米津玄師 2022 TOUR 変身 @さいたまスーパーアリーナ 10/27
- 2022/10/28
- 19:47
2014年に「YANKEE」リリース後に彼が人生初ライブを渋谷の小さなライブハウスのシークレットライブで行ったのを見て以来、ほぼ毎回のようにツアーに参加してきた。(初期の頃はチケット取れないこともあったけれど)
そんな米津玄師のライブもコロナ禍もあったことによって、2020年の2月に横浜アリーナで開催されたツアー「HYPE」以来、2年半ぶり。当時持ちうる想像力と技術を全て結集した、米津玄師のライブの新たな表現を見せたツアーも残念ながら途中で中止になってしまったけれど、果たして今の彼のライブはどんなものになっているのだろうか。2020年リリースの「STRAY SHEEP」もツアーを開催することが出来なかったため、今回のツアー「変身」はコロナ禍以降に発揮してきた米津玄師のクリエイティヴの発露の場だ。
スタジアムモードのさいたまスーパーアリーナは最上列まで完全に満員。それでもチケットが取れないというあたりが今の米津玄師の状況を示しているとも言えるが、そんなツアーのファイナルを見ることができるのは実に幸せなことである。果たして2年半ぶりの米津玄師のライブはどんなものになるのか。
平日であっても社会人が定時まで仕事をしたらまず間に合わないという開演時間の18時を少し過ぎたところで場内が暗転すると、ステージ両サイドのスクリーンには車が地下の駐車場を走る映像が始まる。そのシチュエーションはまるで「Flamingo」が始まりそうなものにも見えるのであるが、左ハンドルの外車を運転しているのは今回のツアーのデザインに描かれている人外生物。やたら荒々しい駐車技術で車を停めると、トランクを開けて中からタンバリンやジョウロを取り出す。結果的にジョウロを左手に持って駐車場からエレベーターへ向かい、乗り込んだところで映像が終わると、ステージには緑のシャツに黒のパンツという姿で左手にジョウロ、右手にハンドマイクを持った米津玄師が。つまりはツアータイトル通りにあの人外生物が米津玄師に「変身」しているというコンセプトのライブであるということがわかるオープニングだ。
その米津玄師はジョウロを片手にポーズを取ったりしながら、MVでの奇抜な姿も大きな話題になった「POP SONG」を歌い始める。サウンドは生音だけれど、メンバーの姿はそこにはないというのは「HYPE」の時と同様であるだけに、姿こそ見えなくてもおなじみのメンバーたちが米津玄師の音楽を支えているということがその音からは確かに伝わってくる。
ステージ中央には巨大なモノリスが鎮座し、それがLEDビジョンとなっているのだが、そこに黄色と黒の2色がせめぎ合うように映し出されるというシンプルなものはこの「POP SONG」のアートワークなどに合わせたものであるが、オープニングで映像が映し出されていたステージ左右のスクリーンにはキャラクターの姿が映し出され、歌っている米津玄師の姿は映らない。
それだと客席の後ろの方や上の方の人は姿がほとんど見えないのでは…と思っていると、米津玄師がステージから伸びる花道に歩み出した…と思ったら、なんとその花道が動く歩道になっており、米津玄師が自動的に花道の先に進むと、それと同時におなじみのメンバーである中島宏(ギター)、須藤優(ベース)、堀正輝(ドラム)の3人が演奏しながらステージにせり上がってくる。さすがアリーナ規模ならではの、盛大に金をかけているであろう演出の連発に、この「POP SONG」のひねくれた歌詞がそうした演出への皮肉のようにも聞こえるけれど、間違いなく米津玄師は当代一のポップスターになったんだなという実感が湧かざるを得ない。
華やかなホーンの音が同期として鳴り響いた瞬間に、LEDには光り輝くビルのような映像が映り、米津玄師のライブではおなじみの辻本知彦ダンスチームの面々が現れて男女1組×3組というフォーメーションで踊るのは「感電」。
「ニャンニャンニャン」
のフレーズでダンサーが猫のようなポーズを取っているのも実に可愛らしいのであるが、米津玄師も観客に向かって手を振ったりと、実にテンションが高い状態でこの日を迎えていることがよくわかる。それは
「たった一瞬の このきらめきを
食べ尽くそう二人で くたばるまで」
「稲妻の様に生きていたいだけ
お前はどうしたい? 返事はいらない」
という歌詞の通りに、この一瞬に全てをかけて生き抜こうとしているかのようだ。
そのダンサーたちと共に花道の前まで歩き出していくと、ダンサーが
「落ちていく」
というフレーズに合わせるようにして体をグニャっとしてステージに倒れ込むようにするのは、音源ではかつて対バン時に「有心論」を一緒に歌ったこともある、RADWIMPSの野田洋次郎が参加している「PLACEBO」。もちろんこの日は洋次郎が登場するということはないのだけれど、よくよく考えたらアルバム「STRAY SHEEP」はコロナ禍になってからリリースされたアルバムであり、それ以降初めてのライブがこのツアーであることからこのアルバムの曲たちをライブで聴くのはこれが初めてなんだよなということに気付く。それと同時に、このツアーが当初は予定されていたが発表することなく中止になってしまったという「STRAY SHEEP」のリリースツアーというのを含んでいるものであるということも。
「米津玄師でーす!」
と、あれ?ライブやらないうちにキャラ変わった?と思うくらいにハイテンションな口調で花道に立って挨拶をする姿からは、本当に米津玄師が身も心もポップスターになったんだなとも思うけれど、しかしすぐにいつもの低いトーンで
「正真正銘ツアーファイナル、最後の日なんで。楽しみましょう」
と言うあたりは今までに見てきた、聴いてきた米津玄師の口調と変わることはないものだ。
すると「迷える羊」では米津玄師が歌う花道に辻本知彦が登場し、その花道上で踊っているかと思ったらピタリと静止したりという、まさに行くべきかどうするかを迷っているような人間の心境をその肉体の動きで示す。かつては自分は別にライブにダンスはなくても別に…的な思考だったのだが、米津玄師のライブに辻本知彦チームが参加するようになり(なんなら「Loser」で米津玄師本人がその薫陶を受けて踊るようになったり)、そのダンスを見るようになってから、ダンスの表現力の奥深さと強さを感じられるようになった。そんな新たな感性や感覚を開いてくれたのも米津玄師のライブと存在があったからだ。
その米津玄師は2daysの2日目とは思えないくらいにこの日は序盤から実によく声が出ていた。今回は前日の初日を見ていないのでなんとも言えないところもあるが、そもそもかつての国際フォーラム2daysや日本武道館2daysでも米津玄師は2日目の方が声が出ているというかなり稀有なボーカリストであることを示していたが、米津玄師のライブはとにもかくにも「米津玄師が声が出ているかどうか」でライブの出来がガラッと変わる。それゆえにライブハウスを回っていた頃はまだその歌が曲のクオリティや場所の規模、バンドの演奏技術に見合ってないなと思うこともあったのだが、今はこのさいたまスーパーアリーナに見合うべき力を持って響いているというのが、その歌を聴いていてすぐにわかる。そこにグッときてしまうのはそう感じないライブも見てきたからであるのだが、それはこの日までに日本の各地を回ってきたからこそ発揮できるようになったものでもあるはずだ。
その今の米津玄師の歌声の凄さをこれ以上ないくらいに感じさせてくれたのが、まさかこんな前半で演奏されるとは思っていなかった「STRAY SHEEP」収録のバラード「カナリヤ」。ダンサーはおろか、バンドメンバーすらもステージからいなくなり、同期的なサウンドで米津玄師1人だけで歌う、
「いいよ あなたとなら いいよ
二度とこの場所には帰れないとしても
あなたとなら いいよ
歩いていこう 最後まで」
というサビのフレーズが歌い進むごとに強い情念を纏って響くようになっていくのがよくわかる。それはかつては曲を歌うだけというようにも見えていた米津玄師の歌唱が、曲に込めた感情や想いをその声に乗せることができるようになったということだ。それはかつての空想の箱庭世界を歌うのではなく、自分自身のリアルな経験や体験を歌詞にするようになったからかもれない。ステージ中央でマイクスタンドを握りしめて立つ米津玄師を、まるで鳥籠のように取り囲むようにステージ上方から放たれるレーザー的な照明もその歌声と曲、メロディにふさわしいい美しさであった。
