主な単著

 『「公共性」論』honto電子書籍
 『ナウシカ解読 増補版』honto電子書籍
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『不平等との闘い』正誤(初版):

21頁「『 人間 不平等 起源 論』 では ルソー は、…… ホッブズ 自身 の 議論 も また 興味深い もの です。」まるまる削除。(2016年6月17日)
178頁3行目の後に以下を挿入。
「またマル1とマル2´の場合と同様に、マル3´とくらべたとき、マル4´では定常状態への収束が遅く、生産水準が永続的に低くなってしまいます。出発点での分配が不平等であればあるほど、より一層収束が遅く、生産水準の低下がひどくなるのも同様です。」(2016年7月19日)

『AI時代の労働の哲学』正誤(初版):

165頁 ×「対外の問題は」 → ○「大概の問題は」(第二版以降修正)

『社会倫理学講義』正誤(初版)

22頁 ×「原題の経済学」 → ○「現代の経済学」

稲葉振一郎×竹下昌志×吉川浩満「人間と人間以外の倫理の未来」『宇宙・動物・資本主義──稲葉振一郎対話集』(晶文社)刊行記念(2024・8/15 本屋B&B )稲葉振一郎資料

https://bbarchive240815a.peatix.com/

 当日語り切れなかった部分を含めて資料を公開する。

 

*自己紹介
稲葉振一郎
明治学院大学社会学部教授
専攻はとりあえず社会哲学
英語の学術論文は宇宙倫理学に集中している。
日本語ではAI倫理学関連の論文もある。
社会学史、経済学史、政治哲学、およそ思いついたことは何でも書いてみる人生。

 

0.コメントへの回答と反問

*本書は総じて深層学習以前のAI像にとどまっており、それゆえの限界があるので、歴史的コンテキストを振り返ると、
機械学習以前のAI・ロボット像=人工生命・人造人間
理想的極限においては自律的エージェントとなる。
哲学の主題としてのAI・ロボット:「どのような機械であればそれを自立した知性と呼びうるか?」という思考実験の課題(その系論としてのAI・ロボット倫理――AI・ロボットの正しい遇し方とは?)
機械学習直後のAI・ロボット像=直近においては半自律的道具、将来においては人工神
自律的エージェントでありかつ人間には理解不能・制御不能(ボストロムの超知能)
現代の言葉でいうAIアラインメント問題の出現
機械学習普及後のAI像=古典的な意味での自律的エージェントへの期待の衰退と、にもかかわらず理解不能・制御不能な道具としてのAI像
自律した身体を備えたAIエージェントとしてのロボット像の衰退
理解不能制御不能な道具としてのAIについてのアラインメント問題
飛浩隆『自生の夢』の「野生の詩藻」のイメージはそれを予感している?

*長期主義の中での動物倫理の可能性について質問
田上孝一『はじめての動物倫理学』では家畜・ペット全廃論と、現存の家畜・ペットに対する選択的反出生主義とでもいうべき展望が提示されている。この主張は現行の動物倫理学の中では必ずしも異端でも奇矯でもない。
・更に田上は功利主義者ではないがマルクス主義者として近代的進歩主義者であり、その延長線上にその動物解放論はある。つまり過去の人間は動物を搾取せずに生きていくことが難しかったが、技術の発展により動物を搾取しない生き方が可能となったのであり、かつそれが道徳的にも優る以上、動物を解放すべきである、と。
・ただ、こうした進歩主義に立ち、かつ長期主義的な展望をとって動物解放を追求すると、やがて野生動物の解放戦略についての深刻な対立が生じうるのではないか。つまり現状では野生動物の解放とはただ単に手を出さないようにすること、が最大公約数的考え方だが、野生動物の生において快楽と苦痛のどちらが優越するか、という問いを立て、苦痛が優越する、との答えが出たならば、功利主義的観点からは野生動物に対する反出生主義が帰結しうるし、それを取らずにかつ徹底的な進歩主義を取って、あらゆる動物をペット化する、という発想も生じうるし、現に論じられている(功利主義の枠内で「仁愛的畜産論」が成り立つ以上、それより明らかにましな「仁愛的ペット論」が成り立たないわけがない)。(cf.デイヴィッド・ブリンの「知性化(uplift)」)
・長期主義的展望をとると、動物解放思想の中でも功利主義・カント主義・マルクス主義等の近代派はいずれこの種のパズルにたどり着くのではないか、と予想される。これに対して反近代派(アニマル・スタディーズ?)はこのパズルを免れる可能性が高い。しかしそもそも反近代派は長期主義の枠組み自体を拒絶する?

 

1.長期主義の文脈:功利主義から効果的利他主義

 

功利主義復権
シンガーによる応用倫理学基礎理論としての汎用性の例示
パーフィットによる総量主義の復権ベンサム的原点への回帰
その実践的展開としての効果的利他主義(EA)

 

*効果的利他主義の当初の焦点:グローバル倫理、援助の義務
グローバルな援助をいかに効果的に行うか?
・限られた援助資源をより効率的に使う。
・援助に充てられる資源そのものを増やす→人によっては(直接的には資源の消費となる)援助に従事するよりも、資源そのものの生産に注力し、その成果を寄付した方が、結果的に援助に充てられる資源を最大化できる。
←これへの典型的な左翼的批判:資本主義の全面的肯定である。
援助を必要とする貧困は、実は資本主義の帰結ではないのか?
←ありうべき反批判は当然、ルソーに対するスミスの批判の再演になる。資本主義による格差が拡大しても、最底辺の生活水準が絶対的に向上すればよいのでは? と。

