米国で奴隷というと南部のプランテーションを思い浮かべがちだが、かつてはニューヨークでも多くの奴隷が使用されていた。こうした歴史を今に伝えているのが、現在の市庁舎の近くにある北米最大級のアフリカ人墓地「アフリカン・バリアル・グランド・ナショナル・モニュメント」だ。ここは、18世紀の黒人埋葬地の跡で、1712〜1795年に約1万000人のアフリカ系住民(奴隷と自由黒人)が埋葬されていたとみられている。2月は「ブラックヒストリーマンス」ということもあり、ここで少しNYの黒人の歴史を学んできた。
墓地の発見を伝えるNYタイムスの記事(1991年10月9日付)
この場所にスポットライトが当たったのは比較的最近で、1991年のこと。新しい連邦政府ビルの建設中に工事現場から多数の人骨が発見され、それが18世紀のアフリカ系住民の遺骨であることが判明したのだった。当時NYではこの発見が大きなニュースとなり、20世紀の最も重要な考古学的発見の一つと歴史的意義が認識され、保存運動が起きた。最終的に1993年にNational Historic Landmark(国定歴史建造物) に指定され、2006年にはNational Monument(国定記念碑) となった。ミュージアム/ビジターセンターも併設されている。次々と新しい観光アトラクションが誕生するマンハッタンでは、地味な存在で、観光客にはあまり知られていないけれど、行ってみると、文献で学ぶのとは異なる現地ならではの歴史の重みを感じる。
ミュージアムに展示されている発掘された大量の人骨の写真
NYに初めて黒人奴隷が連れてこられたのは、この街がまだニューアムステルダムと呼ばれていた1626年頃。1664年に英国の支配下になった後も奴隷制度は拡大し、18世紀には南部諸州に次いで多くの奴隷人口を抱えていた。植民地時代には労働力の4分の1を奴隷が占め、彼らはこの街の土台を築くために必要だった肉体労働の多くを提供したのだった。今となっては想像しにくいけれど、当時の市の中心部はウォールストリートより南側の小さなエリアだった。白人が亡くなると地域内の教会が管理するいくつかの墓地に埋葬されていたが、黒人にはそれが認められず、市の境より北に位置する未開発の土地に埋葬された。死者の目にコインが置かれていたり、当時の黒人にとっては貴重品だったはずのジュエリーなどが一緒に埋葬されていたケースもあり、きちんとした形で死者を葬ることが彼らにとってとても重要だったことがわかる。棺桶は全て東西の方向を向き、あの世で起きた時に東を向くようにと、死者は頭を西方にして埋められていた。だから、今屋外に建っている記念碑もこの方向を向いている。
このエリアは1790年代になると、市の発展とともに開発が進み、埋葬地としての使用は禁止され、徐々に埋めてられ、建物や道路が建設されていった。やがて、19世紀には埋葬地のことは完全に忘れ去られた状態となってしまう。ちなみに、ニューヨーク州で奴隷制度廃止法が制定されたのは1799年。それから段階的に解放が進み、完全に廃止されたのは、1827年だった。これにより多くの黒人が自由な身となり、ハーレムなどにコミュニティが形成され、1920年代には、黒人の文化、芸術、音楽が発展する「ハーレム・ルネサンス」の時代を迎える。詩人のラングストン・ヒューズやジャズのデューク・エリントンなどが活躍したのもこの頃だ。こうしてNYはアフリカ系アメリカ人文化の中心地の一つとなっていったのだった。
記念碑の側面やミュージアム内のあちこちで見られるハート型のサインは「サンコファ」と呼ばれる西アフリカのシンボルで、「過去からの学びを未来へ生かす」という意味を持つ。