富士通に入社して10年が経った
こんばんは tnaotoです。
富士通の退職エントリーが何かと話題ですが、いろんなことが混ざっているので一度整理してみようかなと思います 。
昔は、リクルータや採用イベントに出ていたこともあるので、そこらで話をしてたことを思い出しつつ。
突然、この記事が消えたら会社からの圧力があったか、話題になりすぎてビビったかのどちらかです。
自己紹介
僕は約10年前に、新卒入社(情報系院卒)し、 ソフト開発職を5年くらいやった後に、社内公募で研究所に異動し、 以後、事業部と研究所を行ったり来たりしています。
最近では、publickeyあたりに僕のことが乗っていたりします。
また、僕は研究所にはいますが、研究してない研究員という謎の立場です。
富士通の職種
よくSIerがーとか言われる業界ですが、富士通の職種はいろいろあります 。
特に大きな違いは、SE職と開発職の違いです。 ハード系開発職は、それだけで判別出来ますが、ソフト系開発職とSE職の違いを知らない方が多いかと思います。
SE職の中もいろいろありますがここは割愛します。就活する中で聞いてみてください 。
さて、今回いろいろ言われているのはこの「ソフト開発職」です。
僕の世代で、500人の同期の中、ソフト開発職はだいたい40人くらいでした。
「ソフト開発職」というのは、主にミドルウェアの開発を行っていて アプリケーションサーバやデータベース、運用管理ソフトを作っていたりします。 これらのミドルウェアの上にSEがフレームワークを作ったり、アプリケーションを乗せたりしています。 ソフト開発職のお客様はSEであって、実際の顧客に会うことはほぼありません。 会うことがあるとすれば、大きな障害が出て謝りに行くことが多いような気がします。
大学院で研究していたテーマを仕事にしたいなら、富士通研究所に行くしか無い気がします。 富士通研究所は、研究室繋がりや学会等でのヘッドハントがメインで、 通常エントリーから新卒入社する道はほぼないですが、テーマややる気が役員に伝われば富士通本体に入るよりかは簡単かと思います。 僕が会ったことないだけかもしれませんが、新卒は修士博士ばかりな気がします。
追記: 高卒や高専卒や専門専攻外からの採用もあるそうです。興味のある人はアタックあるのみってことみたいです
社内での異動はよくありますし、総務等もあるので、所員すべてが修士博士ではありません。ご注意を。
また、研究所は富士通本体からの出向という扱いになります。
入社直後のこと
入社後全体研修の後もらった辞令は、話題に出てきた「山奥の工場」でした。
配属後に部門の研修が半年くらいあり、これは帰れないなーなんて思いながら過ごしました。
僕のときは、ソフト開発職内定後のマッチングは無かったような記憶があります。 入社後の配属前の面談というものはありました。 この時の面談中に言われた言葉は、「君は地に足がついてない」という僕の主張・希望は一蹴りされるようなものでした。
そして、部署配属言い渡された時には、部署説明のときにはなかった新設部署。
つまり情報0。
転勤と配属後に聞かされた担当製品は、「オープン系COBOLバッチ基盤」でした。
あー・・・と思ったこともありますが、面白い先輩にも恵まれ、
硬いコードテストの技法などを学びつつ、
1つの機能を実装する(CとJavaの混合)ということもありました。
しかし、3ヶ月もしないうちに先輩たちは異動し、僕は置いていかれました。
僕の配属理由
配属後に、教育担当だった方と飲む機会がありました。 どこの部署に誰が配置されたとか理由とか詳細部分はデリケートな問題を含むから言えないけど おおまかに言えば、出身大学と情報系資格(旧1種)、部署によってTOIEC点数で並べていったものだと聞かされました。
なぜかといえば、それくらいしか評価する基準が無いからということでした。 製品開発に、大学の研究テーマはあまり関係がなく、関係がある場合には事前マッチングやさらにその前に確定しているということです。
注意
約10年前の話なので、今は違うかもしれません。また、僕がいた部門の話なので、他の開発職種やSE部門とは異なります。
出身の学位専攻はほぼ関係なかったような気がします(僕はHPC系の情報科学系の出身)
インターンや事前マッチング、面談で合っていればそこに配属されたが、事業部側の受け入れが無ければそもそも配属はないという現実も知りました。
