12/8-12/12

震災から9ヶ月。12/8-12/12までの5日間の記録です。
今回も前回同様に宮城県石巻から東側の海岸線を動いてきました。
 夏に伺ってから4ヶ月。青々と茂った雑草がいろいろなものを隠していた暑かった時から一転して、瓦礫こそ片付いてはいましたが雑草も枯れて色のない風景に3月の時の絶望感を思い出しました。
 その絶望感のせいなのか、今までセカセカと通り過ぎてきていた場所を割とゆっくりと見てきました。コミュニケーションよりも地震と津波の爪痕の再認識・再確認となりました。
 慣れなのでしょうか。他人事なのでしょうか。あの日感じた、忘れてはいけないはずの気持ちや想いが薄れていき、カタチばかりのモノとなって忘れてしまったのと同じ状態になってしまう。今でも現地が大変な状態であること、多くの問題を抱えていることを知ってください。

● 石巻
前回同様にはじめに石巻の門脇小学校を訪ねた。3月に訪ねたときは中に入れたので自分の中で印象がとても強い場所です。(3月時の写真の後半にありますので参考にしてください。)8月に昇降口に献花されていた花と同じ花が今回も献花されていました。この意味はとても重く受け止めいます。
 近所の称法寺は、8月のときにボランティアさんたちが片付けていたのできれいになっていたけどやはり大半の墓石はそのままでした。南浜町や門脇町だけでなく、全体的に冠水が前より酷くなっている気がした。ただ、冠水が酷い地域でも主な道路自体は盛り土してあるから普通に走れたのでとても助かりました。
 渡波小学校はスッカラカンと何もなくなりとても広く感じて、避難所の時の印象とまるで違いました。まだ学校として再開はしてない状態です。子供達は渡波小学校からシャトルバスで別の小学校に毎日通っているそうです。
 危険区域の解体が進んでいました。話ではやっと行政が動き、今現在は無料で解体することが出来ているそうです。無料で解体できるものだし、いつまで無料なのかも解らない為、急ぐ必要のないところも申請が相次ぎ、必要な土地でのスピードが問題になっている面もある様です。

● 雄勝町
今回、水浜の人たちには予定が合わずに会えなかったのですが、ここも南浜町同様で色を失っていました。瓦礫の山やそこに紛れた生活用品などは無く、崩れた堤防にも土嚢が積んでありました。恐らく土嚢が積まれる前にそこから冠水して泥が滞積してひび割れたものが目立ちました。
 ホヤの稚貝を養殖するための仕掛けを作る作業をしていた漁師さんに話を伺いました。借金をしてでも今年仕掛けを作らないと一年二年と収入のない生活をしなければいけないから無理をして養殖を再開しているとのことです。
 仮設住宅は畳を入れていました。やはりここでも下から冷え込むのでしょう。誰にも会えなかったので確かではないです。
 町役場の敷地内にプレハブの商店街が出来ていました。八百屋、焼きそば屋、寿司屋にタバコ屋など。少しずつ変化してます。焼きそば屋の店内に雄勝法印神楽が鎌倉で公演していたときに販売していた手拭いが壁に飾ってあり、一つ一つがこの地で起こっている変化に繋がっていることを感じました。

● 女川町御前浜
8月に伺った御前浜分校に足を運びました。8月の時は20〜30人が避難所として認めてもらってない分校(立地が海から近く、海との高低差がほとんどない事等から)に避難していたのですが、多くの人が仮設住宅に移り、今は2世帯4人が分校で生活をしていました。仮設住宅に入れないということではなく、仮設住宅に一緒に住むことになる息子さん夫婦に気を使ってとのことのようです。元気そうでなによりでした。
8月に耕していた畑も見事な状態でした。野菜は畑から、魚は海からと、ほとんど自給自足のようです。
御前浜周辺から雄勝にかける海岸線はとてもきれいな景色で、いつもバタバタと移動していたのでゆっくり眺めたことはあまりなかったのですが、足を止めてみるとしばらくそこに腰を下ろしたくなる様なすばらしい場所です。

● 南三陸町
初めて歌津駅に上がってみました。10メートルぐらいの高台にある駅もしっかりと津波の爪痕が残っていました。周辺はかなり片付いていた印象で井里前小学校前には新しくプレハブの商店街を造っていました。
志津川も同様に解体は進んでいましたが、相変わらずという印象でした。ここも冠水が酷くなっている印象で、アスファルトの上に薄く張った海水が青空を映していて不思議な景観を見ることができました。皮肉なものです。

● 気仙沼
こちらも前回までは避難所でのやり取りだったため、ほとんどの方と連絡がとれなくなってしまいました。その中でもなんとか連絡が取れた方の仮設住宅に伺いました。海外からのボランティアさんたちがちょうどレストハウスでコーヒーとパンケーキを用意していました。彼らはLAから来ていたようで、この日が最終日だった様です。仮設住宅に移った人たちの中には、やっと出来た個室の中に引きこもってしまう人も多いようで、結果自殺してしまう方もいるようです。それを避けるために近所付き合いのきっかけとなるようなお茶会をいろいろな仮設住宅でやっているようです。ほとんど言葉が通じてなくても、通じるものがあるというのは、すばらしいです。なにより言葉が通じなくても被災地まで海を渡ってきてくれている人たちがいると言う事実に勇気づけられました。雪がパラついた日に温かな気持ちになり、もっとやれることがたくさんあるはずだと考えさせらました。