 

*効果的利他主義の派生態としての長期主義
効果的利他主義は総量功利主義を踏まえており、そこでの目標は歴史を通じての幸福の最大化である。
他の条件を一定とすれば人口は多ければ多いほどよく、それゆえ未来における人口の更なる増加と生活水準の向上、それを可能とする経済成長、宇宙の植民地化を求める。
理論的には、未来における人類の更なる繁栄のために、現在を含めたそれ以前の人類が一定の犠牲を払うことも、歴史的な幸福の総量が増大するなら、正当化されうる。(理論的には古典的な総量主義への批判においてしばしば持ち出された、「最大多数の最大幸福」が少数の犠牲の上に実現されることの許容と同じ理屈である。)
パーフィットの「いとわしい結論」による懐疑は長期主義にも適用されるが、現時点での長期主義者は「いとわしい結論は(見かけほどは)いとわしくない」という方向に傾きつつある。

 

2.現代という時代の特権性の主張

 

産業革命前後から今日まで、人類社会は人口や生産力で測ってパーセントのオーダーでの成長を遂げてきたわけであるが、これは過去の人類史で言えばほんのつい最近のことであるのみならず、未来においてもこれほどの高成長は持続しえない。
彼の指摘を真に受けるなら、パーセントのオーダーでの成長が可能な未来はせいぜい数百年のオーダーということになる。仮にこの見立てが厳しすぎたとしても、一桁上げても数千年であり、宇宙論どころか地球物理学的にも大した時間ではない。
既に宇宙論の研究者によって、宇宙膨張ゆえに観測可能な宇宙の範囲自体がやがて相対的に狭まり、あらゆる天体はやがて光速を超えて我々から遠ざかって観測不可能になり、観測可能――つまりは到達可能な範囲は局所銀河群、よくておとめ座銀河団に限られしまう、と我々は指摘されていたはずである。ということは仮に人類が滅びずに何億年というオーダーで生き延び、宇宙に広がっていったとしても、いずれは利用可能な物理的資源の限界にぶつかるということである。もちろんその利用効率を上げていくことは可能だろうが、それにも上限が存在する可能性は高い。

 

3.長期主義への批判

 

*長期主義のライバルとしての加速主義
長期主義は功利主義の系譜に連なるため、個別主体の自由それ自体には目的的価値を認めず、それが真に幸福の実現につながるなら、個人的自由の制限、人類社会全体の計画的管理を容認するが、それに対して加速主義はリバタリアニズムの系譜に連なり、自由の制限を悪とする。また効率の観点からも、技術発展、生産力の増大のためには規制を最小化し、個人的な自由を最大化した方がよい、と考える。
細かく言うと加速主義の源流は一部のポストモダン左派のアナーキズムテクノクラシーの悪を技術の規制によってではなく、技術を万人に平等に開放することによって克服しようとする立場だったが、現代において強い影響力を持つのはむしろ右派的なリバタリアンの系譜に連なり、平等を重視しない立場である。これを効果的加速主義(e/acc)と呼ぶ。
長期主義も効果的加速主義も最終目標においては大差なく、対立は主に手続的レベルに存する。

 

*優生主義という批判
少なくとも千年単位、より本格的には百万年単位、一億年単位をも射程に入れる以上、自然な進化のプロセスによる人類の末裔の現生人類からの変化、地球環境そのものの変化の可能性までをも考慮に入れる以上、人間の性質の変化の可能性を考慮に入れないわけにはいかない。もちろん理論的には一切の人為的変化を拒絶するという選択もありうるが、現実的ではない。超長期的な時間的射程の下での人類の存続をめざすならば、その中での人間性の変容は、たとえ人為的な介入によるそれが禁じられても自然に起こらざるを得ないし、また全面的に禁じることが正当かどうかもわからない。それゆえに長期主義においては人間の「品種改良」の可能性について考えることはタブーではない。しかしこれは結局のところ優生主義への滑りやすい坂の上にあり、そのつもりはなくとも人間の間での差別と選別の正当化につながる危険がある、との批判もなおありうる。
ただひとつ指摘しておくと、長期主義における「優生主義」は伝統的な優生主義、特にいわゆる社会ダーウィニズムとは明確に異なるものである。社会ダーウィニズムにおいては近代社会の秩序、とりわけ福祉国家体制が、本来であれば自然選択によって淘汰される弱者を生存させる、という発想が支配的だった。しかしより洗練された進化生物学理解を踏まえた長期主義においてはむしろ反対に、人間が価値を置くものが進化的な適応にとってプラスだったのは人類が文明を獲得する以前の環境においてのことに過ぎず、未来永劫そうだとは限らない――それこそ現代の技術文明の下で、文化や娯楽を愛するという性質は進化的な意味で適応度が低く、その証拠に少子高齢化はとどまるところを知らない。現在の人間性はESSではなく、現在の技術文明の環境に対してより適応度が高いミュータントの侵入に対して脆弱である、とボストロムは論じる。

 

*反出生主義からの批判
功利主義の土俵に乗りつつも、快楽と苦痛のバランスシートは一般的にはマイナスになる、基本的には生において苦痛は快楽を上回る、と反出生主義は主張する。この立場からすれば、人口を増やせば快楽の総量は増えたとしても苦痛の総量もそれ以上に増える。ここで言う「人口」は功利主義と同じく狭義の人間や知的生命のみならず可感的存在全てを含むので、この主張には相応の説得力がある。文明化された人間(知的生命)世界においては、快楽が苦痛を上回ることは可能だが、自然界においてはそれはありえない。
←動物倫理学者からは野生動物の生にも介入して快苦バランスをプラスにすることは理論的には可能でありやるべきだ、との反批判がある。(ここで動物倫理と環境倫理の蜜月が破れる?)
同様のことは可感的人工知能システムにも当てはまる。