そのまま米津玄師がステージ中央に立ったままであるが、ハンドマイクを握るとLEDには光が差し込む扉のようなシンプルなイメージが映し出され、
「夢ならばどれほどよかったでしょう」
と、かつてはライブのクライマックスで演奏されていた、米津玄師の名前を改めてマスへと広めた「Lemon」がここで早くも演奏されるのも驚きだ。それはその当時の米津玄師から今の米津玄師に変身を果たしたと言えるからでもあるが、コロナ禍で観客はマスクを着用しているから、かつてのこの曲の演出であるレモンの香りが客席に漂ってくるということもない。ただひたすらに曲の力、歌の力だけを届けようとしている。それでも最後に光が溢れるような照明はこの曲がどれだけたくさんの人に力を与えてきたかということを視覚的に示すようなものであった。それはつまり、今でも米津玄師は私の光ということである。
その「Lemon」とともに前回のツアーまではクライマックスを担っていた「海の幽霊」では米津玄師のボーカルにエフェクトがかけられているのだが、そのエフェクト成分は以前より抑えられているような気もする。何よりもLEDに映る、この曲がタイアップに起用された映画(見てないから本当にそうなのかはわからないけど)のアニメーションに視線が引き込まれていく。その映像内で発生している自然が巻き起こす現象が米津玄師の歌声によって引き起こされているかのような。それくらいに映像と曲がマッチし、寄り添いあっている。それは近年の米津玄師のタイアップ楽曲からもわかるように、作品をしっかり自分の中で消化した上で曲に落とし込んでいるからだろう。だからこそライブで映像とともに聴いていてこんなにも見入ってしまう、引き込まれてしまうのだ。
「ライブ見ていて、周りと同じ動きをしなきゃとか、そんなこと本当に考えなくていいから。自由に楽しめばいいから。そういうアーティストの方を否定するわけじゃないけど、みんなそれぞれ日常で嫌なこととかあるだろうし、また明日からもそういうことばかりでしょ?俺もそういう嫌なこともたくさんあるから、今だけは自由に楽しんでもらえたらと思います」
という自身のライブのスタイルについて話すと、さらには今回のツアーからコンタクトレンズを装着するようにしたことによって、観客の顔が良く見えるようになったことを語る。逆に今までは観客が全く見えていなかったらしいのたが、そのまま、
「最近結婚した友人に捧げます」
と言い、パッと照明が灯った時には再び左右にいるバンドメンバーが演奏を始めたのは菅田将暉に提供した曲のセルフカバーである「まちがいさがし」。なので菅田将暉の結婚に向けての曲だと思ったのだが、その真相は果たして。菅田将暉もこの曲において見事な歌唱を披露していたが、こうして米津玄師が歌うとやはりそのキーなどは米津玄師のものだなと改めて思う。特にサビの
「どうでもよかった」
というフレーズの下がっていくメロディなんかは実に米津節だなぁと思う。それだけにセルフカバーしてアルバムに収録され、こうしてライブで歌っているのも実に当然のように感じる。
するとメンバーが轟音も交えたイントロのアレンジの演奏を始める。その演奏を聴くと、どんなに久しぶりであってもその演奏が止まった瞬間に米津玄師がフッと歌い始めるのが「アイネクライネ」だとわかる。米津玄師はこの曲でこの日初めてギターを弾きながら歌うのであるが、その歌い始めで悲鳴のような歓声が上がらないというのはかつてとの世の中の変化を感じざるを得ないけれど、それでも今でもこうしてライブで毎回この曲を演奏してくれているというのが本当に嬉しいのは、SWEET LOVE SHOWER出演時の声が全く出なくなった時の観客の大合唱など、毎回ライブで演奏してきたからこそ見てこれた景色が聴いていて蘇ってくるからだ。この曲を含めたアルバム「YANKEE」がリリースされてライブをやるようになって、そうしたライブで出会った米津玄師が好きな人たちの顔なんかも。スクリーンにはMVを彷彿とさせる淡いアニメーション的な映像が映し出されていたが、リリース時から自分にとってもたくさんの人にとっても大事な曲だったこの曲が、今になってより大事な曲になっているということを実感していた。それくらいにこの曲に積み重なってきた思いが確かにあるから。一時期はちょっと聴くのに飽きたりしていた時もあったけれど、これからもこうしてライブの場でこの曲を聴き続けられるようにと今は心から思う。
その淡い映像がオイルアート的な、この曲がリリースされた時に渋谷のTSUTAYAで展開されたトケビジュアルをも彷彿とさせるものに変化することにより、サウンドも相まってどこか揺蕩うような感覚にさせるのは昨年リリースされた「Pale Blue」であり、この曲が演奏されたことがなくなってしまった「STRAY SHEEP」のツアーではなくて、さらにその先を進んでいる現在進行形の米津玄師によるツアーであることを示しているし、米津玄師のファルセットボーカルの美しさと表現力はもうライブにおける歌唱力の心配をしなくてもいいくらいの領域にまでこの男が到達したんだなと思った。
すると再びステージにはたくさんのダンサーが登場して思い思いに踊る中、ステージ中心にいる米津玄師は立っている場所がそのまま上方に稼働していくことによって、1人高い位置で歌うことに。それかつての「脊椎がオパールになる頃」ツアーでの「Loser」ほどの高さではないが、夕暮れのビーチでみんなでダンスパーティーをやっているような照明やスクリーンの情景の中で演奏された「パプリカ」では上空から星形の紙が降り注いでくるという演出も。きっと昨年などの状況下では出来なかったであろう演出がフルに発揮できるようになっているし、サウンド自体もFoorinに提供したバージョンよりも、今の米津玄師としての、大人が歌うべきものへとアップデートされている。歌っている当の本人はせり上がったステージ上で座り込んだりというリラックスっぷりだったのだが。
そんなパーティー的な「パプリカ」を終えてダンサーがステージを去ると、米津玄師は再びギターを肩にかけながら、
「こういう状況になって、2年半ぶりにツアーをやることにして。みんなマスクしてるし声も出せないし、それを煽ることも禁止されているしっていう感じなんで、どうだろうなと思ってたんですけど、俺としてはほとんど変わらないというか。そもそもあんまりそういう曲があるわけでもないしっていうのもあるけど、次の曲はそういう曲だから、急に動いて足をグネッたりしないようにね」
と、コロナ禍になって初めてライブをやるようになったこのツアーで見てきた景色を見ての言葉を素直に口にする。もちろん我々としては歌えない、声が出せないというのはなかなか厳しくもあるのだが、本人はそれをネガティヴには思っていないというのは少し安心したところもある。それはこのスタイルでもライブが出来るなと思えたということでもあるだろうから。
そんな米津玄師は
「今日だけは、いなくなった親友のために歌わせてください」
と言って「STRAY SHEEP」収録の「ひまわり」を演奏した。インタビューなどでもこの曲は亡くなったwowakaに向けて書いた曲だということを感じさせていたが、それすらもこんなに素直に口にするとは。
「その姿をいつだって 僕は追いかけていたんだ
転がるように線を貫いて 突き刺していく切っ先を
日陰に咲いたひまわりが 今も夏を待っている
人いきれを裂いて笑ってくれ 僕の奥でもう一度」
というサビはそのwowakaに抱いてきた想いと、今も抱いている想いをそのまま歌詞にしたかのようであるが、そんな曲が切ないバラードではなくて、ギターロックと言っていいアッパーなサウンドになっているというのは、wowakaが居なくなってもバンドを続けているヒトリエの3人へのエールでもあるんじゃないだろうかとも思う。だからこそそれはきっとこの日以外のツアーでは観客へのエールとして歌われてきたんじゃないだろうかということも。両サイドのスクリーンにこの日初めて演奏している姿が映し出された米津玄師の表情は凛としていながらもやはりどこか切なさをも感じざるを得なかった。
そして須藤がシンセベースへと移行し、堀が力強いドラムを連打するのはかつて武道館のワンマン時はファイナルのアンコールで演奏されていた「アンビリーバーズ」。須藤が曲中に手拍子を煽るようにする中、米津玄師の声がこの曲では少し高音がキツそうな感じだったのはどこか思うところ、感極まるようなところももしかしたらあったのかもしれないが、