被災地ではボランティアが少なくなっていると伺っています。
気仙沼のLAからのボランティアや、雄勝復興市でお茶や菓子をふるまっていた東京に住む外国人の方達、単身で雄勝に入っていた青年。一人一人は微力かもしれませんが、想いをもって活動している事は確かです。その想いを同じように抱いていて、被災地に足を運べていない人はまだたくさんいると思います。個人的には被災地にはまだまだやれることがたくさんあり、たくさんの人手が必要であると思います。まだまだ時間がかかります。多くの想いが被災地に届く事、集う事を切に願います。

平野愛智

8/10-8/15

震災から5ヶ月。8/10〜8/15の6日間です。
今回も変わらず、渡波、南三陸町、気仙沼、女川町、雄勝町水浜、御前浜に足を運び、多くに人に「写ルンです」で撮っていただきました。
2回目、3回目の参加の方が多く、少しずつですが企画を通した個人的なつながりが増えてきました。その中で伝えたいことがあるとして私が来るのをまっていてくれた人や、前回からの3ヶ月の間の出来事を話しをするのを楽しみにしてくれていた人、足を運ぶたびに出来ていくつながりに心から感謝致します。撮ってくれた写真から、変化が乏しい瓦礫の現状、仮設住宅に移る中で浮かび上がる問題、盆時期という中での鎮魂と再起を願う花火や祭りなど、各地の抱える多くの問題を感じ取ることが出来ます。どうかこれらから多くのメッセージを汲み取ってください。

今回足を運んだ中で、思ったこと、感じたこと、お話を伺ったことなどを幾つか書かせていただきます。

●渡波
道路の陥没などは埋められて、リフォーム不可の住宅の解体など、少しずつ変化はしているが、更地になっているところは少なく、瓦礫が撤去された基礎が残った荒れ地にところ構わず青々と茂る雑草が目につきました。

6割くらいが仮設住宅に移ったと聴く中、渡波小学校の避難所はかなり人が少なくなっていました。体育館で子供達にカメラを渡すとまるでサバイバルゲームをするように駆け回りながらお互いを撮り合い、15分もしないうちに撮り終わってました。例年の夏休みより暇を持て余してる様でしたが、ただ明るく笑顔で遊んでいるのを観て、改めて子供の順応能力の高さを感じました。また仮設住宅に移った方から、被災格差を感じる問題が出て来ているとも伺いました。被害の少なかった地域に仮設住宅を建てるだから問題がない訳がなく、実際に足を運んだ水押野球場の仮設住宅は球場の中に建てられているので家を出たらスコアボードがある状態で、これには、「子供達の遊び場を奪っているのでは?」という意味も含めてまいっている方もいるようです。 毎度、石巻に行くとき顔を出すお好み焼き屋は、3月の時に片付けの途中膝に猫を抱きながら休憩していた大将が印象的で、営業再開を楽しみにしてたのですが、今回も営業出来てない状態でした。ただこっちのスケジュールの最終前夜に店に招待して頂き、お好み焼きをごちそうしてもらいました。これは本当に嬉しかった。この震災で日常や思い出など全てを失い、未だ多くを取り戻せてない中で、こうやって同じ時間を共有出来たことが本当に嬉しく、素敵な時間でした。ちなみに今までこの企画のことを大将に話してなかったのですが、今回は説明をした上で、快く参加してくれてます。

● 南三陸町
南三陸町の方に「近々行きますよ」と電話したときに、「こども夢花火」という鎮魂、再起、こども達の夢、の3つを意する花火を打ち上げるという情報をもらい、今回のスケジュールを組んだのですが、本当に素晴らしい花火でした。南三陸町のこども達や再起を胸にする大人達の為の花火だったため、多く外から人が来ない様に宣伝を避けていた様です。その為、とても素晴らしかった。 おそらく周りには町の人しか居なく、ただ静かに観てる印象でした。ドンっとあがると荒れ地や、積み上げられた車がフッと浮かび上がる。ただただ、感動して、立ち会えたことを感謝しました。 町はまだあまり変われてないけれど、南三陸町の皆さんの表情はきっと変わったのだと思います。なにより心がこもっていて、逆に元気をもらって帰ってきました。 今回のROLLS TOHOKUにも、こども夢花火の実行委員の方々にも参加して頂きました。

