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レキオ島唄アッチャー

高麗の歴史入門、その1

 最近、韓国の歴史ドラマを見るようになった。以前は、韓国の歴史をあまり知らないので敬遠していたが、見始めるととても面白い。こんなドラマチックな歴史があったのかと驚くこともしばしばである。もちろんドラマは史実通りではない。フィクションで脚色されている。ただドラマの物語の土台にはその時代の史実が反映している。だから物語の背景となった時代と歴史を知ればより理解が深くなる。そんなことで、朝鮮半島の歴史をすこし紐解いてみた。
 今見ているドラマは、朝鮮王朝の時代であるが、朝鮮王朝を理解する上でも、その前の高麗を知る必要がある。前に高麗時代のドラマも見たことがある。この際、高麗の歴史をスケッチ的に眺めておきたい。
 高麗は、918年に王建((ワンゴン、太祖)によって建国され、1392年に李成桂に国を奪われるまで、約475年続いた。日本の歴史では、菅原道真の時代から室町の足利義満の時代にあたる。

 新羅を倒して高麗を建国
 周知のように古代朝鮮といえば、高句麗、百済、新羅の三国時代が続いたが、三国間の争いで最終的に新羅が主導権を握った。新羅は唐と連合して百済、高句麗を倒した後に、唐の勢力を韓半島から追い出し三国を統一した。
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   高麗の統一(『新版韓国の歴史』)
 8世紀後半、新羅は中央貴族間の権力争奪戦によって衰退した。地方統制力が弱まると、地方勢力が独自の政権を立てた。892年、全羅道と忠清道地域を支配する後百済が建国され、901年には、新羅の王族出身の弓裔(きゅうえい)が後高句麗を建国した。しかし、918年に豪族、王建によって追放された。王建高句麗を継承するという意味で国名を高麗(コリョ)とした。高麗は後百済を攻撃する一方、新羅には積極的な包容政策を展開した。
 935年、新羅は日ごとに国土が減少し、国力が弱体化し国家の維持が困難になり、高麗に降伏した。後百済も王健が936年に攻撃して滅亡させ、朝鮮半島を統一した。
 王建は新羅が降伏したときに多数の新羅貴族を受け入れ、高麗の官僚として登用した。契丹によって渤海が滅ぼされると、渤海の遺民が亡命してきた。移民の中に官吏、将軍、学者、僧侶などの知識階級が相当数いたが、王建は彼らを適材適所に任命した。 
 高麗は、「高麗は後三国ばかりでなく、渤海の高句麗系遺民まで含んだ民族の再統一も成し遂げた」(『新版韓国の歴史』)。
 
 高麗の建国と後三国の統一は、単純な王朝の交代にとどまらず、古代社会から中世への転換を意味するものであった。高麗の統一は、1948年に朝鮮が南北に分断されるまで、一つの国家体制を維持していく出発点となった。
 古い貴族に代わって、豪族を中心とする支配勢力が台頭した。儒教政治の理念を土台とした中央集権体制が作られた。やがて豪族出身の中央官僚や儒学者たちは政治の主導勢力に成長し、中央政治に参与しながら門閥を形成。その子孫は官職を独占し、政治権力を握ることになり、高麗は門閥貴族社会と呼ばれるようになった。
 官職による恩恵を受ける一方、権力を利用して個人や国家の土地を不法な方法で合併し、経済的な利権を得た。こうした政治権力の独占と経済的特権の拡大をめぐって、門閥貴族社会の内部で分裂が起きるようになった。
 
 門閥貴族社会は動揺と矛盾を深めるようになる。文臣と武臣の差別待遇など古い文臣中心の門閥貴族体制に対して武臣は不満を強めた。1170年、武臣が政変を起こし、多数の文臣を殺し、時の毅宗を廃して明宗をたてた。
 文臣中心の政治組織は機能を失い、政治経験のない武臣中心の武断政治が現れた。権力を握った武臣たちは主要官職を独占し、争って土地と奴婢を増やし、私兵を養って権力争いを繰り広げた。武臣の過酷な支配で生活が困難になった農民と賤民たちの蜂起が各地で発生した。
 特に、開京で執権者であった崔忠献(チェ・チュンホン)の私奴であった萬積(まんせき)が身分解放を叫んで、開京(ケギョン)の奴婢を糾合して決起しようとした事件は、執権武臣勢力に大きな衝撃を与えた。崔忠献は権力を握ると強力な専制政治で政権の安定を図った。

 契丹の侵攻
 時代は戻るが、契丹との関係を見ておきたい。
 高麗の太祖は、中国大陸が分裂している情勢を利用して、高句麗の昔の土地を回復しようとする北進政策を推進した。960年に宋が建国され、契丹)と対峙すると、高麗は宋と連繋してを牽制する道をとった。は、宋との戦争に先立ち、993年に数十万の大軍で高麗に侵入した。高麗はの侵略を阻止する一方、和儀の交渉で、宋と断交しと通交すること約束し、江東6州の管轄権を得て、鴨緑江まで領土を拡張することができた。
  
 高麗は秘かに宋と接触し、交流を継続した。1009年、高麗では、臣下の康兆(こうちょう)が第七代国王・穆宗(ぼくそう)を殺害して顕宗(けんそう)を王に就ける「康兆の政変」が起きた。の聖宗(せいそう)は1010年、「不義を正す」と称して40万の大軍を率いて高麗へ侵攻した。
 遼軍に開城が占領されると、これを放棄して、遠く羅州(ナジュ)へ避難した。高麗軍の抵抗が頑強であったため、遼軍は、毎年の朝貢と顕宗の入朝、六州の返還を課して撤退した。
 顕宗は病を理由に入朝しなかった。1014年には宋と国交を回復し遼と断交した。
 遼の聖宗は江東6州の返還を要求して再び攻め入ってきた。1018年に10万の軍が高麗に侵入してきた。開京付近まで到達したが、亀州(クイジュ)で高麗軍に殲滅され、生きて帰った者は数千に過ぎなかった。
 「契丹はその後も度々侵入を試み、国境付近で衝突が続いた。しかし高麗は、全国民が団結して勇敢にたたかってこれを追い出したために、契丹は侵略を放棄せざるを得なかった。高麗もやはり契丹との長い戦争に疲れて、ついに彼らとの国交を結んだ」(『新版韓国の歴史』)。
 高麗は契丹の年号を用いて朝貢の義務を果たし、遼が高麗の江東6州領有を許したので、高麗は鴨緑江沿いの女真族の土地を占領した。
 12世紀はじめ、女真族の部族である完顔部(ワンヤンブ)が強大になり女真を統一した。高麗軍と衝突するようになった。女真は満州一帯を掌握し金を建国し、1125年、遼を滅ぼした。金は高麗に君臣関係を要求してきた。高麗は、論争の上、武力抵抗を放棄し金の要求を受け入れ、1126年に朝貢した。