後に、希望していた製品は、開発が終了し、保守ベースに移行していたことも知りました。
半年で4人の上司
あれよあれよといているうちに、違う担当に割当てられ、C言語の経験(大学の実験程度)があるからと、コマンドを作る担当になりました(プロジェクトは5人くらい)。
しかし、2年目が若造が出来ることなんてごく僅かで、どうやっても作りきれる気はしませんでした。
どうやっても作れないので、僕は正直に無理です。と報告していましたが、
当時の上司は、
「お前しか出来るやつがいないから仕方ない。残業時間が100時間超えてしまうのは仕方ない(月上限が100時間、それを越える場合には3ヶ月で300時間という規定があった)。 上には説明しておくからどうにかやれ」
という指示でした。
気がつけば、表示上の月残業は130時間弱、半年で600時間の残業をしていました(当時の上限は年間900時間まで)。
毎日2時までコードを書き、帰宅し、朝8時には会社にいてコード書いてました。
一ヶ月半で8000行くらいのCのコードを書きましたが、全部覚えてしまっていました。 また、1つのコードで、windows,Linux(x86,x64,IA64),Solarisに対応するように書かなければならず、 mallocやmemsetの境界値でよく泣かされていました。
もちろん書いたコードに対してテスト等や結合をするので、半年以上時間がかかっています。
夢の中でコードを書き、visual studioでステップ実行デバックするデジャブもありました。
月の手取りが賞与を越えるってこともありました(残業代はちゃんと出ます)。
はたから見ればブラックですが、僕は不思議と楽しかった記憶があります。
その後、この作った製品のサポートやエンハンスをしていましたが、お世話になった人もいなくなったところで 暇もあったので社内公募に応募し、異動(出向)したのでした。
はてぶコメントより追記
異動と共に引き継ぎをしていますので、異動後に問い合わせを何回か受けただけで、今ではどうなっているかを知るよしはありません。
(この時、公募には必要条件があったりするのですが、未達のまま応募し受かっています。)
なんか思い出話になったな・・・・
その後
その後研究所では、よく分からない研究に従事し、あー合わないなーって思って転職考え始めたころに
違う人に拾われ、事業部での新製品開発へ逆出向。
そして、自分の中で一段落して、転職活動を水面下で実行し、内々定が決まったあたりで、知ってる人に相談の後、
「好きにしていいから、辞めないで」というお言葉を頂き、今にいたります。
結局どこも似たようなもの。だったら自分が納得する場所に行けばいい。
この期間の間に、外に出るということを少しずつ始め、Cloud Foundryに出会い、
コミュニティというものを知り、外部のエンジニアを知り、隣の芝が青いなー論をいっぱい見ました。
特に、WEB系企業のエンジニアの方々は、輝いて見えるのは今でもあります。
到底敵いません。
彼らは努力し、睡眠時間を削って、サービスを作っているのも知っています。
目に見えるサービスを作っているのか、見えないサービス(社会インフラ)を作っているのか、
実は同じなんじゃないかと思う部分は多々あります。
何が違うかといえば、それは一緒に仕事をする「人」であるということ。
富士通という会社にはいろんな人がいて、いろんな「経験」が転がっています
一緒に仕事したことないけど、ご飯食べにいく人もいます。(not社食)
社内で意思疎通がうまく出来れば、自分の辛さも吐き出せるし、助けてもらえることもあります。
キャリアカウンセラーもいます。
転職を考えるときは、この人間関係がうまく行かなくなってツライってことが多いんじゃないかなって思います。
お金が倍くらいになるならクラっと来ますが、仕事も2倍だと精神的にどっちが幸せかという天秤にかけて、 「平和」に過ごせるほうを僕は、幸せなんじゃないかと思います
僕は転職で3割くらいの給与アップの希望も通っていましたが、残業せず定時で帰れる、仕事を自由に選べる今の状況が良かったのかなと思っています。
最近は、第一線から退いていて現場の経験値が積まれてはいないので、次のキャリア(40時くらいのときどうしてるか)を考えていかないとなーと思っている日々です。
追記
「ソフト開発職」とか「研究職」に興味がある学生さんとかは、声かけてくれればいくらでもお話しますのでなんなりと。