● 気仙沼
前回同様に気仙沼中学校の避難所に伺いました。
気仙沼でも避難所閉鎖に向けて、多くの人が仮設住宅に移っているようで、避難所には以前ほど人が居なかった。避難所の人達は、自分たちの現状はどうしようもない事でもあるけれど、出来るだけ早く避難所として使ってる教室を学校に返したい。また返せたときが、自分たちの次への、再起への始まりなんだというような事を話してくれた。避難所に行く前に町を一通り観た印象として、自分が観て回ってるどの町より復旧作業が遅い気がしていて、それを伺うと、以前は苛立ちを含めた話が多かったのに対して、呆れてるとも、あきらめとも違う、気持ちだけ次に向かってるようにもとれる笑顔で答えてくれた。
ただ、仮設住宅も台所の排水漏れなど、いろいろと不備を抱えているようで、2年間とはいえ移るのに慎重になっている様でした。
気仙沼に限った話なのかわかりませんが、瓦礫撤去のアルバイトの5月分の給料が私が伺ったときの時点でまだ支払われてないという話も聞きました。こういう事も復旧スピードに関係があるのでしょう。

● 水浜
町の現状は前回行った時と全くと言っていいほど変わってませんでした。旧保育所に居た方々は数百メートル離れた仮設住宅に移っていました。旧保育所には某メーカーが入れた太陽光パネルだけが不自然に残ってました。
水浜は個人的に景観をとても気に入ってまして、家並の現状を無視するとほっとするところがあるので、この土地の方々とのふれあいが楽しみでもあります。
雄勝法印神楽も活動的なようで、この秋10/9にも、神奈川県の鎌倉の鎌倉宮で昼夜2部構成で舞台があるそうです。この舞台も人の想いが繋がって開催が決まったそうです。興味のある方は是非、足を運んでください。

● 御前浜
こちらも水浜と変わらず全体に壊滅的被害を受けてました。津波は十数メートルあったそうで、集落のすぐ上を通る国道に逃げたそうです。隣の集落と合同で近くのお寺に避難したそうですが、集落同士トラブルが後を絶たなかったため、今はほぼ標高0メートルのところに建つ、泥だらけだった旧小学校をキレイに掃除してそこに避難しているのだそうです。こちらで撮ってもらった写真の中には、避難所脇の川で鮭を採った時を記録してくれたものもありました。まさにこの地方の海との付き合いが写し出されていて、思う事はたくさんあるのですがどうもうまく言葉に収まりません。いろいろな条件を含めても、どうしようもなかったのだろうし、今また避難とは言えない状況の中で集団生活をしているのを知っても、集落の存在する地理的は条件など含めて、どうしようもないのだろうとも思う。

どの町も、新しい変化を受け入れて前に進もうとしている印象を受けました。ただ、それは被災者の方々の心の整理の問題で、町はまだ片付いてすらいないのが現状です。まだまだやる事は多く有り、いろいろな意味で手が届かない事が多い状況でもあります。この拙い文章に付き合ってくれた方の中に、想いを持って動いてくれる方がいる事を切に願います。

平野愛智

5/8-5/12

震災から2ヶ月経った、5/8~5/12の5日間、宮城に行ってきました。
今回は、渡波、南三陸町志津川、気仙沼、南三陸町歌津、雄勝町水浜、女川町に足を運び、現地のみなさんに参加していただきました。
内容は前回と同じルールでやっていただきました
。 前回参加してくれた方々の多くは別の場所に移っていましたが、何人かの方が2回目の参加をしてくれています。
今回は前回に比べると大人の方が多く、そのぶんメッセージ性が強く出ていると感じています。
一枚一枚にその人が伝えたいメッセージが詰まっています。どうかそれを汲み取る目線で見ていただけることを願います。


今回足を運んだ中で、思ったこと、感じたこと、お話を伺ったことなどを幾つか書かせていただきます。

石巻、南三陸町は前回もいろいろと伺いましたが、改めて足を運んだなかで感じた変化は「道が通りやすくなった」「瓦礫がかなり減った」という程度でした。
震災から2ヶ月、前回足を運んでから1ヶ月ちょっとでかなり片付いたとも思いますが、根本的には何も変わってないです。
中でも被害が大きかった石巻南浜町は、壊滅的光景は変わっていなく、瓦礫が移動されて、海岸線沿いにまるで堤防を作るかのように積み上げられてました。
暖かくなったせいか臭いがひどく、呼吸をしているだけで口の中に塩っぱく嫌な味がするほどです。そのなか、あの日、祖父母に預けていた娘を捜す母親がいました。
変わったことなんてほんの少しで、根本的なことでは前回と何も変わってないのです。


●気仙沼中学校

私が伺った多くの避難所では教室ごとに班を作っており、ある教室の副班長さんにいろいろとお話を聞かせていただきました。
伺ったときちょうど昼時で、その時のメニューはオニギリ一つとビスケット一袋。あとは、炊き出しの煮込みが発泡スチロールのドンブリに二つあったのですが、
その場にいた班の人(確か13人くらい)で紙コップに分けるという状態でした。
震災から2ヶ月。食事の回数は2食から3食になったけど内容はあまり変わっていなくて、「肉より骨が痩せる」と、お年の方々は困ってました。
また子供たちは、通学に30分かけて歩いて行く子もいるそうですし、親御さんは栄養面にとてもストレスを感じています。
食材などはもう買えるのだから、火が使えて、鍋があって、自分たちで料理が作れる状態ならこんな思いはしないのに。と、語ってくれました。
この点は渡波小学校でも同じだとおもいます。「晩ご飯がオニギリからお弁当になったのよ。」と、すこし嬉しそうに教えてくれたお年寄りがいたので... 。