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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。終わりに

 終わりに
 これまで、八重山古典民謡が、どのように沖縄本島で歌われ、変容をとげてきたのを見てきた。
   改めて「民謡の成り立ち」を考えてみると、民衆が生きて、働き、暮らす日々の営みの中から生まれてきたのが民謡である。近代西洋音楽のように、五線譜に書かれた楽譜は存在しない。人々の口承で歌い継がれてきた。人々のつながりを通して、各地に歌は伝わり広がっていった。歌い継がれ、広がっていく長い道程の中で、その土地の環境や条件によって歌い方も歌詞も、変化をするのは、当然のことである。
 八重山古典民謡そのものも、石垣島の周辺の離島でたくさんの歌謡が生まれたが、それが石垣島をはじめ八重山全体に広がる中で、さまざまに変化をしている。同じ曲が、島ごとに、シマ(集落)ごとに歌い方が微妙に異なる。ましてや八重山から王府のある沖縄本島に取り入れられれば、本島流に歌詞や旋律も加工され,変容をとげることは、自然な流れである。
 それに、琉歌を曲に載せて歌う沖縄古典音楽や沖縄民謡は、同じ旋律に別の琉歌を載せて歌うこと、つまり替え歌で歌うのは、一つの音楽文化にもなっている。いつの間にか、元歌、本歌よりも、替え歌の方が親しまれ、有名になっている曲も珍しくない。そこにまた、民謡ならではの面白さと魅了もある。
 八重山民謡を取り入れた沖縄本島の曲目は、すでに古典音楽、琉球舞踊、沖縄芝居に組み込まれ、長く演奏され、みんなに愛されている曲が多い。
                 
  古見ぬ浦節 
  写真は新作組踊「聞得大君誕生」で「古見ぬ浦節」が使われた場面(下の写真も含めてNHKテレビ画面から) 

 なぜ八重山民謡が沖縄本島でもたくさん歌われるようになったのだろうか。
 そこには、琉球王府時代からの沖縄の芸能の歴史と伝統が深くかかわっている。
 琉球王国は、中国に朝貢して、東アジア各国との中継交易を行うことによって栄えてきた。中国皇帝の勅使として国王認証のため派遣される冊封使(サッポウシ)を芸能などでおもてなしすることは、国家の一大行事だった。芸能公演のために踊奉行(オドゥイブヂョウ)という役職まで設け、踊り手、演奏者など任命した。王府の役人たちは、大事な任務として歌三線や舞踊の腕を磨いた。そのなかで「古典舞踊」が踊られ、歌三線、台詞、踊りの総合芸能である「組踊(クミウドゥイ)」が創造された。琉球は「武」より「文」「芸」が重んじられる国であった。
 首里王府の芸能自体、宮廷の中だけで生まれ、発展するものではない。
 「首里王府でも積極的に地方の芸能を吸収することに努め、八重山の大浜の當銘仁屋(トウメニヤ、1779-?)に命じて八重山の歌を首里士族たちに指南させるなどのことも行っている。伊波普猷の言を借りれば、『農村民から新鮮な血液を貰った報酬に、彼等はかうして優美な性情を農民に分与したのである。』」(矢野輝雄著『沖縄舞踊の歴史』)
 琉球の各地・離島の豊かな芸能が首里王府にさまざまな形で取り入れられ、王府の芸能文化を豊かにしていった。
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 明治になり、琉球王国が廃止されて以降、王府で芸能にたずさわっていた士族たちは、禄を失った。那覇の街に芝居小屋を建て、身に付けた芸能を生かして、民衆を相手に芝居興行を営むようになる。庶民の民謡や生活を題材にした軽快な「雑踊り(ゾウオドリ)」が生まれ、沖縄芝居が作られ、民衆の人気を得た。沖縄芝居といっても、大和的な芝居の概念とは異なり、たくさんの民謡を取り入れた歌劇である。
 「組踊」にしても「沖縄芝居」にしても、そこで使われるたくさんの古典音楽や民謡は、演ずる劇、芝居の内容に合わせて歌詞を作り、元歌の旋律に載せて歌われる。
 だから琉球舞踊や沖縄芝居のなかで、たくさんの八重山民謡が取り入れられ、歌い踊られた。もちろん、八重山だけでなく、宮古島や久米島など離島の民謡も使われた。
 とくに八重山は「芸能の島」と呼ばれたように、八重山の島ごとに多様で豊かな民謡が生まれ、歌い継がれてきた。八重山民謡は本島とは異なる独自の魅力と価値をもっているので、本島で芸能に携わる人々は注目したのだろう。
 八重山民謡がいかに本島芸能に取り入れられてきたのかを見てきたが、芸能文化の全体を見れば、首里王府の芸能文化が八重山にも波及して、八重山の芸能にも影響を与えている面も大きい。
 首里王府から派遣された常駐の監督官・八重山在番が「琉球の芸能を伝授して、八重山の琉球化に成功」したといわれる。加えて薩摩の八重山在番も「近代日本の芸能文化を移入して、八重山の文化に貢献した」という側面もある(喜舎場永珣著『八重山歴史』)。
 八重山の芸能に及ぼした、沖縄本島、奄美諸島や薩摩・大和の芸能・文化の影響も見過ごせない。
 このように、沖縄の芸能・文化は、琉球弧の島々で長い歴史のなかで生まれた芸能が、互いに影響を及ぼしながら、世界に誇れる豊かな芸能文化を花開かせていると言えるのではないだろうか。
 2014年6月3日                    文責・沢村昭洋


