鎖国下の江戸時代、日本独自の数学文化「和算」が華ひらく。天才和算家・関孝和のベルヌーイ数発見のような、世界にさきがけた業績がなぜ生み出されたのか。『江戸の天才数学者:世界を驚かせた和算家たち』(鳴海風著/新潮選書)から一部を抜粋・再編集して江戸流イノベーションの謎に迫る。
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江戸時代のベストセラー
江戸時代初期、寛永4年(1627)に出版された『塵劫記(じんこうき)』という数学書がある。『塵劫記』はその後も版を重ね、多くの数学ファンとともに研究者を生み出した。もしこの本の登場がなかったなら、和算文化が花開くこともなかったかもしれない、と言われるほど多くの人々に読まれた本である。
実際、江戸時代後期になると、もはや子供でも知っているような本だった。たとえば、弥次郎兵衛(やじろべえ)と喜多八(きたはち)の珍道中記として有名な滑稽本(こっけいぼん)、『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』にも『塵劫記』が出てくる。
吉原宿(現在の静岡県富士市)を過ぎたあたりで、弥次喜多の二人は、旅人に菓子を売っている小僧と出会う。
二人は菓子を買って食べるが、小僧が掛け算ができないことをよいことに、喜多八は次々に代金をごまかす。
「二文の菓子が五ツで二五の三文か。コレここにおくぞ」
「三文の菓子を四ツ食ったから、三四の七文五分か。エイワ、五分はまけろ、まけろ」
よせばいいのに、今度は餅(もち)に目をつけて、二人はそれもたいらげて、またごまかそうとする。
「五文ずつならこうと、二人で六ツ食ったから、五六が十五文、ソレやるぞ」
すると、ようやくインチキに気がついた小僧が、掛け算はやめてくれという意味で、『塵劫記』を持ち出すのだ。
「イヤこの衆は、もう塵劫記の九九じゃァ売りましない。五文ずつ六ツくれなさろ」
小僧はまだ『塵劫記』をしっかり勉強していなかったが、その本の中に九九の計算があることは知っていた。「塵劫記の九九じゃァ売りましない」で笑いがとれるほど、『塵劫記』は人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)していたのだ。
『塵劫記』はよく売れたので、たちまち海賊版が出た。江戸時代を通じて、類似の本が続々と出版された。寺子屋で使われる教科書にもなった。明治初期までに出た『○○塵劫記』とか『塵劫記○○』といったタイトルの本だけで、400種類もあるという。とにかく塵劫記と付け加えるだけで「楽しく学べる実用数学書」を意味するようになったほどである。
名門・角倉一族に生まれて
『塵劫記』の著者は、豪商・角倉(すみのくら)一族に連なる吉田光由(みつよし)という人物である。
角倉一族は、さかのぼれば、宇多源氏(うだげんじ)に端を発する近江の武家である。その末裔が、京都嵯峨で土倉(どそう)と呼ばれる金融業を始めた。もとは吉田という姓であったが、朱印船貿易に進出した角倉了以(りょうい)の代から、屋号でもあった角倉を名乗るようになった。朱印状を受けた慶長8年(1603)以降、了以は安南(ベトナム)等との海外貿易で莫大な利益を得、角倉家を「茶屋」「後藤」「灰屋(はいや)」などと肩を並べる豪商に押し上げた。
金融業・貿易業で巨万の財をなした一族は、単なる成金ではなく、高い教養と志をもっていた。何といっても角倉了以・素庵父子の名前を不滅にしたのは、河川開削事業である。最初に取り組んだのが、大堰川(おおいがわ)(保津川)の開削だった。
京都嵐山にある大悲閣(だいひかく)千光寺には、素庵と親しかった林羅山(らざん)が撰(えら)んだ『河道主事嵯峨吉田氏了以翁碑銘』が残されている。碑文の内容からは、相当の難工事だったことがうかがわれるが、海外から得た最新の土木工事の知識に、独自の工夫を加えながら開削を進め、慶長11年(1606)、わずか5ヶ月という短期間で舟運を可能にした。
この成功により、父子は幕府からも開削工事を命じられるようになる。いわば公共工事を請け負うようになったのである。急流で知られた富士川と天竜川の開削に取り組み、京都の鴨川水道の整備も完成させた。さらに父子は、私財を投じて、鴨川に並行する新しい運河の開削にも乗り出し、慶長19年(1614)、高瀬川を開通させる。
さて、吉田光由は、慶長3年(1598)、京都嵯峨で生まれた。このとき、角倉了以は45歳、素庵は28歳である。角倉家とは、光由の祖父が了以の従兄弟にあたるという関係であった。次々と大きな開削事業に挑む了以と素庵の姿を間近に眺めながら、一族の一人として、いつか自分も大きな事業を、と若い血を熱くたぎらせていたのではないだろうか。
