17/01/13 追記

SNS等にて当ブログをご紹介下さり、まことにありがとうございます。
勘違いされている方が居らっしゃるようなので明言させて頂きますが、
私の夫は当該ゲーム開発チームの一スタッフにすぎません


また、当記事は本文中にネタバレを含みますのでご留意下さい。



序) 「自殺するならこういう時なのかもしれない」



「自殺するならこういう時なのかもしれない」

長年とあるゲームの開発に従事した旦那が、晴れてタイトルリリースを迎えたその日、突然そう言った。

 ひとつの仕事を成し遂げ、尊敬できる仲間や愛すべき家族がおり、今の自分には何の不安も恐れもない。
 燃え尽き症候群じゃないけれど、心が小気味よく凪いでいて、自殺するとしたら、こんな時なのかもしれない。

自分にはこれしかないと身一つで業界に飛び込んだ、単なるゲームバカ。
「俺は死ぬまでエンタテイナーでありたい」と、空いたティッシュ箱を履いて歩くような男が、突然そう言った。

そんな男にこうまで言わせるそのゲームとは、一体どんな代物なのだろう。
そういった単純な興味に駆られたことが、第一のきっかけである。

しかし私が約15年ぶりにゲームコントローラーを握ったことには、どこか後ろめたさの中に正当性を伴った、別の意義があった。
長い長い開発期間中、この男を拘束され、家庭や生活は蔑ろにされ続け、家事育児の9割をこなしながら自身の仕事を両立させる日々にパンク寸前だった、そんな私の〇年間に対する鎮魂のために、私はそのゲームのスタートボタンを押した。


人喰いの大鷲トリコ

1) その生き物は、得も言われぬ罪悪のようなものを纏っていた

見目が愛らしいかと言われればそうでもなく、どちらかというと禍々しかった。
羽根は燻ぶった灰のような色をしていて、大鷲というには翼は見すぼらしく、怪しく光る獣の眼と悪魔のような角を持ち、
その巨体は鳥のようで、猫のようで、犬のようで、鼠のようだった。
殆ど恐ろしい出で立ちでありながら、けれどもたったひとつの悪意なく、その生き物は少年(プレイキャラクター)を見ていた。


ゲームIQの低い私は、スタートから早々ひたすらに右往左往し、試行錯誤した。
何しろ、ゲーム画面が左から右に流れていく時代から、時が止まっているようなものなのだ。
私がまともにクリアしたゲームといえば、己の萌えのために攻略サイトを眺めながらプレイした「テイルズ オブ ジ アビス」だろうか。
他にも「戦国BASARA」シリーズや「戦国・三國無双」シリーズにも着手した経験があるが、どれもこれも途中で投げ出してしまっていた。


旦那は終始「どう遊ぼうとプレイヤーの自由だけど、出来れば自分だけの力でクリアしてほしい」と言い、
このゲームのプレイ時には自分を隣に置くように望み、実際いちいち私の隣でプレイを見守った。
私は旦那のこの言葉と行動を「己のゲーム開発における苦労を敬い労ってほしい」という意味と捉え、半ば仕方なく合意したのだった。

2) ゲームIQの低すぎる私、何もできない私

プレイ開始から暫く、これといった感情の揺さぶりも昂ぶりも得ることが出来ず、画面は荘厳かつ幻想的で美しくはあるが、ただそれだけ…
静寂の中に一人と一匹が取り残され、忘れ去られたような無機物と有機物が混在する世界を当所なく彷徨うだけの、そんなゲーム…


そう思っていたが、私はいつしか、
少年を「私」と呼び、大鷲を「私のトリコ」と呼んだ。


このゲームで私は、あらゆる一切の武器を持つことができなかった。
アイテムボックスは存在しない。銃はなく、剣もなく、ケアルは使えず、グミもマーボーカレーも無かった。
ゲーム進行のために私ができることといえば、トリコを呼ぶ、トリコを撫でる、トリコの背に乗る、たったこれだけである。
一人と一匹で美しいステージを彷徨うだけなら、きっとこれだけでも事足りただろう。
しかしこのゲームには、私とトリコに向けられる明らかな敵意というものが存在し、私とトリコはそれに抗う必要があった。


