2009年 02月 08日
中国女性の服飾~チャイナドレスへの道~
|
このブログで取り上げてきた「萌え」な服装といえばまずメイド服、次に巫女装束やセーラー服がくると思われます。さて、これらと同様に「萌え」る装束としてチャイナドレスを連想する人もいるのではないでしょうか。実際、漫画「仮面のメイドガイ」でも普段はメイドさんや乳の魅力を称えていますがチャイナドレスにも言及した事があります。曰く、
これに加え、よりマニアックな意見も。
ここまでくると内容の一般性に疑問がつきますが。というかセクハラじゃないでしょうか。
という訳で、今回はチャイナドレスが登場するまでの中国女性の服飾をごく大雑把に述べたいと思います。
さて、現在のチャイナドレスは体の線を強調し曲線美で我々を魅了していますが、中国女性の服装は寧ろ直線状の輪郭で体の線を見せないのが伝統であったようです。また西洋の服と異なり、ボタンで留める事をせず裾を合わせて帯で結ぶのが特徴で、これはわが国と共通しています(というよりわが国が中国の影響を受けたんですけどね)。
ます、古代中国における貴族女性の装束として一般的なのが深衣です。深衣とはスリットがあり丈が長い衣であり、わが国の十二単のようにこれを何枚も重ねて着るのが通例でした。この深衣が定着したのが春秋戦国時代であるといわれ、漢代にも広く用いられました。また漢代には深衣の他に上下一体となった袿衣もしばしば見られたようです。
魏晋南北朝に始まる中世になると、やや変化が見られます。深衣も従来通り用いられましたが、それに加えて襦(長さが腰までの上着)や裙(スカート状、下半身に身につける)を着用する事が多くなったのです。また、普段着として丈の長い衫も用いられました。
中世後期にあたる唐の時代になると、中国史の中では例外的に開放的な風潮が見られ、女性の襦裙も胸元をはだけたものがしばしば見られました。また、上半身に胸当てをつけた上に透過性のある紗羅の衫を羽織って体の線を見せるという大胆な格好もあったようです。
こうした中で女性の豊満な肉体を詩に詠み込む男たちも現れました。例えば方干曽は「贈美人」で「白粉をつけた胸は半ば開き、まるで雪とみまがう」と詠んでおり、欧陽詞は「南郷子」において「十六歳の少女は、胸が雪のように白く、顔が花のように美しい」と謳い上げています。まるで西洋の詩人たちのように素直に女性の乳を称えていますね。胸の谷間が垣間見える格好やらスケスケの上着から覗く下着姿やらに目がくらみ「おっぱい!おっぱい!」と喜んでいる男達の姿が眼に浮かびます。余談ですが、中国においては西洋程には女性の乳に男が強い関心を示す傾向は見られません。とはいえ、性愛書において乳房は交接時に刺激する部位としてしばしば挙げられていますから性的な関心が皆無という訳ではなかったのでしょう。で、異民族文化も流入し開放的になったこの時期に例外的に乳への興味が一気に表に出たということなのでしょうか。
…すみません、話が逸れました。中国女性の装束に話題を戻します。近世に入ると再び女性の服装は従来のように体の線を覆い隠すものに戻っていきます。また五代時代あたりから女性の足を小さいまま留めるための「纏足」が徐々に広まったようです。
宋代には襦・裙・衫に加えてまっすぐな上着である背子が上流階級の女性に普及。明になると更に袖がなく前ボタン付きの上着である比甲が広まり、様々な色の布を縫い合わせて作られたようです。とはいえ、真紅や黄色・黒青は禁じられ紫や緑といった色に限られているなど色彩の制約が課されていましたが。
そして清代になると満州族が中国を支配しますが、満州族のエリートである八旗の女性が着用した服装は「旗袍」と呼ばれました。旗袍は丈が長く足まで届き、ゆったりとした衣であり筒のように真っ直ぐな線を描き出して体の曲線を隠すものでした。一方、遊牧文明出身であることから騎乗を意識して下肢の横にスリットが少し入れられていました。当初は八旗女性だけであったのが次第に満州族女性全体に広がり、1920年代になると漢民族の間でも採用されるようになりました。そんな中で1929年、蒋介石は教育・産業を軸に近代化を推進する一環として「服制条例」を発布し、旗袍を女子公務員の制服・礼服として定めました。こうして旗袍は中国女性の正装として公認されるに至ります。
この頃になると、生き残りのため西洋文明を積極的に採用する風潮があり服装に関しても体のラインを強調して曲線美を重んじる西洋的価値観が広がっていました。この中で旗袍もまた丈が短くなり、腰もきつくなるなど体の線に合ったきついものに変化していきます。蒋介石が近代化の一つとして旗袍に目を付けた背景にはそうした傾向がありました。そしてこの流れは止まることなく、1940年代には袖がなくなり50年代になるとスリットが股の高さにまでいたって、元来は騎乗の邪魔にならないための実用目的であったスリットも脚線美を見せるためのものとなったのです。こうして満州族の装束であった旗袍は、西洋の価値観を吸収する事で今日親しまれている「チャイナドレス」へと変貌したのです。
