Home > News > RIP > R.I.P.相倉久人
音楽ライターがなしうる最高のこととは何か? 音楽ライターとは何を書くべきなのか? こうした素朴かつ重大な問いに対して、相倉久人氏はひとつの明解な答えを持っていた。「音を出す本人すら意識していなかったことを、その音楽から読みとる」こと。「その読みを本人に自覚してもらうこと」
アーティスト本人から語られる「すこしうぬぼれの入った理屈を」ただ正当化することではない。
逆にそれは、ネット時代にありがちなひとりよがりの妄想を肯定することでも、作者の自己言及を否定することでもない。あくまで作者と受け手との緊張感を保ちつつ、受け売りに走らず、新たな言葉を探し、醸成することである。
そう考えると、氏は、日本において音楽評論という土台を築いた人物であり、そして、その作者が言っているのだから正しいに決まっている、作品はつねに作者に隷従するものとして存在するという、つまり、解釈という能力を放棄しかけている日本の音楽シーンにおいて、なおさら立ち返らなければならない人物だと言えよう(まー、それなりに困難だ)。
相倉久人氏といえば、ジョン・コルトレーン、前衛ジャズ、山下トリオ、そして、リロイ・ジョーンズの『ブルース・ピープル』評など、おそらくは、ジャズの流動性がもっとも活気に満ちていた時代の論客として知られているのだろうけれど、たとえば、新書版の『ジャズの歴史』を読むと、モダン・ジャズ神話崩壊後のポストモダンにおけるジャズおよびジャズと呼ばれていたものの増殖と拡散についても(つまりポストモダン化についても)、とても柔軟に捉えていることがわかる。
その昔ジャズという大きな基盤が崩れたように、いまやロックはナツメロ化し、レイヴ・カルチャーだって20年以上も経てばさすがにその物語は脱構築されている。もちろん物語サイズが小さくなったからといって、音楽が小さくなったわけではない。むしろ生き生きとしていることだってある。
メインストリームなき現代では、なおのことそれら拡散された音楽たちを、いつまでも神話を縮小再生産/利用することなく、語っていくべきなのだろう。かつてあれだけの歴史(神話)と立ち会いながら、相倉久人氏にはこの変化に対応するだけの柔軟性があったばかりか、「現代におけるジャズとは何か?」というじつに難儀な主題とガチに向き合い、そしてするどい考察も残されている。繰り返すが、氏は、音楽について言葉を連ねている者にとって、なんどか立ち返るべき先達のひとりである。
野田努