[中身のない空の鎧]という形で登場するその敵意は、言葉もなく執拗に私を追い回し、謎の呪詛を浴びせ続けた。
[鎧]に捕えられると怪しい扉の向こうに仕舞われてゲームオーバーとなるが、怪我をするわけでも死ぬわけでもなく、ただ、それだけだ。
この[鎧]が傷つけるのはあくまでもトリコのみであって、最初から最後まで、トリコは私のためだけに傷ついた。
ゲームオーバーになる度に、私は私の中の呪いが深くなっていくような、業が深くなっていくような、そういった恐怖を覚えた。


トリコが私のために怪我をする度に、私の口からは「ごめんね。」と言葉が漏れ、トリコの身体から槍を引き抜き、その身体を撫でてやった。
そうしてやると、乱れた毛並みは整い、傷は治癒していくように見えた。
私はせめて、トリコの身体をいつもきれいに、たったひとつの血の痕も残さずにいてやろうと、そう思った。

3) プレイ進行に伴うストレスと麻痺

一人と一匹の冒険はただひたすらに続き、仕掛けの謎解きや操作の困難さに悩まされる度、私はひどくイライラした。
ゲームIQが低すぎるせいも相まって、100人中100人がスムーズに進行できるであろう何でもない場面で、私はいちいち躓いた。
さらに言うと、「自分の力だけでクリアする」という縛りを作ってしまった為に、私にとってゲームの難易度がぐっと上がってしまったのだ。
無数の敵を薙ぎ払う爽快感も、銃で敵の頭をぶっ放す解放感もなく、解り易いストーリーに陶酔できるわけでもなかった。


困難な道中は私にとってストレスでしかなく、何よりも[空の鎧]から向けられる明確な敵意が、私の恐怖と不安を無暗に煽った。
大人になった今でもこの世で最も恐ろしいおじさんは[しまっちゃうおじさん]であると思っている私は、最初に[鎧]に捕まり扉の向こうに仕舞われた夜、その光景を夢に見てうなされた。
言葉なく追い回してくる[鎧]は私を傷つけも殺しもしないのに、[意図不明の呪詛を浴びせられるだけでどうすることもできない]という、このゲームの仕様そのものが、思いのほか私の精神を蝕んだ。
私にとって[鎧]はそれほど不可解で恐ろしく、この上なくストレスで、画面内に[鎧]を捉える度に、コントローラーを握り直し、手汗を拭い、呼吸を整え、ある時は「今日はあいつらに勝てる気がしないからまた明日」と言ってプレイを中断した。


「今日はトリコやらないの?」 「今日はそんな気分じゃない」

プレイしては中断し、日を置いてのんべんだらりと再開し、僅かに進行しては中断する。
行く先々で[鎧]に遭遇し、往く手を阻まれ、その都度に抗い、失敗しては、同じ個所を繰り返しプレイする。
繰り返されるトライアンドエラーの中で、いつしか私は、無力な自分がトリコに守られることに慣れた。
トリコが傍に居ると安心し、トリコが居ないと不安で動けなくなった。
そんな感覚に比例するように、「トリコさえいれば何とでもなる」と、[鎧]に対する恐怖心は薄れていった。


ある時から私はトリコに[指示]が出せるようになったが、私自身の戦闘能力もといゲームプレイ能力が向上したわけではない。
幾度となく失敗を繰り返しながら、ある時はトリコの背から壁をつたい、ある時はトリコの背に乗り塔から塔へ飛び移り、ある時はトリコの尻尾に掴まって、どこかを目指した。
一人と一匹は彷徨いながらも、まるでそれが本能であるかのように、ただひたすらに上を目指していた。


01

4) 私にできる、たったひとつのこと

トリコは勇敢ながらも、同時に臆病でもあった。
大[鷲]というだけあって、トリコは[目]を恐れた。
いわゆる害鳥除けの意図でぶら下げられたCDのように、ステージの各所に[目]を模した仕掛けが存在し、私とトリコを阻んだ。
私はその都度[目]を遠ざけ、時にはそれを破戒することで、トリコの恐怖心を取り除いてやる必要があった。


大変のんびりながらも、一歩づつ着実に歩みを進めていく間ずっと、私の傍らにはトリコが、トリコの傍らには私が居た。
私が恐れることを、トリコは恐れない。トリコが恐れることを、私は恐れない。
私とトリコは二人で一つだった。このゲームは、正しくそういうゲームなのだ。
この凸凹とした一人と一匹の、不器用ながらも互いを補完しあう構図に気づき始めたあたりから、
ある感覚が私の中に芽生え始めていた。