因みにチャイナドレスは女性美を現すのに優れているだけでなく経済的でもあり、1917年から上海で長く書店を経営し中国人たちと親交を結んだ内山完三によれば浴衣地一反からチャイナドレス二着を作ることが出来たそうです。
以上のように、チャイナドレスは満州族の衣装に西洋的趣味を加えたもので中国の伝統と呼ぶのには少々問題がありそうです。それにしても、近代とは全世界を西洋文明が覆った時代でしたが、女性美の基準、更に言えば性的関心という人間にとって本能的なレベルまで影響を与えたという事が言えそうですね。
【参考文献】
中国服飾史 華梅著 施潔民訳 白帝社
中国歴代服飾 学林
週刊朝日百科世界の歴史109 19世紀の世界2 生活 繁栄の町・貧困の町 朝日新聞社
中国の性愛術 土屋英明 新潮選書
仮面のメイドガイ 赤衣丸歩郎 角川書店
関連記事:
「国粋的にメイドの侵略に対抗を図る(笑)」
「巫女装束の歴史的変遷(の一部)」
「萌える大英帝国 セーラー服&メイド服成立史」
「乳をこよなく愛した人々の話 in 西洋史」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「中国民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020607.html)
「物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/kouroumu.html)
関連サイト:
「おはようwwwお前らwwwwwwww」(http://kaisun1192.blog121.fc2.com/)より
「チャイナドレスの画像下さい [R-18]」
(http://kaisun1192.blog121.fc2.com/blog-entry-695.html)
数多くのチャイナドレス画像があります。18歳未満はダメみたいです。…何か違うのが混じっている気もしますが。
<追記>本文内容を追加し、参考文献も一つ増やしました。
チャイナドレス……並みのロングスカートを
凌駕する裾の長さを誇りつつ
かつ その 切れ上がった スリットからは
キラリと輝く脚線美!!
(「仮面のメイドガイ」七巻P31)
これに加え、よりマニアックな意見も。
チャイナ服の魅力とは その斬新なフォルムも
さることながら なんと言っても
清らか極まる布地の 手触り肌触り!
(同P43)
ここまでくると内容の一般性に疑問がつきますが。というかセクハラじゃないでしょうか。
という訳で、今回はチャイナドレスが登場するまでの中国女性の服飾をごく大雑把に述べたいと思います。
さて、現在のチャイナドレスは体の線を強調し曲線美で我々を魅了していますが、中国女性の服装は寧ろ直線状の輪郭で体の線を見せないのが伝統であったようです。また西洋の服と異なり、ボタンで留める事をせず裾を合わせて帯で結ぶのが特徴で、これはわが国と共通しています(というよりわが国が中国の影響を受けたんですけどね)。
ます、古代中国における貴族女性の装束として一般的なのが深衣です。深衣とはスリットがあり丈が長い衣であり、わが国の十二単のようにこれを何枚も重ねて着るのが通例でした。この深衣が定着したのが春秋戦国時代であるといわれ、漢代にも広く用いられました。また漢代には深衣の他に上下一体となった袿衣もしばしば見られたようです。
魏晋南北朝に始まる中世になると、やや変化が見られます。深衣も従来通り用いられましたが、それに加えて襦(長さが腰までの上着)や裙(スカート状、下半身に身につける)を着用する事が多くなったのです。また、普段着として丈の長い衫も用いられました。
中世後期にあたる唐の時代になると、中国史の中では例外的に開放的な風潮が見られ、女性の襦裙も胸元をはだけたものがしばしば見られました。また、上半身に胸当てをつけた上に透過性のある紗羅の衫を羽織って体の線を見せるという大胆な格好もあったようです。
