虎ノ門金刀比羅宮「初こんぴら」/東京都
20250111
催行日:2025年1月10日
久しぶりに歴史クラブ行事として企画し、「初こんぴら」に参加しました。
地下鉄「虎の門」から歩いてすぐ。
「虎の門琴平タワー」がそびえています。
ビルの横の鳥居から入ります。
当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。
当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により金比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。
ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。
(神社サイトから)
銅鳥居から拝殿に進み、参拝します。
文政四年(1821年)に奉納された明神型鳥居。
左右の柱上部には四神の彫刻が施されており大変珍しい。四神とは四方の守護神であり、東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武が守る霊鳥霊獣。
神楽を観ながら、七福神の行列が始まるのを待ちます。
いよいよ七福神行列が始まりました。
獅子舞と宮司さんが先導します。
例によって獅子は参拝客の頭を甘噛みして祝福してくれます。
七福神が次々とやってきて、福を授けてくれます。
福禄寿尊
大黒天
寿老人尊
恵比寿神
弁才天
毘沙門天
布袋尊
続いて、ひょっとこ、おかめが寿んでくれます。
今年は、それに加えて「デコピン」が参加していました(笑)
行列は拝殿に向かい、そこで勢ぞろいします。
拝殿の前に勢ぞろいしますが、皆さんがスマホをかかげているので撮れません(泣)
焦っていたら、「撮り終わった~からいいよ」と前の方が次々と場所を譲ってくれ、めでたく撮ることができました(嬉)
最期に皆さんの暖かい気持ちに触れ、とてもホッコリした気分で、
もう一つの企画「トーハクに初もうで」を見るため上野に移動しました。
(了)
「お気に入りの場所」を見る
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久しぶりに歴史クラブ行事として企画し、「初こんぴら」に参加しました。
地下鉄「虎の門」から歩いてすぐ。
「虎の門琴平タワー」がそびえています。
ビルの横の鳥居から入ります。
当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。
当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により金比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。
ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。
(神社サイトから)
銅鳥居から拝殿に進み、参拝します。
文政四年(1821年)に奉納された明神型鳥居。
左右の柱上部には四神の彫刻が施されており大変珍しい。四神とは四方の守護神であり、東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武が守る霊鳥霊獣。
神楽を観ながら、七福神の行列が始まるのを待ちます。
いよいよ七福神行列が始まりました。
獅子舞と宮司さんが先導します。
例によって獅子は参拝客の頭を甘噛みして祝福してくれます。
七福神が次々とやってきて、福を授けてくれます。
福禄寿尊
大黒天
寿老人尊
恵比寿神
弁才天
毘沙門天
布袋尊
続いて、ひょっとこ、おかめが寿んでくれます。
今年は、それに加えて「デコピン」が参加していました(笑)
行列は拝殿に向かい、そこで勢ぞろいします。
拝殿の前に勢ぞろいしますが、皆さんがスマホをかかげているので撮れません(泣)
焦っていたら、「撮り終わった~からいいよ」と前の方が次々と場所を譲ってくれ、めでたく撮ることができました(嬉)