あるとき、[目]を模した盾を装備した[鎧]が現れると、トリコは怯えて身じろぎし、その戦闘能力の殆どを失った。
怯えるトリコの背の上で、私は麻痺していた恐怖が怒涛のように蘇ってくるのを感じ、同時にこう思った。 ―――私が何とかしなければ。
思考の猶予を与えられず動揺してはいたが、私は半ば無意識のうちに、トリコの背から勢いよく飛び降りていた。
夢に見てうなされるほど恐ろしかった[鎧]に向かって、私は走り出していた。

大きなトリコの足元で、小さな私は無様に足掻くことしか出来なかった。
しかしそれは囮となって[鎧]を翻弄し、偶然命中した体当たりは[目]の盾を奪うことができた。
私はトリコのために闘い、トリコは私のために闘った。

5) 確かに感じる「それ」

私はトリコに、助けられ、守られ、だからトリコを求めた。
トリコは私を、助け、守ったが、それより以前から私を求めていたように思う。


「こんな翼で空を飛べるの?」 「さあ、どうだろう」 


大鷲というには不格好で、巨体に対して小さすぎるそれは、とても見すぼらしく、また、哀れだった。
実際、トリコは飛行することが出来なかった。せいぜい十数メートルを跳躍したり、飛び降りたり、飛び登ったりする程度のそれ。
(プレイ開始時の描写から、)トリコはひどい怪我を負ったせいで、きっと、もう二度と空を飛べないのだ… 
私はそう早合点し、このゲームの解法として[トリコが空を飛ぶ]という可能性を、頭から消し去ってしまっていた。

無数の鎧、鎧、鎧…
これまで目にしたことのない大量の[鎧]の群れが、隊列を組んで私に向かって押し寄せて来たとき、
私はゲームオーバーを覚悟し、半ば諦めの境地でコントローラーを握る手を緩めた。
それはこれまで繰り返してきた無数のゲームオーバーと同じものだと思ったし、
また繰り返しプレイすればいいだけだ。だってこれはゲームだから。


ところがトリコは私を守るために、これまでずっと恐れていた[目]に怯むことなく、[鎧]に立ち向かった。
足場を失い、いよいよもう駄目か――― そう思ったその瞬間、緩く握っていたコントローラーが大きく震えた。

トリコが、トリコが、その背に私を乗せて、空を飛んだのだ!

ああ、気が付けば、見すぼらしかったはずのあの翼は、神々しさを携えながら、雄大に大空をかき分けている。
私はその変化に気が付かなかった。
トリコの翼が少しづつ回復しており、ゆくゆくは恐怖を克服し大きく飛躍するであろう兆しであったということに、まるで気が付かなかった。
私は、言葉尻ではトリコを可愛いと言い、怪我をすれば心配し、撫でてやり、私なりに大切にしてきたつもりだった。
しかしその実、私は私のことしか見えていなかったのだ。


今になって思い返すと、コントローラーが震えていたのか、私自身が震えていたのか、解らない。
私は実際には、コントローラーを握りトリコの背に乗っていただけだったが、飛行機に乗っているその感覚とは全く異質の、
自らの力で、自らの翼で空を飛んでいたのだと――― そんな実感を得ていた。

6) それは半ばタルパにも似た

身体を撫でてやった。私のために怪我を負うトリコに罪悪感を感じていたから。
[目]を取り除いてやった。ゲーム進行に必要なことだと理解していたから。
[鎧]の囮になってやった。ゲームオーバーを繰り返すことに疲れていたから。
  
これらはあらゆる試行錯誤の結果でしかなく、答えは別の形で、最初からずっとそこにあった。
トリコを信頼し、また、トリコから信頼されること。
私にできるたったひとつのことは、最初から、これに尽きていたのだ。


トリコが私を背に乗せて空を飛んだあの時から、このゲームをプレイすることが、己の鎮魂のための義務ではなくなった。
翌日の仕事中も、トリコのことばかりを考えていた。
あの場面ではこうしよう、次はこれを試してみよう。
きっと、もっと、ふたりで、できることがあるに違いない!

