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そういう時代の中でも「人と人との繋がり」がきちんとそこにあったと、



小林:お忙しい中、おいでいただきありがとうございます。歴史に詳しい方もいらっしゃるかと思いますが、台湾はなかなか複雑な歴史を経ていますね。簡単にご紹介いただいてよろしいでしょうか。

酒井:はい。

小林:日清戦争後、1895年ですか。

酒井:おそらく皆さん、中学・高校の社会科の歴史の教科書の中で、1895年、下関条約を清の国の李鴻章と日本の伊藤博文が下関条約を結んで、その時に清の国から日本に台湾と澎湖諸島が割譲されたっていうふうに記述が出ていたと思います。少しその前のことをお伝えしますと、清の国の領土ということで台湾があったんですけれども、当時は原住民の人たち、それぞれの部族がぞれぞれの言葉を話していました。大陸から渡って来た漢民族系のいわゆる台湾人は、福建省の南の方から伝わってきた閩南(みんなん)語という、今は台湾語というふうに言うんですけども、そういう言葉を喋っていて、みんなそれぞれ別々の生活をしていました。一応、清国という統治が行われて、まぁ統治といっても統一した何か政治は行われてなかったんですけども、それで日清戦争が起こって下関条約を結んだ時に、清国は台湾を重視していなかったこともあって、日本に対して台湾を割譲したんですね。
その後、日本が51年間台湾を統治したわけです。日本が初めて列強に肩を並べて、植民地を持つという体験をしたということがありまして、インフラを整備したりですとか、上下水道を完備したり、鉄道を通したりということもありました。あと徹底的な日本語教育を行う中で、最終的には天皇の子であるという教育がなされました。当時の戦争の時代には日本でも天皇のためにという教育がされたと思うんですけれども、台湾も全く同じで、天皇の子であるという前提で日本語教育を行っていたわけなんですね。
この映画に出てきた人たちの世代は日本的な精神を徹底的に注入されています。日本時代が終わって、やがて蒋介石の国民党が入ってくることになるのですが、当時、台湾の人たちは日本が出ていくことを本当に心から喜んだそうです。ただ、その後にやってきた国民党のやったことがあまりにもひどかったということがあって、蒋介石が台湾に来るんだったら、まだ日本時代の方が良かったという意味もあって、日本時代をすごく懐かしむという気持ちが強くなったんだと思います。

小林:1945年に台湾は日本から解放されるわけですよね。その後、毛沢東の中国共産党に敗れた蒋介石が大陸から台湾へ入ってくる。そして映画の中に出て来ましたけれども、ある煙草屋の方を、あれは殺害ですかね。

酒井:そうですね。闇タバコを売っていた女性を取締官がきつく詰問しているところに、なんだなんだと、わらわらと人が集まってきて、国民党の取締官が群衆に向けて威嚇発砲をしたら、ある一人の青年に弾が当たって亡くなったということなんですね。その事件がきっかけになったわけなんです。それが1947年、戦争が終わって2年後なんですけれども。

小林:それが二・ニ八事件ですね。数万人を処刑したといわれる白色テロの時代。

酒井:はい。そのきっかけになった事件ですね。

小林:その後、国民党が一党独裁、軍事独裁的な政権を1987年ぐらいまでずっとやるわけなんで、日本はその間、中国と1972年に国交回復をして、まぁ台湾を認めないという立場になったわけなんですよね。

酒井:あのう、誤解があるんですけど、日本政府の公式な見解としては台湾を認めないというわけではないんですね。中華人民共和国が「台湾は中国の一部である」ことを認めなさいというふうに日本に対して言った時に、日本はどういうふうに言ったかというと「中華人民共和国の言い分を理解して尊重する」って言ったんですよ。だから、これは非常に日本的な言い方なんですけども、理解して尊重するけど認めるとは言ってないっていう言い方なんですね。ただ理解して尊重するって言ったら相手はどうとるかっていうのはまた別のことだと思いますけども。

小林:そうですね。少し歴史が細かくなりましたので元へ戻りたいと思いますけど。

酒井:はい。

小林:なんで歴史的な話をしたかというと、映画の中で多くの台湾の人たちが「日本に捨てられた」というふうに言ってますね。それで、こういう日本と台湾の関係をひとつ踏まえてお話を聞きたいと思いましたので。
さて酒井監督は実に多彩な経歴の持ち主で、慶應大学を出られてから会社勤めをされた後、北海道新聞にお入りになるわけですよね、そこもちょっと変わってますけど函館支局に行かれたんですかね。

酒井:はい、函館に4年間勤務しました。

小林:そうですか。それでどうして映画の世界に入ろうと思ったんですか?

酒井:函館も長岡と同じで毎年映画祭が開かれているんですね。当時は「函館ロープウェイ映画祭」という名前で、今は「函館港イルミナシオン映画祭」といって12月上旬に毎年開かれています。私が函館に勤務した当時、映画祭というと、こういう風に映画を作った監督とかプロデューサーがいらっしゃって会場で映画ファンと交流をされるわけなんですけど、私は新聞記者としてそういう方たちに取材として話を聞く機会があったということです。それから函館という土地柄、年間何本も映画のロケがあるんですね。映画を作っている現場を取材するということもたくさんありまして、もともと映画ファンだったんですけれども、映画を作るという現場に触れたり、作る人たちと直接話したりということで、自分が映画作りに魅力を感じ始めたということで、なので函館にいた時に映画作りに目覚めました。

小林:そうでしたね。北海道新聞社を辞めて、東京で映画のワークショップにお入りになった。その辺の酒井さんの行動力というか、この映画のテーマへの向きあい方と非常に似ているなと思うんですね。そのなんていうか、酒井さんの生き方に強さがある。「台湾人生」の中で、とても成績優秀だった陳清香(チン・セイコー)さん、彼女は最後に自分のアイディンティティ(国などによる自己認識形成)について「解けない数学のようだ」というふうに言っておりましたけど、似ているものを感じます。
今回の映画を撮りに行く前に、台湾の映画を観てそれで現場に行ったと、その辺はちょっとミーハー的なところもあるんですか、どうなんですか?