最期に皆さんの暖かい気持ちに触れ、とてもホッコリした気分で、
もう一つの企画「トーハクに初もうで」を見るため上野に移動しました。
(了)
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カップ麺の記録/2024年11月
20241221
もう20年以上も前から週末に、夜遅くまで起きていて、撮り溜まったテレビ番組とか映画を見ることが続いている。
それで夜食は、やはりカップ麺だ。
2021年の9月にカンブリア宮殿で、カップ麺誕生50周年ということで2回にわたって取り上げたので、その50周年記念のロゴ入りとか、2種類のカップ麺を合体させたものなどを食べた後、そのカップを保存したら、その後も食べたカップ麺のカップとフタを保存するようになった。
買うときには、まだ食べてないものを購入しています。
というわけで、食べたものをブログにアップすることにしました。
以前から、グルメ記事は書かないと決めているので、食べたカップ麺の記録だけです。
ご容赦ください。
今回は、2024年11月に食べたものの記録です。
【171】
・Cycle.me ヌードル うまみ鶏白湯/いつものお昼に、ちゃっかりタンパク質を 2024.11.02 日清食品
【172】
・さっぽろ純連 濃厚味噌/昭和39年創業 2024.11.09 サンヨー食品
【173】
・野菜たっぷり貝だし塩らーめん/貝だしの旨味を利かせたコク深い野菜たっぷり塩らーめん 2024.11.17 東洋水産
【174】
・桐麺 こってり醤油らーめん/スープのコクUP!/全粒粉入り麺!! 2024.11.23 サンヨー食品
【175】
・豚骨 ジェノバ/ジェノベーゼ 進化系豚骨/バジル香るコクうま豚骨 2024.11.30 日清食品
それで夜食は、やはりカップ麺だ。
2021年の9月にカンブリア宮殿で、カップ麺誕生50周年ということで2回にわたって取り上げたので、その50周年記念のロゴ入りとか、2種類のカップ麺を合体させたものなどを食べた後、そのカップを保存したら、その後も食べたカップ麺のカップとフタを保存するようになった。
買うときには、まだ食べてないものを購入しています。
というわけで、食べたものをブログにアップすることにしました。
以前から、グルメ記事は書かないと決めているので、食べたカップ麺の記録だけです。
ご容赦ください。
今回は、2024年11月に食べたものの記録です。
【171】
・Cycle.me ヌードル うまみ鶏白湯/いつものお昼に、ちゃっかりタンパク質を 2024.11.02 日清食品
【172】
・さっぽろ純連 濃厚味噌/昭和39年創業 2024.11.09 サンヨー食品
【173】
・野菜たっぷり貝だし塩らーめん/貝だしの旨味を利かせたコク深い野菜たっぷり塩らーめん 2024.11.17 東洋水産
【174】
・桐麺 こってり醤油らーめん/スープのコクUP!/全粒粉入り麺!! 2024.11.23 サンヨー食品
【175】
・豚骨 ジェノバ/ジェノベーゼ 進化系豚骨/バジル香るコクうま豚骨 2024.11.30 日清食品
里見八犬伝を読み込む/第八集・巻の二・第七十六回
20241217
第七十六回 庚申堂に侠者賊婦を囚う 癈毀院に義任船虫を送る
時:室町時代 文明十三年(1481)
登場人物:犬田小文吾、犬川荘助、石亀屋次団太、泥海土丈二、百堀鮒三、酒顛二、船虫
舞台: P24越後国苅羽郡小千谷の里庚申堂
【ものがたりのあらまし】
次団太は船虫を縁側の柱につないで、短刀をとりあげて鞘におさめて小文吾のそばにおいた。
「あの賊婦がにせ菅女とも知らず、おすすめして、あぶないところでした。この短刀は焼刃にひどい曇りがあります。このごろ人を切ったのかもしれませんぜ。こいつはきっと、枕さがしなんかと違って強盗か、それとも旦那をねらおうとした刺客でしょう。何か思い当たることはありませんかな」