技術屋だった光由
吉田光由が一族の中で頭角を現したのは、今も京都の北嵯峨に残る「菖蒲谷隧道(しょうぶだにずいどう)」の難工事を完成させたときである。この工事は、寛永元年(1624)から2年ごろに完成したとされているので、光由は27歳か28歳、『塵劫記』を出版する2年か3年前ということになる。
当時の北嵯峨一帯は水利が悪く、農民は干害に悩まされることが多かった。地元大覚寺から対策の要請があったが、当主の素庵は多忙で対応できない。そこで手を上げたのが光由だった。
光由は、これまで了以、素庵父子が実施してきた開削工事とは一味違う計画を立てる。ただ単に河川の開削をして水を引くのではなく、長尾山の北に人工の池を作り、傾斜のついた約200メートルのトンネルを掘って、たまった水を南側へ流すという、大胆かつ野心的な内容である。これまでとは比較にならないほど緻密な計算が必要とされるのは言うまでもない。
素庵の後押しによって計画は実行に移され、光由は、これを見事にやってのけた。菖蒲谷隧道工事の成功で名を上げた光由は、吉田家の三男という一門の中では傍流に過ぎない立場だったが、豪商・灰屋与兵衛の娘と縁組することになった。
さて、このエピソードからも分かるように、吉田光由は、純粋な数学者というよりも、むしろ有能な土木技術者であった。数学を理論として追究していたのではなく、土木工事などの実務に生かすスキルと考えており、今でいうと応用数学者タイプだったのである。
『塵劫記』がベストセラーになった要因も、そんな光由の実務志向にあるように思われる。本の構成を見ても、現代の数学の教科書のように最初から順番に読まなければ先へ進めないようにはなっていない。冒頭で、数やものの長さ、広さ、重さの数え方、九九とそろばんの使い方を教えた後は、実用的な問題とその解き方がひたすら続く。商人なら米や布の売買に関する問題、そして両替や利息の計算問題。土木工事を担当する武士なら面積や体積の計算問題、そして測量問題。高等数学を研究する人なら開平法(かいへいほう、平方根を求める方法)、開立法(かいりゅうほう、立方根を求める方法)といった具合だ。さらに、今でも知られているねずみ算や油分けの法、継子立(ままこだて)といった遊び心のある問題も含まれている。
どこから読み始めてもかまわない。自分の仕事に関係があるところだけ勉強すれば、すぐに役に立つ。合間に遊戯的な問題も楽しめる。わかりやすい挿絵もたくさん盛り込まれている。
理論重視の数学者では、なかなかこのような本は書けまい。実務志向の強い技術者だったからこそ、光由は『塵劫記』のようなベストセラーを生み出せたのだろう。
数学の学習過程
実用的でありかつ楽しい『塵劫記』だが、数学の知識がなければ書けるものではない。吉田光由は、どうやって数学を学んだのだろうか。実は、光由の育った時代は、その数学の学習そのものが始まったばかり、和算の歴史でいえば、まさに黎明期だった。
日本は古くから朝鮮を通して中国文化を取り入れていた。最も古い数学の伝来の記録は『日本書紀』の中に、欽明天皇15年(554)のときに百済(くだら)から暦博士(れきはかせ)が来日したとあるから、暦の計算方法として入ってきたのである。仏教の伝来とほぼ同時期だったこともあり、さまざまな専門書が輸入され、九九や算木(さんぎ)を用いた計算方法も入ってきた。が、その後千年余り、日本における数学の発達は、ほとんど見るべきものがない。
吉田光由が生まれた慶長3年(1598)は、文禄・慶長の役すなわち豊臣秀吉による朝鮮侵略が終わった年である。このとき多くの数学書が日本にもたらされたのが、皮肉にも数学の第二の伝来となった。
光由の嗣子・光玄が記録したとされる『角倉源流系図稿』によれば、光由の最初の数学の師は毛利重能(しげよし)である。
重能は、生没年は不詳だが、もともとは戦国時代の武将池田輝政の家臣で、故あって国を去ってからは京都二条京極あたりで「天下一割算指南之額」を出してそろばんを教えたとされている。そろばんの渡来は意外と遅く、室町時代末期といわれているから、重能はこの新しい計算道具の使い方を広めることに大きな貢献をした。入門する者は数え切れないほどで、光由もその一人だったことになる。
重能には、豊臣秀吉の家臣になって明へ留学したという説があるが、『塵劫記』が出る5年前に重能が書いた『割算書』の内容は、数学者によれば、奈良平安朝時代に伝わってきた数学の知識がベースになっていて、留学説は疑わしいとのことである。『割算書』は、分量的に『塵劫記』の三分の一にも満たない本で、光由はかなり早い時期に重能レベルの数学は卒業していたようだ。前述の『角倉源流系図稿』にも、光由は師の重能を追い越して、互いに教え合う関係になっていたことが書かれている。
