NEOのゆとりを楽しむ生活

株式投資、英語学習、グルメ、旅行、愛犬とのシニア生活

秋の温泉旅行に行く(川治温泉)

週末に鬼怒川の北にある川治温泉に行った
鬼怒川は何度も行ったことがあるが、湯西川と鬼怒川の中間に位置する川治温泉は初めてだ


うちには愛犬エルがいるのでどうしても犬を中心に考えることになる
ペット可のところで、できれば朝夜温泉(できれば大浴場)に入れるところを探していたところ見つかったのが川治温泉にあるホテルだったのだ


出発の前々日にスケジュールを作成し(これは私のいつもの務め)、時間に無駄なくしかし無理せず悠々と動いて現地を堪能するのが私のやり方


もちろんエルちゃんの大好きな散歩コースも忘れない


朝、5:30に家を出て即高速に乗り、外環道を経て東北道へ入り、最初のサービスエリア蓮田で朝食とエルの散歩


予定よりも早く到着してまずは30年ぶりの東武ワールドスクエアへ
都内の小学生らが英語での案内をするフィールドワークを実践中
私も協力して英語で話しかける


昼食は龍王峡のイワナ定食(妻はゆば定食)
そこからアップダウンの山道をエルちゃんとともに歩く
サスペンスドラマに出て来るような絶景でした


道の駅、湯西川の平家の里(落ち武者に興味はないが)に立ち寄った後ホテルへ


激安ホテルを選んだけど、実際はなかなか良かった
温泉も最高!

朝は5:30からホテル周辺をエルと散歩


そしてバイキング形式の朝食


二日目のスタートは瀬戸合峡を散策
吊り橋から見る景色が良かった


地元の名所をいくつか周り、昼食は十割蕎麦の大黒庵さんへ
驚きのボリュームの天ぷらが出てきて大満足


そして帰路へ


金曜日は株式市場を見てなかったけど、週明けマネーフォワードでチェックしたら結構減ってたね・・・

母の介護生活(1)三重苦

私自身は2021年末に59歳1か月でFIREしたのである程度の時間の融通が利く
とは言え、老犬の朝夕の散歩とその後の手入れ、日中は市場のチェックと英語学習、週末にはひとりで住む実父の家に様子伺いに行っているので意外と忙しいのだ


昨年末には実母が亡くなった


ここ数年間、母はアルツハイマー系の認知症を患い、家事も家計も料理すらできなくなっていた
そのため数年前からちょくちょく様子を見に行っていたのだ


2か月に一度認知症専門医に連れて行き薬を処方してもらい、後期高齢の定期健診に連れて行ったり、イベントごとに食事や旅行に連れ出した


コロナワクチンの最初の接種予約の時は、早朝4時に病院の正面玄関まで行き、並んで受付してもらったりもした


親が可愛がって世話をしていた超高齢犬(雑種、享年24)が21年9月に亡くなると、変化のない閉塞的な生活だと認知症も進行しやすいだろうと、近くのデイサービスを週一で依頼
(こじんまりとした一戸建ての民家でのデイサービスだった)


ある時、そこを抜け出して近所を徘徊し警察に保護され、警察署まで迎えに行ったことがある
(自分がそこにいる環境があまり理解できてなかったのか?)


警察署から私の携帯に電話がありすぐ迎えに向かったのだが、「なぜちゃんと見ててくれなかったのか」と施設責任者を責めたりもしたが、振り返れば少人数で頑張ってくれてたと思う
その後、母が脳梗塞で入院生活に入り、改めてデイサービスの施設に挨拶に訪れ、短い間の御礼を申し上げた


21年12月に母は脳梗塞で倒れ深夜に緊急手術をしてから半身不随となり、また大腸機能障害も併発して、数か月の入院生活を経て昨年5月に特養へ入所となった


22年9月に2度目の脳梗塞手術
同年11月には大腸機能障害で再入院
同年12月にストーマ(人工肛門)手術
この頃には認知症もありコミュニケーションはほぼ難しくなっていた


最後の手術が負担だったのか術後数日して体調が急変、帰らぬ人となった(享年86)


昨年の1年間は、病院、特養の手続き等すべて私がおこなったが、中にはすぐに判断や対応しなければならないこともあり、常に気がかりな状況だった


他方、老齢の実父は健康とは言え90代、自宅内で体調を崩しているところを近所の人(朝のラジオ体操仲間で体操に来なかったので声をかけてみたとのこと)に発見され救急車を呼んだからと電話が来て慌てて向かったことも(幸い大事にはならなかった)


私の家と父の住む実家は車で30分程度


もし、私が働いていたらこれらのことに対応できなかったと思う


ところで、この父母の実家につい最近まで12年も住んでいた1歳上の実兄がいたのだが、まるで何もしない人間で、10年も前に母がある事件に巻き込まれて一か月以上の入院生活を余儀なくされたときも他人事で見て見ぬふりを貫き通したのだが、まさに金も払わず、汗もかかず、気も使わずで居候以下のダメ人間なのだ