 

*「機会損失」という発想
長期主義において、現在を犠牲にしての未来の繁栄という方略の正当性を支えるのは、ひとつには時間的中立性であり、それ以上に、現在において存在し生存している者と、現存せず単なる可能性でしかない者との間にも中立性を想定する、という発想である。
要するに、実現可能な価値を実際に実現しないことは「機会損失」として、現にある価値の毀損と同等の損失」として悪であり、避けられるべきことである、となる。
功利主義においても平均説、人格影響説をとる立場、更にカント主義的な立場からは、このような「機会損失」は現に存在する価値の損失に比べれば圧倒的に重要性を欠く。
ヨナスの場合、人は人類の存続に対する義務を負うが、特定の個人の誕生に対する義務は負わないし、個人は生まれてくる権利を持たない。
総量功利主義はこのような発想における実在と非実在(未実在)の非対称性を不整合性と批判するが、批判者はこの非対称性は決定的なものであるとする。

 

*宇宙植民の可能性を考慮に入れた場合における疑義
フェルミパラドックスに対する一つの回答としてのグレート・フィルター仮説は、ある意味でボストロムの存亡リスク論のバリアントであり、およそ知的生命とその文明は宇宙に本格的に進出する前に滅びるか、あるいは滅びないとしても何らかの理由で宇宙に本格的に進出することはない、と考える。そうだとすれば現在の我々人類が他の知的生命・文明を観測できない理由が説明できると同時に、我々人類とその文明も宇宙に進出できるほど長くは存続できないだろう(あるいはひきこもることを選ぶだろう)、という予測が成り立つ。この理論に反駁するためには、知的生命と文明は宇宙にありふれている、というその背後仮説の否定、つまり少なくとも観察可能な範囲の宇宙には我々人類のほかに知的生命・文明は存在しない可能性が極めて高い、と考えねばならない。もちろん仮にそうだとしても我々人類が絶滅を回避できるという保証にはならないが、少なくとも絶滅は不可避ではないという保証にはなる。
そのように考えるならば、人類絶滅は無視できない可能性だが不可避ではない、とする長期主義は、フェルミパラドックスに対する否定的・懐疑的解答、「観察可能(到達可能)な範囲の宇宙には他に誰もいない」仮説にある程度コミットせざるを得ない。それゆえにまた長期主義者は宇宙植民に対する楽観的立場に立つ。
おそらくは以上のような論理に基づき、長期主義者はETとの接触可能性、並びにETの道徳的取扱いについて真剣に考慮していないが、それはどこまで正当化できるか? 銀河系外植民の可能性を考慮に入れるならばそうはいっていられないのではないか?
この宇宙内に他にも複数の知性が存在するならば、その総体の幸福が目指されるべきであり、だとすれば可能な限りの植民地化が目標として掲げられるべきとは限らないのではないか?
そもそも光速度の壁を前提としたとき、恒星間文明はシングルトンの下に統合可能か?
シングルトンが不可能だとしたら、恒星間文明にどのような利点があるのか? 小規模でも高速で運動できる惑星、恒星系レベルの文明にはできないが、大規模だがのろのろとしか動けない恒星間文明にならできる(にしかできない)こととは、いったい何か?

 

*参考文献
ウィリアム・マッカスキル『見えない未来を変える「いま」』(みすず書房、2024)
Émile P. Torres. Human Extinction: A History of the Science and Ethics of Annihilation.( Routledge, 2023)
稲葉振一郎「「コンタクト・パラドックス」とその同類たち」『明治学院大学社会学社会福祉学研究』(161),1-31. https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=3876&file_id=18&file_no=1

稲葉振一郎「巨大事故、グローバル災害と人類の未来」『明治学院大学社会学社会福祉学研究』(160), 107-126. 

https://meigaku.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=3870&file_id=18&file_no=1

「会社主義」試論(メモ)

新刊の続きとして

 

 

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 1990年代の劈頭を飾った東京大学社会科学研究所の全体研究は『現代日本社会』(報告書は東京大学出版会刊)であり、第一巻の序論に明示されるように、その主導アイディアは当時の現代日本を「会社主義」というキーワードで形容するものであった。このキーコンセプトとしての「会社主義」は基本的に宇野派のマルクス経済学者馬場宏二と、民主科学者協会法律部会の憲法学者渡辺治の合作である。

 馬場宏二の「会社主義」概念は、彼と盟友であった財政学者加藤榮一が、師たる大内力の国家独占資本主義論を踏まえてともどもに形成しつつあった現代資本主義論を、主として労働経済学者小池和男の日本的労使関係論と、弟子の橋本寿朗の日本重化学工業論を念頭に置きつつ適用したものである。それは20世紀、ことに高度成長以降の日本資本主義を、20世紀前半から中葉にかけての資本主義の先導国であったアメリカ合衆国に代わって、世界の資本主義の新段階を主導する新たな典型国として理解しようとするものだった。

