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    • テレビのどこが問題か──「あるある」外部調査委員に聞いた

村木良彦氏 「無自覚なズルさの複合が、私たちの情報環境を汚染する」

 情報番組「発掘!あるある大辞典」の捏造(ねつぞう)があぶりだした、テレビ局やテレビ番組が抱える構造的な問題。それについて「あるある問題」を調べた外部調査委メンバー2氏にインタビューした。吉岡忍氏に続いて、後半は、テレビの制作現場にくわしいメディア・プロデューサーの村木良彦氏。

「あるある問題」を調べた外部調査委メンバーの村木良彦氏

 (むらき・よしひこ) 1959年、ラジオ東京(現TBS)入社。テレビ演出部、報道局ディレクター、ドキュメンタリー制作を経て、69年退社。70年にテレビマンユニオン創立、76年代表取締役社長(~84年まで)。82年、プロダクションの連合体であるATP(全日本テレビ番組製作社連盟)を創立。2002~06年、東京国際大学・同大学院教授。

放映1回分につき取材テープ70本

── 番組制作の現場に大変くわしい村木さんの目から見て、今回の調査で明らかになったものは何かを伺いたいと思っています。まず、調査の概要から教えてください。

 「あるある」は途中で「あるあるII」になっています。「I」から数えると放送回数は530回ぐらいになります。とても全部は調べられない。

 そこでまず、発端となった「納豆ダイエット」の回を徹底的に調べました。それから、アジト以外の制作会社が作った分にも調査の手を広げた。結局、ちゃんと調べたのは放送回数32、3回分です。

 「ちゃんと」という意味は、オンエアテープを見て、取材テープを提出してもらって見て、台本などの資料を出してもらって……という作業をした、という意味です。取材テープは放送1回分につき、少ないものでも10本、多いものは70本ぐらいありました。

 オンエアテープ、大量の取材テープ、台本などをチェックして、「何かおかしいな」と思った放送回については、それを作ったプロデューサー、ディレクターにヒアリングをした。

 結局、その32、3回分のほとんどはプロデューサー、ディレクターへのヒアリングまで行きました。そのなかから調査報告書は、16回分について具体的に名前を挙げて、問題個所を指摘しました。ですから、私たち調査委は全部調べたわけではありません。

 もっとも、関西テレビが1月末に最初の報告書を総務省に提出して、不十分だとつき返された後、社員を動員して、五百数十本全部見たようなので、その資料は出してもらいました。ですから調査委は一応、全部をカバーしたことになっています。けれども、実際に私たちが、ちゃんと調べたのは32、3回分です。

── その32、3回分はどうやって選ばれたのでしょうか。

 10回分ぐらいは「納豆」のあと、「これも捏造だ、あれも捏造だ」と新聞などに報道されたものです。それから、以前からインターネットや書籍で指摘されていたもの7~8本。それから、一応、アジト以外の8プロダクションからも「サンプリング調査」と称して、1プロダクションにつき3回分の資料を出してくださいとお願いをしました。

── 「納豆」については、相当詳細なリポートになっていましたが、調査を通じて村木さんはどう感じましたか。

 「納豆」は担当したディレクターに何度もヒアリングして、いつ、どういう形でやったということは全部わかった。そこから周りのいろいろな人を聞いていきましたので、かなり詳しく全容がわかりました。

 その過程で印象的だったのは、全体的に、聞いた人に当事者意識がないということです。つまり、みんな被害者のように語る。

 スポンサーは「局にだまされた」、局は「テレワーク(1次プロダクション)にだまされた」、テレワークは「信頼していたアジト(2次プロダクション)にだまされた」と言う。みんな当事者意識がないわけです。「これはなんだろう?」というのが、最初に感じたことです。

 何が起こって、どうしてチェックができなかったのかを調べるのがもちろん調査の主目的です。けれども、結局この「当事者意識のなさは何なのか」を突き止めることが、調査の動機になり、重要なテーマの1つになりました。ですから報告書も、なぜ当事者意識がないのかということを解明する形になったと思います。

1ディレクターの出来心の問題ではないと直感

 私はさらに、これは1制作現場の1人のディレクターが、突然の出来心で、偶発的に起こった事件ではないだろう、とも感じました。これは勘みたいなものですが、調査に入る前、概要を聞いた段階で、「これはきっと、どこで起こっても不思議でないような状態だったに違いない」と直感しました。