続いて、角倉素庵から明の程大位(ていだいい)が出版した『算法統宗』を学んだとされている。これは中国の大ベストセラーであり、『塵劫記』の手本となった本である。明朝は、宋末から元初に確立された天元術(てんげんじゅつ、方程式を立てて未知数を求める方法)が忘れ去られるなど、高等数学が衰退した時代である。そのような中にあって、民間数学者の程大位は、各地をまわって数学を研究し、60歳のときに『算法統宗』を著した。田畑の面積計算、土石量などの土木計算、利息や税金の計算など、生活に密着した問題が多く扱われ、官吏の実務にも役立つ内容であった。しかも、難法歌といって、問題と解法がふしに合わせて歌えるように記述されていた。難法歌自体は『算法統宗』以前にもあった形式だが、語呂がよくて暗記しやすいので好評だった。『塵劫記』ほど挿絵は多くないが、その後も版を重ね、百年以上後の清朝になっても復刻版が出るなど、類似書は数十種にのぼっていたという。
なお、光由は、素庵だけでなく了以からも数学を習っていた形跡がある。たとえば、佐藤蔵太郎の『西国東郡誌』(大正3年刊)には、「光由は角倉了以の門弟にして、角倉は其宗家なり」と明記してある。また、『群馬県史 資料編十六巻 近世(八)』(昭和63年刊)の中の「慶応三年二月吉田流算術開平法口伝」に、吉田流算術元祖は京東山住吉田三好(三好は光好の間違いであり、了以のこと)で、元和3年(1617)3月10日、門人吉田七兵衛(七兵衛は光由の通称)へ伝授されたとある。了以は3年前に亡くなっているので、了以の興した吉田流算術は、素庵を介して光由へ伝授されたと考えられる。
海賊版が生んだ遺題継承
『塵劫記』がベストセラーになると、たちまち海賊版が出てきた。光由は対抗するために、次々と改版を重ねた。
遊戯的な問題を追加したのも、海賊版との差別化のためである。寛永8年(1631)版の『塵劫記』は、二色刷りだった。色刷りは世界初の試みといわれるが、素庵の嵯峨本で培った印刷技術の成果であろう。しかし、この二色刷りもすぐに真似られた。
考え抜いた光由は、巻末に答えのない問題をつけた。寛永18年(1641)の『新編塵劫記』である。良い問題を作ることは、実力がなければ難しいから、いい加減な海賊版は作れない。また、光由がつけた問題が解けない先生は先生に値しないこともすぐばれる仕掛けだった。
著作権保護のなかった時代である。単に真似されることを嫌ったのではなく、内容に間違いのある海賊版が出て光由の著作と思われたり、実力のない者が海賊版を使って教えたりすることに、光由は耐えられなかったのだ。
ところが『新編塵劫記』は、光由の予想をこえる現象をひきおこした。多くの数学者がこの問題に挑戦し、解答が出るとそれを本にし、また自らも懸命に考えて問題をつけるという習慣が繰り返されるようになったのである。これを「遺題継承(いだいけいしょう)」という。
この遺題継承は、その後170年間も続き、結果的に、日本の数学レベルを大きく向上させることになった。
また、海賊版を含めた一連の『塵劫記』シリーズから数学にのめり込んだ人々は、貪欲に中国や朝鮮の数学書を漁った。そして彼らは、『塵劫記』のルーツである『算法統宗』や、それよりもっと古い、元の朱世傑(しゅせいけつ)の『算学啓蒙(さんがくけいもう)』や、南宋の楊輝(ようき)が著した『楊輝算法』に出会うことになる。そこには天元術や算木・算盤(さんばん)を用いた計算法があり、より高度な数学を含んでいた。そんな数学の世界に魅了された一人が、のちに算聖(さんせい)と呼ばれた関孝和(せきたかかず)その人であった。
『塵劫記』は、鎖国が徹底された時代にあって、和算という日本独自の数学文化を発展させる導火線になったのである。
- ◎鳴海風(なるみ・ふう)
1953年、新潟県生まれ。東北大学大学院機械工学専攻修了(工学修士)後、株式会社デンソーに勤務。愛知工業大学大学院で博士(経営情報科学)、名古屋商科大学大学院でMBAを取得。1992年『円周率を計算した男』で第16回歴史文学賞。2006年日本数学会出版賞。『円周率の謎を追う 江戸の天才数学者・関孝和の挑戦』(くもん出版)が第63回青少年読書感想文全国コンクール中学校の部課題図書。主な著書に『算聖伝 関孝和の生涯』(新人物往来社)、『江戸の天才数学者』(新潮選書)、『美しき魔方陣』(小学館)などがある。