 日本資本主義の一見したところの特殊性を「後進性」「封建遺制」としてではなく、「国家独占資本主義」とかつて呼ばれた20世紀の組織資本主義のヴァリエーションとして捉えよう、つまり日本を異常でも後進的でもない普通の先進資本主義国として捉えようという志向は、日本マルクス経済学全体の中では反主流ではあったが、馬場たちの世代以降の宇野派の研究者たちには広く共有されていた。大内の財政金融政策、ことにインフレーション政策による労資対立の緩和を軸に据えた独自の国家独占資本主義理解に、より広く、労使関係制度の整備による労資協調、社会保障の整備といった福祉国家体制、それを支える国際環境としての管理通貨制度、更にそれらの実現を後押しした経済外的なコンテクストとしての世界大戦と戦時動員の経験、といった論点を加えて加藤榮一の現代資本主義論は形成され、馬場もそれを受容した。更に馬場はそれを戦後日本資本主義に適用するにあたって、小池和男の日本的労使関係論を全面的に受容し、20世紀の組織資本主義において普遍的に進行する労働市場の内部化、中核的従業員の長期雇用(日本的に言えば「終身雇用」)と内部昇進制(の結果としての見かけ上の「年功賃金」、その背後に貫徹する能力主義的合理性)、それを支える企業・事業所単位の交渉を軸とする労使関係、と言った諸特徴において、日本はそれに当てはまるどころか、20世紀中葉までの資本主義の主導国とされたアメリカ合衆国以上に、それらを徹底的に推し進めた典型国、先進資本主義として捉えられる、とした。そして馬場はこのような日本資本主義は、市場経済を軸としたれっきとした資本主義でありながら、同時に、その主役である企業が共同体的な生活保障機能をその従業員に対して発揮していて、福祉国家による社会保障を補完している、というより企業による雇用保障を軸とした生活保障こそが日本的福祉国家の主軸をなしているという意味で、社会主義的な色彩をも帯びている、とする。それどころか、東側社会主義の経済停滞が明らかになった80年代においては、西側資本主義の中でもトップクラスの成長率や雇用の安定を誇る日本は、公式的な社会主義以上の成果を上げる実質的な社会主義だ、とも。これを表すための言葉として馬場は「会社主義」を選ぶ。

 このようなほとんど日本礼賛論ともいえる馬場の「会社主義」論に対して、渡辺治の取るスタンスはもっとストレートに批判的、左翼的である。しかしながら渡辺は、職場の労働運動の熱心なリーダーであり、共産党系の社会運動にも熱心にコミットする活動家学者であるが、おそらくは職場である東大社研での馬場など他の研究者たちとの交流もあってか、それまでの共産党系の論者たちとは異なり、日本資本主義のある意味での先進性、とりわけその生産力の高さと、その成果を労働者にも配分することなどを通じて、労働者大衆の支持を得ているところを率直に認め、そうした強い統合力のある支配体制といかに戦うか、という問題の立て方をしていた。左翼の側でのこうした問題設定の源流は、60年安保前後の新左翼日本帝国主義自立論にあると言え、新左翼諸党派の知的生産性はその後急落したものの、グラムシヘゲモニー論なども踏まえて、豊かな社会における満足した労働者に支持される資本主義をどう批判するか、という課題は党派を超え、またアカデミーの内と外の両方で受け継がれた。しかし80年代までは共産党系や社会主義協会派などの旧左翼においては、戦後においても日本資本主義は後進的で、労働者は弾圧されており資本主義への忠誠心など持たない、という理解が公式的なものであった。80年代においてこの壁を破った共産党系論客として渡辺の存在は突出していたのである(ノンセクトのイデオローグとして著名だった菅孝行が高い評価をしている。菅編『モグラ叩き時代のマルキシズム』現代企画室、1985年)。渡辺は日本社会の現状に関する事実認識においては馬場とほぼ一致していたが、距離を置いた肯定、とも言うべきシニカルでアイロニカルなスタンスをとる馬場とは異なり、日本社会の「会社主義」を打倒すべき敵とみなしており、その点では小池と事実認識を共有しつつ日本的労使関係への批判的スタンスを貫いた熊沢誠からも影響を受けている。

 日本資本主義論としての「会社主義」論の要は、ことに加藤の現代資本主義論との違いに注目するならば小池理論の受容である。加藤の場合は労資協調の基盤としての労働市場の内部化は、政治・社会統合の面ではプラスではあれ、経済・生産力面ではむしろ重荷、制約として理解される傾向があった。しかし小池理論を受容するならば、労働市場の内部化は独占資本主義段階においては経済合理的であり、雇用の長期化や賃金の硬直化といったマイナス面は、労働者の就業意欲と、小池の言う「知的熟練」、長期雇用の元での能力の向上(特に不測の事態への対応能力や「改善」への参加)を高めることによって相殺されてあまりあることになる。馬場はここまで見込んで日本を20世紀終盤という時点での資本主義的先進国と捉えたのである。その上日本は、労働者を含めた民衆の生活水準の向上と安定を達成するにあたって、既に行き詰まりを見せいていた東側の計画経済以上の成果を挙げているのだから社会主義としても悪くはない――馬場はこのように日本を位置づける。とはいえ馬場によればそのような日本でさえも資本主義の究極的な限界としての、自然環境の制約を克服することはできないと予想するので、彼の議論は手放しの日本礼賛論とはならないが、資本主義へのオルタナティヴとしての社会主義への展望は(日本「会社主義」を含めても)そこにはない。

 さてこうした「会社主義」論はバブル崩壊以降の日本経済の展開によって見放されてしまったわけであるが、それに対して論者たちがどう対応したかについてはさておいて、それを社会思想史的脈絡の中に置きなおしてみると、それは日本文化・社会論のマルクス主義ヴァージョンということができるが、それ以上に、産業社会論の一ヴァリエーションにも結果的になってしまっている、と言えるのではないか。もちろんそれはあくまでもマルクス主義の図式にのっとっており、産業社会論のそれとはその基礎からして異なる。にもかかわらず結論的には産業社会論の収斂理論と奇妙に似通ったところに到達しているのだ。