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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「久場山越路節」

 「久場山越路節」(クバヤマクイツィブシ)
 久場山の峠道を切り開いて作った苦労が歌われている。
石垣島の北部、野底村の東方約半里(2キロ㍍)くらいの所から東南方にある峠道で、峠の長さはおよそ1キロ余り、葛折りの険しい道だという。
 次のような歌意である。
♪険阻な峠道がなければ(いいのに) 険しい山道がなければ(いいのに)
♪険阻な峠道もあった方がいいのだ 険しい山道もあった方がいいのだ
♪どのようにして開いたのか、峠道を 如何なる方法で拓いたのか、山道を
♪踏み倒して開いたのだ、峠道は なぎ倒して拓いたのだ、山道は
 歌詞はまだ8番まで続く。
 山道の幅いっぱいに絹布を敷き延べて野底村の役人さまをご案内します、という歌詞になっている。
  険阻な山道を切り開くために動員された庶民の恨みの声で始まる。でもすぐに、山道はあった方がよいと役人を丁重に案内するという矛盾した歌詞になっている。歌詞には、峠道を開く難工事に駆り出されて、苦労した庶民の側と、開通を計画して住民を動員して進めた役人の側の両方の見方が反映されているような印象がある。
 喜舎場永珣氏は「大浜英晋が野底村の与人役(村長)を勤めている時に、作ったと、その子孫や古老は伝えている」(『八重山民謡誌』)。英晋が与人を拝命したのは1836年だというから、180年近く前に作られたことになる。
  それはともかく、この元歌で歌われることはほとんどないという。「つぃんだら節」に続けて「退(ピゥ)き羽」として歌われることが多い。その場合は、歌詞はまったく変わる。
     
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      写真は、島分けの悲劇を象徴する野底まーぺーの伝説がある野底岳

  「つぃんだら節」は、黒島に住む仲睦まじい二人が首里王府の命令で引き裂かれ、女性が野底に移されるまでが描かれている。これに続けて歌う「久場山越路節」は、野底に移された女性が、黒島では彼氏といつも一緒だったと懐かしく回顧する内容となっている。

「久場山越路節」の歌意は次の通り。
♪黒島にいた間は さふ島(黒島の別称)にいた間は ※かわいそうな愛しい人よ
♪島は一つだった 村は一つだった ※ハヤシ
♪苧(ブー)作業の時も私たち二人は(注) 結(ユイ、共同作業)をする時も 私たち二人は一緒だった
♪山に行くのも二人 磯下りの時も二人だった  
 注・苧(苧)は布織りの糸の原料。苧にかかわる作業か、もしくは一般的な夜業、夜鍋か、「ブー(夫役)に服する作業か、いろいろ説がある。
 黒島では一六九二年から一七三二年の間に計四回の強制移住があった。一七三二年には、約四〇〇人も移住させた。「島分け」の悲劇を歌った曲は、哀調を帯びていて、歌っていても胸に迫るものがある。
  薩摩に支配され搾取されていた琉球は、財政難のため、八重山で人口の多い島から未開拓の地に住民を強制移住させる政策を進めた。昔は、大きな石垣島や西表島はマラリアの危険な地域があり、人口は少なく、島は小さくても比較的、人口は多かった黒島などから移住させられた。役人が村の道路を境に移住者と残留者を無慈悲に線引きして決めたので、恋人でも仲を引き裂かれ、たくさんの悲劇が生まれた。そのために、「島分け」をテーマとした唄は、八重山でも宮古島でもたくさん作られている。
  

  
 
  動画は高嶺ミツさんの唄・三線による「つぃんだら節」。「久場山越路節」は入っていないが素晴らしい歌だ。
  この曲は、沖縄本島では沖縄芝居に使われることになった。題名は同じであるが、八重山の元歌とも、「つぃんだら節」の「退き羽」で歌われる歌詞ともまったく異なる歌が作られた。旋律も相当違うので、これはもう題名は同じでも、まったく別の歌の感じがする。
  本島の「久場山越路節」は、男女掛け合いの恋歌で、次のような歌意である。
♪女 衣の袖を掴まえ 私と知りながら 何とでもなれと思って 捨てて行くの ねえ貴方
♪男 その積りではない もしも他人に知れて 世間の噂になったら どうするの ねえお前
♪女 女の身の習慣の 義理も恥も捨てて 焦がれる心を 貴方は知らないの ねえ貴方
♪男 誘惑があっても 靡(ナビ)くなよ お前 心の中の契り 他人に知らすなよ
♪男 二人が真心も 無駄にしてはいけない 
♪女 変わるなよお互いに 何代までも ねえお前 ねえ貴方
 芝居の台詞がそのまま歌詞になった感じだ。

 ややこしいのは、この本島で歌われた「久場山越路節」は、さらに歌詞が変えられて「桃売アン小(ムムウイアングヮー)」となったことだ。この曲は、私が通う民謡三線サークルの課題曲となっているので、よく歌う。やはり、男女掛け合いで歌う。
 歌意は次の通り。
♪女 山桃を売って織った布を買ってあるから それで着物を縫って 愛しい彼に着させる
♪女 着物を縫った後、切れ端が残るから 私の着物の袖に付け足して 私が着るわ
♪男 着物を洗っているのか、布を晒しているのか、水汲みは私がするから 疲れていないかい、ねえお前
♪女 着物を縫って貴方に着させるから、今から後は他所の人と夜遊びはしないでね
♪男 心からの形見であるなら、今から後は、他所の人と夜遊びはしないよ
♪女 言ったわよねあなた
♪男 心変わりはするなよ、お互いに
♪男女 親に話して二人は夫婦になろうね 私たち二人は
 
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  アルテで「桃売あん小節」を歌ったことがある

  これも沖縄芝居で使われたような歌詞である。「桃売アン小」は、少し古い時代の男女のあり様がわかって面白い。とくに、彼女は、山桃を売ったお金で布を買い、彼のために着物を縫ってあげる。その余った布で、自分の袖につけて着るという表現には、女性の愛らしさがとてもよく出ている。彼氏も、女性にとってつらい仕事だった水汲みを私がやろう、疲れていないかい、と彼女へのいたわりをみせる。

