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富士山インタビュー

富士山の恵みを受けた食材に出会って“自分の料理”が確立できた気がします

御殿場の高台に建つリストランテ桜鏡は、
ゆったりとした店内のどの席からも富士山が目の前に望める絶好のロケーション。
しかし2019年から総料理長を務める黒羽徹さんは
当初、「富士山でお客さんを呼びたくないと思っていた」と話します。
料理人としての矜持と富士山への深い想いが、そこにはあると感じました。
「地元の食材が素晴らしいから、何も勉強しなくなっちゃうんですよ」と見せる苦笑いにも、
もしかしたら黒羽さんなりの美学が隠されているのかもしれません。
写真:飯田昂寛/取材&文:木村由理江

ヨーロッパで現地の人と話すきっかけのほとんどは富士山でした

―関西のお生まれだそうですが、富士山を最初に見たのはいつ頃ですか。

 初めて新幹線に乗った子どもの頃です。高校時代に一度、友達に誘われて登ったこともありますよ。途中で高山病みたいになったりもしましたけど、近くにいた方に助けられてなんとか頂上まで登りました。一度登頂したら十分だろうと思っていますけど、今、厨房にいるのは登ったことがない人ばかりなので、「機会があったらみんなで」と話したりしています。富士山にはヨーロッパにいた頃もお世話になりました。向こうの人との会話のきっかけはまず富士山から、ということが多かったですから。富士山以外ではヤマハと中田英寿さん。中田さんとはイタリアに行ったのがほぼ同時期で、ご縁があって向こうで働いていたお店で中田さんに料理を作る機会があり、日本に帰ってきてからも何度かお店に来ていただいています。

―料理人を志したきっかけはなんだったのでしょう?

 船乗りの父親と二人暮らしの頃もあったので、父が仕事の時によく自分で料理をしていたんですよ。小学校の頃は「夜は何を食べよう」、「商店街で何を買って帰ろうか」と授業中に考えてました。楽しかったですよ(笑)。高校生になって飲食店でアルバイトを始めてからはみんなに「すごいな」と言ってもらえるのが嬉しくて、いつしか「(料理人が)向いているのかな」と。当時は“洋食”=“フランス料理”の時代でしたから、高校卒業後に東京のフランス料理店で働き始めました。

―いつからイタリア料理を?

 26歳の時に世田谷に小さなお店を開いたんですが、なかなかお客さんが集まらない。それでランチでもう少し分かりやすい料理をと思ってパスタを出したらこれが大当たりしたんですね。ただ続けていくうちに「何か違うな」と。海外修行をしていないと“シェフ”と認めてもらえないような時代で、僕はどこかで引け目を感じてもいましたから、「パスタをやるなら本場でしっかり勉強しなきゃだめだな」とお店を閉めてイタリアに行くことに決めました。「まだ若いんだから」とお客さんも背中を押してくれました。ただ、イタリア料理にこだわっていたわけではないんですよ。「陸続きのヨーロッパなら国が違っても料理に大きな違いはないはず、ヨーロッパの料理全般を知りたい」という好奇心が強かったので、イタリアのいろんな地域のお店で働きましたし、ドイツやモロッコにも行きました。

―そして最終的にスペインのエル・ブリで働かれたんですね。

 そうです。その頃、エル・ブリがよく新聞で取り上げられていたんですよ。毎日世界中から1000枚もの「働かせてくれ」というFAXが届くと言われていましたから、無理を承知で向こうの人へのプレゼント用にたくさん持参していた筆でお願いの手紙とFAXを毎週のように送っていたら、筆文字が目に止まったのかエル・ブリから電話が来たんです。当時働いていたシチリアの店のスタッフと抱き合って喜びました。
エル・ブリでは夢のような毎日でした。滞在していたホテルから店まで毎日片道12キロの山道を自転車で通うのは大変でしたけど、世界一の店で働けているという想いのほうがはるかにまさっていました。そんな中、リストランテアクアパッツァのオーナーの日高良実シェフからいただいたのが「三島にオープンする店の総料理長をやらないか」というオファーでした。エル・ブリでさらに経験を積みたい気持ちと、帰国して日本で勝負したい気持ちの間でしばらく悩んだ末に、帰国を決意しました。ただ最初に“三島”と聞いた時には、どこにあるかまったくピンときませんでしたね(苦笑)。帰国したら都会ではなく自然豊かなところで料理を作りたいと思っていましたから、静岡で、しかも富士山が見える場所というのは僕にとって理想的な環境でした。

