【サイボーグ・ライフ】普通なんて退屈だ! 新しい物の見方とは

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    【サイボーグ・ライフ】普通なんて退屈だ! 新しい物の見方とは

    人と技術の密接な関係を探る「サイボーグ・ライフ

    特集の最後はアスリートでありモデルでもある義足の女性Aimee Mullinsさんが特別ゲストライターとして登場です。Aimeeさんのことはこちらのエントリーでも少しとりあげていますよ。

    Aimeeさんが出会った足の不自由な女の子との体験を通して、自分自身との違いを綴っています。Aimeeさんにとって、普通とは? 新しい見方とは?

    去年、私は神経線維腫症を煩う5歳の女の子に会いました。

    彼女は、この病気が原因で足の骨がとても脆くできていました。なんと彼女が産まれて初めの1年ほど、彼女の両親も医者も彼女がこの病気を煩っているということに気づかず、その結果、脆くできた骨が原因となって膝から下の部分に多くの骨折を起こすことになってしまったそうです。さらにまた、赤ちゃんの時期での骨折が原因となり彼女の足は片方が7cm短くなることに。そんな彼女ですが、若さと活発さとでこのアンバランスな足とうまいこと生活していく術を身につけていきます。

    彼女を見ていると自分の5歳の頃を見ているような気持ちになります。

    私は大学に入るまで、自分のこの外見に対して着飾るなんて楽しみを持たなかったけど、彼女はお休みの日に着る新しいドレスを楽しみにしたり、学校の制服を初めて着るのにドキドキしたりと、ファッションというものに早くも魅了されているようです。

    ただ悩みの種なのは靴。彼女の足のための特別仕様合体できる靴をつくっているメーカーはごくわずか。彼女がいつも身につけている、足を支える外付けの器具とうまく合わさる靴しか、彼女にはチョイスがありませんでした。


    ぜひ、続きをどうぞ!

    彼女の両親はとても素晴らしい人達でした。

    まずこの状況に対して、彼女に足が不自由というレッテルを張ったり、いろいろなことへの制限をつけたりを一切しませんでした。医学的冒険の旅ともいうような数々の物事を決定する際には、彼女自身にも必ず意見をきき、一緒に決定していきました。そして新しくでてくる技術にもいつも目をむけていました。

    ...残念ながら彼女の場合、最初に取り組んだ技術(棒やピンを内部にいれ、骨と融合させて足を伸ばすという幾度にもわたる手術)は両親や彼女が願ったほど早くは発展しませんでした。なので、初めの何度かの手術の後、彼女の両親と医師団はこの棒やピンを使ったやり方は彼女が5歳になるまで続け、その時点で、この技術がどこまで発展しているかを確認し、あまり進んでいないようであればその時は別のやり方を考えるということを決めました。

    そして彼女が5歳になった時、驚くことかもしれませんが義肢学の技術がとても発達して、足を切断するということは彼女と家族にとって1つの魅力的な方法になってきたのです。

    技術の進歩はもちろんのこと、切断とその後の義足を着けるということは、思い通りに動かない足から自由になれる、そう映ったんでしょうね。彼女の6歳の誕生日のあと、彼女の母親から私宛に連絡をもらいました。母親曰く

    「娘はあなた(Aimeeさん)の画像をインターネットからたくさんダウンロードしているんですよ。そしていつもきいてくるんです、いつになったらこの悪い足にさよならするの? いつ新しい足になるの? って。学校の授業でも新しい足、義足のことを取り上げて発表したくらいですから。」


    6歳の女の子からこんなリアクションが返ってくるとは予想外でしたよ。

    それからまた何ヶ月かして、彼女の母親から家族と医師団は足切断という決断に踏み切ったとの連絡がありました。そしてそのことを今夜彼女に告げるのだと

    それをきいた私のリアクションは自分でも驚くものでした。直感的に不安になったんです。息切れがして、胸がどきどきして、心配で心配でストレスを感じるような、そんな気持ちになったんです。この彼女のこの一連の大イベントで一体私はどの役を演じたらいいんだろう、切断ということで彼女が自分と同じような体験ができるなんて全く保証なんてできないのに、と私はパニックに陥りました。今まで自分自身では感じたことのない、「切断」というものに対する、なんともいえない不安がこみ上げてきたんです。彼女は大丈夫だろうか? これで彼女の未来は切り開かれ幸せになるだろうか? そんな心配が私を襲ったんです。

    手術前にもう一度彼女の母親と話をしました。

    そこで母親から、患者自身の足をできる限り残すという考え方に基づき、手術は足首から切断するということをききました。ただ、私はどうしてもそれに納得がいかず、差し出がましいと思いながらも「syme切断」は考えてみたかどうかきいてみました。義足を選ぶ際に、最新のものが選べない等切断の仕方によっては制限がついてしまうというレポートをきいた事があったからです。