 面白いのは、着物を着せたあとは、もう毛遊びをしないでね、と迫るところ。毛遊びは、若い男女が野原に出て夜のふけるのも忘れて歌って踊って遊ぶ。そこは、恋愛の相手を見つける出逢いの場でもあった。夫婦になる誓いをする二人だから、もう毛遊びに行かないでというのも当然なのだろう。
というわけで、「久場山越路節」はもともと峠道を開いたことをテーマとした曲だったのに、時代とともに変貌し、替え歌が作られ、替え歌の替え歌が作られたという、なんか数奇な運命をたどった民謡だ。替え歌を作りたくなるような魅力をもっていたということだろうか。


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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「祖平花節」

 「祖平花節」(スィビラパナブシ)
 この歌は、波照間島で作られた曲である。歌には伝承がある。昔、波照間島の名船頭といわれた祖平宇根が人頭税を積んだ公用船の船頭に抜擢され航海を続けていた。ある年、熱帯的気圧に遭遇し、中国に漂着した。3年間滞在した間に、恋仲になった女性が遠視できる霊感持ち主で、波照間島の「風水」「航海安全図」を与えられ、無事帰国した。
 村の役人、古老らと協議し、風水図を基礎に(湊から名石村までの)「祖平花道」の新道路を開通した。浜から上がると「火の神」を建て、上方には「ビッチェル御嶽(拝所)を創建し、船の出入りの時は、航海安全を祈願し感謝することにした。以後は航海も安全になった。歌は、開通の喜びのあまり作られた即興詩だと伝えられている(喜舎場永珣著『八重山民謡誌』)。

   

  「祖平花節」の歌と踊り

  「祖平花節」の歌意は次の通り。
 ♪祖平花道を サーサー 縁起のよい道を サーサー 
 ※シュラヨイ シュラヨイ キユ スィディル ダキヨー
 ♪どなたをご案内するのですか どのお方をご先導するのでうか ※以下同じ
 ♪守る王府のお役人をご案内します お役人様をご先導いたします
 ♪首里王府のお役人の後ろを お役人様のお側を
 ♪私女頭(ブナヂゥ、女性の下級役職)役がお供します この私、
女性が後ろに付き添います
 ♪アシゥヤキャー(役人の宿泊所)にお供します お宿までご案内いたします
 この歌は、首里王府から派遣された役人を迎え、港から島の中心部に位置する名石村の宿泊所まで案内する道行の情景を描写している。
 「祖平花節」が元歌と見られるのが本島の「南嶽節(ナンダキブシ)」である。舞踊曲「貫花」で「武富節」「南嶽節」がセットになっている。
         
 本島の「南嶽節」の歌詞は、まったくの替え歌である。「南嶽節」は次のような歌意である。
 ♪打ち鳴らし鳴らし 四つ竹は鳴らし 鳴らす四つ竹の音の美しさよ
  ※シュラヨゥイ シュラヨゥイ キユ スィディナンダキヨゥ
 ♪今日は行き逢えていろいろ遊びをして 明日はあの人の面影が立つと思えば
 「南嶽」が何を意味するのか不明だ。歌詞の中には題名にかかわることは全然出てこない。ただし、囃子の部分だけは、ほとんど同じである。囃子の最後の「ダキヨー」が「ナンダキヨゥ」となっているだけの違いである。この「ナンダキヨゥ」に「南嶽」の漢字を当てて題名としたのかもしれない。


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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「真謝節」

 「真謝節」(マジャブシ)
 石垣市白保の集落内に真謝井戸(マジャンガー)がある。石の階段のある古い井戸である。歌は白保の村を褒めるとともに、この真謝井戸のことを歌っている。「シンダスリ節」とも呼ばれている。「シンダスリ」とは「可愛い乙女を見て気がよみがえる」というような意味だとのこと。お囃子の言葉が題名にされている。白保では「白保節」「ボスポウ節」とともに三大名曲とされている。
 真謝井戸の碑が建っている。碑文を紹介する。
 「寛延3年(1750)の頃、真謝村は白保から分封した。真謝井戸は当時村民の飲料水川として掘られたが、明和8年(1771)大津波によって埋められてしまった。白保真謝両村も津波のため壊滅したので、八重山の行政庁蔵元では波照間島から強制移住せしめて白保村を再建し、真謝村は廃村となった。
 真謝井戸は琉球王命により、視察のため派遣された馬術の名人馬真謝という人が、村人と共に採掘して長く村民の生活に役立てた由緒ある井戸である」
 八重山民謡、民俗に詳しい喜舎場永珣氏は、馬真謝(ウママジャ)が白保村に来たのは、流罪になったから。その理由は、馬真謝は首里城内で馬目利役を勤めていたが、王の愛妾と人目を忍ぶ仲となったのが露見したためという。
 馬真謝は白保村では、美人で歌の名人である「多宇サカイ」に惚れ、これを娶っている。村民に請われて津波で埋没した井戸を掘りおこし、石の階段をつくり、水汲みの便をはかった。
 その落成式の当日、前から歌っていたチィンダスリ節を、馬真謝が琉歌体に改作し、村民に歌わせたと伝えられている。
 ただし、真謝の来島については、明和の大津波の災害視察のために王の命で派遣されたという説もある。碑文は「視察のための派遣」という見解である。 

     真謝井戸、石垣市教育委員会     
     真謝井戸(石垣市教育委員会)               

「真謝節」の歌意は次の通り。
  ♪白保という村は 恵みに満ちた村で 真謝井戸を背に 裕福な村を前にしている 
 ※シュンドスリ サースリヱー(以下同じハヤシ)
♪与那の岡に登って 周りを見渡すと 稲粟の稔りは 見事に豊作である
♪稲粟の穂の色合いは 二十歳頃の娘の肌艶のように 粒が立派に稔ったので
  初穂を神仏に捧げます
♪真謝井戸に降りて 水を汲む女性の 髪が黒々と輝き 目鼻立ちの美しいことよ
 