食材が多彩で豊かなのは日本一高い富士山と日本一深い駿河湾があるから

―都会ではなく自然豊かなところでお店を、と思ったのはなぜですか。

 僕が最終的にヨーロッパで学んだのは“自然と環境”の大切さです。実際、向こうのいいレストランは大体郊外にありますからね。窓のない部屋で食べるおにぎりよりも、青空の下で食べるおにぎりのほうが格段においしいように、食にとって環境はとても重要です。都会のお店と違って電話一本でどんな食材もすぐに届く便利さはありませんが、作り手が見える新鮮な地の食材が使えるというのは、旬を意識しなくても手に入るものがどれも旬だということ。間違いなくおいしいし理にかなっています。身近に手に入るもので料理を作るというのは、一番自然で贅沢なことなんですよ。
ただヨーロッパで最後に勤めていたエル・ブリは、科学的な手法を使った独創的な料理で知られていたお店でしたから、僕も三島のお店では当初、エル・ブリで学んだ料理法を駆使してちょっと変わった料理を作っていました。しかもコースで 20 皿以上(笑)。そういう最先端の料理を期待されてもいましたし、それを提供しているという自負もどこかにあったと思います。今思うと、お客さんの帰り際の言葉は「おいしかった」ではなく「楽しかった」でしたね。
でも生産者の方の食材に対する一生懸命な想いを知るうちに、食材の姿や味や香りを変えてしまう料理に疑問を持ち始め、そこからできる限りシンプルに調理することを目指すようになりました。サプライズではなく、素材を育んだ風景や生産者の想いを大切においしいものを作るという原点に還ったというか。摘みたてのハーブの香りを大事にしたくて、畑も始めました。富士山の恵みを受けたいろんな食材や自然と触れ合ううちに、“自分がここでやらなければいけない料理”というものを次第に確立できたと言えるでしょうね。そのままで十分おいしい食材が揃いすぎるので、我々料理人は勉強しなくなっちゃうんですけど(苦笑)。

―静岡で総料理長をされて20年以上、この地域ならではの食材の豊かさを感じてもいらっしゃるようですね。

 静岡県全域に言えることですけど、三島も御殿場も食材はとても多彩で豊かです。それは日本一高い富士山と日本一深い駿河湾があるから。たとえば富士山から流れ込む湧水にミネラルが多いから駿河湾ではおいしい桜エビやシラスがよく獲れるし、富士山が気候に影響を与えて昼間と夜間の寒暖差が激しくなるから、野菜も甘くなり栄養豊かになる。ワサビだってきれいで豊かな湧水があればこそ、ですからね。以前はよく富士山にキノコを採りに行ってましたが、種類も驚くほど豊富でしたよ。

雪のない富士山は“普通の山”に見えて、逆に親近感が湧きます

―三島のお店は駿河湾に向いていたそうですが、2019年からリニューアルに関わり、2020年から総料理長をされている現在のお店は目の前に富士山が見える最高のロケーションです。

 確かにそうですが、富士山を売りにお客さんを呼ぶことには抵抗がありました。だったら僕が料理を作らなくてもいいわけですから(笑)。それで任された当初は、富士山以外でお客さんに来ていただくにはどうしたらいいのかをずーっと考えていました。お客さんのほとんどが親会社の扱う外国車オーナーの男性でしたから、もっと女性が来たくなるような華やかな雰囲気にしたくて、庭にたくさん薔薇を植えたり、店名も海外で通用する薔薇の名にさせてもらったり、親会社にはいろいろわがままを聞いてもらいました。料理がおいしいことはもちろんですが、どこかホッとできて、また来たい、今度は自分の大事な人を連れて来たいと感じてもらえるような店になっていけたらいいなと思っています。

―黒羽さんご自身は富士山から日々、どんな影響を受けていますか。

 見るたびにリラックスできるし、エネルギーをもらっています。富士山を眺めながら料理のことやお店のことを考えたりもしますし、いろんなアイディアのヒントもくれる。一緒に働く若いスタッフにとっても、富士山は気持ちの入れ替えや心の支えにもなっていると思います。

―というと?

