新保守主義(ネオコン)とは何か(1):橋本努「二一世紀最初の政治思想――ヒンメルファーブとシュトラウス」
・橋本努氏は1967年生まれ。著書に『自由の論法:ポパー・ミーゼス・ハイエク』(創文社、1994年)、『社会科学の人間学』(勁草書房、1999年)
・橋本努「二一世紀最初の政治思想――ヒンメルファーブとシュトラウス」『創文』(2006年6月号)の要点は以下のようなものである。
①新保守主義(ネオコン Neoconservatism)の思想が、学術的に正面から検討されていないこと、そのことへの批判
②新保守主義を代表する思想家として、ガートルード・ヒンメルファーブ、レオ・シュトラウスが重要であること。「ヒンメルファーブは国内政策の理念、シュトラウスは対外政策の理念をそれぞれ代表して」(p.3)いること。
③しかしながら、レオ・シュトラウスと新保守主義の関係を検討した研究論文は未だ著されていないこと
④また、新保守主義の思想は、多様な思想が交錯していいること。例えば、「新保守主義の思想は、これをハンナ・アーレントの正当な継承として理解することもできる」(p.3)こと。
・確かに、新保守主義の思想は、検証されなければならない問題であることには疑いない。しかしながら、この論稿では、紙数の制約もあるのか、重要な論点が捨象されており、多くの疑問を感じた。
(1)「新-保守主義」の「新 Neo」とは何か? 何が「新しい」のか?
すでに流通している言葉だから説明は不要とされているのか、何をもって「新-保守主義」とするのかが明確にされていない。「新保守主義=新自由主義=市場万能主義+軍事主義」ではない(p.2)らしく、現在の「新・保守主義」=「1960年代以後のアメリカ保守主義」=「シュトラウス+ヒンメルファーブの思想+α」というように読み取れるのだが、果たしてそれでよいのか。
Neo-conservatismという言葉自体は、マイケル・ハリントン(雑誌Dissentの編集メンバー)が、戦後の新たな保守主義の潮流に対して批判的に用いられたのが最初で、それを、アーヴィング・クリストルが自己の政治スタンスを示すものとして採用したとされている。だが、クリストル自身は、彼の考えが現在の共和党の中心イデオロギーの一つとなることを想定していない。近年の注目は、息子ウィリアム・クリストルや、共和党の政治家(Jack Kepmp, Bob Doleなど)の再評価が大きいとされている(以上、Shadia B. Drury, Leo Strauss and the American Right, p.138ff)。
アメリカの「保守」思想において、分裂・対立・位相があること、つまり「何を保守すべきか」という点について大きな違いがあることは、アメリカ研究において指摘されている(例えば、古矢旬『アメリカ 過去と現在の間』では、アメリカ保守主義がIからIVに類型化され、「ネオコン」と「保守」との連関が描写されている)。橋本氏の議論は、新保守主義が内包する思想の多様性には若干言及されているが、「保守」自体の分裂や位相の変化について言及されていないため、現在の「新・保守主義」と従来の「保守主義」との同一性/差異がよく分からなかった。
(2)レオ・シュトラウスは、「新保守主義」の思想に影響を与えたのか?
橋本氏が規定するように、レオ・シュトラウスは新保守主義を代表する思想家なのか? 橋本氏はその内容については別稿に委ねるようなので詳細はそれを見てからにしたいが、少なくとも「レオ・シュトラウスと新保守主義の関係を検討した研究論文は、実はまだ著されていない」というのは(文脈的には「日本においては」ということなのかもしれないが)疑問を感じた。
小生の管見だけでも、前出した Shadia B. Drury, Leo Strauss and the American Right,1997 、またDrury, The Political Ideas od Leo Strauss, 2005(Updated edition)のイントロでは、シュトラウスの「公教-秘教」、そしてシュトラウスとシュトラウス学派と関係、現代の新保守主義との関連について興味深い言及が行われている。
また、柴田寿子「『グローバルなリベラル・デモクラシー』と『ワイマールの亡霊』:レオ・シュトラウスの浮上は何を物語るか」(山脇直司・丸山真人・柴田寿子(編)『グローバル化の行方』2004年)では、こうしたドゥルーリィに代表されるような、レオ・シュトラウスとアメリカ新保守主義とを接続する議論への批判が行われている。添谷育志「新旧論・ノート」(『現代保守思想の振幅:離脱と帰属の間』1995年)では、シュトラウス学派とドゥルーリィの議論に触れながら、シュトラウスにおける「保守」の意味が検証されている(シュトラウスとアラン・ブルームの教育論については、前掲の添谷氏の論稿の拙書評を参照)。橋本氏のシュトラウス論が、このようなこれまでの研究をどのように位置づけ超克するものなのか、別稿を興味深く見守りたい。
(3)新保守主義の思想はハンナ・アーレントの「正当な後継者」か?