 「納豆」の解明が始まった段階で、それはほとんど確信になりました。納豆のディレクターには、フジテレビの検証番組(4月3日放映)用に、我々は3回インタビューした。本当はもう1回やりたかった。というのは、いつ、どうやって(捏造を)やったかはわかったけれども、「なぜ、やったか」という核心部分は本人でないとわからないからです。

 例えば、アメリカ人科学者のコメント捏造をいつ、どのようにやったかはわかったけれども、それをいつ決意したのか。帰ってきて編集中に切羽詰ってやったのか。出張取材中にうまくいかないと思ったときに、そこで考えたのか。ひょっとして、渡米前に「もしダメだったら……」とあらかじめ考えていたのか。そこは本人が言わないからわからないわけです。

 私は、じつは、行く前から彼は決めていただろうと思っています。「最悪の場合は……」というのが彼の頭の中にはあったはずだと思います。だから、その辺は聞きたかった。けれども最後は、もうこれ以上インタビューできない、ドクターストップの状態に彼はなってしまいましたから、最後のインタビューはできませんでした。

── 個人の出来心で起こった事件ではない、という確信はどのあたりから。

 まず、制作の経緯を見ると、例えばそのディレクターと、米国在住のコーディネーターとのやり取りがあって、ファクスで全部出してもらいましたが、それを見ると、コーディネーターがはっきり、「あなたが取材で欲しいようなコメントを、彼(学者)は言いません。彼といろいろ話したけれども、そんなことは話せないと言っています」と言ってきている。日付を見ると、その直後にディレクターはアメリカ行きを決めますが、プロデューサーに相談して決めています。要するに、組織的に動いている。この辺のことは報告書に書いてあります(報告書54~55ページ参照)。

 第2は、そのディレクターの仕事歴です。彼は「あるある」のアシスタントディレクター(AD)からテレビの仕事を始めている。ADを何年かやって、ディレクターになり、ディレクターとして仕事をしていると、結構評判がいい、視聴率も取れたということで、チーフディレクターに昇格します。そして今回の事件になった。

 言うなれば、彼のテレビ作法、テレビの方法論は、この番組の制作によって培われた。ディレクターになってからほかの番組もやっていますが、その手法は「あるある」で磨いたものと言っていい。ですから、この番組の作り方のなかに、何かがあるに違いないと、だんだん確信を持つようになった。

 第3に、彼が所属するアジト以外のプロダクションの制作分でも、似たような事件が起こっています。ですから、彼の倫理観だけの問題ではなく、番組の作り方そのものに何か問題があるに違いないと考えました。

「空白の1カ月」のナゾ

── なるほど。番組が人を作り上げたと。

 ええ。では番組の作り方の何が問題だったか。大きく言えば3つあります。1つは、情報に対する接し方、科学情報に接するときの姿勢です。最初の「あるある」では難し過ぎるぐらい説明がいろいろありましたが、「あるあるII」になったとき、大きくコンセプトが変わっています。科学的な説明の多さが視聴率の上がらない原因ではないか、もっとわかりやすく、面白くしなければダメだ、というのが大きな軸としてあり、要するにバラエティーの作り方に近づけたわけです。レギュラーで志村けんが入ったのはIIになってからです。

 2つ目は、作り方のなかで、「わかりやすくする」ということ、つまり、ニュースでもなんでもそうですが、わかりやすくするということは、何かが抜け落ちる危険性があるわけです。二者択一、白か黒か、善か悪かというように、二元論にしてしまえば非常にわかりやすくなる。

── 効果が微妙なときも、「効果がある」と断定調に振ってしまうようなことが平気であるわけですね。

 そうです。「わかりやすく」には落とし穴がたくさんある。その穴に配慮がないまま「わかりやすく、わかりやすく」という路線を突き進んでしまう。

 そして3つ目ですが、「面白くする」ことにも、同じように落とし穴がたくさんある。これら「わかりやすく」と「面白く」の2つは、バラエティー番組や生活情報を扱う番組に共通する問題です。

── それで調べていかれて、どんなことがわかりましたか。

 番組の作り方をずっと調べていったところ、そこで見えてきたのは、長いこと現場にいた私には信じられないことですが、番組で最も金をかけるべきポイントの1つであるリサーチに、最も時間、お金、人を割いていないことでした。

