「ジャスティス」と呼ばれて…日本サッカー初のプロ主審・岡田正義が泣いた日

今回は日本初のプロ主審としてワールドカップにも出場経験を持つ岡田正義氏が登場。大学在学中より審判の道へ入った岡田氏は、2002年にプロ主審となりますが、Jリーグがスタートしたころは、笛を吹くのに有給休暇を使いながら休みをやりくりし、何とかピッチに現れるという厳しい環境だったそうです。横浜の日産スタジアムで最後の試合を終えたあとの引退会見では思わず涙をこぼす場面もありました。これまでのエピソードや、日本サッカー、あるいは誤審についてなど、さまざまなお話をしていただきました。 (新横浜のグルメ・ランチ)

「ジャスティス」と呼ばれて…日本サッカー初のプロ主審・岡田正義が泣いた日

f:id:g-gourmedia:20161219185525j:plain

2010年、岡田正義氏が審判を引退した。それまでJ1リーグで笛を吹いたのは336試合。同年までに岡田氏以上の試合出場数があった選手は、26人だけだった。つまりほとんどの選手よりも多く、岡田氏はJリーグに「出場」を続けたのだ。

 

リーグ戦、カップ戦を合わせ546試合。チャンピオンシップやゼロックススーパーカップなどで17試合。さらにクラブの国際試合で17試合、そしてワールドカップを含む国際Aマッチで50試合。合計630試合で岡田氏は笛を吹き続けた。

 

だが、それだけの実績を持つ岡田氏でも、引退はセレモニーも何もないひっそりとしたものだった。それどころかJリーグがスタートしたころは、笛を吹くのに有給休暇を使いながら休みをやりくりし、何とかピッチに現れるという厳しい環境だった。そんな審判の苦労はなかなか表には出てこない。

 

笛を吹く試合が割り当てられず、悩んだこともあったそうだ。サポーターの姿を見て心が痛んだこともあったという。そして自分に付けられたあだ名も耳に入ってきていたのだとか。

 

引退会見では思わず涙がこぼれた。「辞めたいと思ったことは1度もなかった。信念を持ってやったし、幸せでした」と振り返る。そして今は審判指導者として後進の育成に力を注いでいる。

 

黒子にも黒子の人生がある。語られることは少ないが、その黒子の存在がなければ主役が輝くこともない。今回は少しだけ、「憎まれ役」の話を書いておこう。

 

審判を続けるために転職も…審判プロ化までの厳しかった日々

審判を務めて一番楽しかったのは……長いスパンで言えば、自分の目標に向かってステップアップしていったことでした。大学1年で4級審判の資格を取ったときに、「目標はワールドカップ」と決めてたんです。その目標に向かって3級、2級、1級、日本リーグ担当、1部担当、国際審判と上がっていって、だんだん目標に近くなっていくというのがわかりましたね。それはすごくやり甲斐があったし、楽しくもありました。

 

4級、3級は自分で試験を受けることができます。そして3級審判として活動している中で、地域サッカー協会が実績のある人物を2級に推薦して、そこで試験を受けます。だから他の資格と違って、自分が受けたいから受験するということはできないんですよ。

 

試験は基本的には審判を務めた試合の評価です。担当する試合によって難易度の差はあるのですが、難しい試合をうまく裁くことが出来たときは評価が高くなりますね。何にもないゲームだと、実はそれで評価を高めるのは難しいんですよ。何も起きない試合で審判が目立つのはよくない。何にもないのに審判だけがどんどん走っても、それは自分が目立ちたいだけになってしまいます。何かあったとき、それにどう対応できたかというのが大事なんです。

22歳、大学4年生の秋に2級審判員になったときから1級になるまでには6年かかりました。その当時は1級になるのに年齢制限があったんです。1級は35歳までしか受験できなかった。だから年齢の上の方から受験してもらおうという風潮がありましたね。自分としてはもっと早く上に、本当は24歳、25歳で1級になれれば、と思っていました。でも、今思えば2級で過ごした6年間というのは、その後の役に立ったと思います。今は若い人たちをどんどん1級に育てなければということに変わってきましたので、そういう風潮はすっかり無くなってしまいましたけど。

 

