本心は?御心は?
- 2015/04/15 15:43
- Category: 独白
- Tag: 繁栄の神学
私が昨年12月に経験したあの件より変わってしまったと感じられる向きがあるようだ。確かに、自分でも変わったと思うところだ。聖書が3Dになった;神を手で感じる;栄光が文字通り重さとして迫るetc.そして難聴の癒し、足の麻痺の癒し、をここでも書いたが、読者諸氏もセレブの仲間も、花粉症がどうなるかけっこう関心を持っておられたようだ。いや、これは自分自身がどうなるのか、と思っていたのだが、結果は見事に消えた。30年来薬を手放したことがないが、まったく不要だった。なんだ、これ?・・・と自分でも思う。
ある人は私が異端に走ったと言われ、ある人は悪霊に騙されていると言われる。「繁栄の神学」なるものは最近意識を持ち出した。これが異端、カルト、ニューエイジとニッポンキリスト教ではある意味袋叩きの状況なのだ。極私的には、こうしてラベルを貼るところがすでに問題であると感じる次第。ラベル貼りは自分のマインドあるいは認知のフレームに収めるための作業なのだが、こうするとその対象と離れて、ラベルとその概念がひとり歩きし出す。マインドの空転が起きるのだ。こうして自分で作った幻影を延々と攻撃することになる。
しかしここで批判者たちに聞いてみたい。あなたは癒しを受けたくはないのですか?あなたは豊かになりたくないのですか?あなたは神の祝福を溢れるほどに経験したくないのですか?あなたは平安と喜びにあって生きたくないのですか?あらゆる環境や状況を支配したくないのですか?・・・と。私は「たい」と主に求めたいのだ。彼らに逆に聞きたい。神のみ心はどこにあるのだろうか?イエスのしたことは父の御心ではなかったのか?何よりも、御心が天になるとおり、地にもなるように、の意味は?・・・と。
どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるように。-Deut 1:11
あなたがたは、この契約のことばを守り、行ないなさい。あなたがたのすることがみな、栄えるためである。-Deut 29:9
なによりもイエスが来られた目的は、悪魔のわざを滅ぼし、アバンダント・ライフを与えるためなのだ(John 10:10)。アバンダント・ライフ!あなたは欲しくないのですか?
参考:私が「繁栄の神学」を擁護していると取られるとやや心外なので(私は、そのようなラベルを貼ることなく、御言葉にある神の約束に素直に同意し、受け取るスタンスなのだ)、その批判の急先鋒であるPaul Washerの主張を紹介しておこう。ジョエルの信者は神の厳しい裁きを受けるであろう!と・・・。
Cissac
聖書って、自分が思っている以上に深く、広いのでしょうけど、
(こう書きつつ、分かっていないところありですが。)
思っている以上に制限をかけているところがあるのでしょうね。
いわゆる霊的解釈と言いつつも、実際はそこの教団の教え
とかですね。