佐々木俊尚さんからの問いかけに対して
私にとって2006年の大ニュースといえば、オーマイニュースにかかわったことである。
いままで紙メディア(新聞、雑誌、書籍)とリアル(セミナー講師)でしか自己表現したことがない――要するに、ネット方面のリテラシーが低い――ひとりのヤメ記者がネットニュース編集部に入ったわけだ。当然、この方面の先輩たちから多くのお叱り、ご鞭撻を賜った。しかし仕方ないではないか、今日より早い日はないんだから。
その愛すべきオーマイニュースで2006年に学んだことはたくさんあるが、そのなかで最大の教訓は「言われたら、言い返す」ということだと思う。まだ自分自身、十分習得はできてはいないが。
■ネットに正解はない……らしい
ひと回り以上若いビデオジャーナリストのパクさんに数日前、飲みの後、説教を食らった。
「ネットには正解書かれてないですから。新聞時代は正解書いていたつもりだったでしょ。正解書いてイチャモンつけられればそりゃアタマ来ますよ。けどネットで書かれたものは正解じゃないんだから、コメントがついて当たり前。書いてコメントついてそれにまた反応する、それ楽しまないと。だから平野さんも言われたら、どんどん言い返してください」
「そういう感覚、わかってきたけどさ、(自分で記事を)書く時間がないんだって」
「そんなの言い訳ですよ。時間見つけてください。今年言われたことは、年内に必ず言い返して、記事にしてください。絶対です。約束ですよ」
そう彼に迫られ、「わーかった」と返答した。翌朝、前夜のことを忘れていないか確かめたが、しっかり覚えていた。しらばっくれるわけにはいかない。
たしかに、私の経験してきた紙メディアは、一般読者の直接の反応から「隔絶」されている。自分に届く反応は、ほとんど取材先からだけ。「なんじゃ、このいい加減な記事は!」と取材先からお叱りを受ければ、相手を訪ね、面前で謝罪する。誤報であれば訂正を出す。こうしたやり取りはすべてリアルの世界だった。他メディアがイチャモンをつけることは、破廉恥事件でもなければ、滅多になかった。
要するに、紙面上で批判されることに慣れていない。言わんや反論をや。メディア上での議論に不慣れなのである。仮にこちらに分があって、相手がトンチンカンな議論を吹っかけてきた場合も、黙ってやり過ごすのが「大人の対応」なのだと、これまで周囲を見て学習していた。
なぜなら時間が問題を解決したからだ。時間がたてば紙面は捨てられる。人々は話題を忘れる。その間、当事者同士は紙面とは別のリアルの場で和解する。
ところが、ネットの世界は違う。いつまでもブツが存在し続ける。検索すれば引っかかっり、人々が忘れない。当事者同士では解決しているのに、知らない外野が「化石情報」をもとに、いつまでも話題にし続ける。戦い方を根本的に改めなくてはならない。
ということで、年末にわずかに時間ができたので、「黙っているのが大人」などという旧習を捨て、こちらの言い分を返そう。佐々木俊尚さんの平野批判に対してだ。
(ITメディアの鳥越発言報道についても言い返したいが、リアルの世界で「大人の決着」〈当然、先方に非がある〉をしてしまっているので、残念ながら言い返せない。だから、いつまでも虚報がネット上に残っている次第……)
× × × ×
11月24日、佐々木さんがCNETのご自分のブログ『ジャーナリストの視点』に、「平野日出木さん、それでいいんですか」なる玉稿を2回にわたってお書きになった。
自分の名前が有力サイトの見出しに踊るなんて全く予期していないので、ただただ驚いた。いろいろな知人から「おい、大丈夫か」と電話が来た。「いやそうなんだよ、まいっちゃたなあ」などと適当にやり過ごしながら、じつは相当にカッカ来ていた。
何よりアタマに来るのが、グーグルで自分の名前を検索すると、拙著『物語力で人を動かせ!』のアマゾンのページよりも上に、この玉稿が鎮座していることだ。頼むからどいてくれ!