 例えば、別番組ですが、テレビマンユニオンの手がける「ふしぎ発見」は歴史がテーマで、制作費は「あるある」より安い。けれども調査にかける時間も、金も、人手も、比較にならないぐらい多い。100倍はかけていると思います。なぜなら、それが番組の核だからです。

 ところが、「あるある」は、素材なしに、テーマが最初に決まる。それも構成作家とチーフディレクター、ほとんど2人のアイデアで、例えば「食材でダイエット」というような、「何かを食べればやせる」というテーマがそこで決まってしまう。そして、その「何か」を探せ、という指令がディレクターにいく。

 「納豆」の場合は不思議なことに、テーマが決まったのが8月で、ディレクターに電話がいくのが9月末です。これはなぜなのか、「謎の空白」と調査委は言っています。テレワークのプロデューサーに聞くと、「あいつは今別の仕事で忙しいから、今言っても調べる時間はないだろうと思って、その仕事が終わるまで待っていた」と。それは一理あるとは思いますが、本当にそうかどうかはわかりません。

リサーチ軽視の番組哲学

── テーマ決定から、アジトへの伝達に1カ月。遅かったですね。

 だから、そのぶん調査に時間をかけられなかった。それで、アジトのディレクターがリサーチャーに電話して、リサーチャーが納豆を調べたところ、ある成分(βコングリシニン)があって、それがやせる効果を持つとの研究が存在することがわかった。企画会議でその報告があって、「よし、それでいこう」ということになった。

 ところが、それが急にダメになってしまうわけです。それでだんだんスケジュールが変わっていく。ところが番組収録日というのは1年前に決定していて動かせない。スタジオをその日に押さえていて、2回分撮らないといけない。それに合わせてビデオを作らなければならないし、実験もしなければならない。2週間の実験をするということになっていると、実験をする人を探して、決めることもリサーチャーがやるわけですし、実験に入る前の状態、血液などもいろいろ調べなければならない。そして、実験の結果どうなったのか。「納豆」の場合は、そうしたことを、やっていなかったというのがわかるわけですが……。

 ですから、「情報番組」と言われている番組で、金、時間、ヒトを最も投下すべきリサーチとテーマ設定を、「あるある」は2人が決めて、リサーチは1人の体制だった。

 ちなみに、「ふしぎ発見」では15人ぐらい常駐し、それプラス、海外の各地に合計で10人以上いますから、少なくとも30人規模のリサーチャーが常時動いて、「これならどうだ」といろいろ調べている。そして「これが面白そうだ」というものが出れば、ディレクターが現地に行って調べて、やっと企画として会議に出す。それでもボツになるものがたくさんあるわけです。それぐらい、ここが番組の核ですから、普通は手間ヒマをかけているわけです。

── その大きな違いはどこから来るのでしょう。予算規模ですか。

 スポンサーから受け取るお金を、どの部分に投入するかの違いでしょうね。先ほど申し上げた、情報に対する考え方は、そういうところに表れてくる。

── プロデューサーのポリシーというか、哲学というか……。

 ええ。バラエティー番組だと、スタジオ中心にコストをかける考え方はあります。そうであれば、スタジオをうまく仕切れるタレント、これはもう限られた人数のタレントになってしまいますが、例えばマチャアキ(堺正章さん)など数人に金をかけなければならない。そういう考え方は十分あり得ます。「ふしぎ発見」もタレントには金をかけています。しかし、リサーチにかける金がないというのは、土台の部分ですから、大問題につながります。

視聴率好調のカゲで鳴っていたアラーム

 だから、この番組はさまざまな落とし穴、危険を内包しながら進行していた。にもかかわらず、ほとんどの関係者、テレビ局の上層部、制作局長、制作担当の役員、ほかのセクションの役員もみな、あの番組はうまくいっていると信じて疑っていなかった。新聞で報道されるまでは。こんなに危険を抱えて、ダイナマイトを抱えて暴走しているような番組だったのですが。

 なぜうまくいっていると思っていたか。日曜9時の時間帯で、「行列のできる法律相談所」という人気番組がウラにある。以前の花王ファミリースペシャルのときは4%程度の時代もありました。そういうなかで、平均14%の視聴率が取れているということと、スポンサーが満足しているということ、この2点によって、関係者みんながうまくいっていると思っていた。理由は、その2つだけです。