「だから手を取って 僕らと行こうぜ
ここではない遠くの方へ」
「それでも僕ら 空を飛ぼうと 夢を見て朝を繋いでいく
全て受け止めて一緒に笑おうか」
というフレーズはきっとこうしてライブに来ている、あるいは今回は来れなかったが米津玄師の音楽を聴いている人たちのライブがなかった期間の支えとして響いていたはずだ。かつてのように米津玄師がフロアタムをスティックで連打するということはもうないけれど、この曲が持っている後ろ向きになりがちな人の前向きなパワーは全く失われることはない。この辺りからここまでは少し遠慮気味な感もあった観客のノリが明らかに変わってきていた。そう思うくらいに腕を上げるような人が多くなっていたのだが、それは周りに合わせてそうしたものではなく、曲の力、それを演奏している人の力をダイレクトに感じたからこそだ。
素早く米津玄師がギターを持つと、ボカロ的なサウンドがバンドの演奏によって練り上げられていき、テンションの高い米津玄師の「1,2,3」のカウントに合わせて声を出すことができない観客も指でカウントするのは米津玄師としてのデビュー作「diorama」収録の「ゴーゴー幽霊船」だ。曲中では中島と向き合って演奏する姿がこのバンドとして長い年月を過ごしてきた絆を感じさせる須藤も再びイントロから手拍子を促すのだが、曲中のカウントでもスクリーンにはそのカウントに応じた数字が映し出される。サビでは特にカウントもないのに「8」という数字が映し出されたのは、間奏で達する数が8だからというのと、もしかしたら米津玄師のボカロP時代の名前の「ハチ」にかけていたところもあったんじゃないかと思う。
それはこの曲がまだボカロ曲としても世の中に出せるようなサウンドのものを自身が歌唱したという形でリリースした曲だからそう思うのかもしれないが、この日のセトリにはもう他にそういうタイプの曲がないということは、この曲はもう今の米津玄師のモードからはだいぶ離れている曲なんだろうなとも思う。
それでもこの曲をこうして演奏するのは紛れもなく一緒に楽しんでくれる観客のためという思いによるものだろう。この曲の時の客席の腕の上がり方や盛り上がりっぷりは他の曲と全く違う。基本的には自分が今やりたいことをやり、作りたい曲を作るという意識で活動しているアーティストだと思うけれど、ライブの時には確実に我々が目の前にいるということを念頭に置いている。MCの喋り方も無愛想に見えるけれど、ライブを見ると米津玄師の優しさをこうした部分からちゃんと感じることができるし、個人的には「diorama」が米津玄師との出会いの作品だった(人生においてアルバムを何万枚聴いてきたかわからないけどその中に順位をつけるならば「diorama」は限りなく上位にいる)だけに、こうしてこの曲を聴くと「diorama」を仕事帰りにHMVで買って家で聴いた時の「なんだこの音楽は!」と思った衝撃を思い出させてくれる。そういう意味でもこれからもこうしてライブでみんなで一緒にカウントしたい曲だと思っている。
そんな「ゴーゴー幽霊船」の後に堀が力強いビートを鳴らし、同期のコーラス音が響く。そのコーラスに合わせて米津玄師が2本指を掲げると、客席も同じようにして無数の2本指がアリーナから最上階まで掲げられるという圧巻の光景が広がる。よく見えるようになった米津玄師が客席を見渡すようにすると中島がギターリフを鳴らした瞬間に銀テープが発射される。ああ、前にライブで演奏されていた時も「ピースサイン」はこういう演出だったな、ということを思い出すとともに、現代のポップスターという存在になってもこのギターロックサウンドとしての米津玄師がたくさんの人に求められていることがわかる。
左右と中央のスクリーンにはメンバーそれぞれの演奏する姿が分割されて映し出され、サビの最後には米津玄師の歌う姿のみが映し出されるのだが、ようやく「僕のヒーローアカデミア」をちゃんと読むようになっただけに、この曲が起用されていた頃にアニメをよく見ておけば良かったと思う。そして今そのアニメのエンディングを秋山黄色が担当しているというのも、作品を愛してきたアーティストの魂が継承されているように感じられるのだ。
そうだ、MC挟まない限りはこうやって次々に曲を演奏するから、米津玄師のライブは実はめちゃくちゃテンポが良いんだよなと思うのはすぐさま「爱丽丝」の演奏が始まったからで、ヒロイックなピースサインの雰囲気とは打って変わってスクリーンにも妖艶な映像が映し出される中に、ツアーを経て再び練り上げられてきたこの4人のロックサウンドが鳴る。
この曲がリリースされた当時は共同制作者としてクレジットされていた常田大希もまだKing Gnuが売れる前だっただけに、ファンの中でも名前の読み方がわからないみたいな感じだったな〜と懐かしんでいたら、間奏で突如として米津玄師が
「ギター、常田大希!」
と名前を呼ぶと、ギターを持って出てきた常田がこれがこの曲の真の姿だということを示すように強烈なギターソロを弾きまくる。その際の観客の湧きっぷりはかつて武道館に菅田将暉が登場した時を彷彿とさせるのだが、曲前に紹介されて出てきた菅田将暉の時よりもこうして突如出てきただけに驚いてしまうし、何よりもその登場の仕方が実に常田らしいスマートさがありながらも、鳴らしている音や姿からはKing Gnuのライブと同様の燃えたぎる熱量を感じさせる。観客側はこれを見せられたらスマートではいられないだけに、全てを明日に任せてもっと踊るしかないし、実際に常田もアウトロでも他のメンバーに接近したりしながらギターを弾きまくっていた。その常田のギターの熱さによって、米津玄師のボーカルの熱さがさらに引き出されている。そここそがこの2人による化学反応なんじゃないかと思うくらいに、ロックな米津玄師のライブの音が鳴っていた。
そんな常田と
「最近一緒に筋トレしたりしまして(笑)こうやって出てきたからにはこの曲をやらないと。最後の曲です」
と言って演奏されたのは、MVのぶっ飛び具合やアニメ「チェンソーマン」との親和性の高さでも話題になっている「KICK BACK」。炎までも噴き上がり、ダンサーも悪魔に操られている人々のように不穏な踊りを踊る中、米津玄師はセルフィースティックで自身の歌う姿や常田、メンバーが演奏する姿を撮影し、その撮影している姿がリアルタイムでスクリーンに映し出される。全員がちゃんとカメラ目線で演奏してくれるのも近くで米津玄師が撮影しているからという安心感がもたらしているものだと思うけれど、何よりもこんなに至近距離でスクリーンに映る米津玄師の顔を見れることはそうそうない。やはり長い前髪で前が見えねぇとばかりに目元まではハッキリとは見えないが、仲間総出演と言っていいこの曲を歌う表情はいつも以上に笑みを湛えているように見えた。急に光が差し込んでくるような唐突な構成はフルで曲を聴かないとわからないものであるが、個人的にはアニメのオープニングの最後のカットでデンジとパワーが曲のリズムに合わせてツーステ的なダンスを踊っている姿が好きだったりする。
曲が終わった瞬間に場内は暗転。なのでステージから遠い客席からはなかなか捌け方が見えなかったのであるが、スクリーンにライブタイトルが映し出される中で手拍子が響くとステージが明るくなり、先にバンドメンバーが登場すると、マイクスタンドの前には座布団が置いてある。そこに米津玄師が登場して座布団の上に座ると、
「落語をやってみたくて作った曲(笑)」
と身も蓋もないことをインタビューで口にしていた「死神」がMVそのままというようにまるで落語を喋っているかのように披露される。カップリング曲をアンコールでやりがちというのもこれまでのツアー同様であるが、こんなに曲も演出もやりたい放題やっているアーティストはそうそういないと思う。というか座布団敷いて歌ってたアーティストが他にいるのだろうかとすら思う。
その座布団に座っていたことから、タイトル通りに神秘的かつ幽玄なサウンド、でもメロディはあくまで美しいという「ゆめうつつ」の歌唱時に米津玄師は裸足でステージ上を歩き回りながら歌っていた。その姿が逆に米津玄師の足の長さをより一層感じさせ、本当に同じ人間なのだろうかと思ってしまうように美しく舞うように踊っていた。こうした体の使い方を見て辻本知彦も米津玄師にダンスの特別な才覚を見出したんだろうなと思う。