母が脳梗塞で最初の入院をしたときに、この実兄(実は妻と子2人がいるが別居)を私が実家から追い出してやった


1年後の母の葬儀(22年12月)には姿も現さなかった


この件については改めて書くつもりだ

少年時代の思い出(3)そろばん塾

小学校時代は取り柄のない普通の子だった


不良でもいじめっ子でもいじめられっ子なく、成績も普通、運動も大したことはなかったが足だけは速かった(ずっと運動会のリレーのクラス代表だった)


小学校低学年の頃、他の親と同じようにうちの親も子供たちに何か習い事をさせようと考え、隣町にある算盤教室に通わせたことがある


あまり面白いものではなかったが、ある時、今日は行きたくないと思った兄がサボろうと私に言ってきた


ちゃんと教室に行ったかどうか後で親に聞かれるので、そこで兄は私たちの自転車の位置を微妙にズラして行って来たように見せかけるアリバイ工作までした(昔から兄にはこういう悪知恵があった)


しかし、所詮は子供の底浅い悪知恵だ


或いは教室の先生から「最近来てませんよ」と連絡があったのかも知れない、当然親にバレて怒られた


もう50年以上も前の話だが月謝はひとり二千円か三千円くらいで、頑張って欲しいと送り出したのにやり切れなかったろう


兄よ、私はあんたから悪いことしか学んでない

少年時代の思い出(2)親のお金で買い食い

小学校に入ったばかりの頃、私は鍵っ子だった


父はしがない建築会社の会社員(給料がちゃんと支払われないと夫婦二人で深刻に話しているのを聞いたことがある)


母は近所のパート(電子機器の単純な組み立て作業)で学校から帰っても家には誰もいない(一つ上の兄はいたが)


多分、寂しかったのだと思う


私は学校から帰ると、母の買い物かごに入れていた財布から小銭や千円札をくすねては近所の駄菓子屋へ行って買い食いをするようになっていた


ある時それがバレて強く叱られた


しかし、叱られたほうも小1で分別もない
そもそも悪いことをしているという意識が全くなく家にあるお金で買い物に行った感覚なのだ
そのうちにまた財布からくすねて買い食いをするようになった


あるときは割と分かりやすい台所の引き出しに無造作に千円札を1枚置いてあったことがあって、私が盗るかどうか試されたことがあった(まさにトラップだった)


私はまんまと嵌められ、その千円札を手にしてやはり駄菓子屋へ向かった


こうした私の癖が治らないものだから、あるとき父親に強烈な折檻を受けた


私の顔の両頬は青く腫れ、翌日学校の先生に驚かれ「どうしたの?」と聞かれたときに「ひとりで縄跳びをしていて自分で当ててしまった」と嘘を付いた


今でも覚えている(小1の記憶)


しかし、以来、私の悪癖(本人は悪いという認識はない)は治まり、母の財布からお金をくすねるくせはなくなった

少年時代の思い出(1)夜尿症

私は少年時代、「夜尿症」すなわち「おねしょ」に悩まされた
小5になるまでおねしょをしていたのだ


公営住宅の狭い家の部屋の中で家族4人が川の字になって寝ていて、夜中に私がしょっちゅうおねしょをしたものだから親も大変だったろう
夜中に母が私の下腹部の方に手を伸ばして「あっ!」と声を出したシーンは今でも私の頭に焼き付いている


その都度、シーツを変えたり、タオルをかぶせたりしていたようだが、幸いなことにこの件で私が強く叱られたことはなかった


しかし、深夜のおねしょに親の(特に母親の)機嫌が良いはずがない
おねしょをした明けた朝は、そんな雰囲気を感じ取っていつも肩身が狭かった


夜寝る前に水分をとることを禁じられ、どうしても喉が渇いてある時トイレの水タンクの上の手洗い水をこっそり飲んだこともある


なぜ、おねしょが中々治らなかったのか?おそらく子供時代の私が持つ「焦燥感」「緊張感」「憂鬱」のようなストレスが原因だったのではないかと考えている
子供時代に怪我が多かったのも、そうした「焦り」のような感覚が子供の私に不自然な行動をさせた結果だったような気がする


確か小5のときだったが、母に連れられて市内の大学病院に夜尿症の相談に行ったことがある


診察が終わり大学病院の外で母と一緒に食べた焼きそばの味が忘れられない
病院でどのような処置がなされたかは覚えていないが(多分何もしていない)、医療は何の役にも立ってなかったろう


子供のおねしょを治すには、何か子供が熱中できるような趣味や習い事を見つけてあげることだと思う
私の場合、小4か小5あたりから読書にハマり、精神的に安定し始めたのが大きかったのだ


そして小6になるといつの間にかおねしょをすることも無くなってしまった