それはさておき、佐々木さんである。彼とオーマイニュースは一体どういう関係なのか。
「編集委員」などという肩書きがついているので誤解を招くが、彼は別に編集者やライターとして関わっているわけではない。週1回数時間、我々の相談相手になって下さり、それに対し、オーマイニュースは対価を支払っている。要するにコンサルタント、アドバイザーである。最近はシステムの2次開発のために、新しいベンダーを紹介して下さり、そのベンダーがコンペに勝って、さっそく新システム開発に着手してくれている。
毎週1回定期的にオフィスを訪れる佐々木さんに対して、代表のオ・ヨンホや、編集部員、ウェブチームがいろいろ相談する。それに対して、ネットリテラシーの高い佐々木さんがいろいろアドバイスを下さるわけである。困ったことがあれば当然、打ち明ける。そのひとつが、10月~11月に当サイトで何かと話題になった「この記事にひと言」欄(コメント欄)の改変問題だった。
コメント欄が当初の意図に反して、実質的に匿名掲示板のようにフリーに近い状態で参加でき、その結果、コメント欄が荒れ、記事を書いた記者が萎えてしまう、潜在的な記者希望者も敬遠してしまう――そんな状態が続き、どうしたものか、困っていた。
だから、私はアドバイザーの佐々木さんに助言を求めた。当社が対価を払って助言を求めるコンサルタントだから当然「身内」だと思う。「身内」だから外部の人には明かさない弱点も開示したし、「こういう対応をしたら、どんな反応が返ってくるだろうか」といった、架空の極端なケースを想定した“アタマの体操”的なやりとりもあった。
■コンサルタントの職業倫理と、ジャーナリストの取材プロセス
佐々木さんはこのように、コンサルタントとしてオーマイニュースに接近し、弊社スタッフと会話をした。こうして得たいわば機密情報を、『論座12月号』(朝日新聞社)に書き、文芸春秋の『日本の論点2007』に書き、CNETに書いた。オーマイニュースを素材に八面六臂の大活躍である。佐々木さんの「インターネットメディアは徹底的な透明性を確保した“場”になるべきである」という理念は素晴らしいし、私も賛成する。しかし、その「透明な場」の理念は、ごくごく普通の職業倫理をも無視できるほど高邁(こうまい)なものなのか。
彼の名刺には、たしかに「ジャーナリスト」と刷ってある。しかし、オーマイニュース関係者のだれひとりとして、ジャーナリストたる佐々木さんには会っていないし、ましてや取材に応じた覚えはない。
『グーグル』(文春新書)というヒット本を著し、日本のネット界に通じている人物との評判を聞いた韓国人の代表オ・ヨンホが、佐々木さんの時間と知見を少なからぬ対価で買い取ることを決めた。だから彼の来訪時に雑談していては、コスト的にもったいないのである。もし彼がジャーナリストなら、別にノラリクラリ対応して、「ハイおしまい」としただろう。そもそも忙しいさなか、毎週毎週同じジャーナリストの取材に私たちは応じない。
しかし、佐々木さんはアドバイザーである。佐々木さんは貴重な時間と、知見・経験に基づく助言を当方に提供し、当方はそれらに対価を支払うことで双方が合意し、契約を結んだ。だから助言を得るために、我々は必要な材料を提供した。それだけのことである。
だから『ジャーナリストの視点』などという張り切ったタイトルのブログで、「…しかし平野デスクは私に対し、ミーティングの場で『…(中略)…?』と言い出したこともあり、その発言に私はかなり仰天したのだった」などとドラマチックに書かれても、「あなたってジャーナリストだったの?私たちの前ではコンサルタントでしょうが?」としか答えようがないのである。
断っておくが、佐々木さんのコンサルタントとしての助言内容そのものをここで議論しているのではない。問題にしているのは、彼のコンサルタントとしての職業倫理観であり、ジャーナリストとしての取材プロセスである。
もうひとつ、プロセス上問題にしたい点がある。「書く行為」と「報酬」の関係についてある。
「書く行為」や「書ける能力」というのは、人々のお役に立つことが少なからずある。私自身はこの事実に2002年に気がついた。2000年に新聞社を辞めたとき、「おそらくもう書く機会はないだろう」と覚悟した。けれども留学後しばらくして、「書いてください」と頼まれ、「こんな私でお役に立てるのなら」とうれしく感じ、2002年からフリーランスで書き始めた。
フリーで大活躍される佐々木さんが、「書く行為」、「書ける能力」、「書いた結果得られた権威」を武器に対価を得ること自体に、私はなんら違和感を持っていないし、むしろ応援している。オーマイニュース編集部に参加するまで、私自身、その道を追及しようとしていたのだから。
けれども、「書く行為」と「誰から報酬を得るか」の関係については熟慮が必要だ。「書ける人」にはさまざまな方面から、「書いて欲しい」と注文が入るからだ。
たとえばメディア側から注文が入る場合もあれば、企業側から入る場合もある。
■ジャーナリズムと広報を分かつ一線を踏み越えていないか