アンコールではおなじみの中島によるMCではメンバーを1人ずつ紹介するのであるが、いきなり
「ドラム、すってぃー!…じゃなかった!」
とリズム隊の名前と役割を間違えてしまう。それはこの後に待ち構えている自身のパフォーマンスのことが頭を支配していたからかもしれないが、前日に披露して話題騒然となった、
「行け!中島!」
という米津玄師の号令によって中島が花道を踊りながら歩いていくという中島ダンスが披露される。名前を間違えられた堀と須藤がリズムを鳴らし、それに合わせて時には三代目J Soul Brothersのような腕の動きやステップを見せた中島を米津玄師は
「さすが徳島のマイケル・ジャクソン」
と、それは言い過ぎではと思うくらいに最大の賛辞で称えていた。でも徳島から出てきて東京で暮らし、人付き合いが得意ではなさそうな米津玄師がこうしてたくさんの人が関わるライブというものが出来ているのは、唯一と言っていいくらいに昔の自分を知っている存在である幼なじみの中島の存在が大きいんだろうなと思う。だから米津玄師のライブはソロ名義であるし、根底には孤独であることを感じさせる曲もたくさんあるけれど、でもこうして聴いていると独りじゃないという感覚を得られる。それは米津玄師の音楽を愛する人がこんなにたくさんいるということもそうだ。
そんな米津玄師は中島と
「コロナになって、外に出るなみたいな感じだったじゃん?だから家で音楽作ったり映画見たりっていう生活をしていて。そういう生活をするのは全然苦じゃないタイプなんだけど、それでもやっぱりどこか首が曲がっていくみたいな感覚があって。人と会わないから自分が人間じゃなくて妖怪みたいになっていくっていうか。今回のツアーはそういう妖怪から人間に戻る旅みたいなものだった」
という話をするのだが、それこそが「変身」というこのツアーの本質だったと言える。妖怪のような生活をしていた米津玄師がまた人間になるために変身する。そして人間に戻っていく。今回のツアーはそのためのものだったのだ。だからこそ人間に戻ったからにはまたすぐにこうして会えるような確信が心の中に芽生えていた。
そしてゲストとして出演してくれた常田大希を紹介して、なんかステージに顔を出さなければならないような雰囲気になるけれども結局は出て来ず、
「きっと裏でタバコでも吸ってるんだろう(笑)」
と深い関係性だからこそサッと流すと、辻本知彦とダンサーたちを紹介してステージに呼び込み、
「あと2曲だけ」
と前置きしてバンドが雄大なサウンド、しかしバンドでなくては鳴らせないようなサウンドを鳴らす。米津玄師がステージ前の花道に歩み出るとダンサーたちがそれに続く。こちらもドラマ主題歌としてヒットした「馬と鹿」なのだが、花道の動く歩道が逆向きに作動することによって、米津玄師とダンサーたちはその場で前に進むことなく歩いているという状態に。曲が進むと米津玄師をはじめとして数名がステージ方向に流されていき、前を歩く人を追いかけるように手を伸ばしたりする。そのもはやダンスというよりも人間としての動きによる表現が
「これが愛じゃなければなんと呼ぶのか
僕は知らなかった
呼べよ 恐れるままに花の名前を
君じゃなきゃ駄目だと
鼻先が触れる 呼吸が止まる
痛みは消えないままでいい」
という歌詞を視覚として表したようなものになっているのに加え、米津玄師の情念を込めたかのような歌声。「HYPE」でこの曲が横浜アリーナのど真ん中で歌われた時に「こんなにも音源を圧倒的に超えるとは」と感動すらしたのだが、その時の感動をまた新たな表現方法と歌唱によって超えてきている。こんなにこれからの米津玄師のライブにワクワクすることはない。それはきっとこれからもこの曲は我々の想像をはるかに上回るような世界を見せてくれるからだ。それこそが、誰にも奪えない魂というものなのかもしれない。
そんな名場面をともに生み出したメンバーとダンサーがステージから去ると、スクリーンにはクリスタルのようなものが映し出され、スモークが漂う幽玄な雰囲気のステージ上でたった一人で米津玄師はこのツアータイトルの最大のインスピレーションになったであろう「M八七」を歌う。
「君が望むなら それは強く応えてくれるのだ」
というフレーズが、我々が望んだからこそ米津玄師は妖怪から人へ、さらに人からヒーローへと変身して我々の前に現れてくれたかのように響く。ウルトラマンが3分間というタイムリミットがあるように、米津玄師はライブ中の2時間だけこうしてヒーローになれるかのような。
だからこそ歌い終わった米津玄師はスモークにつつまれステージ奥に進むと、登場時と同じようにステージの下へと消えていく。拍手に包まれながら場内が暗転すると、スクリーンにはオープニング映像に出てきた人外生物が地下の駐車場を歩いて車に乗り込んで行くエンディング映像が流れる。その生物が車で駐車場を抜けると夜の首都高へと車は進む。この日は演奏されなかった「ETA」が終演SEとして流れ、エンディングクレジットとしてこのツアーに関わった人たちの名前が流れる。
やはりこのライブは米津玄師が人間に変身して見せてくれたものだったのだ。エンディングのあまりの見事さはまるで映画を見ていたような、と言いたくなるけれど、映画のように画面越しではない、目の前にいる人の呼吸や感情がダイレクトに伝わってくる「ライブ」としか言えないものだった。「Fogbound」で自分なりのライブのやり方を見つけた米津玄師は生だからこその生命力や躍動感と芸術性を同居させるような唯一無二の表現へとたどり着いた。
でもこれは久しぶりの我々との邂逅の終わりでありながら、また新たな始まりに過ぎない。エンディングの後に「緊急速報」という文字が浮かぶと、横浜アリーナ4daysをファイナルとする2023年の新たなツアー「空想」の開催が発表された。かつてはライブをやることにあまり前向きではなかった男は今こんなにもライブをやり、聴いてくれる人たちに会いに行こうとしてくれている。コロナなんか絶対に無い方が良かった。なければもっとこの期間にも会うことができていた。でもこの会うことができない期間が生まれてしまったことによって、米津玄師は今まで以上に我々に会いに行こうとしてくれている。きっとこれから先に何度もライブを見るたびにこの期間のことを少しだけでもポジティブに捉えさせてくれるように、米津玄師は我々の人生を変えてくれようとしている。
でも「HYPE」が途中で中止になった時に、これはきっと長くなるなと思った。今の米津玄師の規模ではなかなか人数を絞ったりしてライブを開催することはできないだろうし、かといってすぐに何万人も集めたライブもやることはできない。
何より、米津玄師のファンの人たちにはSNSなどで知り合ったファン同士で会うことを楽しみにしている人もたくさんいる。それはこういうライブという機会がない限りは会うことができないことをわかっているからだが、去年くらいまでの状況だったらそうしてライブ会場前でたくさんの人が会って会話したりする姿がネットで拡散されたりして叩かれたりする可能性だって大いにあったし、きっと本人やスタッフもそれを危惧して慎重になっていたところもあったはずだ。
だからこそこうしてフルキャパで、ファン同士が会ったり会話したりしても何も言われない状況で開催できるまで待つ必要があった。そのタイミングがこうして今年ようやく訪れたからこそ、米津玄師が
「あまり変わらない感じがする」
と感じられるライブ空間を作ることができたのだ。それはステージだけでなく客席や会場の周りもそうだった。マスクこそしているけれど、いろんな人がフォトスポットで写真を撮ったり、ガチャのグッズをトレードしたり、あるいはライブ後に仲間同士で飲みに行ったり。そんなライブ中以外の光景も全て含めて米津玄師のライブの日だったことを、会場に着いた瞬間に思い出した。そんな日がもうこれから先、何物にも奪われることがないように。そんなことを思わせてくれる米津玄師はコロナ禍で会えなかった2年半を経てもなお、私の光だった。
1.POP SONG
2.感電
3.PLACEBO
4.迷える羊
5.カナリヤ
6.Lemon
7.海の幽霊
8.まちがいさがし
9.アイネクライネ
10.Pale Blue
11.パプリカ
12.ひまわり
13.アンビリーバーズ
14.ゴーゴー幽霊船
15.ピースサイン
16.爱丽丝 w/常田大希
17.KICK BACK w/ 常田大希
encore
18.死神
19.ゆめうつつ
20.馬と鹿
21.M八七