 当時の日本における産業社会論を代表するのは村上泰亮であり、彼の「イエ社会」論、「新中間大衆」論はまさに「会社主義」論のカウンターパートである。とはいえ村上の場合にはその要は日本的労使関係・雇用慣行からは微妙にずらされている。村上は小池同様、そうした長期雇用、労働市場の内部化を先進資本主義における普遍的な傾向と見なす。しかし小池とは異なり、日本をそうした傾向における最先端とも明言しない。村上が日本の特徴と見なすのは政府による産業政策、産官関係とそれに基づく業界秩序である。その中には「護送船団行政」と揶揄されることもあった、強い規制と引き換えに保護された銀行業界があり、更に「メインバンクシステム」と呼ばれた、銀行依存度の高い企業の資金調達慣行があった。歴史的経緯としては多分に偶然が作用しているが、戦後の財閥解体によって持株会社による旧財閥系企業のガバナンスが解け、更に高度成長期の証券不況以降、一般の投資家が委縮して、大企業間での株式の相互持合が進み、その下支えを銀行が行うようになった。つまり乱暴に言えば最終的なセーフティーネットを、政府による強い規制の下にある銀行が引き受ける形で、多くの企業が資本市場による統制、資本家によるガバナンスから独立した擬似的な自律性を獲得してしまった、というストーリーである。類似の議論は多く見られたが、村上のこの経済論は、上記の業界と規制官庁との共生関係に加えて、議会については包括政党としての自民党主導のコンセンサス・ポリティックスという理解を提示した政治論と、そうした包括政党の支持基盤としての、明確な断絶を欠いた「一億総中流」のなだらかな階層構造として日本社会を捉える「新中間大衆」社会論と合わさって、包括的な日本社会論として広く受け入れられた。そしてこの村上の議論を踏まえるなら、「会社主義」論を含めた、戦後日本を企業中心社会論として捉える議論は、総じて産業社会論のヴァリエーションであったことが見えてくる。そこで描かれる企業は、従業員の生活保障に責任を持つ疑似共同体であるのみならず、資本家の統制からも自律した、つまり資本家の利益の実現のための道具ではなく、それ自体の存続を自己目的化した組織として理解されているのである。

 総体としてみれば産業社会論は冷戦終焉と体制転換によって失効宣告されたわけではあるが、会社主義論は社会主義の崩壊によってではなく、バブル経済の崩壊によって忘れ去られることになった。つまりそこには若干の時差があり、東側の体制転換と日本における不況の深刻化の過渡期には、しばしば戯画的に「日本こそ最も成功した社会主義である」と言われることもあり、また日本企業を大真面目に「従業者主権企業」としてモデル化する試みもあった。だが産業社会論も会社主義論も、単に事実によって陳腐化され、失効させられただけであって、果たしてそのどこに誤りがあったのか、の総括はいまだ十分になされていない。

 まずイエ社会論の主導者村上泰亮についていえば、社会主義の終焉には間に合ったが、バブル崩壊後の不況の本格化を見る前に没しているために、十分な自己総括を行う余裕がなかったうらみはあるが、しかし晩年の、おそらくは自己総括を目指したはずの大著『反古典の政治経済学』におけるいくつかの将来予測的記述を見る限り、その予測は無残なまでに外れていることに嘆息せざるを得ない。そもそも村上の基本的なスタンスとしては、社会主義の崩壊にもかかわらず、自己の理論枠組みの大枠の変更の必要はそもそも感じていなかったように思われる。産業社会論の枠組みからすれば市場主導か計画主導かは産業化における二つのオルタナティヴな方向性にほかならず、現実はその混交に他ならない。『反古典』においてはそのスタンスは「開発主義」なるキーワードによってあらわされ、この「開発主義」の濃淡によって市場主導か計画主導かの相違が理解される。ソ連型の指令経済は歴史的使命を終えたものの、市場を適切に生かす形での適切な政策的介入の必要性、有効性は当時の中進国の成果が示している、と村上は理解していた。その上で未来におけるイデオロギーの更なる後退、ナショナリズムの衰退を村上は予想した。国際関係についてもアメリカのリーダーシップの後退を予想しつつも、その穴を日欧主導の協調体制が埋めることを村上は期待していた。村上のこうした予想を後知恵的に嗤うことはたやすいが、何を彼が見落としていたのか、は問題とされねばならない。

 馬場宏二はと言えば、問題そのものから逃避したと言える。彼の会社主義をも含めた資本主義への評価はアンビバレントなものであり、伝統的な窮乏化論に換えて彼は資本主義の富裕化論をかねてから唱えていた。日本会社主義はいわばその先端を走るものと位置付けられていた。しかしながらこの富裕化はいずれ地球環境の限界に突き当たって行き詰る。それが彼の最終的な予想であった。それに比べれば日本会社主義の失速など些末なことにすぎない。そのようにして晩年の彼は日本資本主義について語ることを回避し、地球全体の過剰富裕化の不吉な予言に逃げ込んだ。

 渡辺治の場合は、最も傷が少なかったかもしれない。不況下において労働者を取り込む余裕をなくし、あからさまに抑圧的となった日本資本主義を批判していれば、イデオローグとしての彼の面目は潰れない。しかしそこには何の知的価値も残されていない。

 