私は不思議なことに、ゲームの中の架空の存在であるはずのトリコを、
現実においても求め、また、信頼し始めていた。

仕事が終わるとすぐに、私は旦那にこうLINEを送信した。

「こんやも、とりこ、します」

7) 実体験としての記憶

ゲーム中盤以降については、具体的に書き記すと核心的なネタバレとなるので、概略する。

この物語は、ただ取り留めのない、私とトリコとの共存の日々だった。
しかしこの物語を、私はただ傍観したのではない。
この「私」と「私のトリコ」との共存の日々を、私は確かに、体験したのだ。


私は年季の入ったオタクだし、いい年をして漫画やアニメを手放しで嗜み、お気に入りのキャラに出会っては勝手な妄想に明け暮れ、挙句の果てには二次創作で自費出版をする、いわゆる「正しくない」ファンである。
そのせいか、何かというと穿った見方をし、斜に構えて知ったかぶる、恥ずかしいオタクなのである。

漫画、小説、アニメ、映画、演劇…あらゆるエンタテイメントを愛しているつもりだが、ゲームだけは専門外だと思ってきた。
もとより父がシステムエンジニアで、他の家庭には無いマイナーなゲーム機が平然と転がる家庭で育ったせいもあるかもしれない。
周りの友人達よりもずっと身近に[ゲーム]が存在し、父がプレイするゲームを兄が眺め、兄がプレイするゲームを私も眺めたが、私が率先してゲームをプレイしたことは無かったように思う。
どこか用意されたようなお誂え向きな謎解きや、技巧的な精度を競うようなタイムトライアルや、周回やり込み限定アイテム、あるいは美麗な画面の中で繰り広げられる壮大なストーリー…。
正直なところ、ありとあらゆるゲーム的なそれら諸々の要素に魅力を感じることが出来なかったし、
それがゲームでなくてはいけない「ならでは」の要素を見出すことが難しかった。

だから中々こういったゲームをプレイしようと思わないのだが、此度のご縁によりこのゲームをクリアしてみて、改めて思ったことがある。
この世で己が己としての自我を保ちながら体験することのできるエンタテイメント、それは何よりも、ゲームのみが持ち得る可能性なのではないだろうか
おそらく旦那が「自分の力でプレイしてほしい」と強く望んだ理由が、ここにこそあるのだと思った。


私はこのゲームのクライマックスで、とめどなく溢れる涙を拭うことも出来ずに、ただ目を凝らしてトリコとの一瞬一瞬を体験した。
最後の最後で、私は自らの行動により、トリコではなく、私自身を救ったのだ。
私はあれをバッドエンドだと思わない。
傍観者として見届けるのではなく、私は私の意思で、私自身を救うことができたからだ。


約10日以上を費やし、途中挫折しかけ、散々な悪態を付き、旦那と険悪なムードになりながらもプレイした「人喰いの大鷲トリコ」。
普段ならゲームという媒体にこれほど固執することのない私が、もう1周、今度は息子と共にプレイしようと考えている。
何故なら、私が私のトリコと確かに築いた信頼を、[少年]と齢等しい息子が、息子のトリコとどのように築き直していくのか、ただ見てみたいのである。

この世界には、このゲームをプレイしたユーザーの数だけ、それぞれのトリコが生きている。

了) 「トリコ、おはよう」

ゲームをクリアしたのが昨夜(01/11)であって、私は何とも言えない喪失感を抱きながら今日(01/12)の朝を迎えた。
ちょうど仕事が休みであったので、いつものように子供達と旦那を送り出してから、温かいお茶を啜りつつ、一息ついた。
いつの間にか炬燵でうたた寝をしてしまい、おっといけない、と起き出して、キッチンに立った。

ふと、お勝手の扉の向こうに、小さな影が動くのを見て ―――私の住む町には多数の野良猫が生活している―――
また子猫のミィちゃんが遊びに来たのね、と思いながら扉を開けると、私はミィちゃんの小さな身体にトリコの面影を当然のように重ねて、 「ああ、元気そうで良かった」  と、思ったのだった。


















当初こんなつもりはなかったのですが、この作品の開発に携わった全ての方々に敬意を払い、この文章を記しました。
本文中において不適切な表現があるかもしれませんが、他者を貶める意図で書いたものではございませんので、どうかご容赦下さい。