 ところが、いろいろアラームは鳴っていた。例えば、事件が起こる前に、番組審議会で「あるある」を取り上げたことが3回ありました。事件が起きてからは毎回ですが、それ以前に3回「あるある」を取り上げています。

 議事録を全部取り寄せて詳細に見ると、多くの人が「なかなか面白い」「わかりやすい」とか、「へえ~、こんなこともあったのかと思って見ていた」とか、評判はおおむねいい。ところが、1人、2人、「大丈夫か、おい?」という人がいました。「あの科学的根拠は、本当に大丈夫なのか」とただしているわけです。局側は「ちゃんと確かめているので、大丈夫です」といって終わってしまっていましたが、そういう発言が審議会であったわけです。

 ここ1~2年は、ネット上ではそういう疑問がどんどん出てきていました。「あるある」関連のサイトだけで3つぐらいあって、どんどん書き込みがされています。実験に参加した人から「私は実験に参加していくらもらった」とか、「実験のときには10人いたはずなのに、テレビでは8人しか出ていなかった。2人はどうしたのだろう。きっと、データが悪いからカットされたのだろう」とか、そういうことを誰かが書いたりしている。

「立場が違う」と受け止める作り手の鈍感

 インターネット言論の信ぴょう性という問題はあるにせよ、少なくとも1年ぐらい前から、「あるある」は捏造の疑いが濃い、とネット上では言われていた。そこから本もまとめられていた。

 そういうことに対して、誰かが「おまえ、大丈夫か。随分書かれているぞ」と言う人が1人もいなかったというのが、やはり不思議です。

 ところが、これに対してプロデューサーは「立場が違うよね、という話をした」と語っています。私はこれをプロデューサーから直接聞いて、非常に印象的でした。つまり、「批判する人と、実際に番組を作る人とでは立場が違うよね」と思っていた。要するに、一種の有名税だと思っていたわけです。番組が好調でうまくいっているから、やっかみも出るだろう、ある程度は悪口を言われてもしようがない、そう思っていたというわけです。

 ですから、深刻さは全然ない。そのときに「大丈夫か?」という疑念には発展しなかった。そういう意味ではアラームに鈍感だったと思います。

 なぜなら2年ほど前、同じテレワークは、テレビ東京が花粉症を取り上げた番組で似たような問題を起こしています。このときは、さすがにメーン(1次制作)のプロダクションですから、花王も「あのプロダクションに任せておいて大丈夫か?」と非常に強い警告を発しました。今回も、「この『あるある』ではそういうことのないように」と、電通を通じて、関西テレビに強く申し入れました。

── その申し入れは、テレワークにまで伝わっていますか。

 テレワークにも、関西テレビから「大丈夫か」と伝わっています。電通も出ている会議に、一緒に出ていますから。その場でテレワークは、コンプライアンス担当の取締役クラスを置いて、「今後はそういうことがないように、ちゃんとします」と釈明したらしいです。

 ところが、これは直接本人に聞きましたが、コンプライアンス担当の仕事は、苦情処理だった。つまりタクシー会社の事故係みたいなもので、クレームがきたときに対応するのが仕事だった。現在進行中、あるいは、これからやる企画の科学的根拠を調べるとか、そういう仕事は一切していません。だから、そういうことにそもそも興味がなかったわけです。

情報環境を汚染した罪

── 報告書には「捏造」「データ改ざん」「過剰演出」という具合に、16件の問題点の詳細が記してありましたが、捏造やデータ改ざんは、「納豆」で生じたように、締め切り間際で、当初走っていた方向でうまくいかず、別の方向に振ったことが原因で典型的に起きるものなのでしょうか。「納豆」のケースは、「捏造の典型例」と考えられるのでしょうか。

 納豆の問題のとき新聞記者がドッと取材に来て、新聞のレベルがよくわかりましたが、「捏造か、捏造でないか」というのが彼らの最初の興味です。捏造はあったのか、あったとすると具体的にどの部分か、全部でいくつあったのか。それが取材の焦点になってしまったわけです。