「そう言われてみると、たしかにそうとも言えぬが、どうも武蔵の鴎尻の並四郎という賊の女房だった船虫に似ている」
小文吾が、五年前の嵐山の尺八の一件から、捕えられて石浜にひかれる途中逃亡した毒婦のことを話すと、次団太も杖をふるつて白状を迫った。すると船虫は、
「わたしは下野の赤岩一角の妻で窓井というもの、先年夫が龍山という弟子に討たれ、その仇をねらううち、人違いして……お許しください」
と仮涙(そらなみだ)して泣き沈んだ。
その逃げ口上にもてあましていると、そこに次団太の相撲弟子の泥海土丈二と百堀鮒三が来て、神慮儘(まか)し(注1)がよいとすすめた。それは悪人を山の庚申堂の梁につるし、三夜むち打って死ねば千隈川に流し、死なぬ時は追放する、土地の習慣であった。次団太もそれがよいと、さっそくその夜、船虫を庚申堂の二階につるして帰った。
小文吾は、その夜も眠れぬままに思案するうち、ふと石浜の城で馬加大記に毒を盛られたとき、秘蔵の霊玉の力でふしぎに助かったことを思い出した。
ひょっとしたら、宝玉の奇特でこの目もなおるかもしれぬ。
そう思い、守り袋の玉を取り出して心に念じながら瞼をなでた。と、はたして眼中の邪熱がひいて、しだいに目が見えだしてくるではないか。
それはさておき、犬川荘助は犬山道節と交代に指月院を足だまりに、東北の国々を巡って、犬塚、犬飼、犬田の三犬士と生死不明の親兵衛を尋ねるために、去年の二月、指月院を出、武蔵に行き、下総におもむいて、行徳の里人に犬田父子のことを問うたが、小文吾はまだ帰らず、文五兵衛は住みなれた家を売って市川の妙真とともに安房の親族のもとに行ったが、その次の年の春、世を去ったと聞いた。小文吾は、この行徳に帰らずいったいどこにいるのだろうかと、今年の春まで五十四郡を遍歴して越後国にはいった時は五月中旬になっていた。この日も山路に行き暮れて、小千谷へは十町ばかりと思うころには、夜ははや五つ (午後8時)も中ごろになっていた。行く手になおも小山があって、そこに古びた仏堂が見える。堂の中を見まわすと、柱傾き、破れた櫓(のき)(注2)に庚申堂としるした額がかかっている。
五年前の秋、大塚にいたとき主人の仇を討って、軍木、簸上らにだまされ危なかったところ、三犬士に救われた地名も庚申塚だったが、と月をながめて嘆息を漏らしていた。すると、堂の楼上から人のうめき声が聞こえてきた。堂内に入り楼上に登って見ると、一人の女が梁からつり下げられている。荘助は声をかけた。
「こりや、おまえは何者だ。人か、それとも魔性のものか」
女は急に泣きはじめた。
「いえ、いえ。わたしは小千谷の旅店(はたごや)に奉公していましたが、夫に先立たれ、奉公しましたが、主人に思いをかけられ、口説かれましたのをはねつけたために、わたしに濡衣を着せて、うつやら、たたくやら、残忍邪怪にもこのとおり」
「ふうむ。お気の毒なこと。して、兄御の家はどこだ」
「ここから半里ばかりの片山里の猟人で、名は酒顛二(しゅてんじ)と申します。わたしをお助けなされて、お送りくだきれば、さぞかし喜ぶことでござりましょう。どうかお慈悲をお願い申しあげます」
荘助はうなずくと、小刀を抜いて縄を切り、両手の縄を解いてやった。
船虫は荘助を伏し拝んだ。
「ぜひもない。とにかく、送って進ぜよう」
荘助は船虫をたすけ、楼上から降りた。夜の山道を半里ばかりで、酒顛二の隠れ家に着いた。酒顛二は、一味の悪党十五、六人集めて酒をのんでいたが、船虫のしらせにうなずいて席をととのえると、荘助を招き入れ、ていねいにあいさつした。
「手前が主人で、酒顛二と申します。妹のあぶないところをお救いくださった御恩は、いま妹から伺いました。旦那はどこのお方でしょうか。武家方の主用で、道をお急ぎになる飛脚の方ではございませぬか」
「いや、それがしは東国の浪人、犬川荘助と申す者、今宵はからずも宿させてもらえるのもふしぎな縁。妹御をおいたわりくだされい」
酒顛二は夕食の用意を乾児(こぶん)にさせようとしたが荘助はこれを断わり、床をとってもらって、すぐ横になった。雪国で蚊も蝿も出ないのに蚊帳がつられたが、梅雨ごろは、屋根裏から夜になると蛭が落ちるということで、ちょっと珍しいことだった。