そんな米津玄師のライブもコロナ禍もあったことによって、2020年の2月に横浜アリーナで開催されたツアー「HYPE」以来、2年半ぶり。当時持ちうる想像力と技術を全て結集した、米津玄師のライブの新たな表現を見せたツアーも残念ながら途中で中止になってしまったけれど、果たして今の彼のライブはどんなものになっているのだろうか。2020年リリースの「STRAY SHEEP」もツアーを開催することが出来なかったため、今回のツアー「変身」はコロナ禍以降に発揮してきた米津玄師のクリエイティヴの発露の場だ。
スタジアムモードのさいたまスーパーアリーナは最上列まで完全に満員。それでもチケットが取れないというあたりが今の米津玄師の状況を示しているとも言えるが、そんなツアーのファイナルを見ることができるのは実に幸せなことである。果たして2年半ぶりの米津玄師のライブはどんなものになるのか。
平日であっても社会人が定時まで仕事をしたらまず間に合わないという開演時間の18時を少し過ぎたところで場内が暗転すると、ステージ両サイドのスクリーンには車が地下の駐車場を走る映像が始まる。そのシチュエーションはまるで「Flamingo」が始まりそうなものにも見えるのであるが、左ハンドルの外車を運転しているのは今回のツアーのデザインに描かれている人外生物。やたら荒々しい駐車技術で車を停めると、トランクを開けて中からタンバリンやジョウロを取り出す。結果的にジョウロを左手に持って駐車場からエレベーターへ向かい、乗り込んだところで映像が終わると、ステージには緑のシャツに黒のパンツという姿で左手にジョウロ、右手にハンドマイクを持った米津玄師が。つまりはツアータイトル通りにあの人外生物が米津玄師に「変身」しているというコンセプトのライブであるということがわかるオープニングだ。
その米津玄師はジョウロを片手にポーズを取ったりしながら、MVでの奇抜な姿も大きな話題になった「POP SONG」を歌い始める。サウンドは生音だけれど、メンバーの姿はそこにはないというのは「HYPE」の時と同様であるだけに、姿こそ見えなくてもおなじみのメンバーたちが米津玄師の音楽を支えているということがその音からは確かに伝わってくる。
ステージ中央には巨大なモノリスが鎮座し、それがLEDビジョンとなっているのだが、そこに黄色と黒の2色がせめぎ合うように映し出されるというシンプルなものはこの「POP SONG」のアートワークなどに合わせたものであるが、オープニングで映像が映し出されていたステージ左右のスクリーンにはキャラクターの姿が映し出され、歌っている米津玄師の姿は映らない。
それだと客席の後ろの方や上の方の人は姿がほとんど見えないのでは…と思っていると、米津玄師がステージから伸びる花道に歩み出した…と思ったら、なんとその花道が動く歩道になっており、米津玄師が自動的に花道の先に進むと、それと同時におなじみのメンバーである中島宏(ギター)、須藤優(ベース)、堀正輝(ドラム)の3人が演奏しながらステージにせり上がってくる。さすがアリーナ規模ならではの、盛大に金をかけているであろう演出の連発に、この「POP SONG」のひねくれた歌詞がそうした演出への皮肉のようにも聞こえるけれど、間違いなく米津玄師は当代一のポップスターになったんだなという実感が湧かざるを得ない。
華やかなホーンの音が同期として鳴り響いた瞬間に、LEDには光り輝くビルのような映像が映り、米津玄師のライブではおなじみの辻本知彦ダンスチームの面々が現れて男女1組×3組というフォーメーションで踊るのは「感電」。
「ニャンニャンニャン」
のフレーズでダンサーが猫のようなポーズを取っているのも実に可愛らしいのであるが、米津玄師も観客に向かって手を振ったりと、実にテンションが高い状態でこの日を迎えていることがよくわかる。それは
「たった一瞬の このきらめきを
食べ尽くそう二人で くたばるまで」
「稲妻の様に生きていたいだけ
お前はどうしたい? 返事はいらない」
という歌詞の通りに、この一瞬に全てをかけて生き抜こうとしているかのようだ。
そのダンサーたちと共に花道の前まで歩き出していくと、ダンサーが
「落ちていく」
というフレーズに合わせるようにして体をグニャっとしてステージに倒れ込むようにするのは、音源ではかつて対バン時に「有心論」を一緒に歌ったこともある、RADWIMPSの野田洋次郎が参加している「PLACEBO」。もちろんこの日は洋次郎が登場するということはないのだけれど、よくよく考えたらアルバム「STRAY SHEEP」はコロナ禍になってからリリースされたアルバムであり、それ以降初めてのライブがこのツアーであることからこのアルバムの曲たちをライブで聴くのはこれが初めてなんだよなということに気付く。それと同時に、このツアーが当初は予定されていたが発表することなく中止になってしまったという「STRAY SHEEP」のリリースツアーというのを含んでいるものであるということも。
「米津玄師でーす!」
と、あれ?ライブやらないうちにキャラ変わった?と思うくらいにハイテンションな口調で花道に立って挨拶をする姿からは、本当に米津玄師が身も心もポップスターになったんだなとも思うけれど、しかしすぐにいつもの低いトーンで
「正真正銘ツアーファイナル、最後の日なんで。楽しみましょう」
と言うあたりは今までに見てきた、聴いてきた米津玄師の口調と変わることはないものだ。
すると「迷える羊」では米津玄師が歌う花道に辻本知彦が登場し、その花道上で踊っているかと思ったらピタリと静止したりという、まさに行くべきかどうするかを迷っているような人間の心境をその肉体の動きで示す。かつては自分は別にライブにダンスはなくても別に…的な思考だったのだが、米津玄師のライブに辻本知彦チームが参加するようになり(なんなら「Loser」で米津玄師本人がその薫陶を受けて踊るようになったり)、そのダンスを見るようになってから、ダンスの表現力の奥深さと強さを感じられるようになった。そんな新たな感性や感覚を開いてくれたのも米津玄師のライブと存在があったからだ。
その米津玄師は2daysの2日目とは思えないくらいにこの日は序盤から実によく声が出ていた。今回は前日の初日を見ていないのでなんとも言えないところもあるが、そもそもかつての国際フォーラム2daysや日本武道館2daysでも米津玄師は2日目の方が声が出ているというかなり稀有なボーカリストであることを示していたが、米津玄師のライブはとにもかくにも「米津玄師が声が出ているかどうか」でライブの出来がガラッと変わる。それゆえにライブハウスを回っていた頃はまだその歌が曲のクオリティや場所の規模、バンドの演奏技術に見合ってないなと思うこともあったのだが、今はこのさいたまスーパーアリーナに見合うべき力を持って響いているというのが、その歌を聴いていてすぐにわかる。そこにグッときてしまうのはそう感じないライブも見てきたからであるのだが、それはこの日までに日本の各地を回ってきたからこそ発揮できるようになったものでもあるはずだ。
その今の米津玄師の歌声の凄さをこれ以上ないくらいに感じさせてくれたのが、まさかこんな前半で演奏されるとは思っていなかった「STRAY SHEEP」収録のバラード「カナリヤ」。ダンサーはおろか、バンドメンバーすらもステージからいなくなり、同期的なサウンドで米津玄師1人だけで歌う、
「いいよ あなたとなら いいよ
二度とこの場所には帰れないとしても
あなたとなら いいよ
歩いていこう 最後まで」
というサビのフレーズが歌い進むごとに強い情念を纏って響くようになっていくのがよくわかる。それはかつては曲を歌うだけというようにも見えていた米津玄師の歌唱が、曲に込めた感情や想いをその声に乗せることができるようになったということだ。それはかつての空想の箱庭世界を歌うのではなく、自分自身のリアルな経験や体験を歌詞にするようになったからかもれない。ステージ中央でマイクスタンドを握りしめて立つ米津玄師を、まるで鳥籠のように取り囲むようにステージ上方から放たれるレーザー的な照明もその歌声と曲、メロディにふさわしいい美しさであった。
そのまま米津玄師がステージ中央に立ったままであるが、ハンドマイクを握るとLEDには光が差し込む扉のようなシンプルなイメージが映し出され、
「夢ならばどれほどよかったでしょう」