 その上で改めてまとめてみよう。村上泰亮の「新中間大衆」論において注意すべきは、「新中間大衆」が実体概念ではないということである。マルクス主義的な階級理論の枠組みにおける新中間階級ではないのはもちろん、産業社会論的な階層概念における新中間層ともずれる。敢えて言えばそれは準拠集団であり、人々が自己を「中流」と見なすセルフイメージである。そのことと村上における小池理論の扱いとはおそらく関係している。小池と同様村上は労働市場の内部化、労使関係のホワイトカラー化を日本特有のものとは見ていない。しかし小池や「会社主義」論の場合は日本を先進的とするところでやはり日本を特別視している。その意味でそれらは「日本型企業社会論」「企業中心社会論」である。しかし村上は日本社会の特異性をそこに見てはいない。日本経済の特殊性は、労働市場の内部化よりも、金融界の「護送船団」において顕著な、産業政策によって保たれたゆるい業界秩序である。村上は「安定雇用の下でホワイトカラー化した労働者たちが「新中間大衆」の中核にある」といった言い方を避けている。実態的に見ればこうした安定雇用のサラリーマンたちも、旧中間層たる自営業者や農民も、消費行動や価値意識において大きな差を持たず、その多くが、先述したような産業政策と業界秩序を官僚機構とともに支えている、包括政党化した自民党を、緩やかに消極的に支持しているありさまがまさに「新中間大衆政治」なのである。

 それに比べると「会社主義」論を含めた、この時代における日本社会の批判理論は、はるかに労働市場の内部化を重視している。村上の場合には日本の豊かさや先進性の原因として日本的労使関係はそれほど特権化されておらず、産業政策や金融秩序が、少なくとも高度成長期までの追いつき型近代化には有効だったことの強調の方が目立つ。それに対して「会社主義」論においては、トヨタなどが特権化され、日本型生産システムの先進性が強調される。批判理論ヴァージョンにおいてもそれは同様であり、では豊かさの成果を労働者にも与えるそれがなぜ批判の対象となるかと言えば、それが過労死にまで行きつくような労働強化、人間疎外をもたらすからである。

 このように、村上ヴァージョンと「会社主義」ヴァージョンとの微妙な差はあれ、バブル期までの、ジャパンアズナンバーワンの時代における日本社会論は、ある意味で産業社会論のヴァリアントであり、産業社会論が社会主義の崩壊によって外在的に失効させられたのと同様に、バブルの崩壊によって外在的に失効させられた。事実それ自体によって暴力的に失効宣告をされたため、産業社会論と同様、「そのどこが間違っていたのか」の十分な総括はされないままである。ただ経済学プロパーでは意外と昔から、村上的な産業政策有効論に対する批判は根強くあったし、また「産業政策の有効性は「追いつき型近代化」の局面に限られているのではないか」という但し書きは他ならぬ村上自身によっても与えられていた。後から振り返れば、村上にはマクロ経済学的観点が欠如していたことも重要な問題である。そこで我々はどちらかというと社会学的な、かつ批判的な立場からの日本型企業社会論の失敗の意味について考えてみよう。

 バブル期までのニューレフト的な日本型企業社会論における批判の焦点は、先述の通りあからさまな搾取というよりは疎外であった。擬似共同体的な労務管理のもと、温情と裏腹の抑圧的な管理社会が、企業を中心に形成されている――そのようなイメージがそこでは展開されていた。それに加えて、そのような「豊かさの中での抑圧」は日本に限らず先進資本主義諸国に共通する問題である一方、あからさまな貧しさ、搾取が現代資本主義には不在である、とされていわけではない。グローバルに見れば途上国はなお貧困にあえいでいるのであり、先進諸国の繁栄は途上国の搾取の上に成り立っている、日本を含め先進諸国の労働者大衆はどちらかというと搾取者の側にいる、という発想がともすればそこには見え隠れした。そうなると、これはもちろん理論内在的な失敗ではなく、まさに外的な事実の力による失効であるが、日本にとってはバブル期あたりから明らかになってきた新興工業地域の台頭、それらの中進国かと、なかんずく改革開放以降の中国の躍進という展開が、こうした日本型企業社会論のリアリティの破壊にひと役買っていることは否定できない。「日本ら先進諸国が貧しい第三世界を搾取している」などというのは「疚しい良心」どころかとんだ思い上がりだったのかもしれない。

 貧困、搾取よりも疎外を、あるいは貧困としても「(多数派の)豊かさの中の(少数派の)貧困」を主眼とするような先進国の批判理論のリアリティは、馬場風に言えば「大衆的富裕」は既定の事実として変わりようがない、という認識に支えられていた。20世紀末以降の先進諸国における格差の拡大は、そうした認識を掘り崩し、先進諸国においてさえ再び貧困を問題化するに至ったといえよう。どういうことか?