【注釈】
(1)「神慮儘(まかし)」:里人による私刑であり、これは公の裁きに対する不信感から出た風習で、罪人を梁に吊るして三夜鞭打って死ななければ赦免する、というもの。
(2)櫓(のき):屋根の下の端の、外に張り出した部分。 ひさし。
里見八犬伝推移まとめのページに飛ぶ
時:室町時代 文明十三年(1481)
登場人物:犬田小文吾、犬川荘助、石亀屋次団太、泥海土丈二、百堀鮒三、酒顛二、船虫
舞台: P24越後国苅羽郡小千谷の里庚申堂
【ものがたりのあらまし】
次団太は船虫を縁側の柱につないで、短刀をとりあげて鞘におさめて小文吾のそばにおいた。
「あの賊婦がにせ菅女とも知らず、おすすめして、あぶないところでした。この短刀は焼刃にひどい曇りがあります。このごろ人を切ったのかもしれませんぜ。こいつはきっと、枕さがしなんかと違って強盗か、それとも旦那をねらおうとした刺客でしょう。何か思い当たることはありませんかな」
「そう言われてみると、たしかにそうとも言えぬが、どうも武蔵の鴎尻の並四郎という賊の女房だった船虫に似ている」
小文吾が、五年前の嵐山の尺八の一件から、捕えられて石浜にひかれる途中逃亡した毒婦のことを話すと、次団太も杖をふるつて白状を迫った。すると船虫は、
「わたしは下野の赤岩一角の妻で窓井というもの、先年夫が龍山という弟子に討たれ、その仇をねらううち、人違いして……お許しください」
と仮涙(そらなみだ)して泣き沈んだ。
その逃げ口上にもてあましていると、そこに次団太の相撲弟子の泥海土丈二と百堀鮒三が来て、神慮儘(まか)し(注1)がよいとすすめた。それは悪人を山の庚申堂の梁につるし、三夜むち打って死ねば千隈川に流し、死なぬ時は追放する、土地の習慣であった。次団太もそれがよいと、さっそくその夜、船虫を庚申堂の二階につるして帰った。
小文吾は、その夜も眠れぬままに思案するうち、ふと石浜の城で馬加大記に毒を盛られたとき、秘蔵の霊玉の力でふしぎに助かったことを思い出した。
ひょっとしたら、宝玉の奇特でこの目もなおるかもしれぬ。
そう思い、守り袋の玉を取り出して心に念じながら瞼をなでた。と、はたして眼中の邪熱がひいて、しだいに目が見えだしてくるではないか。
それはさておき、犬川荘助は犬山道節と交代に指月院を足だまりに、東北の国々を巡って、犬塚、犬飼、犬田の三犬士と生死不明の親兵衛を尋ねるために、去年の二月、指月院を出、武蔵に行き、下総におもむいて、行徳の里人に犬田父子のことを問うたが、小文吾はまだ帰らず、文五兵衛は住みなれた家を売って市川の妙真とともに安房の親族のもとに行ったが、その次の年の春、世を去ったと聞いた。小文吾は、この行徳に帰らずいったいどこにいるのだろうかと、今年の春まで五十四郡を遍歴して越後国にはいった時は五月中旬になっていた。この日も山路に行き暮れて、小千谷へは十町ばかりと思うころには、夜ははや五つ (午後8時)も中ごろになっていた。行く手になおも小山があって、そこに古びた仏堂が見える。堂の中を見まわすと、柱傾き、破れた櫓(のき)(注2)に庚申堂としるした額がかかっている。
五年前の秋、大塚にいたとき主人の仇を討って、軍木、簸上らにだまされ危なかったところ、三犬士に救われた地名も庚申塚だったが、と月をながめて嘆息を漏らしていた。すると、堂の楼上から人のうめき声が聞こえてきた。堂内に入り楼上に登って見ると、一人の女が梁からつり下げられている。荘助は声をかけた。
「こりや、おまえは何者だ。人か、それとも魔性のものか」
女は急に泣きはじめた。
「いえ、いえ。わたしは小千谷の旅店(はたごや)に奉公していましたが、夫に先立たれ、奉公しましたが、主人に思いをかけられ、口説かれましたのをはねつけたために、わたしに濡衣を着せて、うつやら、たたくやら、残忍邪怪にもこのとおり」
「ふうむ。お気の毒なこと。して、兄御の家はどこだ」