♪真謝井戸の水は 澄んでいると底を見ることが出来る これほど美しい娘の
  心のうちは  推し量ることが出来ない 

 舞踊喜歌劇「馬山川」
 沖縄本島では、この真謝井戸(マジャンガー)を題材にして、舞踊喜歌劇「馬山川」が作られた。とても人気がありよく踊られる。
 「真謝節」の歌詞にある「♪真謝井戸に降りて 水を汲む女は 髪が黒々として 目眉の美しいことよ」という歌詞を脚色し物語としている。
 真謝川で水汲みをする美女に惚れた醜男が美女に言い寄るが、美女には美男の恋人がいる。そこへ百姓女が洗濯にくる。最後は、美女と美男、百姓女と醜男が、それぞれ結ばれるという芝居。とても面白く描かれている。「YouTub」でもいくつかアップされている。

    

 これは、大正・昭和期の沖縄芝居で完成した歌舞喜歌劇で、伊良波尹吉(イラハインキチ)の作。スンダスリ節(真謝節)、クンヌハシ節、白保節など八重山民謡を入れている(沖縄コンパクト事典)。
 「石垣島にある真謝川の民謡を聞き知った伊良波は喜歌劇に仕立てて劇を作った」という。「馬山川」とは、沖縄であまり聞かない名称である。なぜ「真謝川(井戸)」が「馬山川」になったのか。
 「これは、伊良波が、島袋光裕に『真謝川』の筋立てを話し、それを記録してもらった。その時、島袋は『真謝川』を『馬山川』と聞き違えて『馬山川』と記録したのが、そのままになり今日まで『馬山川』でとおっているといわれている」(『琉球芸能事典』)

 「馬山川」は次のような歌意になっている。
 ナンパするために馬山川やってきた醜男、女の子がいないから 隠れて待っていようか?
 水を汲むために馬山川に降りてき美女
 そこに美男がやってきてカップル成立
 ガックリの醜男の背後に醜い女がやってきてい互にからかい合う
 エスカレートして喧嘩する二人を諌める美男美女
 自分のために美男美女がやってきたとおもう二人
 あとはひっちゃかめっちゃか
 (ネット「沖縄民謡な日常 はいさいくによし」から)
 これは、歌詞というよりあらすじにすぎない。全体の歌詞はとっても滑稽で面白いそうだ。いま手元に資料がないのが残念である。


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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「真栄節」

 「真栄節(マザカイフシ)」
 竹富島からコメ作りのために西表島の仲間村に移り住み、引き離された恋人をしのぶ曲に「真栄節」がある。
 歌意は次の通り
 ♪産まれは竹富、育ちは西表仲間村の マザカイ(男名)は
   ※ウヤキヨーヌ ユバナヲゥレ
 ♪何ゆえに、いかなる理由で 仲間村に移り住んだのか ※以下ハヤシ
 ♪大浦田の、ミナグチゥの田んぼで 稲作するために
 ♪もち米を、白米を 作るために移り住んだ
 ♪竹富の、仲嵩の 上空に
 ♪白雲が、積雲が 立ち上ったら
 ♪白雲だと、積雲だと 思わないでね
 ♪カナシャーマだと、愛しい人だと 思ってちょうだいね
 ♪古見岳の、八重岳の 真上に
 ♪若月が、三日月が 上ったら
 ♪若月だと、三日月だと 思わないでよ
 ♪竹富島から来たマザカイだと 思ってくれよ
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 竹富島に生まれたマザカイは、「優良な田んぼがあり、そこで稲作をするために」西表島に移住したと答える。自ら志願して西表島に渡ったとされる。
 喜舎場永珣氏によると、マザカイは「真栄」とも「真佐久(マサグ)」とも童名で呼ばれていた。20歳で分家したが、本家より与えられたのは珊瑚礁畑であり、「かかる石塊畑の収穫では人頭税重税なりし折、己の義務を果たすことの不可能な事を覚り、早くも米作に目をつけたのか、西表島の仲間村に移住したのである」、しかし、自由移住が認められたわけではなく、仲間村にもあった竹富島役人の俸禄田である「ウイカ田」の監督者という名義で許可されたとのことである(『八重山民謡誌』)。
 王府時代には、貢納は米や粟をもって納付しなければならない。田んぼがなく米の穫れない竹富島や黒島などの住民にも米納を義務付けた時代があったという。
 マザカイも人頭税を納めるため、移住せざるをえなかったのだ。
 離別を余儀なくされたマザカイと竹富島に残されたカナシャーマが互いに、「竹富の上空に白雲、積雲が上がったらカナシャーマだと思ってちょうだい」「西表島の古見岳の真上に月が上がったらマザカイだと思ってくれよ」と言い交すのは、哀切きわまりない。
           
 この曲は、沖縄本島の舞踊曲「貫花」(ヌチバナ)の中の「武富節(タキドゥンブシ)」とそっくりの旋律である。前から、「この曲の歌詞には、武富(竹富)のことはまったく登場しないのに、なぜこの題名がついているのだろうか?」とずっと疑問をもっていた。でも、竹富島が舞台となった「真栄節」が元歌だとすれば、納得がいく。
 「武富節」の歌意は次の通り。
 ♪さあ連れ立って花を摘みに行こう 花は露に濡れて摘めないよ 
   ※エヰエヨウヌ ヒヤルガヒエ 
 ♪流れの早い白瀬川に流れる桜を すくい上げて愛しい彼に花輪(レイ)にしてかけよう
 ♪赤い糸の花輪は彼にかけて  白糸の花輪はもらいなさい子どもたちよ
 歌詞に見るように、曲の題名だけ「武富(竹富)」の名があるけれど、中身は何の関係もない。まるっきり替え歌である。2番目の歌詞は、久米島を舞台として歌われる「白瀬走川節」を取り入れたものである。
琉球舞踊「貫花」は「武富節」「南嶽節」がセットになっている。「南嶽節」は次回に取り上げる。「貫花」の2曲と舞踊の動画をアップするので比べてみてほしい。
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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「あがろーざ節」