 この仕事が素晴らしいのは人を笑顔にできることで、みんなもそれを理想にここに来るわけですが、体力的にも精神的にも大変な仕事ですから、心が折れてしまうスタッフもいます。そんな彼らに僕は「お店には出なくていいから畑をやれ」と言うことがあります。最初は籠りきりで畑にはほとんど出てきませんが、野菜の成長とともに畑に顔を出して世話をするようになり、最終的に野菜が実った頃には、ちゃんと仕事に戻れるようになっている。土に触れ、作物を育てることはもちろん、それを富士山のそばでやれていることで心が癒されていくんだと思います。僕がレストランに必ず畑を作るのは野菜を作るためというよりも人を作るためなんですよ。料理に使う野菜を自分で作るなんて、料理人にとって一番贅沢なことでもあると思います。

―御殿場に来られたばかりの頃は、よく富士山の写真を撮られていたとか。

 富士山を毎日、間近でじっくり眺められるようになったのは御殿場にきてから。毎日同じようで見え方がいつも違うし、とくに雲や夕日とのコントラストがきれいで毎日のように撮っていました。最近はちょっと怠けていますけどね(笑)。

―もっとも一番印象深い富士山を教えてください。

 静岡にくるまであまり見ることのなかった雪のない富士山です。今も雪のない富士山を見ると、「普通の山なんだな」と親近感すら湧いてきます 。雪をかぶった富士山の、手を合わせたくなるような神々しさももちろんいいんですけどね。

黒羽徹
くろはとおる

くろはとおる 1968 年 神戸生まれ 高校卒業後、都内のフランス料理店に就職。26歳で一旦独立するが1年半後、お店を閉めてイタリアへ。ボローニャのレストランを皮切りに各地で修行。スペインのエル・ブリを最後に2001年に帰国し、2002年から三島クレマチスの丘 ヴィラ ディ マンジャペッシェ、2009年はお店を引き継ぎ改名したリストランテプリマヴェーラの総料理長を歴任。2020年、約1年のリニューアル期間を経て店名も新たにオープンしたリストランテ桜鏡の総料理長に。2022年“ふじのくに食の都づくり仕事人・The 仕事人 of the year”に選出。趣味は食材探しも兼ねたツーリングと絵を描くこと。