自分の家が建っていた土地が、一度片付いたと思ったら、他から瓦礫がやって来て、それが日に日に増えているという方もいました。
街全体を片付けているので、しょうがないことだとは言ってましたが、「いったいいつ自分の土地に戻れるのか…」と、漏らしていました。
少しでも片付けたいと時間があるときに自宅に行くらしいのですが、やはり泥で汚れるそうです。
支援物資で服も届くけれど、"少しでもお洒落を"と、いう気遣いのほうが多いらしく、実のところ、実用的なゴム手袋や、ゴム長などが欲しかったりもするそうです。

ペットと一緒に住めるO班の方々にも話を伺いました。
家族が津波の被害に遭う中で、助かったペットは、以前より繋がりが強くなったペット以上の関係であり、より家族なのだそうです。
気仙沼のペット部屋は話題にもなり、フードはもちろん、水飲み皿や爪研ぎまでいろいろと支援をしてもらい、とても感謝をしているそうです。
そんななか、仮設住宅の1回目の抽選で、その部屋で一人当たったみたいですが、ペットと同居が許可をもらえず諦めたそうです。
2回目の抽選で当たった方が、根気づよく交渉した結果、同居可能だけど問題が起きたら即退去と言う条件で入れることとなったそうです。
「入れる様になったことは前進だけど、すぐ出ることになるのじゃないかと心配…」とのことです。
また、車で飼ってる方もいます。「ペットと一緒に住めるような楽園があったらいいね。」と冗談含めた声もありました。

当然の事ながら皆さん各支援にとても感謝をしてました。ただ、2ヶ月間も最低限の食事をして、いつ仮設住宅に入れるかもわからない…
すこしずつ回復してきてはいるけど、平行線の生活に不安も強くなって来ていると思います。
もともと同じ様に自立して生活していたのですから、ときには「馬鹿にされてるのかと思う時もある」、
「支援に来た人に惨めな気持ちにさせられる」と言う思いが湧き上がる事もあるそうです。


●旧水浜保育所

雄勝町水浜では、町は壊滅状態ですが、行方不明者と死者を足しても一桁の被害だったようです。
高台から見る町の状態からして、にわかに信じられないような奇跡的な数字だと思いました。
避難所の会長、副会長にいろいろと話を伺いました。
近くの高台に仮設住宅を建てているそうですが、大きい余震で地面に亀裂が入り、50戸の予定を変更して30戸になったそうです。
50戸あれば近く避難してる人もみんな入れたそうです。
こちらの避難所では人的被害が少なかったことと、小さな町だから大抵顔見知りなことなどから
気仙沼で感じたような被災格差から生まれるストレスが少ないように感じました。
「避難太りしちゃうわ。」なんて冗談も聞けたくらいです。
とても温かな人たちでした。

会長さんは雄勝地区に伝わる国定重要無形民族文化財である雄勝法印神楽の神楽師であって、
それにまつわる多くの面や、衣装などが流されてしまったそうです。
東京に戻って、私が10年くらい前にグループ展でご一緒させていただいた能面を制作している木彫家の水谷靖さんに相談をしたところ
この文化復興に協力をしていただけることになりました。当然、面を制作すると言うことは時間がかかるので、すぐのこととは違いますが、
早くに文化の復興が目に出来るかも知れません。個人的にとても楽しみにしています。


●石巻駅周辺と渡波周辺

石巻駅周辺の商店街は幾つかお店も再開してました。昼時にパンを買ったら、おまけに一つ付けてくれました。
焼きたてのパンと、とても温かな気持ちもいただきました。ありがとうございました。
前回から考えると主要道路に面した商店街は瓦礫もなくなり、泥も撤去されて本来の通りの姿が見えてきていました。
前回、話を聞かせていただいたお好み焼き屋の店主が、前と同じように店の片付けをしていたので、再会を喜びつつ世間話をしてきました。
仮設の電気が入ったとのことで、以前は真っ暗だった店内も見渡せて、大分片付いていました。
5月の末には再開する予定だそうです。次に来るときには食べに来ると約束をして別れました。
一つ楽しみが出来ました。