 「あがろーざ節」
 八重山民謡を、本島で取り入れて、編曲したり、歌詞を変えて歌った曲を見てきたが、編曲してよくなっているのもあるし、本島でもとても有名な名曲となっている曲が多い。ただし、どうしても八重山の元歌の方に味わいがあり、本島の曲にはなじめない曲もある。
 その典型が子守唄「あがろーざ節」である。本島では「子守節(クムイブシ)」となっている。
歌詞は長い上に、同じ内容を少し変えた表現で繰り返すという八重山古典独特の形式となっている。
 全文ではなく、主な歌詞の歌意だけを紹介する。
 ♪東里村の真ん中にヤゥイ 登野城(トノシロ)の真ん中に※ヤゥ ハリヌクガナ
 ♪ミカンの木の下に 香り高い木の下に ※以下同じ
 ♪子守りたちが寄り揃い 子どもを抱く守姉たちが集まって
 ♪腕が痛むほど子守し 手首が痛むほど子どもを抱き
 ♪大人になりなさい 立派な人になりなさい
 ♪学問に優れた人になり 筆を執るのが上手な人になりなさい
 ♪沖縄本島への旅を受けなさい 首里王府への旅を受けなさい
     

         高嶺ミツさんが歌う「あがろーざ節」 
 この歌は、子守りの娘さんたちが、登野城の中心部に集まってきて、九年母(クニブ=ミカン)の木の下で子どもを抱き、おしゃべりもしながら子守りをする。子どもが立派な人間に成長することを願う心情があふれている。八重山の子守りの情景がとてもよく表現されている曲である。
 八重山での子守りがどのように行われていたのか、宮城文さん著『八重山生活史』から紹介する。
 「子守は五、六才前後の娘のおつとめになっていて、姉のいる家庭ではもちろんその姉が、そうでない家庭では親戚や隣家の娘を頼むのが常例であった。娘たちは、たくさんの子供をお守するのが誇りであり、『守児(モリゴ)』のいない娘は毎日の朋輩の集いでもさびしい想いをしなければならないので、母親は遠い所まで探し求めてお守りをさせることさえあった」
  守りする子どもには、愛情を注ぐ。守りをした縁故は、生涯にわたって続く。守姉は、お守りした子の成長を見守り、守りをしてもらった子どもは、大きくなってからも、祝い事には、贈り物をするなど感謝の気持ちを忘れない。これは八重山だけではなく、沖縄全体に共通したことだった。
    天川御獄
     石垣市登野城にある天川御嶽(オン)の説明坂
 大和の子守歌では、親元を離れて「子守り奉公」に出され、子どもが泣くと憎くなり、親元が恋しいと歌う子守歌が多い。八重山など沖縄の子守歌は、まったく逆の世界である。
  「あがろーざ節」は、沖縄本島では「子守節(クムイブシ)」として歌われている。
 ♪姉さんが大事に守り育ててあげるから 学問で優秀になりなさい
 ♪八尋屋の主になりなさい 十尋屋の主になりなさい
  「八尋、十尋屋の主」とは、大きな屋敷に住めるような人になれという意味だ。本島の「子守節」は、八重山のような子守りの情景はもう描かれていない。子守りをする子どもがよく学問をおさめて、出世する、立派な人になることを願うという、内容では共通している。本島でも八重山でも、士族層にとっては、学問を身に着け、王府の役職に就く、出世をすることが大きな望みだった。
 石垣島の登野城の地域は、百姓より士族の割合がとても多かった。「あがろーざ節」は、「学問の優れた人になりなさい」「首里王府への旅を受けなさい」と歌われていることから、士族層の子守の歌だと思われる。百姓は、学問は認められず、ましてや首里王府への旅などありえないからだ。
  「あがろーざ節」は、歌うととっても味わいがあり、私も好きな名曲である。「子守節」になると、なぜか味わいが薄くなる。あまり歌う気持ちがわかない。不思議だ。

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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「古見浦ぬぶなれーま節」

 「古見浦ぬぶなれーま節」
  「古見ぬ浦節」にかかわって興味深いのは同曲に登場する女性ブナレーマと同じ名前の女性を主人公にした「古見浦ヌブナレマユンタ」「古見浦ブナレマジラバ」など八重山の各地にあることである。
これは、古見のブナレーマが人頭税の貢布を納めるため舟で石垣島に出かけるという物語となっている。
 歌意を紹介する(囃子は略)。
 1、古見浦のブナレーマ女は ミユシク(古見浦の異称)の娘は
 2、初夏になったので 若夏がきたので
 3、自分の織り上げた上納布を取り持ち 十尋(ヒロ)の長さの布を抱きかかえて
 4、前の浜に駆け下り 皆の寄り合う浜に跳んで来て
 5、自分の舟を押し下ろし 艫高の舟を引き下ろし
 6、自分の織り上げた上納布を取り載せ 十尋の長さの布を抱き載せ
    7、石垣島に舟を走らせて行き 親島に舟を飛ばして行き 
 8、どこが舟着き場か ミシャギゥ(美崎)の前が舟着き場だ 
 9、どこが宿泊所か 蔵元の前が宿泊所だ 
  10、検査所に行って入り 点検所に入って行き
 11、検査役人に検分してもらい 収納係りの役人に納めた
 12、蔵元の戻りには 沖縄商店に入って行き
 13、注ぎ口の湾曲した土瓶は祖母の土産に 木製の煙草入れは祖父への土産に                      
   比屋根孝子