 確かに我々もそれは調べているが、これを捏造問題というように取り上げると間違ってしまうのではないかと私は最初から思ったほどでした。捏造事件ととらえると非常に近視眼的な見方になってしまう。

 新聞は「捏造」と言い、局は「必ずしも捏造とは言えない」と言う。「捏造」と言ってしまうと放送法に引っかかるわけですから、なかなか認めようとしないわけです。そうすると、「証拠はあるのか」という話になってしまい、問題がそのことだけになってしまいます。結局は、裁判で決着をつけるのかということになりますよね。「営業妨害だ」と訴えて、裁判で白黒つけるということになれば、これは裁判所が決めるということになってしまって、非常につまらないことになってしまうのではないか。

 だから、「捏造事件」とはとらえないほうがいい。

 私は、調査が終わった段階で、これからどう報告書を書くかの議論が始まるときに、メモを書いて、調査小委員会メンバーの弁護士の方たちに読んでもらいました。結局この事件は、捏造、データ改ざん、さらに無責任というような、さまざまな問題を含んだ“ある種のズル”が複合した情報汚染であると。

 言い換えると、我々の情報環境を汚染する情報が流出してしまった事件だととらえるべきである、そうとらえないと問題点がぼやけてしまう、ということを書きました。これは、調査が終わったころから感じていたことです。

 「情報汚染」という言葉は報告書には使いませんでしたが、基本的にはそう思っています。そのようにとらえたほうが、問題点がいろいろ出てくるのではないか。そういう意味で問題全体に占める「捏造」の量は非常に少ないです。4つぐらいです。

「見つからなかった」ではなく、完成品を見ていなかった?プロデューサー

 捏造について、我々の調査のバリアーをものすごく高く設定した。3つか4つの証拠があって、これを突きつけたら、もう「参りました」と言うしかない、というものが見つかるまでは、「捏造」とは断定しないことにした。最後の最後まで、2つはあるけれども、3つ目の証拠がないため、弁護士さんたちが苦労して、最後には涙を飲んで落とす(捏造と判断しない)というケースがありました。私は、こういう事例を含めてもいいのではないかと思いましたが、「いや、裁判になったときに負ける」と、弁護士さんたちが言うわけですね。

── 3つか4つというのは、1件の「この番組は捏造だぞ」と指摘するときの、その1件を支える証拠の数という意味ですね。

 そうです。証言だけでは危ない、ブツがなければダメだと。調査小委の弁護士たちはほとんど検察上がりです。だから「ブツがなければダメだ」と。テープなどで「これは、どう聞いていっても怪しい」というのがあっても、証明するブツがないので、それで落としたものも随分あります。

 そういうことで、「捏造か、捏造でないか」というのは、私自身は最後はあまりこだわっていませんでした。捏造は捏造でとんでもないことですが、データ改ざん、実験がデタラメというのはいっぱいありますよね。

── 「捏造」と「データ改ざん」は、違う定義で使っているのでしょうか。

 はい。データ改ざんははっきりしているので、それは「データ改ざん」と言っています。しかし、「捏造」とまでは言いきれないところがありますよね。

── データ改ざんイコール、捏造の1材料ということですか。

 そうですね。データ改ざんでもはっきり証拠があるもの、例えば、実際につけた体重なら体重の変化の数値と、放送で使った数値が違う。これがデータとして残っているものは、ブツとして残っている、というように言っていい。ですが、必ずしもそうでないものもあります。「これは明らかにADが作った」という、だんだん下がるようにグラフを書き直したということはわかっているけれども、書き直して放送に使われたという証拠がなかったりする。ブツがないと、実験に参加した人の記憶もまたあいまいになってしまうわけです。明らかにそれが取材VTRに残っていれば、VTRを見ればわかる。

── それを捏造の1つの材料にはカウントするわけですね。

 ええ。ですから、「チェックができなかった」「見つからなかった」と言っているケースは、関西テレビのプロデューサーは見ていないと思います。番組制作を全然知らない弁護士さんが一見して、「明らかに違う」「そんなことは言っていない」とわかるわけですから。

 どの情報番組でも、ドキュメンタリーでも、当然、意訳というのはあります。これは普通です、日本語にするわけですから。「これでわかるだろうか、言葉を換えたほうがいいのではないか」と、ドキュメンタリーでもみんなそうです。プロデューサーが考えて書くわけです。しかし、言っていないことを書くというのはない。