と、かつてはライブのクライマックスで演奏されていた、米津玄師の名前を改めてマスへと広めた「Lemon」がここで早くも演奏されるのも驚きだ。それはその当時の米津玄師から今の米津玄師に変身を果たしたと言えるからでもあるが、コロナ禍で観客はマスクを着用しているから、かつてのこの曲の演出であるレモンの香りが客席に漂ってくるということもない。ただひたすらに曲の力、歌の力だけを届けようとしている。それでも最後に光が溢れるような照明はこの曲がどれだけたくさんの人に力を与えてきたかということを視覚的に示すようなものであった。それはつまり、今でも米津玄師は私の光ということである。
その「Lemon」とともに前回のツアーまではクライマックスを担っていた「海の幽霊」では米津玄師のボーカルにエフェクトがかけられているのだが、そのエフェクト成分は以前より抑えられているような気もする。何よりもLEDに映る、この曲がタイアップに起用された映画(見てないから本当にそうなのかはわからないけど)のアニメーションに視線が引き込まれていく。その映像内で発生している自然が巻き起こす現象が米津玄師の歌声によって引き起こされているかのような。それくらいに映像と曲がマッチし、寄り添いあっている。それは近年の米津玄師のタイアップ楽曲からもわかるように、作品をしっかり自分の中で消化した上で曲に落とし込んでいるからだろう。だからこそライブで映像とともに聴いていてこんなにも見入ってしまう、引き込まれてしまうのだ。
「ライブ見ていて、周りと同じ動きをしなきゃとか、そんなこと本当に考えなくていいから。自由に楽しめばいいから。そういうアーティストの方を否定するわけじゃないけど、みんなそれぞれ日常で嫌なこととかあるだろうし、また明日からもそういうことばかりでしょ?俺もそういう嫌なこともたくさんあるから、今だけは自由に楽しんでもらえたらと思います」
という自身のライブのスタイルについて話すと、さらには今回のツアーからコンタクトレンズを装着するようにしたことによって、観客の顔が良く見えるようになったことを語る。逆に今までは観客が全く見えていなかったらしいのたが、そのまま、
「最近結婚した友人に捧げます」
と言い、パッと照明が灯った時には再び左右にいるバンドメンバーが演奏を始めたのは菅田将暉に提供した曲のセルフカバーである「まちがいさがし」。なので菅田将暉の結婚に向けての曲だと思ったのだが、その真相は果たして。菅田将暉もこの曲において見事な歌唱を披露していたが、こうして米津玄師が歌うとやはりそのキーなどは米津玄師のものだなと改めて思う。特にサビの
「どうでもよかった」
というフレーズの下がっていくメロディなんかは実に米津節だなぁと思う。それだけにセルフカバーしてアルバムに収録され、こうしてライブで歌っているのも実に当然のように感じる。
するとメンバーが轟音も交えたイントロのアレンジの演奏を始める。その演奏を聴くと、どんなに久しぶりであってもその演奏が止まった瞬間に米津玄師がフッと歌い始めるのが「アイネクライネ」だとわかる。米津玄師はこの曲でこの日初めてギターを弾きながら歌うのであるが、その歌い始めで悲鳴のような歓声が上がらないというのはかつてとの世の中の変化を感じざるを得ないけれど、それでも今でもこうしてライブで毎回この曲を演奏してくれているというのが本当に嬉しいのは、SWEET LOVE SHOWER出演時の声が全く出なくなった時の観客の大合唱など、毎回ライブで演奏してきたからこそ見てこれた景色が聴いていて蘇ってくるからだ。この曲を含めたアルバム「YANKEE」がリリースされてライブをやるようになって、そうしたライブで出会った米津玄師が好きな人たちの顔なんかも。スクリーンにはMVを彷彿とさせる淡いアニメーション的な映像が映し出されていたが、リリース時から自分にとってもたくさんの人にとっても大事な曲だったこの曲が、今になってより大事な曲になっているということを実感していた。それくらいにこの曲に積み重なってきた思いが確かにあるから。一時期はちょっと聴くのに飽きたりしていた時もあったけれど、これからもこうしてライブの場でこの曲を聴き続けられるようにと今は心から思う。
その淡い映像がオイルアート的な、この曲がリリースされた時に渋谷のTSUTAYAで展開されたトケビジュアルをも彷彿とさせるものに変化することにより、サウンドも相まってどこか揺蕩うような感覚にさせるのは昨年リリースされた「Pale Blue」であり、この曲が演奏されたことがなくなってしまった「STRAY SHEEP」のツアーではなくて、さらにその先を進んでいる現在進行形の米津玄師によるツアーであることを示しているし、米津玄師のファルセットボーカルの美しさと表現力はもうライブにおける歌唱力の心配をしなくてもいいくらいの領域にまでこの男が到達したんだなと思った。
すると再びステージにはたくさんのダンサーが登場して思い思いに踊る中、ステージ中心にいる米津玄師は立っている場所がそのまま上方に稼働していくことによって、1人高い位置で歌うことに。それかつての「脊椎がオパールになる頃」ツアーでの「Loser」ほどの高さではないが、夕暮れのビーチでみんなでダンスパーティーをやっているような照明やスクリーンの情景の中で演奏された「パプリカ」では上空から星形の紙が降り注いでくるという演出も。きっと昨年などの状況下では出来なかったであろう演出がフルに発揮できるようになっているし、サウンド自体もFoorinに提供したバージョンよりも、今の米津玄師としての、大人が歌うべきものへとアップデートされている。歌っている当の本人はせり上がったステージ上で座り込んだりというリラックスっぷりだったのだが。
そんなパーティー的な「パプリカ」を終えてダンサーがステージを去ると、米津玄師は再びギターを肩にかけながら、
「こういう状況になって、2年半ぶりにツアーをやることにして。みんなマスクしてるし声も出せないし、それを煽ることも禁止されているしっていう感じなんで、どうだろうなと思ってたんですけど、俺としてはほとんど変わらないというか。そもそもあんまりそういう曲があるわけでもないしっていうのもあるけど、次の曲はそういう曲だから、急に動いて足をグネッたりしないようにね」
と、コロナ禍になって初めてライブをやるようになったこのツアーで見てきた景色を見ての言葉を素直に口にする。もちろん我々としては歌えない、声が出せないというのはなかなか厳しくもあるのだが、本人はそれをネガティヴには思っていないというのは少し安心したところもある。それはこのスタイルでもライブが出来るなと思えたということでもあるだろうから。
そんな米津玄師は
「今日だけは、いなくなった親友のために歌わせてください」
と言って「STRAY SHEEP」収録の「ひまわり」を演奏した。インタビューなどでもこの曲は亡くなったwowakaに向けて書いた曲だということを感じさせていたが、それすらもこんなに素直に口にするとは。
「その姿をいつだって 僕は追いかけていたんだ
転がるように線を貫いて 突き刺していく切っ先を
日陰に咲いたひまわりが 今も夏を待っている
人いきれを裂いて笑ってくれ 僕の奥でもう一度」
というサビはそのwowakaに抱いてきた想いと、今も抱いている想いをそのまま歌詞にしたかのようであるが、そんな曲が切ないバラードではなくて、ギターロックと言っていいアッパーなサウンドになっているというのは、wowakaが居なくなってもバンドを続けているヒトリエの3人へのエールでもあるんじゃないだろうかとも思う。だからこそそれはきっとこの日以外のツアーでは観客へのエールとして歌われてきたんじゃないだろうかということも。両サイドのスクリーンにこの日初めて演奏している姿が映し出された米津玄師の表情は凛としていながらもやはりどこか切なさをも感じざるを得なかった。
そして須藤がシンセベースへと移行し、堀が力強いドラムを連打するのはかつて武道館のワンマン時はファイナルのアンコールで演奏されていた「アンビリーバーズ」。須藤が曲中に手拍子を煽るようにする中、米津玄師の声がこの曲では少し高音がキツそうな感じだったのはどこか思うところ、感極まるようなところももしかしたらあったのかもしれないが、
「だから手を取って 僕らと行こうぜ
ここではない遠くの方へ」
「それでも僕ら 空を飛ぼうと 夢を見て朝を繋いでいく
全て受け止めて一緒に笑おうか」
