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ほぼ日刊イトイ新聞

2025-01-23

糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの今日のダーリン

・近くにいる人とはよく話しているのだが、
 あらためて書くのははじめてかもしれない。
 「ワークライフバランス」ということについてだ。
 ぼくはこのことを専門に研究している人間でもないが、
 「ワーク(はたらく)」についても、
 「ライフ(生きる)」についても人並みに考えてはいる。
 どちらのことも、真剣に考える必要があるからだ。
 そこらへんのことをいい加減にしていると、 
 じぶんが生きることや、
 じぶんがはたらくことだけでなく、
 いっしょに生きている人たちや、
 いっしょにはたらいている人と、
 幸福なつながりを持てないと思うのだ。

 で、「ワークライフバランス」について端的に言うと、
 そのことば自体が、ほんとはおかしいんじゃないかと思う。
 だって、「ライフ」は生きること、生きていること、
 人生、生活、生命、というような意味のことだし
 「ワーク」のほうは、仕事、労働、勤務、業績、作品、
 というような意味のことだろう。
 これをよく考えてみたら、思うのだ、
 「ライフ」というのは「ワーク」と、
 どっちがどうと天秤にかけてバランスを考えるような、
 同じような大きさのものじゃないのだ、格がちがう。
 大きな「ライフ」のなかに、「ワーク」もあるのだ。
 赤ん坊の「ライフ」のなかに「ワーク」はない。
 子どもの生きることのなかに「はたらく」は不要だ。
 大人についてだって、「はたらく」ことは、
 「生きること」の一形態だというのは同じだ。
 「ワーク」に真剣になることも、時間をつかうことも、
 それは「ライフ」の「あるかたち」なのである。
 「ワーク」が奴隷のように強いられたものなら、
 そういう場合は「生きること」の大きな部分が損なわれる。
 逆に「ワーク」がよろこびと共にあるのなら、
 その「ライフ」も当然のようによろこびとなる!

 どう「ワーク(はたらく)」するかを考えるなら、
 その前に、どう「ライフ(生きる)」かを考えるのが、
 順番というものじゃないだろうか。
 それは「どういう人生になりたいか」と同じだ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
職業名にとらわれすぎないで「ワーク」を考えたいものだね。


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