 日本固有の事情と、先進諸国に共通の普遍的事情とを分けて考えた方がよいかもしれない。21世紀にはいってある程度経つとマクロ経済学者の間で「長期停滞論」が囁かれるようになり、バブル崩壊以降の日本の長期不況はその前例、先駆である可能性が議論されるようになったが、少なくともかつてはバブル期以降の日本の長期不況の直接的原因は構造的なものというより政策的なもの、バブルに対処すべくなされた急激な金融引き締めのオーバーシュートであり、それ以降も緊縮的な金融政策が長期にわたって維持されたことにある、とされた。この長期不況の中、かつては日本ではあの先進諸国に比べて圧倒的に少なかったとされた失業、不安定就労が悪化し、安定雇用の下で家庭を持つ、というライフサイクルが標準の位置から転げ落ちてしまい、格差を広げている、と。しかしながらこうした不況を免れていた多くの先進諸国においても、20世紀末以降は格差が拡大し、「中間層の没落」が囁かれている。そしてその理由のひとつは実は急激に進展した経済のグローバル化の下での一部の旧途上国の躍進、中進国を通り越して先進国の仲間入りするほどの成長がある。これはもちろんグローバルに言えば世界的な格差の縮小を帰結しているのであるが、これが逆説的にも、旧先進諸国における格差を広げている、というのである。単純に旧先進国の相対的地位が下がったというにとどまらず、旧先進国の中の一部の人々の生活水準を相対的のみならず絶対的に低下させ、不安定化させているのではないか、と。それは単純に言えば貿易障壁の低下、のみならず企業活動自体のボーダーレス化(グローバル・サプライ・チェーンの展開)によって、旧途上国と旧先進国の労働者がより直接的に競争関係に入った(最終製品が世界貿易市場で競争することによって間接的に競争するだけでは済まず、企業がより低賃金でより良質の労働力を求めて生産拠点を世界中に求めるようになることによって、「世界労働市場」のようなものができつつある)からである。旧途上国の工場労働者によって、先進国の工場労働者の地位は脅かされているのだ。後知恵になって恐縮だが、80年代の「日本型企業社会論」にはほとんどこうした可能性は射程に入っていなかった。もちろん日本を含めた企業活動のグローバル化はよく知られていたものの、そこで予想されていたのはせいぜい「日本モデル」の普及、先進国の豊かさ(と疎外)のトリクルダウン、スピルオーバーくらいでしかなかった。まさに日本が貿易摩擦において欧米を脅かしているのと同様に、将来においてインドや中国が日本を含めた先進諸国を脅かす可能性など、ほとんど真面目に議論されていなかった。

 上の議論は渡辺に代表されるような広義ニューレフトの批判理論を意識しているが、実際のところは馬場や小池ら、非ラディカルや保守にも当てはまるものだろう。

 

 

 

 

 

 

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『宇宙・動物・資本主義──稲葉振一郎対話集』

 

 

新しい終末論(ないしそれに代わる歴史目的論)としての長期主義

 マッカスキルを読んで面白いと思ったのは、長期主義は新しいタイプの終末論というか、歴史目的論だなというところ。コジェーヴを引き継いだフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」論なんかもあるし、そうするとそれらを踏まえた東浩紀動物化論も終末論と言えるのかもしれないが、分析的伝統に立った哲学的倫理学においてこういう形で歴史哲学の復権が起こるとすると面白い。
 もちろん終末論といってよいかどうかはわからないが人類絶滅の可能性、存亡リスクについてはかねてからボストロムが論じてきたところではあり、その背景には当然終末論法、そして人間原理宇宙論がある。ただボストロム自身は存亡リスクを深刻に受け止めている一方で終末論法自体は受容していなかったのではないか。
 人間原理は(語弊のある言い方をすれば)この現時点における人類文明を(人によってはその一員である論者自身の実存を)開闢いらいの全宇宙史の帰結として位置づける。これをやりようによってはヘーゲルの歴史の理性と同型のものとして解釈することだってできるわけで、そうするとまさにそれは現在を歴史の終わり、全自然史の目的として特権化することになる。ただ長期主義の面白いところは、現在を「歴史の終わり」としてそこで話を止めるのではなく、むしろその先の長い未来をこそ主題化することだ。
 にもかかわらずマッカスキルは、この私たちの現在をある意味で特権化する。つまり産業革命前後から今日まで、人類社会は人口や生産力で測ってパーセントのオーダーでの成長を遂げてきたわけであるが、これは過去の人類史で言えばほんのつい最近のことであるのみならず、未来においてもこれほどの高成長は持続しえない、というのである。マッカスキルは古いタイプの保守的エコロジストではなく、人類の宇宙進出の可能性も考慮に入れている。しかし仮にそうだとしても、パーセントのオーダーでの成長は早晩止まらざるを得ない、と論じるのだ。思えばかつてドーキンスも『利己的な遺伝子』でパーセントのオーダーでの人口増加が続けばあっという間に既知の宇宙が充満してしまう、と指摘していたが、マッカスキルはもう少し真面目な計算で同様の指摘を行う。彼の指摘を真に受けるなら、パーセントのオーダーでの成長が可能な未来はせいぜい数百年のオーダーということになる。仮にこの見立てが厳しすぎたとしても、一桁上げても数千年であり、宇宙論どころか地球物理学的にも大した時間ではない。
 既に宇宙論の研究者によって、宇宙膨張ゆえに観測可能な宇宙の範囲自体がやがて相対的に狭まり、あらゆる天体はやがて光速を超えて我々から遠ざかって観測不可能になり、観測可能――つまりは到達可能な範囲は局所銀河群に限られしまう、と我々は指摘されていたはずである。ということは仮に人類が滅びずに何億年というオーダーで生き延び、宇宙に広がっていったとしても、いずれは利用可能な物理的資源の限界にぶつかるということである。もちろんその利用効率を上げていくことは可能だろうが、それにも上限が存在する可能性は高い。
 だからマッカスキルの長期主義は、かつての終末論とは別の形での歴史の目的論、現在という時代の特権化を行う論法として注目に値する。これまでの歴史の目的論はほとんどの場合現在ないし至近の未来を「歴史の終わり」、ひとつの大事業としての人類史の到達目標として特権化するものであった。長期主義はそれとはやや異なるタイプの歴史哲学を提示しようとしている。