(1)の「何をもって新-保守主義」とするか、という論点にも関係しているのだが、多くの疑問を感じた。
例えば橋本氏は、(a)ナチス・ドイツ=ソビエト共産主義とするアーレントの「全体主義」論、(b)アメリカ独立革命の意義を強調する「アメリカ革命」論、(c)福祉国家政策を非・公共的なものとする「公共」論などを、その論拠としている。確かに、アーレントの出自が左派知識人でありながらも、その議論がある部分において「保守主義」に属すると理解され得る点は、正当であると思う。
しかしながら、アーレントの「全体主義」は「反共主義」ではないし、マッカーシズムと距離を置きながら「アメリカの再生」を強調するクリストルに対しても、公然と批判していたようである(エリザベス・ヤング=ブリューエル『ハンナ・アーレント伝』371頁)。アーレントによるアメリカ革命の評価も、当時の「保守主義」における解釈文脈、「アメリカをもっとアメリカらしくしよう」という反リベラル的文脈とは大きく異なり、新しい政治的始まりとしての action 〔=行為・活動〕を制度化したアメリカ建国精神への賛美というコンテクストが大きい。そしてこのアーレントの革命論が、アカデミズムでは批判を浴びたものの、1960年代からのアメリカ学生運動において学生に読まれ受容されたことなどを考慮すると、リベラル派とも解されるだろう。(それゆえ、見方を変えれば、橋本氏とは反対に、サミットを「ネオコンの世界陰謀」として抗議運動を行う市民運動・学生運動の側を、アーレント思想の「正統後継者」とみることも可能かもしれない)。
川崎修『ハンナ・アレント』(244頁ff参照)で描写されているように、1960年代における公民権運動、学生運動においてアーレントが微妙な位置にいたこと(例えば、選挙人登録における市民権の平等化、反戦運動という点における賛成、教育行政での人種平等強制、アフォーマティヴ・アクションなどにおける反対)、それが「政治」と「社会」とを区分するその独特の議論に拠るものであることを考慮するならば、アーレントを「保守主義」としてすんなり承認することは容易ではない。
「新しい市民運動」がアーレントの議論から自分たちの「運動」に使える部分を用いた手法(フェミニズム論に引きつけてアーレントを論じるものも多々あるが、玉石混淆だと小生は感じている)に対抗して、「新・保守主義」がアーレントから「使える」部分を探そうとしている――そして橋本氏自身はおそらくこうした「新保守主義」に批判的な立場にある――と理解しても、やはり現代アメリカの「新・保守主義」を「60年代以後の保守主義」を媒介にして「アーレントの思想」と結びつけようとするのは、アクロバティックな牽強付会であると感じた。 思想家の思想が、思想家の思惑を超えて、多様な「解釈」を生み出すことは思想の運命だと思う(アーレント自身も古代ギリシャ解釈などでかなり怪しい議論を展開しているだが)が、その「解釈」が「使える」ものかを判定する責務が研究者にはあるように思える。その点、『自由の論法』や『社会科学の人間学』などで周到・精緻な方法論を展開した橋本氏がこうした議論を展開したことが不思議でならない。
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コメント
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橋本努です。小生の短い拙論をこれほど大きく取り上げていただき、大変感謝しております。いろいろと学ばせていただきました。拙論の拡張版は、刊行予定の「帝国の条件」にて詳述するつもりです。
たしかにアーレントは新保守主義者ではありませんよね。小生は、「アーレントを「保守主義」としてすんなり承認」しているわけではありません。この点に関しまして、貴方と意見の相違はございません。しかし小生は、アーレントが「揺籃期を守った」という言い方(ウェーバー)を使って、新保守主義との関係性を論じている点を、どうぞ御考慮ください。この点を御考慮いただければ、「アクロバティックな牽強付会」という貴方の批判は、当たらないのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
投稿: 橋本努 | 2006/10/08 23:24
橋本先生。小論にコメント頂き有り難うございます。
「アーレントを『保守主義』としてすんなり承認しているわけではない」ということですが、確かにその点については見解の相違はありません。ただ、先生のあの評論は(紙数の制約等もあってか)、予備知識なしに読むと、アーレントはシュトラス等と並んで「新・保守主義の始祖」として読まれてしまうのではないかと感じ、一応、アーレント研究に携わる者として批評した次第です。無論、小生はアーレントを神聖化するつもりなど毛頭ありません。むしろアーレントの批判的解釈を通じて現代の政治思想に意味ある議論が見つけられればと考えております。シュトラウスの思想史的位置などについては現在、現在勉強中ですが、小生自身は、シュトラウスと、シュトラウス学派、そして現在の新・保守主義との「差異」の方に注目している所です。
投稿: 石田雅樹(More) | 2006/10/09 10:19