リストランテ桜鏡 HP:
https://sakurakagami.com

インタビューアーカイブ
山田淳富士登山のスペシャリスト
田中みずき女性絵師
青嶋寿和マウントフジ トレイルステーション実行委員長
森原明廣山梨県立博物館学芸課長
渡邊通人富士山自然保護センター自然共生研究室室長
田近義博富士山ツーリズム御殿場実行委員会事務局長
中島紫穂富士山レンジャー
植田めぐみフリーカメラマン
外川真介上の坊project代表・天下茶屋三代目
山本裕輔印伝職人・印伝の山本三代目
金澤中シンガー・ソングライター
池ヶ谷知宏goodbymarket代表・デザイナー
田代博一般財団法人日本地図センター常務理事・地図研究所長
宮下敦成蹊気象観測所所長
加々美久美子御師旧外川家住宅館内ガイド&カフェ「北口夢屋」オーナー
土器屋由紀子認定NPO法人富士山測候所を活用する会理事・江戸川大学名誉教授 農学博士
福田六花医学博士・ミュージシャン・ランナー
舟津宏昭富士山アウトドアミュージアム代表
小松豊特定非営利活動法人 土に還る木 森づくりの会代表理事
菅原久夫富士山自然誌研究会会長・富士山の自然と花を観る会主宰
新谷雅徳一般社団法人エコロジック代表理事
堀内眞富士山世界遺産センター学芸員
杉山泰裕静岡県文化・観光部理事(富士山担当)
前田宜包富士山八合目富士吉田救護所ボランティア医師・市立甲府病院医師
高林恵梨子静岡県人事委員会事務局職員課任用班
今野登志夫陶芸家
遠藤まゆみNPO法人三保の松原・羽衣村事務局長、羽衣ホテル4代目女将
佐野彰秀バンブーアート作家
オマタタツロウ音楽家・画家
高橋百合子富士吉田市教育委員会 歴史文化課 課長補佐
内藤恒雄手漉和紙職人・駿河半紙技術研究会会長
太田安彦一般社団法人 ヨシダトレイルクラブ代表理事・富士吉田市公認富士登山ガイド
影山秀雄機織り職人 手機織処 影山工房主宰
江森甲二裾野市もののふの里銘酒会会長
中尾彩美富士山ビュー特急アテンダント
渡辺義基渡辺ハム工房
古屋英将株式会社ミロク代表取締役社長
井出宇俊井出醸造店・井出酒類販売株式会社営業部
望月基秀製茶問屋 株式会社静岡茶園 常務取締役
関根暢夫・ふじゑさん夫妻ふじさんミュージアム 手話ガイド
御園生一彦米久株式会社代表取締役社長
rumbe dobby手織り作家
小山真人静岡大学 教授 理学博士
勝俣克教富士屋ホテル 河口湖アネックス 富士ビューホテル支配人
漆畑信昭柿田川みどりのトラスト、柿田川自然保護の会各会長
日野原健司太田記念美術館 主席学芸員
渡井一信富士宮市郷土資料館館長
大高康正静岡県富士山世界遺産センター学芸課准教授
渡辺貴彦仮名書家
望月将悟静岡市消防局山岳救助隊員・トレイルランナー
成瀬亮富士山写真家
田部井進也一般社団法人田部井淳子基金代表理事、
クライミングジム&ヨガスタジオ「PLAY」経営
齋藤繁群馬大学大学院医学系研究科教授、医師、日本山岳会理事
吉本充宏山梨県富士山科学研究所 火山防災研究部 主任研究員
柿下木冠書家・公益財団法人独立書人団常務理事
菅田潤子富士山文化舎理事『富士山事記』企画編集担当
安藤智恵子国際地域開発コーディネーター
田中章義歌人
千葉達雄ウルトラトレイル・マウントフジ実行委員会事務局長、
NPO法人富士トレイルランナーズ倶楽部事務局長
松島仁静岡県富士山世界遺産センター 学芸課 教授(美術史)
大鴈丸一志・奈津子夫妻御師のいえ 大鴈丸 fugaku×hitsukiオーナー
有坂蓉子美術家・富士塚研究家
小川壮太プロトレイルランナー、甲州アルプスオートルートチャレンジ実行委員会実行委員長
飯田龍治アマチュアカメラマン
篠原武ふじさんミュージアム学芸員
吉田直嗣陶芸家
春山慶彦株式会社ヤマップ代表
中野光将清瀬市郷土博物館学芸員
久保田賢次山岳科学研究者
鈴木千紘・佐藤優之介看護師・2014年参加, 大学生・2015と2016年参加
松岡秀夫・美喜子さん夫妻「田んぼのなかのドミノハウス」住人
三浦亜希富士河口湖観光総合案内所勤務
石澤弘範富士山ガイド・海抜一万尺 東洋館スタッフ
大庭康嗣富士山裾野自転車倶楽部部長
杉本悠樹富士河口湖町教育委員会生涯学習課文化財係 主査・学芸員
松井由美子英語通訳案内士・国内旅程管理主任者
涌嶋優スカイランナー、富士空界-Fuji SKY-部長、日本スカイランニング協会 ユース委員会 委員長・静岡県マネージャー
岩崎仁合同会社ルーツ&フルーツ「富士山ネイチャーツアーズ」代表
門脇茉海公益財団法人日本交通公社研究員
渡邉明博低山フォトグラファー・山岳写真ASA会長
藤村翔富士市市民部文化振興課 富士市埋蔵文化財調査室 学芸員
勝俣竜哉御殿場市教育委員会社会教育課文化スタッフ統括
前田友和山梨自由研究家
杉山浩平東京大学大学院総合文化研究科 特任研究員 博士(歴史学)
天野和明山岳ガイド、富士山吉田口ガイド、甲州市観光大使、石井スポーツ登山学校校長
井上卓哉富士市市民部文化振興課文化財担当主幹
齋藤天道富士箱根伊豆国立公園管理事務所 富士五湖管理官事務所 国立公園管理官
齋藤暖生東京大学附属演習林 富士癒しの森研究所所長
池川利雄ノースフットトレックガイズ代表、富士山登山ガイド
松本圭二・高村利太朗山中湖おもてなしの会副会長, 山中湖おもてなしの会会員
関口陽子富士山フォトグラファー
猪熊隆之山岳気象予報士・中央大学山岳部監督
髙杉直嗣2021年御殿場口登山道維持工事現場代理人
羽田徳永富士山吉田口登山道馬返し大文司屋六代目
内藤武正富士宮市役所企画部富士山世界遺産課主幹兼企画係長
河野清夏フジヤマミュージアム学芸員
中村修七合目日の出館7代目・富士山吉田口旅館組合長・写真家
野沢藤司河口湖ステラシアター、河口湖円形ホール館長
三浦早苗ダイビング&トレッキングぴっころ代表
田部井政伸一般社団法人田部井淳子基金代表理事
橋都彰夫半蔵坊館長・わらじ館館長
上小澤翔吾富士登山競走実行委員会事務局
杉村知穂富士宮市教育委員会教育部文化課
河野格登山ガイド
鈴木啓悟富士山写真家
松山美恵山梨県富士山科学研究所自然環境科助手
黒羽徹リストランテ桜鏡総料理長

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