短い期間で考えると、うれしかったのは試合が終わったときに選手に感謝されたときでしょうか。特に負けたほうの選手から「ありがとう」と言っていただけたときは、「審判をやっていてよかった」と感じることが出来ましたね。

 

昔は審判の生活って大変でした。生活の保障がない世界でしたね。1993年、国際主審になったときは市役所に勤めていました。大学を卒業したときはシステムエンジニアになったのですが、それだと笛を吹く環境がなかなか整わなかった。それで職を変えたんです。

 

当時、有給休暇は年間20日で、1年間繰り越すことが出来ました。1993年の時点では2年分の40日残っていたのですが、海外で笛を吹くためにそのうちの35日を使っちゃったんです。繰り越せたのは5日だけ。そして1994年は広島アジア大会もあって、25日のうちの24日を使ってしまった。1995年は有給休暇が21日しかないから、「これは欠勤して笛を吹くしかない」と思っていました。すると、Jリーグの職員に採用してもらうことが出来たんです。それでやっと休暇を計算しないで審判活動が出来るようになりました。Jリーグが出来て選手はプロ化しましたが、プロフェッショナル・レフェリーが生まれたのは2002年(2008年まではスペシャル・レフェリーと呼ばれた)ですから、それまでみんないろんなやりくりがあったと思います。

 

現役の時は食事にも本当に気を付けました。バランスの良さを考えて。海外の試合に行くと、だいたい用意されている食事はブッフェなので、さらにバランスを考えて何でも食べましたよ。現役時代は肉が好きでしたね。引退してからは魚に変わってきましたけど。歳を取ってきて。キチンとした食事、毎日ちゃんと食べるというのは大事だと思っていました。家内は毎日、飽きないようにしてくれていたと思います。嫌いなものはなかったのですが、肉とか魚とかのバリエーションをつけてくれていました。現役当時も酒を飲むことはときどきありましたが、深酒はなかったですね。試合の前日はもちろん飲まなかったし。

 

それから試合前日の夜は炭水化物、パスタをたくさん食べるというのを決めていました。パスタをたくさん食べると、たくさん走れるという暗示になっていたと思います。家内はトマト系、ホワイトソース系、オリーブオイル系といろいろ作ってくれていました。

 

私はペペロンチーノが好きなんですよ。やっぱりニンニクはいいですね。あとはトマト系にもニンニク入れて鷹の爪入れてアラビアータにして。そうすると食欲が出るんです。特に夏は食べられなくなる時期がありましたけど、パスタだけは食べられました。週2回の試合の時は週に2回パスタの日があるのですが、「試合の前日はパスタ」というルールは決めていたので守っていました。ルーティーンですよ。

 

4人退場…20年以上経った今も忘れられない壮絶な試合

レフェリーの人生の中で一番辛かったのは……やっぱり担当する試合の割り当てが来ないときでしたね。

 

1995年4月16日、カタールで開催されたU-20ワールドユースで、オランダvsホンジュラスの笛を吹いたんです。そのときホンジュラスが4人退場になった。さらに5人目がケガをして、プレーヤーの数が規定を下回り、試合が途中でアバンドンゲーム(没収試合)になったんです。そのあと4月から9月まで国際試合の割り当てがなかったですね。9月に五輪予選がスタートしてシリアに行き、そこからまた割り当てが来るようになりました。

 

今思えば、自分のほうに非があった。もっとうまくやればああいうゲームにはならなかった。試合が終わった後はホンジュラスにラフなプレーが多くて、選手が悪いと思っていたんです。でも翌日反省会をやって、レフェリーアセッサーから「最初にちゃんとコントロールしていればああならなかったね」という言葉をもらいました。確かにそうでした。

 

あとで自分のレフェリングがまずいというのに気づけたのはよかったですね。それからは自分に原因があると主体的に考えられるようになった。あの1戦以降、試合がうまくいかなくても自分に原因を求めるようにしたんです。それができるようになった。うまくいかなかったときに相手のせいにすると同じことが繰り返されてしまう。でも自分側で振り返ることが出来たので、改善していけるようになったと思います。

 