 

 

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『消え去る立法者』合評会(9月9日・慶応義塾大学三田キャンパス)を終えて(続々)

 繰り返しになるが、社会契約論の図式は、神の立法とはことなり人々の合意へと国家の存在理由をおおいに「民主化」しているように見えるが、「あらかじめ先取りされた、予定された結果としての目的が原因となる」という目的論的図式は共有している。モンテスキューもルソーも、近代社会契約論が、自然状態という原因から現在の国家、法秩序という結果が生じるそのメカニズムをこのような目的論的図式にはめ込んだことを、想定された原因の中にあらかじめ結果を読み込む回顧的錯覚として批判し、それに換えて、歴史の中にこうした目的論的図式に収まらない、人間の力も思惑も超えた客観的な因果連関の力を見出す。しかしそれだけでは、そのような客観的な因果連関、言い換えるならば自然法則の力と、人間の自由意志とそれによる自発的行為の力の関係がよくわからなくなる。両者の関係をそれほど突き詰めず、前者と両立する範囲での後者、という形で立法、統治を位置づけるのがモンテスキューであるとするならば、神のごとき全知とそれゆえの無力、自己抑制を兼ね備えた立法者の中に、両者の根底的な無関係さ、無縁さを描き出したのがルソーである。
 さてそう考えるならば『人間不平等起源論』への回答として書かれたスミス『国富論』は、またこの立法者像を含んだ『社会契約論』のオルタナティヴであり、モンテスキューよりもう少し具体的な形での立法論を展開した、つまり「みえざる手」という言葉とともに、本来人間の希望や思惑とは無関係なはずの歴史の因果連関の力が、実際には、人間の意図どおり、ではもちろんなくとも、人間が意図的にもたらそうとした結果、ないしそれそのものではないがそれと同程度に人間にとっては都合の良い結果をある程度まではもたらしてくれる、と論じたのである。
 17,8世紀の、スミスが「重商主義」と呼んだ政治経済学、あるいはドイツ官房学、そしてルソーが『百科全書』によせた『政治経済論』はおおむね立法者、統治者の「みえる手」によってコントロールされる身体としての社会の経営、つまりは「国家の家政」であったが、フィジオクラシーにおいて予感され、スミスにおいて決定的になった新しい経済学、これは木庭顕によってのちの狭義の社会学と併せて(広義の)社会学と呼ばれるわけだが、それはもはや国家の身体ではなく、固有の運動法則にしたがう自律的な存在としての社会、のちにヘーゲルが「国家」と区別されたものとしての「市民社会」と呼ぶものを対象としている。ルソーはそれを格差と不平等のゆえに批判し、国家の課題をその不平等の克服に置いたのだが、スミスはそうした不平等ごと市民社会を肯定する。それが最底辺までをも底上げして社会を豊かにし、そのことによって不平等が引き起こしかねない紛争を抑え、平和をもたらすがゆえに。
 19世紀以降の社会主義者たちは、スミスの肯定にもかかわらず、やはりルソーの問題提起を受け止めて、不平等を是正し、社会的連帯を打ち立てようとするが、その果てに現れたマルクスは、ルソーもスミスも生真面目にかつ過激に受け止めた挙句、恐るべき方向に踏み出す。
 ルソーの立法者の形象はいかにも、不可能な課題の前に立ちすくむ人間を象徴するかのごときものだったが、それは見方を変えてみれば、人間の希望も思惑も超えたところで独自の法則性をもって立ちはだかる社会に対して、それでもなお立ち向かい介入しようとする人間の自由意志と、その集団的表れとしての政治というものの表現でもある。そしてルソーほど悲劇的にではないが、モンテスキューにせよスミスにせよ、因果性の隙間やあるいはその前提のレベルではたらく政治――というより政策かもしれないが――の余地を認めていた。これに対してマルクスは、ルソーもスミスもあまりに真に受けた挙句に、ある意味で政治を、自由そのものを否定することになってしまうのである。
 どういうことか? マルクスは政治を突き動かす理念や利害の根拠を、人々の物質的存在、経済的な生活基盤に求める。そしてこの経済の運動、歴史的発展のロジックこそ、まさに人間の希望も思惑も超えた因果連関としてはたらくがゆえに、人々の政治活動を導く理念も利害も、この経済の論理によって――より具体的には階級的立場によってきめられてしまうのだ、と論じるのである。単純に言えば生産手段の所有者が政治的支配階級となる。だから市民革命前は封建領主が、その後は有産市民が権力を握るのであり、国家とは、人が社会契約論に求めたような、あらゆる階級にまたがるあらゆる人々の共同体などではなく、またその共通利害、公共の利益のための装置でもなく、ただ支配階級の利益のための道具なのだ、と。かくて法と政治は経済、物質的生産力という土台に規定された上部構造、従属変数とされてしまうのである。
 狭義の社会学、それをうけた20世紀の実証的政治学の集団理論はそうしたマルクス主義への反動であり、経済と政治、市民社会と国家の関係において一方向的な因果的決定を見るのではなく、双方向的な相互作用を見て取ろうとする。事態の記述としてはもちろんその方が正確なのだが、そのことによって理論的明快さ、説明力をかえって失う。それゆえに20世紀末以降は、これらはマルクス的な決定論ではなく、禁欲的な実証主義を採用し、「経済がすべてを決定する」とはいわず「経済学の目から見えるもの以外についてはとりあえず沈黙する」合理的選択理論、ゲーム理論によって主役の座を奪われるのである。