写真は、八重山民謡歌手の比屋根孝子さん。この曲を歌うのはまだ聞いていない

  この曲は、島と地域ごとに少しずつ表現が異なる。この歌意は、當山善堂著『精選八重山古典民謡集4』から紹介した。
織り上げた布を自分で舟に載せ石垣島に運び、宿をとり、役人の厳しい検査を受け、無事納めた帰りに、祖父母にお土産を買って帰る。こんなブナレーマの姿は、とてもたくましく、健気である。
「古見ぬ浦節」で出てくるブナレーマと「古見ぬ浦ぬぶなれーま節」」のブナレーマは同じ女性だろうか、同名異人なのだろうか。同じ名前の女性が何人かいたとしても不思議ではない。時代が別なのかもしれない。
  竹富島の同曲は、上記の歌詞と似てはいるが、これに続けて歌う「引羽」(ヒクバ)の歌詞が、曲の後半部にあたり、少し異なる内容である。
 1、布を引かしての帰りには 長さを引かしての帰りには
 2、大和屋に走り 沖縄屋に走り行き
 3、簪(カンザシ)も持って来た 押し差し(簪)も持って来た
 4、筑補佐(チクブサ、役職名)家に走り行き 佐事補佐(サジブサ)家に走り行き
 5、餅米も七升 粳(ウルチ)米も七升
 6、二七つ 十四 二十八つ持って来た
 7、簪は父のもの 押し差しは愛しい人のもの
 8、餅米は異なもの 粳米は父のもの
 9、古見村に走り行き 美与底(ミユスク、古見の異称)に帰りなさり
  こちらは、土産を買うのに「大和屋」にも行ったり、役人が登場する。土産をあげる相手も、父とともに愛しい人が出てくる。情景が目に浮かぶような曲である。
  當山氏は、この曲について「人頭税時代の女性に課された上納布にまつわる長編の叙事詩で、その表現の豊かさは圧倒的で傑作中の傑作と言っても過言ではない」(同書)と高く評価している。                      338.jpg

  八重山上布(石垣市博物館)

 上納布を納めるための女性の苦労について、喜舎場永珣氏は次のように記している(『八重山民謡誌』)。

「完納するまで婦女子はほとんど全部石垣の街で借家をして完納の祈りをし、役人に対してのお伽役を婦女子は秘密裏に強制せられて帰るという習慣であった。これは封建時代の秘史である…完納期間中の石垣の街は各離島や東部地方の婦女子で一杯であった」。
  検査と収納にあたる役人が、権威を背にして女性にお伽役も強制していたことを明らかにしている。
 波照間島の「古見浦ヌミヤラビアユ」は、少し歌詞の内容が異なる。
<石表島の古見村に生まれた乙女は、朝起きると集合の合図板が打たれたので行くと、村番所の中で御用布の原料の白苧麻を紡ぐ命令だった。
 古見浦に生まれた乙女は、美人に生まれたのでお役人の賄女にご奉公していた。村のお役人の旅先の妻になっていた>
 あらましこんな内容の歌詞である。こちらは、納布のため出かける話ではないが、村番所に集められて役人の監視のもとに糸紡ぎや機を織らされる労苦と役人の現地妻にされた悲哀が歌い込められている。
 この曲は、歌詞の内容に異同はあっても、いずれも人頭税時代に生きた「ブナレーマ」をはじめ無数の女性たちを苦しめた現実を素材とした哀史というべき曲である。
 これは、本島でも歌われているわけではないが、「古見ぬ浦節」の付録として取り上げてみた。

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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「古見ぬ浦節」

 古見ぬ浦節(クンヌーラブシ)
 八重山民謡でも名高い「古見ぬ浦節」は、西表島の東側にある古見の浦が舞台である。大宜見長稔(1682-1715)によって作詞作曲された(喜舎場永珣著『八重山民謡誌』)という。歌の背景に伝承があるが、まずは歌意を紹介する。
♪古見の浦から見る八重岳よ 八重に連なるミユシク(古見の異称)よ 
  何時までも眺めていたいものだ
♪桜の花のごとく美しいブナレーマよ 梅の花のごとく香しい乙女よ
  何時までも花の盛りであってほしい
♪袖を振ると里之子※の衣装から 極上の沈香の香りがほのかに匂う 
  何時までも染まる移り香の芳しさよ  ※サトゥヌシ、位階名で転じて士族の若者。
♪乙女の想いは 愛しい乙女の心情は いつまでも二人だけで語っていたい
♪私の面影が立ったならすぐ一路古見においでよ 可愛いと思われたなら
 安否を問合せて頂戴ね 何時でもお出でをお待ちしています

                  
 

 作者の大宜見長稔は、官命によって、与那国島の人頭税輸送の大任を受けて、航海中、風雨にあい、古見の浦にたどり着いた。子孫の伝承によると、村民などの救助をうけ介抱された。ブナレマという美女の愛情に魅せられた。天気が順風になり、出帆するとなると、二人は手を握って涙とともに生木をさき折るように裂かれて、長稔は船中に人となった。涙とともに謡いだされたのが古見ぬ浦節だという。
 長稔は1715年、首里王府の尚益王の前でこの曲を歌ったところ、国王の御感に入り、三味線一挺拝領の光栄に浴したという(喜舎場永珣著『八重山民謡誌』)。
 ちなみに、18世紀半ばの古見は、人口700人以上を数える大きい村だったそうである。
 當山善堂氏は「ブナレーマは架空の女性」とする。「古見の浦の美しい景観や温かい人情を織りまぜながら描かれている」けれども、里之子との別離の場面は、「強制的に現地妻にされたあと、おきまりの筋書きどおり置き去りにされる別離の悲惨さが感じられない」と断じている。確かに生き別れとなる悲痛な思いを歌ったのなら、もっとそれらしい内容の歌詞になるのかもしれない。
                   古見の浦節歌碑
写真の「古見の浦節」の歌碑は「沖縄県の琉歌碑写真集」から使わせていただいた。
 ただ、私的には少し異なる意見を持つ。長稔が救助されての滞在なら、役人の赴任と違って、権威を背景にして現地妻を置かせることは考えにくい。「ブナレーマ」という名の女性が実在したかどうかは別にして、滞在中の食事などの世話をする女性はいただろう。村で心魅かれた女性がいても不思議ではない。どれほどの愛情関係があったかわからないが、魅かれた女性との思い出を、胸に刻んで帰郷したことはありえることではないだろうか。
 「いつまでも二人だけで語っていたい」という4番や「私の面影が立ったならすぐ一路古見においでよ」という5番の歌詞などは、別れの哀切感がにじみ出ている。
 伝承の真偽のほどは別にして、この曲は「しっとりとした曲調」「気品にみちた荘重な旋律」(當山氏)で歌われる名曲である。
 ちなみに、作者の長稔はどこの出身だろうか。石垣島の「八重山白保(真謝)の与人(真仁屋与一)の家・石垣家が…『古見の浦節』の作者・大宜見長稔の実家」だという。石垣家が所有した知念型三線(石垣市立八重山博物館所蔵)は、「長稔愛用と伝わる」そうである(「琉文21」ブログから)。
              