「ここから半里ばかりの片山里の猟人で、名は酒顛二(しゅてんじ)と申します。わたしをお助けなされて、お送りくだきれば、さぞかし喜ぶことでござりましょう。どうかお慈悲をお願い申しあげます」
荘助はうなずくと、小刀を抜いて縄を切り、両手の縄を解いてやった。
船虫は荘助を伏し拝んだ。
「ぜひもない。とにかく、送って進ぜよう」
荘助は船虫をたすけ、楼上から降りた。夜の山道を半里ばかりで、酒顛二の隠れ家に着いた。酒顛二は、一味の悪党十五、六人集めて酒をのんでいたが、船虫のしらせにうなずいて席をととのえると、荘助を招き入れ、ていねいにあいさつした。
「手前が主人で、酒顛二と申します。妹のあぶないところをお救いくださった御恩は、いま妹から伺いました。旦那はどこのお方でしょうか。武家方の主用で、道をお急ぎになる飛脚の方ではございませぬか」
「いや、それがしは東国の浪人、犬川荘助と申す者、今宵はからずも宿させてもらえるのもふしぎな縁。妹御をおいたわりくだされい」
酒顛二は夕食の用意を乾児(こぶん)にさせようとしたが荘助はこれを断わり、床をとってもらって、すぐ横になった。雪国で蚊も蝿も出ないのに蚊帳がつられたが、梅雨ごろは、屋根裏から夜になると蛭が落ちるということで、ちょっと珍しいことだった。
【注釈】
(1)「神慮儘(まかし)」:里人による私刑であり、これは公の裁きに対する不信感から出た風習で、罪人を梁に吊るして三夜鞭打って死ななければ赦免する、というもの。
(2)櫓(のき):屋根の下の端の、外に張り出した部分。 ひさし。
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カップ麺の記録/2024年10月
20241121
もう20年以上も前から週末に、夜遅くまで起きていて、撮り溜まったテレビ番組とか映画を見ることが続いている。
それで夜食は、やはりカップ麺だ。
2021年の9月にカンブリア宮殿で、カップ麺誕生50周年ということで2回にわたって取り上げたので、その50周年記念のロゴ入りとか、2種類のカップ麺を合体させたものなどを食べた後、そのカップを保存したら、その後も食べたカップ麺のカップとフタを保存するようになった。
買うときには、まだ食べてないものを購入しています。
というわけで、食べたものをブログにアップすることにしました。
以前から、グルメ記事は書かないと決めているので、食べたカップ麺の記録だけです。
ご容赦ください。
今回は、2024年10月に食べたものの記録です。
【167】
・フレンチ CUP NOODLE/チキンのシュプレームソース味トリュフ風味 2024.10.05 日清食品
【168】
・フレンチ CUP NOODLE/真鯛と帆立のプロヴァンス風ブイヤベース味 2024.10.12 日清食品
【169】
・Bondy 欧風カレー ボンディ/神田神保町 カレーの名店/欧風ビーフカレー味ラーメン 2024.10.19 サンヨー食品
【170】
・UFO ポックンション/韓国風 甘辛カルボ クリーミー/もっちり麺がチョア! 2024.10.26 日清食品
それで夜食は、やはりカップ麺だ。
2021年の9月にカンブリア宮殿で、カップ麺誕生50周年ということで2回にわたって取り上げたので、その50周年記念のロゴ入りとか、2種類のカップ麺を合体させたものなどを食べた後、そのカップを保存したら、その後も食べたカップ麺のカップとフタを保存するようになった。
買うときには、まだ食べてないものを購入しています。
というわけで、食べたものをブログにアップすることにしました。
以前から、グルメ記事は書かないと決めているので、食べたカップ麺の記録だけです。
ご容赦ください。
今回は、2024年10月に食べたものの記録です。
【167】
・フレンチ CUP NOODLE/チキンのシュプレームソース味トリュフ風味 2024.10.05 日清食品
【168】
・フレンチ CUP NOODLE/真鯛と帆立のプロヴァンス風ブイヤベース味 2024.10.12 日清食品
【169】
