアルバム丸々1枚を流し始めたのだ。『ライヴ・アット・ジ・アポロ』は圧倒的な支持を集め、レコード会社の予想を大きく裏切ってビルボードの全米アルバムチャート2位、66週もチャートインするという爆発的な大ヒットとなる。

JBは自身の考え方が正しかったことを証明してみせるのだった。

俺はアルバムのなかで叫んでいたあの老女に感謝したくて、彼女を探し出そうとさえしたが、見つけることはできなかった。


JBの言葉が、このアルバムにおける老女の功績の大きさを物語っている。



James Brown『Live at the Apollo 1962』
Polydor

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参考文献:
『俺がJBだ!―ジェームズ・ブラウン自叙伝』ジェームス・ブラウン/ブルース・タッカー著 山形 浩生/渡辺 佐智江/クイッグリー裕子訳(JICC出版局)


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