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実は「解けない数学」という言葉は私もそういうことを考えて



小林:そうですね。日本の場合、たとえば沖縄では言葉も制限されて琉球人ではなくて「日本人」になるために戦争に加担していくという状況が見られますけども、それがいわゆる台湾でも、もちろんサハリンでもそうですけど見られるわけですね。その時に陳清香さんは、人生を「解けない数学のようだ」と言った方ですが、とても僕、大好きな気丈な女性ですけどね、それほどの教育だったということですね。
それからいわゆる高砂族と呼ばれていた少数民族のパイワン族出身のタリグさん、まぁすっごいカッコイイですね。あの獣の帽子を被っていて最後に涙を流しながら言いますね。つまり「みんな知ってるんだ。私たちは日本のそういうことの中で戦争に行ったけれども、自分はあくまでも原住民だということを忘れたことはない」と、あれは本音だと思うんですけれども、つまりそうしないと台湾を守れなかったというふうなことも含めてですね。彼の場合は原住民であり、台湾人であり日本人であるという三つのアイディンティティがあるわけなんですね。
そういう複雑さも出てきましたけども、この中で酒井監督はこの映画を撮ってみて、「やはり日本人であることを一番考えていた」というふうに仰ってる記事があったんですけども、その辺についてちょっとお話しいただいてもいいですか?

酒井:はい、そうですね。楊足妹(ヤン・ツィメー)さんというお茶摘みをしているおばあちゃんは、、、

小林:あの人もいいねえ。

酒井:またちょっと後で彼女についてお話しさせていただきたいと思うんですけども、彼女を除く4人の方は特にそうなんですけれども、とにかく日本時代においては自分たちは日本人だと思って生きてきたってということをずっと仰るんですね。ずっと取材をしていて思ったのは、彼らはやっぱり自分たちが日本人だということを意識しなければ日本人としていられなかった部分があったんじゃないか、ということをすごく思ったんです。私は生まれてこの方、日本でずっと暮らして日本語を普通に話して日本人の両親の元で育ってという環境の中で、自分が日本人であることを意識しなければならない場面というのが実は無かったんですね。今回初めてこの台湾の日本語世代の人たちに出会ってお話しを聞いていくうちに、自分が日本人であることが一体どういうことなんだろうということをすごく考えさせられました。
あとはやっぱり今、私たちが暮らしている日本という国。特に戦後の日本は、戦争で負けたことによっていろんなものを切り捨てたわけなんですけども、その中に台湾の日本語世代の「捨てられた」っていうことが象徴されることがあるわけなんですが、その二つですね。
自分が日本人であるっていうことと、今自分が暮らしている日本というここは一体なんなんだろうということ。実は「解けない数学」という言葉は私もそういうことを考えてグジャグジャになった気持ちも込めた「解けない数学」なんです。

小林:うーん、そうですね。この映画の冒頭が小学校の同級会で、年配の方々がみな達者な日本語を喋っていました。「日本語はプロペラ(ぺらぺら)ですよ」(笑)という言葉もありましたけど、まずそこにびっくりしますよね。そういうのが実は劇映画では撮られていたと思うんですけども、今回あらためてドキュメンタリー映画でこういう形になってみると、その衝撃はやっぱり日本を駆け巡って東京では大ロングランのロードショーになっているわけなんですが。

酒井:ありがとうございます。

小林:それにしてもねえ、この出てくる一人一人が魅力的ですよね。二・ニ八の記念館で案内係りをやっている蕭錦文(ショウ・キンブン)さん、最後にやっぱり泣きますね、殺された弟のこととか。そうですね、やっぱり酒井監督とスタッフが取材を通して彼との関係が深まったと思うのですが、蕭さんが最後に「あなたたちに言ってるわけじゃないんだけども、日本政府には言いたい」とかね。そんな形で言っていますけども、その辺の距離感といいますかね、それがやはり酒井監督の今日の映画の最もコアな部分じゃないかと思うのですが、そこの部分についてはどんなことを意識しましたか?

酒井:そうですね。あの終始お話を伺うという、そこの基本姿勢を忘れないようにということを心がけて、皆さんお年寄りなのでやっぱり丁寧に聞いていかないと。言葉はやっぱり出にくかったりするんですね。なので何度も何度も同じことを聞いて語っていただいて、いよいよ最後に、じゃぁちょっとカメラを廻してみましょうか、その前にもう1回また同じようなことをお聞きしてもいいですかって、話していただいたんです。
蕭錦文さんという方、元日本兵の方なんですけども、総統府、昔の日本の総統府を案内されている時はどちらかというとやっぱり自分が元日本兵である、もちろんそうなんですよ、日本兵であったことをすごく誇りに思ってらっしゃって、かつ大東亜戦争というふうに彼は言うのですけれども、「大東亜戦争はアジアの国々にとって必要だった」ってことを仰るんですね。だから私なんかは最初に聞いた時はちょっとビックリするような、たとえば「どうして日本が戦争したのかわかってるかい? 列強に結局追いつめられてどうしようもなく戦争に陥ってしまったんだ」っていうようなことを仰って、日本は仕方なく戦争に陥ってしまったんだけれども、その大東亜共栄圏のためにということで僕たちは戦ったんだよってことを仰って、決して日本政府を非難する言葉っていうのは聞けなかったんですよね。  
だけどずーっと話を聞いていった中で、最後に出てくるような、「あなたたち日本人に対しては親しみを覚えるけども日本政府に対しては納得ができない」っていう言葉を、本当に最後の最後に聞かせてくれた言葉が出てきたんだと思うんですけども、それは私が日本人であり、日本語で尋ね、日本語で答えてもらうっていう作業の中で出てきた言葉じゃないかと思うんですね。