 そうすると、そのために絶対必要なのは、第3者の翻訳者が正確に翻訳した、翻訳台本と言われているものが必ずあるはずで、それを見ればすぐにわかるのですが、これを保管しているところが、じつは少ない。

「捏造」を伝える新聞記者の「同じ穴のムジナ」

 「あるある」に関しては、9社(2次制作会社)のうち、2社はちゃんと保管していました。ですから、2社で作ったものは、新聞で叩かれたりしていますが、そのうち1社はしっかりしていました。翻訳台本はきちんとある。意訳も許せる範囲内。デタラメなことはやっていない。専門の科学者に意見を聞いた証拠も残っています。それを、ある新聞が「捏造だ」とデタラメを書き、そこのプロダクションは仕事が止まってしまった。

── ほう。そのプロダクションはほかの数社と比べて、質がいい方なんですね。

 そうです。驚くべきことは、それを「捏造だ」と報道した東京新聞が、そのプロダクションを取材していないことです。だから私は「なんだ、おまえのところは」と東京新聞に言ってやりました。プロダクションが損害賠償で訴えたら、たぶん東京新聞は負けると思います。証拠がないので。

── スキャンダル報道のときは、その流れに乗じて「このぐらいならいいだろう」という感じで、筆を意図的に滑らせるようなところが記者にはあるでしょうね。

 私もだいぶ文句を言ったので、後半では、記者も反省していました。我々は3月23日の報告書に短い要約版をつけて公表しましたが、それをちゃんとそのまま掲載したのは、東京新聞とあと1社ぐらいでした。

 今回感じたのは、新聞報道がいかに不正確かということです。今まで私は、重要な問題についてよく新聞を切り抜いてじっくり読んでいましたが、それがいかに怖いことか。報道される側になってよくわかりました。毎日新聞が書いた我々の報告の概要などはデタラメですね。捏造か、捏造でないかということだけに焦点に置いて要約しているから、ほかのことは何も書いていない。ビックリしました。「“天下の毎日”がこうなってしまったのか」と思って、少し考え直しました。

── そこも、「わかりやすく見せる」ことで、新聞においても捨てられてしまう部分があるということでしょうね。

 出演したある科学者に話を聞いたとき、こんなことを言っていました。「あるある」の取材班が来て、自分の研究に対して「こういう結論を出してくれ」と言ってきたので、「それは言えない」と断ったと。それで、すったもんだの末に、放送で改ざんされた。それで怒っていました。ところが今度は、それについて取材に行った新聞記者が、その科学者に対して、「あれは捏造ですよね? 先生の言ったことと違うわけでしょう?だったら捏造だったと言ってください」と。「あるある」の取材班も、それを事件後に取材に来た新聞記者も同じだ、とその科学者は言っていました。どちらもあらかじめストーリーと結論があって、同じであると(笑)。

 ひどい話だとは思いますが、中には「はい、はい」と言って、ディレクターの指示通りにしゃべっている人もいます。取材テープを見ると、すぐにわかります。

 ですから、科学者とテレビとの、非常に不幸な関係なわけです。「あるある」数百回のうち、10回以上出ている学者が何人かいた。スポンサーである花王の研究所から研究を受託している人もいた。明らかにこれは胡散(うさん)臭いけれども、調査しても、否定されれば終わってしまいます。強制捜査はできませんからね。ダンボールを持って踏み込めば、何か見つかるだろうけれども、これは民間人の調査の限界ですね。

管理強化だけでは解決しない難問

── 今回、調査報告書が相当くわしく書いていますから、今後、いろいろな局や制作会社が「あるある」のようになってはいけないと自覚して、注意することで、テレビ番組の質向上につながるでしょうか。

 報告書は「経営上のコンプライアンス」と「制作現場のコンプライアンス」をうまく調和させた「ガバナンス」が必要ですよ、というメッセージにしたのですが、そこを読み取ってくれるかどうか。経営上のガバナンスについてガッチリ書いてあるから、新聞もそこだけを書く。「チェックを厳しくしなければいけない」というほうにみんな流れてしまう可能性がある。