というフレーズはきっとこうしてライブに来ている、あるいは今回は来れなかったが米津玄師の音楽を聴いている人たちのライブがなかった期間の支えとして響いていたはずだ。かつてのように米津玄師がフロアタムをスティックで連打するということはもうないけれど、この曲が持っている後ろ向きになりがちな人の前向きなパワーは全く失われることはない。この辺りからここまでは少し遠慮気味な感もあった観客のノリが明らかに変わってきていた。そう思うくらいに腕を上げるような人が多くなっていたのだが、それは周りに合わせてそうしたものではなく、曲の力、それを演奏している人の力をダイレクトに感じたからこそだ。
素早く米津玄師がギターを持つと、ボカロ的なサウンドがバンドの演奏によって練り上げられていき、テンションの高い米津玄師の「1,2,3」のカウントに合わせて声を出すことができない観客も指でカウントするのは米津玄師としてのデビュー作「diorama」収録の「ゴーゴー幽霊船」だ。曲中では中島と向き合って演奏する姿がこのバンドとして長い年月を過ごしてきた絆を感じさせる須藤も再びイントロから手拍子を促すのだが、曲中のカウントでもスクリーンにはそのカウントに応じた数字が映し出される。サビでは特にカウントもないのに「8」という数字が映し出されたのは、間奏で達する数が8だからというのと、もしかしたら米津玄師のボカロP時代の名前の「ハチ」にかけていたところもあったんじゃないかと思う。
それはこの曲がまだボカロ曲としても世の中に出せるようなサウンドのものを自身が歌唱したという形でリリースした曲だからそう思うのかもしれないが、この日のセトリにはもう他にそういうタイプの曲がないということは、この曲はもう今の米津玄師のモードからはだいぶ離れている曲なんだろうなとも思う。
それでもこの曲をこうして演奏するのは紛れもなく一緒に楽しんでくれる観客のためという思いによるものだろう。この曲の時の客席の腕の上がり方や盛り上がりっぷりは他の曲と全く違う。基本的には自分が今やりたいことをやり、作りたい曲を作るという意識で活動しているアーティストだと思うけれど、ライブの時には確実に我々が目の前にいるということを念頭に置いている。MCの喋り方も無愛想に見えるけれど、ライブを見ると米津玄師の優しさをこうした部分からちゃんと感じることができるし、個人的には「diorama」が米津玄師との出会いの作品だった(人生においてアルバムを何万枚聴いてきたかわからないけどその中に順位をつけるならば「diorama」は限りなく上位にいる)だけに、こうしてこの曲を聴くと「diorama」を仕事帰りにHMVで買って家で聴いた時の「なんだこの音楽は!」と思った衝撃を思い出させてくれる。そういう意味でもこれからもこうしてライブでみんなで一緒にカウントしたい曲だと思っている。
そんな「ゴーゴー幽霊船」の後に堀が力強いビートを鳴らし、同期のコーラス音が響く。そのコーラスに合わせて米津玄師が2本指を掲げると、客席も同じようにして無数の2本指がアリーナから最上階まで掲げられるという圧巻の光景が広がる。よく見えるようになった米津玄師が客席を見渡すようにすると中島がギターリフを鳴らした瞬間に銀テープが発射される。ああ、前にライブで演奏されていた時も「ピースサイン」はこういう演出だったな、ということを思い出すとともに、現代のポップスターという存在になってもこのギターロックサウンドとしての米津玄師がたくさんの人に求められていることがわかる。
左右と中央のスクリーンにはメンバーそれぞれの演奏する姿が分割されて映し出され、サビの最後には米津玄師の歌う姿のみが映し出されるのだが、ようやく「僕のヒーローアカデミア」をちゃんと読むようになっただけに、この曲が起用されていた頃にアニメをよく見ておけば良かったと思う。そして今そのアニメのエンディングを秋山黄色が担当しているというのも、作品を愛してきたアーティストの魂が継承されているように感じられるのだ。
そうだ、MC挟まない限りはこうやって次々に曲を演奏するから、米津玄師のライブは実はめちゃくちゃテンポが良いんだよなと思うのはすぐさま「爱丽丝」の演奏が始まったからで、ヒロイックなピースサインの雰囲気とは打って変わってスクリーンにも妖艶な映像が映し出される中に、ツアーを経て再び練り上げられてきたこの4人のロックサウンドが鳴る。
この曲がリリースされた当時は共同制作者としてクレジットされていた常田大希もまだKing Gnuが売れる前だっただけに、ファンの中でも名前の読み方がわからないみたいな感じだったな〜と懐かしんでいたら、間奏で突如として米津玄師が
「ギター、常田大希!」
と名前を呼ぶと、ギターを持って出てきた常田がこれがこの曲の真の姿だということを示すように強烈なギターソロを弾きまくる。その際の観客の湧きっぷりはかつて武道館に菅田将暉が登場した時を彷彿とさせるのだが、曲前に紹介されて出てきた菅田将暉の時よりもこうして突如出てきただけに驚いてしまうし、何よりもその登場の仕方が実に常田らしいスマートさがありながらも、鳴らしている音や姿からはKing Gnuのライブと同様の燃えたぎる熱量を感じさせる。観客側はこれを見せられたらスマートではいられないだけに、全てを明日に任せてもっと踊るしかないし、実際に常田もアウトロでも他のメンバーに接近したりしながらギターを弾きまくっていた。その常田のギターの熱さによって、米津玄師のボーカルの熱さがさらに引き出されている。そここそがこの2人による化学反応なんじゃないかと思うくらいに、ロックな米津玄師のライブの音が鳴っていた。
そんな常田と
「最近一緒に筋トレしたりしまして(笑)こうやって出てきたからにはこの曲をやらないと。最後の曲です」
と言って演奏されたのは、MVのぶっ飛び具合やアニメ「チェンソーマン」との親和性の高さでも話題になっている「KICK BACK」。炎までも噴き上がり、ダンサーも悪魔に操られている人々のように不穏な踊りを踊る中、米津玄師はセルフィースティックで自身の歌う姿や常田、メンバーが演奏する姿を撮影し、その撮影している姿がリアルタイムでスクリーンに映し出される。全員がちゃんとカメラ目線で演奏してくれるのも近くで米津玄師が撮影しているからという安心感がもたらしているものだと思うけれど、何よりもこんなに至近距離でスクリーンに映る米津玄師の顔を見れることはそうそうない。やはり長い前髪で前が見えねぇとばかりに目元まではハッキリとは見えないが、仲間総出演と言っていいこの曲を歌う表情はいつも以上に笑みを湛えているように見えた。急に光が差し込んでくるような唐突な構成はフルで曲を聴かないとわからないものであるが、個人的にはアニメのオープニングの最後のカットでデンジとパワーが曲のリズムに合わせてツーステ的なダンスを踊っている姿が好きだったりする。
曲が終わった瞬間に場内は暗転。なのでステージから遠い客席からはなかなか捌け方が見えなかったのであるが、スクリーンにライブタイトルが映し出される中で手拍子が響くとステージが明るくなり、先にバンドメンバーが登場すると、マイクスタンドの前には座布団が置いてある。そこに米津玄師が登場して座布団の上に座ると、
「落語をやってみたくて作った曲(笑)」
と身も蓋もないことをインタビューで口にしていた「死神」がMVそのままというようにまるで落語を喋っているかのように披露される。カップリング曲をアンコールでやりがちというのもこれまでのツアー同様であるが、こんなに曲も演出もやりたい放題やっているアーティストはそうそういないと思う。というか座布団敷いて歌ってたアーティストが他にいるのだろうかとすら思う。
その座布団に座っていたことから、タイトル通りに神秘的かつ幽玄なサウンド、でもメロディはあくまで美しいという「ゆめうつつ」の歌唱時に米津玄師は裸足でステージ上を歩き回りながら歌っていた。その姿が逆に米津玄師の足の長さをより一層感じさせ、本当に同じ人間なのだろうかと思ってしまうように美しく舞うように踊っていた。こうした体の使い方を見て辻本知彦も米津玄師にダンスの特別な才覚を見出したんだろうなと思う。
アンコールではおなじみの中島によるMCではメンバーを1人ずつ紹介するのであるが、いきなり
「ドラム、すってぃー!…じゃなかった!」
とリズム隊の名前と役割を間違えてしまう。それはこの後に待ち構えている自身のパフォーマンスのことが頭を支配していたからかもしれないが、前日に披露して話題騒然となった、
「行け!中島!」
