さくら新道(2):さくら新道の火災
<大火災>
2012年1月21日午前5時50分、さくら新道の一角から出火、火事は5時間にわたり3棟のうち奥の2棟約600㎡を全焼した。4名がけがをし病院に搬送され、うち74歳の女性が意識不明の重体。この火災で鉄道の送電線や地下のケーブルが断線、JR4路線と都電荒川線が最長7時間運転を見合わせた。原因は火元の住宅に住む女性が使用していた電気ストーブの火が布団に引火したもの。
<火災から6日後>
火災から6日後の2012年1月27日に現場へいった。現場はまだ焼け焦げ水に濡れた家財道具が道路を埋めるように投げ出されたままだった。日陰であるため、焼跡には4日前に降った雪がまだ残っていた。
■道路側から1
一番奥の棟は文字通り全焼。真ん中の棟は道路側に一部焼けていない部分を残すのみ。二階の屋根は落ち、炭化した柱と梁がのこるばかりだった。1階店舗内は全て炭化。床は落ち地面がむきだしになり、真っ黒な戸棚には真っ黒な食器が残されていた。
■二階の状況
裏の線路側にまわると堤の上から全体が見渡せた。裏は表以上に激しく焼け、壁は全く残っていない。地面は焦げた柱や梁、屋根に乗っていたトタンの波板が積み上がっている。ホームに向かって建っていた「さくら新道飲食街」の看板がフレームだけ残して立っていた。
こちら側にまわって初めてわかったが、堤の上にはホーム側に向かって「交通安全地蔵尊」が建てられていた。JRが管理しているらしい。
■線路側より全景。
道路に投げ出された荷物からはさくら新道の人々の生活の一端がうかがえた。誂えた着物、幼児用の本、扇風機やテレビなどの電化製品、カラオケ本、アルバム…。現場には地元民らしき人々が時折訪れては目の前に広がる光景に驚き、帰っていった。
■現場に残された物品。
<さくら新道の今後>
夜になるのを待ってもう一度さくら新道を訪れた。2軒だけ残っている店が営業してはいまいか。「まちこ」も「みよし」にも明かりが灯っていた。新道の入口側から電気や水道が引かれていたのだろう、2棟が焼け落ちてもこの棟の営業には支障はなかったようだ。
店に入って話を聞いた。火災発生当時、小料理みよしの店主は店におり、火災を知りあわてて逃げたという。スナックまちこの店主は地区外の自宅におり、家族からの連絡で火災を知った。消火に時間がかかったのは、駅の反対側の柳小路から消火用水を引いてこなければならなかったからだという。本当だとすれば、さくら新道ができた当初の「はずれくじ」がここでも尾をひいていたことになる。重体になった女性は2階から飛び降りたのだという。
さくら新道の土地は都有地、そこに借地権を設定してこの長屋が建てられたのだという。今でも都には地代を払っている。以前からさくら新道には都から立ち退きの話があり、10年ほど前に一度決裂した経緯があるという。都はこの土地を飛鳥山公園の一部として使用したいということらしい。
借地して建てた建物は、地主の承諾なしには建て替えられない。立ち退きを求めていた以上都が再築を許すとは思えない。消失した2棟が今後建て替わることはないのだろう。残された1棟の今後も危うい。都内の交通に大きな影響を与えた今回の火災を都は重視し、ますます立ち退きを強く求めてくるのではないか。店主たちもそう語っていた。
築後約60年、王子の一角に奇妙な魅力を添えてきたさくら新道。残された1棟の建物が今後いつまで存続できるのか。今後も気にかけていきたい。【吉】
関連記事:
<参考資料>
「東京人」2000.10 都市出版
「散歩の達人」2007.4 交通新聞社
「王子」1930 大日本帝国陸地測量部
「東京戦災白地図 王子」1946 戦災復興院
住宅地図「北区」1972 公共施設地図航空
住宅地区「北区」1985 ゼンリン
住宅地区「北区」1995 ゼンリン
住宅地区「北区」2005 ゼンリン
住宅地区「北区」2011 ゼンリン
「ヤミ市模型の調査と展示」1994.10 東京都江戸東京博物館
朝日新聞
毎日新聞</font size>
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