こうした中で女性の豊満な肉体を詩に詠み込む男たちも現れました。例えば方干曽は「贈美人」で「白粉をつけた胸は半ば開き、まるで雪とみまがう」と詠んでおり、欧陽詞は「南郷子」において「十六歳の少女は、胸が雪のように白く、顔が花のように美しい」と謳い上げています。まるで西洋の詩人たちのように素直に女性の乳を称えていますね。胸の谷間が垣間見える格好やらスケスケの上着から覗く下着姿やらに目がくらみ「おっぱい!おっぱい!」と喜んでいる男達の姿が眼に浮かびます。余談ですが、中国においては西洋程には女性の乳に男が強い関心を示す傾向は見られません。とはいえ、性愛書において乳房は交接時に刺激する部位としてしばしば挙げられていますから性的な関心が皆無という訳ではなかったのでしょう。で、異民族文化も流入し開放的になったこの時期に例外的に乳への興味が一気に表に出たということなのでしょうか。
…すみません、話が逸れました。中国女性の装束に話題を戻します。近世に入ると再び女性の服装は従来のように体の線を覆い隠すものに戻っていきます。また五代時代あたりから女性の足を小さいまま留めるための「纏足」が徐々に広まったようです。
宋代には襦・裙・衫に加えてまっすぐな上着である背子が上流階級の女性に普及。明になると更に袖がなく前ボタン付きの上着である比甲が広まり、様々な色の布を縫い合わせて作られたようです。とはいえ、真紅や黄色・黒青は禁じられ紫や緑といった色に限られているなど色彩の制約が課されていましたが。
そして清代になると満州族が中国を支配しますが、満州族のエリートである八旗の女性が着用した服装は「旗袍」と呼ばれました。旗袍は丈が長く足まで届き、ゆったりとした衣であり筒のように真っ直ぐな線を描き出して体の曲線を隠すものでした。一方、遊牧文明出身であることから騎乗を意識して下肢の横にスリットが少し入れられていました。当初は八旗女性だけであったのが次第に満州族女性全体に広がり、1920年代になると漢民族の間でも採用されるようになりました。そんな中で1929年、蒋介石は教育・産業を軸に近代化を推進する一環として「服制条例」を発布し、旗袍を女子公務員の制服・礼服として定めました。こうして旗袍は中国女性の正装として公認されるに至ります。
この頃になると、生き残りのため西洋文明を積極的に採用する風潮があり服装に関しても体のラインを強調して曲線美を重んじる西洋的価値観が広がっていました。この中で旗袍もまた丈が短くなり、腰もきつくなるなど体の線に合ったきついものに変化していきます。蒋介石が近代化の一つとして旗袍に目を付けた背景にはそうした傾向がありました。そしてこの流れは止まることなく、1940年代には袖がなくなり50年代になるとスリットが股の高さにまでいたって、元来は騎乗の邪魔にならないための実用目的であったスリットも脚線美を見せるためのものとなったのです。こうして満州族の装束であった旗袍は、西洋の価値観を吸収する事で今日親しまれている「チャイナドレス」へと変貌したのです。
因みにチャイナドレスは女性美を現すのに優れているだけでなく経済的でもあり、1917年から上海で長く書店を経営し中国人たちと親交を結んだ内山完三によれば浴衣地一反からチャイナドレス二着を作ることが出来たそうです。
以上のように、チャイナドレスは満州族の衣装に西洋的趣味を加えたもので中国の伝統と呼ぶのには少々問題がありそうです。それにしても、近代とは全世界を西洋文明が覆った時代でしたが、女性美の基準、更に言えば性的関心という人間にとって本能的なレベルまで影響を与えたという事が言えそうですね。
【参考文献】
中国服飾史 華梅著 施潔民訳 白帝社
中国歴代服飾 学林
週刊朝日百科世界の歴史109 19世紀の世界2 生活 繁栄の町・貧困の町 朝日新聞社
中国の性愛術 土屋英明 新潮選書
仮面のメイドガイ 赤衣丸歩郎 角川書店
関連記事:
「国粋的にメイドの侵略に対抗を図る(笑)」
「巫女装束の歴史的変遷(の一部)」
「萌える大英帝国 セーラー服&メイド服成立史」
「乳をこよなく愛した人々の話 in 西洋史」
歴史研究会・とらっしゅばすけっと関連発表:
「中国民衆文化史」
(http://kyoto.cool.ne.jp/rekiken/data/2002/020607.html)
「物語の消費形態について―いわゆるオタクを時間的・空間的に相対化する試み―」
(http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/kouroumu.html)
関連サイト:
「おはようwwwお前らwwwwwwww」(http://kaisun1192.blog121.fc2.com/)より
「チャイナドレスの画像下さい [R-18]」
(http://kaisun1192.blog121.fc2.com/blog-entry-695.html)
数多くのチャイナドレス画像があります。18歳未満はダメみたいです。…何か違うのが混じっている気もしますが。
<追記>本文内容を追加し、参考文献も一つ増やしました。
by trushbasket
| 2009-02-08 10:03
| NF