    そのレポートによれば、皮肉なことに自分自身の体をより多く残そうとすることが、義肢の選択を狭めることになるらしいのです。義肢自体にコンポネント(衝撃を和らげる、足のバネになる等)を仕込むスペースがなくなってしまうのが原因です。驚くべきは、彼女にとって非常に重要なこの手術に対して、担当外科医と義肢装具士の間で話し合いがもたれていなかったということ。

    彼女の母親は義肢装具士を相談した結果、予定している切断方法では彼女がダウンロードしていた憧れの義足はどれも装着が不可能であるということがわかりました。担当外科医はこれをきいてとてもショックをうけたようです。切断してしまう部分をほんの数インチ増やすことで、この子供にとってより多くのオプションを残し、より開けた未来を与えることができるなんて今まで考えたことはなかったそうです。

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    今年の4月、トライベッカフィルムフェスティバル主催のストリートフェアを歩いていたら、誰かが私のTシャツをひっぱりました。切断の手術から約6ヶ月。顔と髪にストリートフェアでペイントをしてもらって、手にはおもちゃのバットをもってぴょんぴょん跳ね回っている彼女がいました。映画ハイスクール・ミュージカル3のお絵描きタトゥーをいれた義足を私に見せてくれました。「ザック・エフロン知ってる? 足にサインもらってくれる?」なんて言ってました。(サインもらえる用にただ今奮闘中です。)

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    彼女はバッティングエリアに私を引っ張って行って、義足を巧みにつかってペダルを踏んででてきたボールを思いっきり打ち返していました。

    彼女の足下は赤いスパンコールが施されたMary Janes風のシューズ(写真)。7ヶ月前、脆い足を抱え、痛みの中にいた彼女が今は走って跳んでくるくるまわって、弟と追いかけっこしています。人間の能力というものに限界を感じる事がめったにない私ですらこれには驚きでしたよ。

    彼女のこれからはどうなるんでしょうか。子供時代、青春時代、大学時代、彼女は自分自身をどのように見て行くのでしょう。私がそうであったように「普通」になりたいと自分自身の存在に対して悩むことが有るのでしょうか? そして自分というものを1番自由に表現するのはその「普通」ではないところにあるということを見つける日がくるのでしょうか?

    思春期を除いて、私が思うに彼女が「普通」になりたいと望むことはないような気がします。大好きなザック・エフロンと映画のスター達が描かれた足首、普通なんて望むでしょうか?

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    今日の子供はアイデンティティという点ではっきりした利点を持って育っていると思います。これはビデオゲームやインターネットの影響に感謝することろですね。自分のアバターを作り、分身のような存在を作るというのが当たり前となり、子供たちはそのアバター達を通して自分自身を変化させたり、自分の体に合うものを仮想世界で選んだりする、そういう体験を目の当たりにしています。

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    このような考え方はきっとテクノロジーとsci-fiに大きく影響を受けていると思います。自分自身の特異なところに愛情をもつことで自分のアイデンティティを変えていく、自分が自分をどのようにとらえるか、そしてそれに対して他人がどう答えるか。自分の特異性を愛して見方を変える、アイデンティティを変えることで私の世界の見え方は変わり、自分に対する可能性も大きく変わりました。だた、私は6歳の時点ではそうは考えられなかったのですけどね。

    私たちは自分をありのままにとらえるということ、とらえ始めることができるまでに一体どれくらいの時間を要するのでしょう。自分自身というものを褒めて、強さとも弱さと共に、楽しく生きて行く。そして自己を作り上げ、実際に自分の強さ弱さとは何かを見極めていく。今日の子供はこのプロセスを一昔前の世代の人間よりもより速く行っているんだと思います

    昔の木でできた私の足と今の義足、子供がどういうふうにリアクションするかその違いに私は気づいてきました。簡単なことです、怖いというリアクションをとる子供を見なくなったんです。私に会うのが怖いことだと思う子供がいないんです、それどころかこのロボコップのような足で走る私を見て子供達は惹き付けられ、なかなか鋭い質問をたくさんもって私のところにやってきます。

    だいたいの場合は大人のほうが気をつかって、私の足をじろじろみないようにと子供に言い、子供たちのごく自然な興味を奪おうとしてしまいます。

    興味を持つのは当然なんです。想像力と革新の根本は興味です。人間のいろいろな種類の経験、そしてそれに関わる彼らの生活を見るのは、子供にとって何よりも重要な体験になります。そしてその体験を通して、人間として私たち(私やこの6歳の彼女)は違う面よりも多くの同じ面を持っているということを理解していきます。自身の特異な部分を見つけ引き込んでいき、それを社会に還元することが私や彼女の違う面になるとしても、それでも同じ面のほうが多いのです。