渡波の海岸線で自転車に乗った年配の方に話を聞いてた時の話です。
茶飲み友達の安否が心配で家まで様子を見にきたそうですが、当然住めるような原形を留めておらず、また生きてるかもわからないと言ってました。
そのあと、昔は堤防がなく浜辺がずっと続いていて、よくフンドシで泳いでいた話や、今回の津波から助かった話、津波被害にあってない自宅が
それでも修繕にいくら必要だということなど話してくれました。そこに、ご近所の年配の方がやって来て、自転車の方が探していた茶飲み友達が
生きていて近くの避難所にいることを教えてくれたのです。自転車の方は、さっきまで見せることのなかった嬉々とした顔でお礼を言って、
せかせかと自転車で去って行きました。こんなことに立ち会うとは想像もしてなかったことなのでビックリしましたが、今でも限られた情報のなかで
生活をしていることや、家族や友人がどれだけ自分の心を支えているかがよくわかりました。
そのあと、近所の年配の方と話をしたのですが、
やはり渡波の海側は危険区域とされているようで、基礎しか残ってないその方の家は、もうこの土地に家を建てられないと言っていました。
話によるとリフォームで済む住宅には住んでいいらしいのですが、建て直しとなると建ててはいけないようです。
ずっとそこで育って来たのに、侵入はしていい地域なのに、もう住めないと言うのはとても残酷です。福島の話とは別です。
その後も、その土地を国か市が買い取るのかどうかということや、その他保証の話や、陥没して海になった道がドコまで続いていたかということや、
義援金の申請は済んだが入金がまだないことや、震災によって生じた家族間の問題など多くを涙とともに語ってくれました。
町も片付いてなければ、保証など多くのことが何一つクリアなってない現実を教えていただきました。


私はジャーナリストでもなんでもない立場で被災地に足を運び、これらの多くの問題を耳にして、
こういう形でしか公開が出来ませんが、この現実に耳を傾け多くの方が動いてくれることを切に願ってます。
また、どの町も同じ様に被災地ですが、その町の大きさや、拓け具合、町の地形(起伏が激しい町には被害に差が出るため。)などにより
どの町も違う問題を抱えてます。被災格差によるストレスが上がっていく町や、各種保証の対応が遅い町、仕事や住む場所など
場所によって求められることに違いがあります。多くの活動が一方的にならないことも合わせてお願い致します。

平野愛智

12/8-12/12

It has been 9 months since the earthquake.
This is a document of the 5 days between December 8 and 12.

Like last time, I went around the coastal area east of Ishinomaki, Miyagi Prefecture.

It has been 4 months since I visited in the summer. Very different from when long colorful weeds hid a lot of things. The debris were cleaned up, but the weeds dried up, making the area colorless, reminding me of the feel of despair in March.

I don't know if it is because of the despair, but I moved slowly through the locations I rushed past before. I reconfirmed and realized again the damage caused by the earthquake and tsunami.

Have I gotten used to it? Do I dismiss it as someone else's business?

The memories of what happened remain in my mind simply as "a terrible event," and I could feel the actual emotions fading away. These feelings should never be forgotten.

Things are still very difficult at the location of damage. Please understand that they still have many problems.


ISHINOMAKI

Like last time, I visited the Kadonowaki elementary school in Ishinomaki first. When I visited in March, I could go inside, so this place was very memorable for me. (Please check out the later half of my photos from March as reference.)

There was a certain type of flowers at the entrance of the school. The same flowers were there back in August, displayed as offerings. This hit me deeply.

The Shohoji Temple near by was cleaned up by volunteers in August, so it was clean, but most of the graves remained as it was. Not only Minamihamacho and Kadonowakicho, but the entire area's flood situation seemed worse than the last time I was there.

Everything was removed from Watanoha elementary school, so it felt larger. Very different from when it was an evacuation area.

It is still not open for schooling. I heard that the children take a shuttle bus from Watanoha elementary school to a different school on a daily basis.

The government is taking action, cleaning the dangerous areas for free. Since it is not certain how much longer this service will be available for free, people are asking them to clean up places that do not need to be hurried. This is slowing down the clean-up of places that truly need it.


Ogatsucho

This time, I could not meet the people in Mizuhama because of scheduling conflicts. Like Minamihamacho, this area was also colorless. The debris and daily necessities were gone. There were sandbags even in broken embankments. I imagine that the water entered before the sandbags were placed, collecting dirt. I noticed the vivid cracks.

There was a man setting up a place to culture young seashells. We had a conversation. He said that he must make this set up this year, even if he goes in debt in doing so. Otherwise, he will have no income for 1 or 2 years.

In the temporary housing, they were putting in some Tatami mats. I guessed that the cold comes in from the floor up, but I could not speak with anyone, so I am not certain.

There were new prefabricated buildings such as government offices, a fruit and vegetable shop, sushi and yakisoba noodle restaurants, tobacco store, etc. Things are changing slowly. On the wall at the Yakisoba restaurant, there was a facecloth that the Ogatsu-Hoin-Kagura used to sell when they performed at the Kamakuras. From this, I felt their energy of moving forward to revive, little by little.


Onagawacho Onmaehama

I went to a branch school in Onmaehama that I visited in August. This school was not given permission to be an evacuation area (because it was close to the ocean, and its height was not much different from the ocean), but it was used as such area by about 20 – 30 people back in August.

However, many people moved to temporary housing. Right now, 2 families, 4 people were living in the school. The problem was not that they were unable to get into the temporary housing. They chose to continue living in the school because if they moved into the temporary housing, they would have to live with their children's family, which means less privacy. I was happy to see them all doing well.

The farm that was being cultivated in August was in incredible condition. They got their vegetables from the farm, and the fish from the ocean. They basically farmed or caught everything they ate.

The coastline between Onmaehama and Ogatsu was beautiful. I have always been moving by the areas hastily, so it was great to be able to see this with no rush. When you stop and look at this view, it makes you want to sit down and stay there for a while. An incredible place.