酒井:そうですね。私が台湾に出会ったきっかけというのは蔡明亮(ツァイ・ミンリャン)という映画監督の「愛情萬歳」という作品で、これは台北を舞台にして都会に暮らす若者の孤独みたいなものを描いた作品なんですけども、1998年に、たまたま友たちがビデオを貸してくれまして、それを見てどうしてもその舞台に、その映画に共感したというのが大きいですけども、その映画の舞台になっていた台北をぜひ自分の足で歩いてみたいと思って、それでフラッと一人で行ったのが一番最初の台湾体験なんです。

小林:そこでちょっとした体験があったということでしたね。

酒井:そうですね。全く意識はしてなかったのですけども、あるバス停でバスを待っていたら一人のおじいちゃんがバス停の近くのお家から出てこられまして、遠くから私が日本人だっていうふうにわかったとおっしゃったんでんですけども、本当に流暢な日本語で「日本からお越しなんですか?」というふうに話しかけてきて下さったんですね。それで、まぁそうですというふうにお話しをしていたら、その方が当時たぶん70代の前半くらいの方だったと思うんですけども、「自分が子どもの時にすごく可愛がってくれた日本人の先生がいた」と、「その先生が日本の敗戦の時に日本へ引き揚げてしまって連絡先がわからなくなってもう会えていないんだけれども、僕は今でもその先生にすごく会いたいんだ」っていうことをバス停での立ち話だったのですけども滔々と語って下さって、当時戦後もう53年経ってたのですけども、子どもの時の先生のことを今でも思い続けてらっしゃる方が台湾にいることを初めて知って、そんな気持ちを持った方がいる台湾という国はいったいどんなところなんだというところから台湾に興味を改めて持ちまして、日本に戻って来てから、台湾のことをもっと知りたいと思って調べ始めました。

小林:そうですね。古い写真もたくさん見せていただいたんですけども、そのおじいさんにはその後会えなかったと聞いているんですけが。

酒井:会えてないんです。そうなんです。

小林:でも、この映画の中で終わりの方に出てきますが、宋定國(ソウ・テイコク)さんという方が、夜間中学に進学する時に、お金が無くてあきらめようと思って、恩師の小松原先生に言いに行きますが、5円ですか、当時の大金をポケットに突っこまれて「宋君、がんばりなさい!」って言われたという、あのシーンはやっぱりこの映画の中で一番思い出に残るところだと思います。全く似たような感じの人なんですけど、この人じゃないんですよね。宋さんは台湾に来た千葉県の学校の先生の一団に出会って、小松原先生の行方がわかり訪ねています。小松原先生は日本にもどっても千葉県で先生を続けておられたようですね。宋さんは先生の最期の病床にも付き添っています。

酒井:そうなんです、本当に。宋定國さんは毎年小松原先生のお墓参りをされているわけなんですけれども、実は決して特別な方ではなくて台湾からそうやって日本に恩師の方のお墓参りをしに来られる方はたくさんいらっしゃいますし、恩師がまだ90歳、100歳でお元気な場合は会いに来られている方はたくさんいらっしゃいます。
ただ、どうして私はこういう宋さんみたいな方に出てもらったかと言いますと、植民地統治というのは絶対にあってはならないものだと私は思っているんですけれども、そういう時代の中でも「人と人との繋がり」がきちんとそこにあったと、だからこそ、そういう宋さんがお墓参りを今でも続けてらっしゃるという行為に結びつくんだと思うんですね。だからその「人と人との繋がり」みたいなものが、かつてやっぱりあったんだということを撮りたいと思ったんです。
一方で実は、今回映画には出ていただけなかったんですけれども、同じような世代の方で、当時、中学生で太平洋戦争が始まってという時代ですが、ある日先生から呼び出されたそうなんですね。その方が先生から「特攻隊に志願しないか」っていうふうに言われたそうなんです。本人はびっくりしてしまって「今即答できないので父に相談してからお返事をしたいです」とお答えしたら、後日先生が直接お家に来られて、お父さんが直接お話しされたそうなんですけども、私が話を伺った方は一家の三人兄弟の長男で、お父さんが先生に仰ったのは「この子は家の長男です」と、「次男三男だったら喜んで差し出すんですけれども、この子は家を継いでもらわなければならない子なんで、申し訳ありませんが戦争に行かせるわけにはいきません」と言ってお父さんがきっぱり先生に断ったそうなんです。「その親父の言葉で僕は今、生きてるんだよ」とお話し下さいました。
そのことがあった後日、同じクラスから突然二人がいなくなったそうなんですね。彼が知ったのは後からで「その二人は特攻隊に志願して二度と戻って来なかった」っていうことを、涙ながらにお話し下さったんです。やはり当時同じ教師の立場でも子どもたちを戦争に送り込む、送りこまなきゃいけないっていう人たちがいたこともまた事実なんだということを、もう一つお伝えしておきたいと思います。
(つづく)

第14回長岡アジア映画祭 2009年9月17日
「台湾人生」上映後 酒井充子監督×小林茂監督対談

「台湾人生」公式HP http://www.taiwan-jinsei.com/

2010.02.16 | Trackback(0) | 長岡アジア映画祭

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