 本島の古典音楽に取り入れられた「古見ぬ浦節」を見てみたい。
 ♪おしつれて互に 花の下しので 袖に匂移ち 遊ぶうれしゃ
  歌意は次の通り。
 ♪一緒になって花の下に行って、袖に匂いを移して遊ぶのが嬉しい
  次の歌詞もある。
 ♪月も照り清さ 花もにほひしほらしゃ 押風とつれてながみやい遊ば
  次のような歌意だろう。
 ♪月は照り輝き美しい 花も匂いが香しい 風にあたりながら遊びましょう
 『安冨祖琉工工四』には、上記と同じ二つの歌詞が載せられている。
 『屋嘉比工工四』にある「古見之浦節」は、八重山の原歌を基にしたものと考えられるという。その歌詞は、次の通り。
 ♪沈や伽羅とぼそお座敷に出でて 踊る吾が袖ん匂のしほらしゃ
  歌意は次の通り
 ♪沈香や伽羅を焚いて、お座敷に出て踊るわが袖に、漂う匂いの香しさよ
 八重山の原歌を基にしたといっても、歌の内容は、いかにも首里の王朝文化の世界である。本歌を含めて共通するのは「袖に匂い」とか「沈香の香りが匂う」という言葉だけである。もはや、もはや古見の浦の景観の美しさや島の女性との別れの情感などは、まったく消え去っている。別世界の歌となっている。
 『屋嘉比工工四』の歌詞は、本島の古典の「黒島節」でも使われている。舞踊曲集「松竹梅」に入る「黒島節」を歌う時、この「沈香や伽羅とぼそお座敷に出でて」の部分は、なぜこういう歌詞なのか、と疑問に思ったことだった。「古見ぬ浦節」との関係を知ると、少し理解ができる。


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変容する琉球民謡、八重山から本島へ。「まるま盆山節」

 「まるま盆山節(マルマブンサンブシ)」
 とても軽快で弾むような独特のテンポと旋律の曲で人気がある。八重山民謡の中でも、あまり類似した曲調がみられない個性的な曲である。西表島西部の祖納村(ソナイムラ)の前に広がる入り江を池に見た立て、そこに浮かぶ築山・盆山に見た情景を描いている。
 「まるまぼんさん節は(1670年頃)錦芳6代目慶田城用見が(西表島)慶田城村役人の時代に作詞作曲され伝承されたものと地元では伝えられている(西表島民謡誌と工工四、石垣金星著)」(伊良皆高吉氏、「沖縄音楽三線教室」ホームページから)
 歌意は次の通り。
盆山のようなマルマ(丸島)を 夕暮れ時に眺めると 風向きを察知して 風下の木に止まっている白鷺
 ※ヱイヤラヤンザー サーヱーヱーイヤー ハーリバサーヌシ ヒヤマーアッタン タヌムジュー
♪阿立(アダティ))、大立(ウフダティ)、宇嘉利(ウカリ)に下原(ソンバレ) 真山、浮道 成屋、
 船浮の村々 ※以下同じ
♪祖納の入江に立っている 標木の上で 魚を捕えようと 構えている海鵜
♪離れ島の水路で艪を漕ぐ あの舟この舟を眺めていると 声を揃えて(響きわたる)
 艪の音や掛け声(の勇ましいことよ)               
                    
 この曲は、入江の小島の風景から、ねぐらを定める白鷺、木の上から魚を狙う海鵜、舟の艪を漕ぐ音や掛け声まで見事に描かれている。その現場に立ち会って情景を見るような趣がある。それに、お囃子もとてもユニークで面白い。

 この曲は本島では、「たのむぞ節」として歌われる。ところが、題名は八重山の元歌の囃子の部分「タヌムジュー」が、「頼むぞ!」と聞こえることから「たのむぞ節」となっているようだ。歌詞はまるっきり別物である。
 「たのむぞ節」の本歌の歌詞は次の通り。
 ♪小学から読で 大学中庸 論語孟子に 五経まで読で
 ※ヤエイヤラヤエイサ サヤエイヤ ハレガコノエ ヒヤマツタモ
 歌意は次の通り。
 ♪小学から読み 大学、中庸、論語、孟子に五経まで読んだ
 「まるま盆山節」とは似ても似つかない歌詞であり、ビックリである。
 ここに上げられているのは、いずれも中国の儒学の書名。とくに重要とされる「四書」として「大学」「中庸」「論語」「孟子」、「五経」として「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」を言う。朱子学ではさらに「小学」も入るとか。
 本歌は、「琉球王国時代の青少年の学問の経路を歌ったものだと言われる」(『琉球芸能事典』)。
 この本歌以外にも歌われる歌詞がある。歌意は次の通り。
 ♪東が明るくなれば 髪を結んで友だちを連れて 学問を習いに行くのか
 ♪頑張って勉強して「六芸」を習って 首里王府にご奉公 さあ私が先に立ちたい
 ♪ご奉公を務めて 扶持を戴いて 親に孝行することこそ本意です

 首里の士族の子どもがしっかり学問に励み、王府に奉公する、親に孝行することを歌った曲になっている。子どもにたいし「頼むぞ!」という期待と励ましの思いを込めているのだろう。
 「まるま盆山節」の囃子が「タノムゾ」と聞こえるといっても、元歌の囃子は「頼むぞ」という意味とは関係ない。この歌の地元、西表島祖納では「タヌム」ではなく「タムヌ」と言い、薪のこと。「ジュウ」は、薪が心地よく割れた時の音を「ジュウ」と呼んでいる。「木の根を上にして立てて、斧を振り下ろして当てた時一発でパサッ(ジュウ)と割れた時など例えようのない嬉しさを感じ、埃に思うほど愉快である」(伊良皆高吉氏)。お囃子もとてもユニークである。
 でも、薪を割る音「タヌムジュ」が転じて「たのむぞ」になるとは、民謡は、なんとも奇異な変容をたどるものである。
「これも比較的近年に琉球古典音楽の工工四(楽譜)に組み込まれた歌であろう」(同書)とのことである。

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