「法の支配」ってそういうことじゃないのでは?
安倍総理大臣は先週の講演で、南シナ海で中国が人工島を造成している問題に関連し、「自由で平和な海は絶対的に必要で、国際法による法の支配が貫徹されなければならない」と述べ、一連の会議で各国の首脳との間で「法の支配」を徹底する重要性などを確認したいという考えを示しました。
海洋での「法の支配」徹底を確認へ NHKニュース
11月10日 4時35分
うん?
法の支配ってそういう使い方をする言葉だっけか? これじゃ「法の遵守」の言い換えじゃないのかなって思うんです。いや、以前からちょっと気になっていたんですが、現政権ではたびたび「法の支配」という言葉が出てきていたものの、どうも私が知っている「法の支配」と、安部首相や菅官房長官が使っている「法の支配」が同じ意味とは思えないわけで。
菅官房長官は「オランダには国際司法裁判所があるなど、伝統的に『法の支配』を重視する国だ。今回の訪日を通じ、政治、安全保障分野を含むオランダとの戦略的協力関係の強化を目指したい。また、100人のオランダ企業関係者が同行予定であり、経済協力関係の強化も期待したい」と述べました。
オランダ首相訪日へ 10日に首脳会談 NHKニュース
11月5日 13時07分
私は、総理就任以降、皆さんのお国10か国全てを訪問いたしました。行く先々で温かいおもてなしを受けるとともに、『法の支配』の尊重という重要な大前提がASEAN各国と日本との間で共有されていることを実感いたしました。
平成27年11月4日 「東南アジア青年の船」参加青年代表による表敬 | 平成27年 | 総理の一日 | 総理大臣 | 首相官邸ホームページ
中谷元防衛相は23日の記者会見で、南シナ海で中国が埋め立てた岩礁周辺に米軍が艦船を派遣すること関し「中国を含む各国が緊張を高める一方的な行動を慎み、法の支配の原則に基づいて行動することが重要だ」と述べ、中国を批判した。
【南シナ海問題】中谷氏「一方的な行動慎むべき」 米艦派遣めぐり中国批判 - 産経ニュース
2015.10.23 18:38
いわゆる「法の支配」とは何か。wikipediaでは
法の支配(ほうのしはい、英語: the rule of law)とは、専断的な国家権力の支配を排し、権力を法で拘束するという英米法系の基本的原理
と書かれている。法が拘束するのは「権力」。それでは法の遵守との差異は見出しにくいが、
法の支配は、専断的な国家権力の支配、すなわち人の支配を排し、全ての統治権力を法で拘束することによって、被治者の権利ないし自由を保障することを目的とする立憲主義に基づく原理であり、自由主義、民主主義とも密接に結びついている
つまり、国家権力による支配は、民主制を経て制定された法律の範囲内においてのみ許容されるという原理なわけです。その思想の根源は
国会が権限を濫用して被治者の自由ないし権利を侵害することがあり得ることを前提とするものであって、権力に対し懐疑的で、立憲主義、権力分立と密接に結び付いている
もので、一般論としての「法の遵守」とは次元が異なる。最近だと権力に対する懐疑的態度は"反日"とか言われかねない息苦しさがありますが……。
法の支配が立憲主義に基づく原理とある通り、ここで通説的に念頭に置かれている『法』とは、全法秩序のうち「根本法」ないし「基本法」のこと、つまり『日本国憲法』がそれにあたるわけです。ところが首相などの用法では”国際法による法の支配”とある通り基本法以外の法について法の支配と言っていて、違和感を覚える。集団的自衛権問題にしろTPPにしろ、憲法に比して国際協調をより重い価値として見ているような印象を私は受けてしまいます。
で、調べてみると、安部首相が自身の言葉で「法の支配」について語ったものがネットに。昨年、2014年に国際法曹協会(IBA)東京大会年次総会で安部首相がしたスピーチがそれです。首相官邸のwebページにスピーチの動画と書き起こしがありました。
平成26年10月19日 国際法曹協会(IBA)東京大会年次総会 安倍総理スピーチ | 平成26年 | 総理の演説・記者会見など | 記者会見 | 首相官邸ホームページ
一部、抜粋してみます。
私が「法の支配」について思うところをお話しさせていただきたいと思います。
「法の支配」との用語は、西洋を起源としますが、その内容は普遍的なものです。決して西洋に限られるものではありません。アジアにも、古くから同じような考え方があります。「法の支配」の本質は、権力は絶対ではなく、権力の上に、権力が奉仕すべき、また、権力が縛られる道徳的実在がある、と言うことです。その実在とは、西洋の啓蒙思想では、「国民の一般意思」と言われたり、日本を始めとする北東アジアの国々では、「天」と呼ばれたりします。
権力が縛られるという観点では本来の通説的な意味の「法の支配」であって、法の遵守という意味で法の支配を用いているようには見えません。ただ、いきなり権力の上に道徳的実在があると言い出してます。憲法の存在には前後して一切触れられることはありません。一方、続けて安倍首相はこのようにスピーチしています。
権力は、常に、法の僕(しもべ)なのです。
国際社会もまた、例外ではありません。20世紀には、国際社会もまた、「法の支配」を基盤として構成されてきました。それまでは、国際社会において、暴力が完全に否定されていませんでした。戦争や植民地支配が当たり前のようにまかり通りました。20世紀半ばに至り、戦争が否定されるようになり、国連憲章を基盤とする新しい国際社会が築かれました。
法と正義の支配する国際社会を守ることが、日本の国益であり、日本外交の理念であります。我が国は、国際社会における「法の支配」の実現のため、幅広い外交を展開しています。
ここで冒頭のような法の支配の用法が出てくるに至ります。国家という権力を縛るという意味では、確かに国連憲章や国際法をそのように擬制することができなくはないですが、本来、主権者たる国民と国家との関係性を表現する「法の支配」を国家と国家の関係性に対して用いるのは、その主旨を大きく異にするのではないかと感じます。権力を縛るものであることを明言しつつ、基本法の存在を無視し、道徳的実在を持ち出し、国家間の国際関係に流用する。意図的に意味を変容させているように読めてしまいます。
他方で、法の順守と意味で「法の支配」と用いることが特異か、と言われれば必ずしもそうではないようです。
先日から議論を巻き起こしているユネスコの記憶遺産。その「記憶遺産保護のための一般指針(GENERAL GUIDELINES TO SAFEGUARD DOCUMENTARY HERITAGE)」では、以下の様な記述があります。
2.5 Ethical issues
2.5.4 The “rule of law” is respected. That is, contractual obligations, copyright legislation, moral rights, agreements and relationships with donors, depositors or clients are consistently observed and maintained with integrity and transparency. This recognizes that trust can be easily destroyed if it is abused.
http://unesdoc.unesco.org/images/0012/001256/125637e.pdf
“rule of law”、すなわち「法の支配」ですが、ここでは契約や知的財産を守ることを内容としており、主旨としては法の遵守のようです。文部科学省による邦訳でも
2.5 倫理問題
2.5.4 「法の支配」を尊重する。即ち、契約上の義務、著作権法、著作者人格権、寄贈者や寄託者またはクライアントとの合意や関係を、誠実かつ透明性をもって守り、保つ。これは、信頼は、悪用すれば簡単に壊れかねないことを認識することである。
http://www.mext.go.jp/component/a_menu/other/micro_detail/__icsFiles/afieldfile/2015/07/07/1355545_02_1.pdf
とあるので、学術的な意味での「法の支配」とは乖離した語として用いられている場面もあるようです。