という米津玄師の号令によって中島が花道を踊りながら歩いていくという中島ダンスが披露される。名前を間違えられた堀と須藤がリズムを鳴らし、それに合わせて時には三代目J Soul Brothersのような腕の動きやステップを見せた中島を米津玄師は
「さすが徳島のマイケル・ジャクソン」
と、それは言い過ぎではと思うくらいに最大の賛辞で称えていた。でも徳島から出てきて東京で暮らし、人付き合いが得意ではなさそうな米津玄師がこうしてたくさんの人が関わるライブというものが出来ているのは、唯一と言っていいくらいに昔の自分を知っている存在である幼なじみの中島の存在が大きいんだろうなと思う。だから米津玄師のライブはソロ名義であるし、根底には孤独であることを感じさせる曲もたくさんあるけれど、でもこうして聴いていると独りじゃないという感覚を得られる。それは米津玄師の音楽を愛する人がこんなにたくさんいるということもそうだ。
そんな米津玄師は中島と
「コロナになって、外に出るなみたいな感じだったじゃん?だから家で音楽作ったり映画見たりっていう生活をしていて。そういう生活をするのは全然苦じゃないタイプなんだけど、それでもやっぱりどこか首が曲がっていくみたいな感覚があって。人と会わないから自分が人間じゃなくて妖怪みたいになっていくっていうか。今回のツアーはそういう妖怪から人間に戻る旅みたいなものだった」
という話をするのだが、それこそが「変身」というこのツアーの本質だったと言える。妖怪のような生活をしていた米津玄師がまた人間になるために変身する。そして人間に戻っていく。今回のツアーはそのためのものだったのだ。だからこそ人間に戻ったからにはまたすぐにこうして会えるような確信が心の中に芽生えていた。
そしてゲストとして出演してくれた常田大希を紹介して、なんかステージに顔を出さなければならないような雰囲気になるけれども結局は出て来ず、
「きっと裏でタバコでも吸ってるんだろう(笑)」
と深い関係性だからこそサッと流すと、辻本知彦とダンサーたちを紹介してステージに呼び込み、
「あと2曲だけ」
と前置きしてバンドが雄大なサウンド、しかしバンドでなくては鳴らせないようなサウンドを鳴らす。米津玄師がステージ前の花道に歩み出るとダンサーたちがそれに続く。こちらもドラマ主題歌としてヒットした「馬と鹿」なのだが、花道の動く歩道が逆向きに作動することによって、米津玄師とダンサーたちはその場で前に進むことなく歩いているという状態に。曲が進むと米津玄師をはじめとして数名がステージ方向に流されていき、前を歩く人を追いかけるように手を伸ばしたりする。そのもはやダンスというよりも人間としての動きによる表現が
「これが愛じゃなければなんと呼ぶのか
僕は知らなかった
呼べよ 恐れるままに花の名前を
君じゃなきゃ駄目だと
鼻先が触れる 呼吸が止まる
痛みは消えないままでいい」
という歌詞を視覚として表したようなものになっているのに加え、米津玄師の情念を込めたかのような歌声。「HYPE」でこの曲が横浜アリーナのど真ん中で歌われた時に「こんなにも音源を圧倒的に超えるとは」と感動すらしたのだが、その時の感動をまた新たな表現方法と歌唱によって超えてきている。こんなにこれからの米津玄師のライブにワクワクすることはない。それはきっとこれからもこの曲は我々の想像をはるかに上回るような世界を見せてくれるからだ。それこそが、誰にも奪えない魂というものなのかもしれない。
そんな名場面をともに生み出したメンバーとダンサーがステージから去ると、スクリーンにはクリスタルのようなものが映し出され、スモークが漂う幽玄な雰囲気のステージ上でたった一人で米津玄師はこのツアータイトルの最大のインスピレーションになったであろう「M八七」を歌う。
「君が望むなら それは強く応えてくれるのだ」
というフレーズが、我々が望んだからこそ米津玄師は妖怪から人へ、さらに人からヒーローへと変身して我々の前に現れてくれたかのように響く。ウルトラマンが3分間というタイムリミットがあるように、米津玄師はライブ中の2時間だけこうしてヒーローになれるかのような。
だからこそ歌い終わった米津玄師はスモークにつつまれステージ奥に進むと、登場時と同じようにステージの下へと消えていく。拍手に包まれながら場内が暗転すると、スクリーンにはオープニング映像に出てきた人外生物が地下の駐車場を歩いて車に乗り込んで行くエンディング映像が流れる。その生物が車で駐車場を抜けると夜の首都高へと車は進む。この日は演奏されなかった「ETA」が終演SEとして流れ、エンディングクレジットとしてこのツアーに関わった人たちの名前が流れる。
やはりこのライブは米津玄師が人間に変身して見せてくれたものだったのだ。エンディングのあまりの見事さはまるで映画を見ていたような、と言いたくなるけれど、映画のように画面越しではない、目の前にいる人の呼吸や感情がダイレクトに伝わってくる「ライブ」としか言えないものだった。「Fogbound」で自分なりのライブのやり方を見つけた米津玄師は生だからこその生命力や躍動感と芸術性を同居させるような唯一無二の表現へとたどり着いた。
でもこれは久しぶりの我々との邂逅の終わりでありながら、また新たな始まりに過ぎない。エンディングの後に「緊急速報」という文字が浮かぶと、横浜アリーナ4daysをファイナルとする2023年の新たなツアー「空想」の開催が発表された。かつてはライブをやることにあまり前向きではなかった男は今こんなにもライブをやり、聴いてくれる人たちに会いに行こうとしてくれている。コロナなんか絶対に無い方が良かった。なければもっとこの期間にも会うことができていた。でもこの会うことができない期間が生まれてしまったことによって、米津玄師は今まで以上に我々に会いに行こうとしてくれている。きっとこれから先に何度もライブを見るたびにこの期間のことを少しだけでもポジティブに捉えさせてくれるように、米津玄師は我々の人生を変えてくれようとしている。
でも「HYPE」が途中で中止になった時に、これはきっと長くなるなと思った。今の米津玄師の規模ではなかなか人数を絞ったりしてライブを開催することはできないだろうし、かといってすぐに何万人も集めたライブもやることはできない。
何より、米津玄師のファンの人たちにはSNSなどで知り合ったファン同士で会うことを楽しみにしている人もたくさんいる。それはこういうライブという機会がない限りは会うことができないことをわかっているからだが、去年くらいまでの状況だったらそうしてライブ会場前でたくさんの人が会って会話したりする姿がネットで拡散されたりして叩かれたりする可能性だって大いにあったし、きっと本人やスタッフもそれを危惧して慎重になっていたところもあったはずだ。
だからこそこうしてフルキャパで、ファン同士が会ったり会話したりしても何も言われない状況で開催できるまで待つ必要があった。そのタイミングがこうして今年ようやく訪れたからこそ、米津玄師が
「あまり変わらない感じがする」
と感じられるライブ空間を作ることができたのだ。それはステージだけでなく客席や会場の周りもそうだった。マスクこそしているけれど、いろんな人がフォトスポットで写真を撮ったり、ガチャのグッズをトレードしたり、あるいはライブ後に仲間同士で飲みに行ったり。そんなライブ中以外の光景も全て含めて米津玄師のライブの日だったことを、会場に着いた瞬間に思い出した。そんな日がもうこれから先、何物にも奪われることがないように。そんなことを思わせてくれる米津玄師はコロナ禍で会えなかった2年半を経てもなお、私の光だった。
1.POP SONG
2.感電
3.PLACEBO
4.迷える羊
5.カナリヤ
6.Lemon
7.海の幽霊
8.まちがいさがし
9.アイネクライネ
10.Pale Blue
11.パプリカ
12.ひまわり
13.アンビリーバーズ
14.ゴーゴー幽霊船
15.ピースサイン
16.爱丽丝 w/常田大希
17.KICK BACK w/ 常田大希
encore
18.死神
19.ゆめうつつ
20.馬と鹿
21.M八七
ぴあ・tvk 50th Anniversary STAY ROCK! 2022 出演:銀杏BOYZ / Ken Yokoyama / ザ・クロマニヨンズ / ハルカミライ / 空気階段 @ぴあアリーナMM 10/30 ホーム
THE SUN ALSO RISES vol.162 - a flood of circle / cinema staff- @横浜F.A.D 10/26