私は雑誌メディアに寄稿すると同時に、広報コンサルティングの仕事もやっていた(今でも在籍している)。そのときクライアント企業の方からしばしば、「平野さん、その雑誌に寄稿しているのなら、ウチの話を書いてくださいよ」と依頼が来た。けれども私は決して、その依頼に乗らなかった。なぜなら、それがジャーナリスト活動と広報活動を分かつ明確な一線だったからである。
同じ「書く行為」でもメディアの側から報酬を得ればジャーナリスト活動だが、企業(その他の経済主体)の側から報酬を得れば、それは広報活動である。突き詰めれば、読者から報酬を得るか、客先(スポンサー)から報酬を得るかの違いである。
広告モデルで視聴者から対価を得ないテレビやネットで活動するジャーナリストや、同じく読者から対価を得ないフリーペーパーで活動するライターの報酬は、究極的にどこから出ているのかという白黒つけにくい問題は残る。とはいえ、個別企業A社から報酬を得て、そのA社について執筆すれば、それはA社の明らかな広報活動であって、ジャーナリスト活動では決してない。
コンテンツ制作とカネの出所の関係については、メディア自身も明確に区分している。自分たちのコストで作ったコンテンツは「記事ページ」、それに対し、スポンサー企業のカネで作ったコンテンツは「PRのページ」に分類する。一般に「記事ページ」は目次欄に載るが、「PRのページ」は載らない。ビジネス誌では別途、広告・PR企業一覧を設けてある。
広報コンサル経験者として、私はあらゆる主体(企業、政府、NPO、個人など)の広報活動を正当に認める立場であり、会社員記者やフリージャーナリストにありがちな、“広報否定論”には立っていない。だから、有能な「書き手」が広報サイドから報酬を得て、「PRのページ」を作成することに何ら違和を感じない。普段は「記事ページ」にモノし、報道活動に携わっている著名ジャーナリストが、たまに「PRのページ」に広報コンテンツを提供している例もしばしば目にする。
(ちなみに、同じ執筆依頼でも、報道記事とPR記事では報酬単価が大きく異なる。報道記事の報酬を1とすれば、PR記事の報酬は10以上に跳ね上がる。編集プロダクションは両者を上手に組み合わせて、経営を成立させている)
けれども、やってはならないことがある。両方から、同時に、報酬をもらってしまうことだ。
つまり客先から報酬を得ている広報行為にもかかわらず、メディアに対して、「これは報道記事です」と騙って、こちらからも原稿料を得てしまうことだ。これは読者に対する背信行為になる。
■報道対象と金銭的関係を持つことの是非論
佐々木さんが『論座12月号』と『日本の論点2007年』に書いた記事は、このご法度に該当する可能性がある。両記事は読者に対して、「ジャーナリスト佐々木俊尚が書いた報道記事でございます」との体裁を取っている。当然、両誌は佐々木さんに原稿料を支払っているだろう。しかし同時に、佐々木さんはオーマイニュースからも報酬を得ている。見方によっては、オーマイニュースはコストを支払って佐々木さんに情報を与え、有名メディアに記事を書いてもらったことになるのだ。オーマイの立派なPRである。
内容がオーマイニュースに対して批判的だったからPRではない、などという単純な話ではない。批判的に書こうが、好意的に書こうが、報道対象と金銭的に結びついていることが、独立した観察者たるジャーナリストの行為としてどうなのか、ということだ。それは、ある企業の株式を持っていながらそれを隠し、外部観察者のフリをして、その企業をほめたり、批判したりするのが倫理的に許されないのと似ている。もっとも彼が広報記事も書く「ライター」であり、両記事をPR記事と呼ぶのであれば、なんら問題はないが。
ということで、2007年も佐々木俊尚さんはオーマイニュースに関してさまざまな言論活動を続けるだろうが、それらは「コンサルタントの視点」、「広報マンの視点」、「内部告発者の視点」というべきものである。
それはそれであって構わない。ただし、その場合、CNETからは「ジャーナリストの視点」というタイトルを降ろしていただきたいですね。また、その場合、雑誌や書籍のプロフィール欄には、別の肩書きをせめて併記してください。それと各職業のプロとしての職業倫理をくれぐれもお忘れなく。
× × ×
ここまで私が論じてきたのは、佐々木さんの私やオーマイニュースに対する批判の方法(批判内容ではなく、そのプロセス)についてである。
批判内容そのものについては、私自身、大反省する点は多く、コミュニティ・マネジメントの拙さについての批判は甘んじて受け入れたい。2007年はぜひ改善に向け努力したいと思っている。また、「ネットメディアの主導権はユーザーの側にあるのであって、運営側にはない」という佐々木さんの主張についても、ご紹介いただいたベンダーの開発する新システムに移行すれば、きっと目指す状況に近づくことだろう。加えて、佐々木さんが同じブログ上で批判した西野浩史デスクは、オーマイニュースを去ることになった、当方としては大変残念であるが……。
ということで、2006年はいろいろあった。2007年も変化は続くはずだが、気合を入れて行きたいと思う。本年もどうぞよろしくお願いします。(パクさん、1日遅れですが、約束果たしました)