 野放図にさせておいていいということではないけれども、しかし、かといってチェックをすればいいという問題ではない。クリエーティブな仕事を大事に考えれば、制作現場のある種の自由な雰囲気というのはとても大事で、そこを損ねないようにバランスを考えてやってくださいよという、括弧つきのガバナンスなのですが、そこがうまく伝わるかどうかというのがちょっと心配です。

── 報告書をちゃんと読むと、最後の部分に、その辺のことはかなり書いてありますね(141ページ以降)。

 はい。経営的に厳しく、しっかりやっている制作現場もたくさんあるわけで、そういう現場に対してはむしろエールを送る考え方で、最後をまとめようと意思統一して報告書を作りました。

 経営責任を非常に厳しく取るにしても、「チェック、チェック」という考え方だけで進めると、現場は委縮する。どうしたらクリエイティビティを発揮できるような雰囲気、場をつくれるかということに、ちゃんと配慮しなさいと、くどいぐらいに書いたつもりです。

 「内部的自由」についても触れました。これは要するに、企業内部で上司から押しつけられたりした、自分の意に反する仕事を拒否する自由のことで、フランスなどは法律になって救済措置を設けている。ドイツもそうです。「内部的自由」という言葉はメディア関係の法律の専門家がよく使う、いわば業界用語です。その「内部的自由」をちゃんと謳(うた)ったのは、この種の報告書では、これがたぶん初めてだと思います。

 つまり、この報告書はテレビ局の経営責任を厳しく指摘していますが、そのことを総務省に“利用”されないように配慮し、「放送法には違反していない」「違反とは言えない」ということもちゃんと明記したわけです。

今やテレビ局だけのものではない「放送システム」

 放送という社会的に存在するシステムを、放送事業者だけが担っていた時代がかつてあって、放送法はその時代につくられた。だから電波という技術の側面から規制する法律で足りていた。ところが、今は「放送システム」を支えているのは、放送事業者だけではないわけです。制作事業者が社会的存在として認められるようになっている。ATP(後述)もできているわけですし。今、制作会社がなくなったら、それこそ明日から放送が止まってしまいますから、もう戻れないわけです。

 だから、テレビ局と制作会社に分かれる分業体制がよくない、と言ってしまうと間違います。しかし一方で、テレビ局と制作会社との関係は今も不幸で、矛盾が存在します。

 今回の日本テレワークの最大の問題点は、放送局と自分たち(=テレワーク)との間にある問題点を、自分たちより力の弱い小さなプロダクションに、そのまま転嫁してしまった点です。テレビ局から受注する自分たちが、今度は発注主になって命令する立場に立ってしまった。この部分は、日本テレワークという会社の経営哲学の問題になるわけです。どういう考え方で制作会社の経営をやっているか。それがテレワークとテレビマンユニオンの大きな違い、裏表ぐらいある違いだと思います。

── テレビマンユニオンは違うのですか。

 違いますね。ATP(全日本テレビ番組製作社連盟)というプロダクションの連合体が1982年に発足しています。2年ほどかけて私がつくったものです。テレビマンユニオンを立ち上げたのが1970年。それから10年経った1980年に、プロダクションの連合体を作ろうと考えた。制作費の問題にしても、著作権の問題にしても、各社共通の問題があるわけですから、共通の問題は共通の場で話ができる場をつくろうと考えたわけです。みんながライバルですから、1社、1社と会って話をして、やっと「やろうか」ということで最初は7社ぐらいが月1回集まって食事をするところから始まって、これをやりながら規約を作っていきました。局に知れたら大変だから、秘密でやって……。私のアタマのなかにあったのはOPEC(石油輸出国機構)の“戦い方”でした。

── 安く引き受けるプロダクションがあれば、待遇は上がらないわけですからね。

 結局、団結しかないわけです。20社ぐらいで作って、いまは80社超ですから随分増えました。

── テレワークとATPの関係は。

 今回の「あるある」の件でやめました。一応、退会届を出して受理されたという形ですが、退会届が出ていなければ除名提案が出ていたでしょう。

── アジトはどうですか。

 ATPに入っていません。いわゆる孫請け8社のうち、ATP加盟は1社だけです。先ほど申し上げた、1番ちゃんとしているプロダクションです。ですから、ATP加盟社は一応信用度が高い。信用度のないところは入れないという方針でやってきています。

【記者注】掲載が当初の4月24日予定から大幅に遅れたことをお詫びします。