・Bondy 欧風カレー ボンディ/神田神保町 カレーの名店/欧風ビーフカレー味ラーメン 2024.10.19 サンヨー食品
【170】
・UFO ポックンション/韓国風 甘辛カルボ クリーミー/もっちり麺がチョア! 2024.10.26 日清食品
前橋市総社歴史資料館&総社古墳群
20241111
所在地:群馬県前橋市総社町総社1584番地1
訪問日:2024年10月9日
この日は、所属する歴史クラブの定例見学会で、前の記事で説明した総社神社の後に訪れました。
展示室では、古くより著名な古墳群で、県内最大級の終末期古墳を擁する「総社古墳群」、東国最古級の古代寺院であり、全国的にも貴重な資料が発見されている「山王廃寺」、総社城築城や天狗岩用水の開削など当地区の基礎を築いた「秋元氏」について、が主な展示となっています。
ガイドさんに、資料館展示と、近くの宝塔山古墳をあんないしていただきました。
〇総社古墳群についての展示
総社古墳群は、東南方向に広がる榛名山の裾野の末端、現利根川の西岸に南北約4kmに分布する古墳群です。各古墳は、その規模や卓越した築造技術、優美な出土品などから、古<から注目されており、東国を代表する古墳群の一つに数えられます。大型の古墳としては、現在、前方後円墳3基、方墳3基が残されています。
古墳群のうちわけとしては、王山古墳・王河原山古墳(消滅)・遠見山古墳・総社二子山古墳・愛宕山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳があります。
出土品としては総社二子山古墳から出土の復元された「頭椎大刀」が非常に優美なものだった。
「頭椎大刀(かぶつちのたち)」/総社二子山古墳
柄の頭の部分が卵のような丸くふくらんだ形の大刀を「頭椎大刀」といいます。この大刀は江戸時代に発見され、その後現品は行方不明ですが、詳細に描かれた絵図が残されています。同じ時期に造られた綿貫観音山古墳(高崎市)出土の頭椎大刀と非常によく似ており、二つの古墳にはなんらかの関係があったと推測される。
〇山王廃寺
古代上野国は大和朝廷を支える大国として重要な役割を果たしてきた。とりわけ前橋市総社・元総社地区は群馬を代表する山王廃寺、国分寺や国府などの飛鳥・白鳳文化、律令社会にいたる重要な遺跡が集中している。
山王廃寺復元図
石製の鴟尾は鳥取大寺廃寺と、こにしかない貴重なもの。
精密に加工された塔心礎
根巻石
瓦などの出土品
粘土製塑像の製作水準は極めて高く、法隆寺に残るものと比べても何ら遜色のないレベルである。
地方の仏師によるものではなく、中央から派遣された仏師よよって製作されたと考えられている。
神将像
阿修羅像
女性像
「上野三碑」の一つである「山上碑」は、放光寺の僧長利が母親を弔うため、681年に建てたことがわかっているが、山王廃寺の発掘調査で「放光寺」と書かれた文字瓦が発見されたことから、山王廃寺は放光寺である可能性が高くなっている。
「山上碑」
〇名君秋元氏
江戸時代総社藩初代秋元長朝は関ヶ原の功績により一万石で立藩、天狗岩用水を二年かけて開削、一万石相当に新田開発。名君と称えられる。その功績により四代喬知は川越藩主として抜擢、川越における喬知の善政も知られている。光巌寺の境内秋元家霊廟前に「力田遺愛碑」が残るが、百七二年後に、「百姓等」が率先して立てたものです。
歴代秋元氏
天狗岩用水開削のジオラマ
力田遺愛碑(レプリカ)
碑に書かれていること。
【宝塔山古墳】
総社古墳群のうち、近くにある宝塔山古墳をガイドさんにあんないしていただきました。
この古墳は七世紀半ばにつくられたもので、全長66mの三段大型方墳。
石室は、きれいに加工された切石を巧みに積み上げ、漆喰を塗って平らに仕上げている。渡来系技術者の手によるもの。
石棺は玄室の中に、人ひとりがやっと周囲を歩ける狭さの中に置かれていたが、石棺の脚部に彫り込まれた格狭間は大阪の聖徳太子墓の棺台にあるものと同一であり仏教文化の影響とみられている。
資料館にあったレプリカ