Minami Sanrikucho

I went to Utatsu station for the first time. The station was 10 meters high, and still had marks left by the tsunami. Its surroundings were cleaned up, and there was a new shopping district being made by prefabricated buildings in front of Isatomae elementary school.

Shizugawa was cleaned up as well, but things were still the same. The flooding was harsh here as well. The small amount of sea water on the roads reflected the blue skies, creating a mysterious, ironic image.


Kesennuma

The last time I came to this area, most people I connected with were living in the evacuation areas, so I was unable to reconnect with them. The one person I was able to connect with allowed me to visit their temporary housing.

Volunteers from overseas were preparing coffee and pancakes in a restaurant house. They were from L.A., and this was their last day there. They spoke to me that many people that relocated to the temporary housing stay in their rooms, and many end up committing suicide.

In order to stop the suicides, they were putting on tea gatherings to strengthen neighborhood bonds in various temporary housings.

Even though they can barely speak the same language, it's incredible that there is a way to communicate.

More than that, there are people, who do not even speak the same language, that travel from overseas to the areas of destruction. This gave me strength and courage. On this day, it snowed a little, but I was given warmth. It made me feel there must be more that I can do.


I heard that there is a deficit of volunteers in the areas of destruction.

From the volunteers from L.A. that I met in Kesennuma, to the foreign folks living in Tokyo that provided tea and snacks at Ogatsucho Fukkouichi (revival festival), to a young man that went to Ogatsu by himself. Their individual strengths may be little, but it is certain that there is true feeling behind their actions.

I believe there are still many people that have the same feelings, but are unable to go to those areas yet. I personally believe that there are many things that can be done in the areas destroyed by the earthquake/tsunami, and lots of help by many is required. It is still going to take a lot of time. I pray that lots of feelings reach those areas, and that lots of feelings gather there.


Aichi Hirano

5/8-5/12


For 5 days between May 8 and May 12, 2 months after the disaster, I went to Miyazaki.
This time, I went to Watanoha、Shidukawa Minamisanriku-town、Kesen'numa、Utadu Minamisanriku-town、Mizuhama Ogatsu-town、and Onagawa-town.
The people at these locations have participated in this project.

I went with exactly the same rules as last time.
Most people that participated last time had relocated.
A few, however, have participated for the second time.

This time, we have more adults than before, and I think this is reflected in the strength of the messages put in the photos.
Each photo contains an important message by each photographer.
Please see these photos with that in mind.

Please let me write a few things I thought, felt, and heard through this trip.

In Ishinomaki and Minamisanriku-town, I heard various stories from the people there last time.
The only difference I noticed from last time was that the "streets are easier to travel," "a lot of debris are gone," things like that.

It has been two months since the disaster. A little more than one month from the last time I was there.
Yes, a lot of clean up has been done, but fundamentally, nothing has changed.

Especially Minamihama-town Ishinomaki, where there was the most damage; the images of destruction is the same.
Debris has been moved and piled up to create what looked like an embankment along the seaside.

The smell has worsened, maybe due to the warmer temperature.
It is so bad that you can taste a bad, salty taste in your mouth by just breathing.

Within all of this, there was a mother looking for a daughter who she had left at her grandparents' house on the day of the disaster.

Only a few things has changed.
Fundamentally, nothing has changed since the last time I was there.


●Kesen'numa Middle School
Many of the shelters I visited had people split up into groups in each class room.
The sub-leader of a certain group had spoken to me about various things.
It was lunch time when I arrived there.
The menu was one rice ball and one bag of biscuits.
There was also boiled emergency food in two medium-sized styrofoam bowls, which the group (about 13 people) would split with paper cups.

Two months since the disaster.
"Two meals a day" became "three meals a day," but the menu has not changed much.
The elderly has expressed that "not the muscle, but the BONES are gonna get thin."

Some children spend 30 minutes walking to school.
Many are feeling stress from the lack of nutrients.
They have spoken to me that since they are now able to buy food, there wouldn't be a problem if they had pans and could use gas to cook with.

I believe this part is the same at Watanoha Elementary School.
An older person told me happily that they "now get bentos (lunch boxes) instead of rice balls for dinner."

One person told me that the area where there once stood their home was cleaned up.
But only to see more debris come from a different location, and increase by the day.
They understood that the entire city is being cleaned, and they have to deal with it.
However, a whisper of "I wonder when we will go back to the way things used to be.." followed.

They go back to their homes whenever they can to clean, even a little bit.
However, mud gets them very dirty.
Donated supplies include clothing.
The donators are thoughtful and donate fashionable clothing.
However, some people would rather have rubber gloves, long rubber boots, things they can use.

I was able to speak with the folks at Group O, the group that is able to live with their pets.
After the families experienced the tsunami, their connection to their pets became much stronger.
I was told that their pets became closer parts of their families.

The pet rooms at Kesen'numa became slightly famous.
Food, water trays, nail files, etc. have been donated, and they are very thankful for those things.