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    私は子供の時、スタートレックのThe Next Generation(新スタートレック)が大好きでいつも見ていました。

    Professor Xavier(Xメン)をみんなが見てる時、彼が実はCaptain Jean-Luc Picard(スタートレックのキャプテン)なんじゃないかっていつも思っていました。自分の体が分子レベルで変化して世界を旅するなんてことも夢みました。

    今では、さきほどの彼女の友達が「義肢」という言葉をGoogleで検索して、でてくる多くの画像から想像力へ刺激をうける、これが現在変化してきた私たちの社会です。

    私たちは日々夢にみることで、それを実現していくことがあります。

    ジーン・ロッデンベリーの「スター・トレック」アーサー・C・クラーク、マービン・ミンスキー、スタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」特に、2001年宇宙の旅はNASAのいくつかのプロジェクトに大きな影響を与えました。多くの科学者や研究者達が2001年宇宙の旅を見た事で大きな想像力をもち、実際に現実に作り出したのです。私の子供のころもっとも影響を受けたのはBionic WomanとSix Million Dollar Manです。あとガジェット警部(Inspector Gadget)このアニメにはとても影響をうけ、小学校3年生のときにかかとにロケットがついてる絵を描いたものです。

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    こういったエンターテイメントはただ質問を投げるのではなく同時に励ましにもなるんです。「いつ? いつになったら人間は分子レベルで変化できるようになるの? スター・トレックでもう何年も見てきてるのに」この夢が私たちの想像力の中に組み込まれていますから。

    高校生の時にフォレスト・ガンプを見ました。そこでは両足きちんとそろっている役者のゲイリー・シニーズが劇中で足を失ったダン・テイラーを演じていました。そして思ったんです、CGIでこんなことができるなら、逆もできるかな? 私の両足がそろったイメージを作ることができるんじゃないかって。この自分とは違う自分の姿(足のある自分のイメージ)に私は魅了されました。ただ、今は自分の義足を肉と骨の足に交換したいとはもう思いませんけどね。

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    こんな風に、映画の中の変化させる力は自分自身と自分のいる現実、それを自分の好きなように空想しなおすことに役立ちました。

    現代の子供たちが、小さな時からゲームやネットでヴァーチャルの自分を作り出すこと、彼ら自身のアイデンティティを作り出すこと、この自己に体する順応性の力ってすごいことだと思います。社会からこうであるべきだと強制をうけることなく、なりたい自分を見出し、理想の自分として世界中の人達を交流できる。一昔前には考えられなかったことだと思います。

    いろいろ悩んだ中学時代の後、私は「普通」というモノの見方で自分を見ることをやめました。自分なりの物差しで何がかっこよくて、誰がかっこいいかをはかることにしたんです。そうすることで、自分の周りの人の自分に対する扱いも変わってきました。

    「Cogito、 ergo sum(我思うゆえに我あり:I think, therefore I am)」


    最も単純な考え方の1つだと思います。できると思えばできる。そう私は思います。ヘンリー・フォードの言葉を借りるなら

    「whether you think you 'can' or you think you 'can't': either way, you're right.(できると思うかできないと思うか、どちらにしろ君は正しい。)」


    もしテクノロジーが今日の子供に先天的にこういったことを教えていると仮定すると、彼らはとっても早い段階で学んでいるっていうことですね。

    このモノの見方、個人の性格であったり、人の体であったり、また新たなテクノロジーであったり、想像が実際に発明に変わっていく、それは100年前では考えられないことでした。もし私が100年前に産まれていたとしたら、今のように社会でいろいろなことをするのは不可能だったでしょう、それどころか女性であるということが障害となっていたでしょう。

    今、私は自分の強さと弱さ、その強さや弱さが変化していくことにとても感謝しています。そしてなによりも義肢の技術の発展に感謝しています。義足"にも関わらず"素晴らしい人生を送っているわけじゃないんです、義足"のおかげで"私は素晴らしい人生をおくれているんです

    人と技術の密接な関係を探るサイボーグ・ライフ特集。人が人として生活していけるように技術の助けをかりる。また、技術の助けを借りることで「普通」以上の力がだせる。

    テクノロジーが日々発展する中、人と技術はどのように共存していくのでしょう。サイボーグ・ライフに注目です。

    [Lead Image: Matthew Barney CREMASTER 3, 2002 ©2002 Matthew Barney / Photo: Chris Winget Courtesy Gladstone Gallery]

    Aimee Mullins(原文/そうこ)