2013年3月13日水曜日

旅猫外伝・試読 (有川浩)

 パンフレットに掲載する『旅猫リポート』外伝、最初の部分を少し試読公開してみんとします。
 続きはWEBで! ならぬ劇場で! という感じでおひとつ。
 ご興味持っていただけましたら、公演期間中の劇場でたいへん頑張ったお値段で販売しておりますので、何とぞよろしくお願いします。
 かっこいい試読ページとか作れたらいいんですが、わたくし技術がないアナログの人なのでブログにぺたりとな。
 試読でご覧になりたくない方は、以下ご注意願います。












               *

 吾輩は猫である。名前はナナという。――と、この国で一番えらい猫の真似をしてみたものの、だめだな。この語り口って名前がある猫じゃいまいち締まらないや。大体、イマドキ吾輩なんて自称はよっぽどの年寄り猫でも使わない。僕はまだまだヤングな猫なので懐古主義には蓋をすることにしよう。
 ちなみに僕と自称するれっきとした雄猫なのに「ナナ」なんて女の子みたいな名前であることについては、僕の責任の及ぶところではない。
 いい奴だけど、センスはちょっと微妙な僕の飼い主たるサトルが、僕の意向を聞かずに勝手に付けちゃった名前なのだ。由来は僕のキュートなカギしっぽ。カギの向きが上から見ると数字の7に見えるからという安直極まりない理由でこの名前が決まってしまった。
 名前のセンスには若干の難があったものの、サトルは猫のルームメイトとして申し分ない人間で、僕もまた人間のルームメイトとして申し分ない猫だった。
 僕らはこの五年間、実に快適な共同生活を送ってきたのだが、とある事情でその生活に翳りが差した。
 サトルはよんどころない事情で僕を飼えなくなった。その事情が発覚してからのサトルの行動は早かった。ありとあらゆるツテを使って僕のもらい手を募ったのだ。引き取ってくれるという申し出に対して、サトルは順番に僕を連れて「見合い」に回っている。
 正直言って余計なお世話である。僕は成猫になってからサトルに拾われた。つまり、サトルと出会う前までは立派な野良だったのである。そして飼い猫になったとはいえ、僕の野性は決して衰えていない。
 サトルが僕と暮らせなくなったなら、僕は野良に戻るまでだ。それなのにサトルは自分の心配はそっちのけで僕の行く末ばかり心配する。見くびられたもんだよ、ホント。
 そんなわけで、サトルは僕を連れて知り合いのところを渡り歩いている。もちろん、僕の側に見合いを成立させるつもりはない。今まで見合いは都合三回、全部破談にしてやった。
 移動に使うのは決まって銀色のワゴンである。長距離のときは猫トイレまで持ち込んで、僕のための設備はバッチリだ。
 見合いはいいかげん諦めろよと思うけど、銀色のワゴンでドライブをするのは悪くないので、今のところは文句を言わずに付き合ってやっている。
 おかげで僕は、普通の猫の縄張りからするとちょっと考えられないほどいろんなものを見た。サトルが子供の頃に住んでいた町を二つ、農村を一つ、畑に田んぼ、海に富士山。僕は街中育ちの猫なので、本当なら生活圏内にない景色は死ぬまで生で見ることなんかなかったはずだ。
 きっと僕は、日本で一番いろんな景色を見た猫だ。僕はサトルと一緒に見た景色を絶対に一生忘れない。
 そして僕らは四回目の旅に出た。
 銀色のワゴンが目指す方向は西だ。僕たちは昼過ぎに東京を出発して、夕方にはちょうど沈む夕日を追いかけて走るような具合になった。
 運転しているサトルの横顔は夕日に照りつけられてみかん色だ。運転席の庇を下ろしてもまだ眩しいらしく、ずっと目をしぱしぱさせている。
 助手席で箱になっている僕をちらりと見て、サトルが笑った。
「目が糸みたいになってるぞ、ナナ」
 僕たち猫の目は明るさに応じて見える光の量を調節できる優れものだ。明るいところでは瞳孔がきゅっと細くなり、暗いところでは丸々と太くなる。
 僕の目は今、限界まで縦に細くなっているはずである。
「男の目には糸を引け、女の目には鈴を張れっていうけど、ナナは必要なときに勝手に糸になるから便利だね」
 まあね、と僕はヒゲをぴくぴく動かした。サトルの目は眩しくても糸にならないから不便だね。こんなときは目玉を交換してやれたらいいのに。僕は眩しくっても助手席でとぐろを巻いて寝ていればいいだけの話だからね。