At a lottery for a temporary housing, one person was able to get a room, but gave it up after being declined permission to live with their pet.
At a second lottery, after negotiation, they were given permission with a catch.
The catch was, if there is a single problem caused by the pet, they were both out.
"Getting a place to stay is a step forward, but I'm afraid we'll be kicked out very soon.."

Some people have pets in their cars.
One person jokingly stated, "I wish there was a paradise someplace where we can live with our pets."

Of course, everyone appreciated all the donated goods.
However, eating minimal for two months, and not knowing when they will be allowed into a temporary housing..
Things are getting better slowly, but I think the unchanging living conditions are making people worried.
Sometimes, they feel they are "being ridiculed." Sometimes, "the volunteers/supporters make us feel miserable."


●Kyu-Mizuhama day care center

At Mizuhama Ogatsu-town, the town is annihilated, but I heard that less than ten people were missing or dead, combined.
By the view of the town you see from an elevated place, I felt this was a miraculous number.
I spoke with the leader and sub leader of the shelter.

They are building a temporary housing at a high ground near by.
However, big aftershocks are cracking the grounds.
They have decided to build 30 housings instead of 50 because of this.
50 would have housed everyone taking refuge.

This shelter had little casualties, and because it is a small town, everyone knew each other.
From these facts, I felt the people had less stress than the people at Kesen'numa.
I even heard jokes like, "I'm gonna gain weight from all this evacuation!"
These were very warm people.

The leader of the group was a teacher of a national cultural asset dance called "Kagura".
Various things related to that dance, including costumes, were washed away.
After going back to Tokyo, I spoke to a Noh mask craftsman Mr.Mizutani Yasushi , who I worked with about 10 years ago at a group exhibition.
They agreed to help with cultural reconstruction.
Of course, creating masks takes time, so this will not be immediate.
However, we may be able to see a revival of culture soon.
I, personally, am very excited about this.


●Near Ishinomaki station, and around Watanoha
A few stores had opened again at the shopping district near Ishinomaki station.
When I bought some bread for lunch, they gave me an extra one for free.
I received freshly baked bread and some warm feelings. Thank you very much.

Compared to the last time I was there, the debris had disappeared from the shopping district near the main roads.
The dirt had been cleaned and the original state was starting to be present.

The owner of a Okonomiyaki restaurant, whom I had talked with last time, was cleaning the restaurant like before.
I decided to chitchat with him a bit.
The temporary establishment now had electricity. The restaurant, which was very dark before, was now very clean.
The restaurant is scheduled to re-open by the end of May. I promised to eat next time I come, and said goodbye.
I look forward to this.

At the seaside of Watanoha, I spoke with an older person on a bicycle.
He had gone to see if a friend was okay, but the house was not in a livable shape. He was not sure if the friend was alive or not.
After that, I was told stories about there not being an embarkment in the past, that it was all shore.
Swimming in his underwear, surviving the recent Tsunami, the large costs of damage done to even housing that was not hit by the tsunami, etc.
At this point, a neighbor came by, and told us that the friend the man on the bicycle was looking for is alive, and staying at a shelter near by.
The man on the bicycle smiled bigger than ever, thanked the neighbor, and rode off quickly.
I had not imagined I would witness such thing, so I was very surprised.
People are living under limited information.
I realized how much families and friends support and help one another.

Afterward, I spoke with the neighbor.
The seaside of Watanoha is said to be dangerous. This neighbor's house is left with just the foundation.
The neighbor will not be building another house in this area.
I was told that they are allowed to reform their housing and live there, but are not allowed to rebuild an entire house.
Being raised and growing up in this area, and not being able to live there anymore is very cruel.
This is apart from Fukushima.
I was then told many stories.
About whether or not the government or state will buy the land.
About other guarantees.
About where the roads that are now covered by the ocean used to be.
About being finished with application for donations, but not receiving money yet.
About family problems that exist because of the disaster.
These stories were told to me with tears.
The town is not cleaned, and no guarantees are clear yet. This is the reality that I was told.

I am not a journalist.
Though I was told of these various problems, I am only able to share them in this way.
I sincerely hope that many people will listen to this reality, and take action.
Also, every city is a victim, but depending on its size, development, shape (lands with many hills and valleys mean difference in damage), every city has different problems.

Some towns are filled with stress.
Some towns receive guarantees very late.
Depending on the work the people do there, and where they live, the demands differ.
I kindly ask that the way you help does not end up being one-sided.
Thank you.