これでここの見学を終え、レストランで昼食・休憩、参加者の懇親を経て、かみつけの里・保渡田古墳群に向かいました。
(続く)
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訪問日:2024年10月9日
この日は、所属する歴史クラブの定例見学会で、前の記事で説明した総社神社の後に訪れました。
展示室では、古くより著名な古墳群で、県内最大級の終末期古墳を擁する「総社古墳群」、東国最古級の古代寺院であり、全国的にも貴重な資料が発見されている「山王廃寺」、総社城築城や天狗岩用水の開削など当地区の基礎を築いた「秋元氏」について、が主な展示となっています。
ガイドさんに、資料館展示と、近くの宝塔山古墳をあんないしていただきました。
〇総社古墳群についての展示
総社古墳群は、東南方向に広がる榛名山の裾野の末端、現利根川の西岸に南北約4kmに分布する古墳群です。各古墳は、その規模や卓越した築造技術、優美な出土品などから、古<から注目されており、東国を代表する古墳群の一つに数えられます。大型の古墳としては、現在、前方後円墳3基、方墳3基が残されています。
古墳群のうちわけとしては、王山古墳・王河原山古墳(消滅)・遠見山古墳・総社二子山古墳・愛宕山古墳・宝塔山古墳・蛇穴山古墳があります。
出土品としては総社二子山古墳から出土の復元された「頭椎大刀」が非常に優美なものだった。
「頭椎大刀(かぶつちのたち)」/総社二子山古墳
柄の頭の部分が卵のような丸くふくらんだ形の大刀を「頭椎大刀」といいます。この大刀は江戸時代に発見され、その後現品は行方不明ですが、詳細に描かれた絵図が残されています。同じ時期に造られた綿貫観音山古墳(高崎市)出土の頭椎大刀と非常によく似ており、二つの古墳にはなんらかの関係があったと推測される。
〇山王廃寺
古代上野国は大和朝廷を支える大国として重要な役割を果たしてきた。とりわけ前橋市総社・元総社地区は群馬を代表する山王廃寺、国分寺や国府などの飛鳥・白鳳文化、律令社会にいたる重要な遺跡が集中している。
山王廃寺復元図
石製の鴟尾は鳥取大寺廃寺と、こにしかない貴重なもの。
精密に加工された塔心礎
根巻石
瓦などの出土品
粘土製塑像の製作水準は極めて高く、法隆寺に残るものと比べても何ら遜色のないレベルである。
地方の仏師によるものではなく、中央から派遣された仏師よよって製作されたと考えられている。
神将像
阿修羅像
女性像
「上野三碑」の一つである「山上碑」は、放光寺の僧長利が母親を弔うため、681年に建てたことがわかっているが、山王廃寺の発掘調査で「放光寺」と書かれた文字瓦が発見されたことから、山王廃寺は放光寺である可能性が高くなっている。
「山上碑」
〇名君秋元氏
江戸時代総社藩初代秋元長朝は関ヶ原の功績により一万石で立藩、天狗岩用水を二年かけて開削、一万石相当に新田開発。名君と称えられる。その功績により四代喬知は川越藩主として抜擢、川越における喬知の善政も知られている。光巌寺の境内秋元家霊廟前に「力田遺愛碑」が残るが、百七二年後に、「百姓等」が率先して立てたものです。
歴代秋元氏
天狗岩用水開削のジオラマ
力田遺愛碑(レプリカ)
碑に書かれていること。
【宝塔山古墳】
総社古墳群のうち、近くにある宝塔山古墳をガイドさんにあんないしていただきました。
この古墳は七世紀半ばにつくられたもので、全長66mの三段大型方墳。
石室は、きれいに加工された切石を巧みに積み上げ、漆喰を塗って平らに仕上げている。渡来系技術者の手によるもの。
石棺は玄室の中に、人ひとりがやっと周囲を歩ける狭さの中に置かれていたが、石棺の脚部に彫り込まれた格狭間は大阪の聖徳太子墓の棺台にあるものと同一であり仏教文化の影響とみられている。
資料館にあったレプリカ
これでここの見学を終え、レストランで昼食・休憩、参加者の懇親を経て、かみつけの里・保渡田古墳群に向かいました。
(続く)
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