小林:その中でやはり蕭さんに代表されますけども、日本政府から一言「すまなかった」といって欲しいだけなんだっていうふうにね。日本はそのことをどこに対しても何もしてないゆえに、戦後60年以上経ってもまだ戦争が終わってないということでしょうねえ。一方では小松原先生を非常に慕っている宋さんが死の病床にまでお見舞いに出かけて看取った。その時に小松原先生が「宋君もういいよ、もういいよ」というふうに言ったということを、宋さんは二回繰り返して語っていますね。

酒井:はい。

小林:その時に、この映画全体を眺めて見た時に、何かその国家と国家というものの中に翻弄された人たちが描かれているわけですけども、やはり一人一人を見れば国境を超え民族を超え、そういう心の交流があったということをまた示していると思うんですね。だから我々はちょっと回答ふうに言うのも嫌なんですけど、それぞれの国があって、それぞれの政府が代表しているような形になって、マスコミがそれをフォローしている、解説していることなんですけれども、実に台湾のことは何も知らないし、朝鮮や中国のことはまだまだ知らないのだろうと思いますね。
だから本当に大事なのはこんなふうに戦争とか植民地という考え、そういう時代ではなくお互いがいろいろ行き来してですね、知り合っていくというそういうことなんだろうな、とちょっと思ったんですね。とにかく最初に出てくる楊さんというお茶摘みをね、あの人なんで出てくるのかといつもずっと思っていたわけ。でもいつも出て来ると働いているのね、それで「いつも働いていますよ」と彼女は言うわけだよね。そこが僕、すごく良かったと思うしね。まあお転婆だった陳さんねぇ、「ホントにもう靖国おおいに首相は行ってほしい」とはね、なんかこう日本の持っているアイディンティティーの裏の裏をね、彼らの方がギューッと握ってるようなそんな感じがしますね。だから裏返しですよね。この映画を観るというのはね。

酒井:そうですね、なので本当に私は今回の台湾のお年寄りに向かい合ったことによって初めて日本を考えた、考えさせられたという体験を同時にしましたね。さっきちょっと楊さんのお話が出たんですけども、私は実は今回、茶摘みをしている楊おばさんに出会った時、彼女が一番最後に出会ってるわけなんですけども、彼女に出会って初めて、「あぁ、これで映画が作れる」って感じたんです。彼女は本当に雄弁に語るわけでもないし、歴史に翻弄された人生を送ってるわけでもないんですね。もちろんご覧になった皆さん、おわかりだと思うんですけども彼女は日本時代であろうが、国民党時代であろうが、時代に関係なくずっとあの場所で台湾の地に向かって、日本時代はコーヒー農場で戦後は茶摘みという仕事で、ずっとあの土地に向かって働いてきた方なんですね。彼女のこんがり日焼けした笑顔を見た時に、「ああこの人が台湾の大地だ」っていうふうに私には思えて、、、

小林:なるほど。

酒井:そうなんです。彼女がいてくれたから他のおじいちゃん、おばあちゃんたちが語る言葉というのがさらに生きてくるんじゃないか、だからたぶん、楊さんがいた中で4人の方々が自分たちの思いを語るっていう構成が初めて出来たっていうふうに、、、

小林:う~ん、そうか、やっぱりそういうことだったんだな、ねえ。

酒井:ちょっと編集狙ったんです、すみません。

小林:いやいや。「働いている」しか言わないのね彼女はね。

酒井:今回実は日本語でしか私は取材をしないと決めたんですね。これはある意味傲慢なところでもあるんですけれども、通訳をつけなかったんです。楊おばさんは元々ハッカの、ハッカというのはお客さんの客に家と書きますが、客家(はっか)人という中国の漢民族系の中でもまたちょっと特殊な人たちなんですけども、その客家の人で客家語なんですね、普段は。もしかすると客家語の通訳を連れて行っていろんなことを聞けば、実はすごくいろんなことを語って下さったかもしれないんですけども、日本語を媒介にして取材をしていくっていう中においては彼女とのコミュニケーションはあのぐらいになって、ただやっぱり彼女が働いている姿に、いろんなものが込められてると思ったので、彼女の場合は言葉ではなくその茶畑で働いてる姿を皆さんにみていただければなあと思いました。

小林:そうですね。椰子の実があり下に茶畑が広がっている。本当に大地でしたね。
(つづく)

第14回長岡アジア映画祭 2009年9月17日
「台湾人生」上映後 酒井充子監督×小林茂監督対談

「台湾人生」公式HP http://www.taiwan-jinsei.com/

2010.02.17 | Trackback(0) | 長岡アジア映画祭

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