Aichi Hirano

3/31-4/3

これは3/31〜4/3の被災者の目線の被災地の記録です。
私は、被災地、宮城県石巻市周辺の避難所の方々に写ルンですを配りました。「みなさんの目で見るもの、見えるもの、撮りたいもの、記憶したいもの、記録したいもの、隣にいる人、大切な人、伝えたいことを自由に撮ってください。そして、少しでもいいので楽しんでください。」A4の用紙にその他注意点を幾つか添えてお渡ししました。
私が足を運んだ場所、石巻市の南浜町、渡波、南三陸町周辺では、見渡す限り瓦礫やグシャッと潰れた車の山で、本当に信じられない状態でした。また被災者の方からは考えられない話、奇跡的な津波からの回避、多くの方から話を聞かせて頂きました。
私が思うに、避難所に居る人たちは皆、奇跡的に助かったのだろうと思います。 場所によってはライフラインが今だ回復せず、復旧のめども立たないところもありました。車を失い、あってもガソリンが手に入らない。また、水産業が盛んな町で漁師さんたちは船も失い、漁港も市場も壊滅。養殖も壊滅。港の復興に1〜2年かかると言ってました。また追い打ちのように福島原発における汚水の問題ものしかかるでしょう。私が体感した限り、メディアは正確に伝えられてないし、眼に見えるものや、生活においてもスケールが違い過ぎておそらく伝えきれないだろうし、私においても自分が感じたものを撮りきれた気がしませんでした。当然のことなんでしょう。それだけの惨事なのです。被災者の方々は3/11を境にすべてを失い、極限の状態で避難所に身を寄せ、その中で結束し、譲り合い、支え合いながら生活をしています。離れた東京で暮らす私たちよりよっぽどお互いを想い、支え合ってます。その中で「この現実をもっとちゃんと伝えて欲しい。」と言う声を頂いたり、その想いでこの企画自体に参加してくれた方も多数いました。ここでの多くの写真はきっとどのメディアより、正確に被災地の想いや、現実を伝える物だと信じてます。

現地は復旧・復興に向けて動いてる中、この未曾有の大震災を各メディアが取り上げてますが、世の中に次々と発生する事件などで恐らく時間とともに情報が風化してしまうでしょう。 復興までには、私たちが思うよりずっと永い時間がかかるはずです。ここでの写真をみて現地に対して何かしたいと思う方がいましたら、是非行動してください。自分の信じられる方法、信じられる機構を利用して、どうか被災地により多く、より永く支援を届けてください。少しでも長くの間、少しでも多くの人に現状のそのままの記録を伝え続けることが出来るものになれればと考えてます。

また、大量の写ルンですを提供してくれた「ROLLS of one week vol.1」の参加メンバーに感謝します。
※参加してくれた方々から、ネットや展示等での公開の許可を頂いてます。

平野愛智

※「ROLLS of one week」
今では写真はデジタル主流になり、間違いや失敗を簡単に消去できてしまいますが、あえてアナログであり、大きく技術に差のでない「写ルンです」を使って、時系列上の連続であるフィルムと言う一本の記録を、複数の参加者が一定期間の間に撮った写真を使い、一同に展示するという企画。

These photos were taken from the perspective of the victims of the earthquake, between March 31 and April 3. I distributed disposable cameras to the people at an evacuation center in Ishinomaki, Miyagi Prefecture.

"Please take photos of things you see with your eyes, things you want to record, remember, people near you, your loved ones, things you want to convey.. please do so freely. And please enjoy the process if you can, even if it's just a little bit."

I wrote the above and a few other directions on a piece of A4 size paper, and handed it to the people.

I went to the following places in Ishinomaki: Minamihama-town,Watanoha,and Minamisanriku-town.
What I saw were debris and mountains of smashed up cars. It was an unbelievable sight.

I heard unimaginable stories from the victims.
Stories of unbelievable evasions from the Tsunami.
I believe that everyone living in the evacuation areas are miraculous survivors.

Some places still don't have the necessary lifelines, and don't even know when they will have them.
Many lost cars, and even if they still have one, gas is not available.

There are many fishermen in these towns. They lost their ships, and the fishing ports and fish markets are destroyed. So are the fish farming areas.
It was said that it will take 1 to 2 years for recovery.
The polluted waters from the nuclear activities in Fukushima only adds to the problem.
From what I experienced, the media is not telling the stories accurately.
The dynamic varies too much between different individuals. Too much to cover the entire story. I, too, felt I could not photograph everything I needed to. This is expected. That is how tragic this incident is.

The victims lost everything on March 11.
They have gathered at the evacuation areas under extreme conditions, where they create unity, and live by helping each other out.
They think of each other and support one another more than we do in the far away city of Tokyo.

I was told by some people that the truth needs to be told more accurately to the world. Many people participated in this project with such feelings.

The photos you will find here will probably explain how the victims truly feel, and tell the reality more accurately than any other media.
The media focuses on this unprecedented disaster while the area works toward recovery. However, over time, and with various future events, stories about this disasters will fade on the media.

To reconstruct, it should take much longer than we think.
If seeing these photos make you want to do something to help the victims of the earthquake, please take action.
Using an approach/system that you can trust, please continue to support the victims as much as you can, for a long period of time.

I hope this record will continue to show the reality of the situation for as long as possible, and to as many people as possible.

I would like to thank all the participants of "ROLLS of one week vol.1" for providing many disposable cameras.
*These photos are used for the internet, exhibitions, etc. with permission from the participants.

Aichi Hirano

* "ROLLS of one week"
Digital photos have become the standard today. Mistakes can be fixed easily.
We purposely used analog "disposable cameras," (in which photography skills are not so obvious), and used a singular chronological medium we call "film." Multiple participants took photos during a specified time period, and this project exhibits a collection of those photos simultaneously.
3.11大震災関連サイト「絆」手を携え、前に!