ただ、1995年にしばらく試合の割り当てがなかったのはペナルティじゃなかったんですよ。いろいろと気を遣ってくれていたのだと思います。あの試合もアジアの審判委員長が映像を見てて、すぐFIFA(国際サッカー連盟)に「レフェリーは悪くない」というフォローをしてくれていたみたいでした。

 

割り当てが来ないのはそのときだけじゃないんです。海外の大会に行くと、1試合目の割り当てはあっても、2試合目がなかなか来ないんですよ。アジアカップもそうでしたし、ワールドカップも同じなんですが、1試合目は当たるんですが、2試合目はいつ来るかわからない。数試合分が発表されることもあれば、小出しに発表されることもあります。ワールドカップは小出しでしたね。それでもいつ笛を吹くかわからないので、ずっとトレーニングを積みます。

 

2試合目の割り当てが来ないといろいろ悩みますね。メンタル面が非常にやられるんです。「まだ来ない」「まだ割り当てがない」って。他のレフェリーに割り当てが来ると、余計に考え込んでしまう。だけど自分だけじゃどうしようもない。審判の組織の中の会議で決めるので、実力や大陸ごとの中立性などいろいろな部分が考慮されますから。ワールドカップだと初めてワールドカップを経験するレフェリーと2回目の人の扱いは違いますし。それからUEFA(ヨーロッパサッカー連盟)のレフェリーは信頼されています。私のころはヨーロッパ、南米と、アジア、アフリカはちょっと区別されていたと思いますね。今はアジアのレフェリーの評価が高いと思います。

 

アジアのレフェリーのレベルが上がったのは、日本サッカー協会審判委員長の小川佳実さんが2006年から9年間AFC(アジアサッカー連盟)で審判部長を務め、改革してきたからですね。システムを変えて審判をしっかり強化できるようになりましたし、指導する方法も変わったので、今のアジアのレフェリングの質が上がったのはその効果が大きいと思います。

 

国際審判になると日本では経験できないようなハイプレッシャーが経験できます。海外で高いプレッシャーの試合を経験すると、それは国内の試合でも生かされます。メンタル的な強さというのはレフェリーに求められるものです。たとえば私が笛を吹いた1997年のフランスワールドカップ予選、イランvsサウジアラビアは、テヘランのアザディスタジアムが12万人の観客で溢れました。本当は10万人収容のスタジアムに、12万人入ったと言ってましたね。そりゃもうハイプレッシャーもいいとこでしたよ(笑)。先日、東北のB級コーチ講習会に行ったら、日本人と結婚したイラン人の方がいて、当日スタジアムにいらしたそうです。試合の内容までよく憶えていらっしゃって、まさかこうしてお会いすることになるとはビックリでしたね。

 

f:id:g-gourmedia:20161219190557j:plain

 

大雨で試合を中止…サポーターの姿に心を痛めたことも

Jリーグのゲームだと、一番憶えているのは2009年9月12日、鹿島vs川崎ですかね。大雨でピッチの状態が悪くなり後半29分で中止にしました。10月7日の後半29分の状態からスタートした再試合は、ノーガードで攻め合うすごい試合でした。

 

中止したことで非難もありました。今まで日本では雨を理由にした中止はほぼありませんでしたから。それに日本だと雨でピッチに大きな水溜りができていても試合をちゃんとやらなければいけない、スケジュールをこなさなければいけないという力が強かったと思います。けれど、海外だと選手の安全を考えたり、選手の力が出せないコンディションのピッチではプレーするべきではないという考えがあるんです。

 

まして、あの両チームは優勝を狙えるチームでした。実力が出せないコンディションの中で結果を出しちゃいけないというのも心の片隅にありました。いいピッチでプレーさせてあげたかったし、雨という理由で試合を止めたという実績も作らなければという思いもありました。

 

でも非常に心が痛かったのはサポーターのみなさんの姿でしたね。雨の中でとても熱心に応援してらっしゃいましたし。それはわかっていたので辛かったですね。

 

ただ、あの試合を中止にしたことで、その後、雨で試合を中止にした時にどうするかという規定や、水はけが良いことというスタジアム規定もできたので、悔いはありません。審判関係者はすぐ理解してくれました。メディアでも、海外系の方はすぐ理解してくれた人もいましたから。自分だけの考えというより、海外を見てきたベースがあったので、間違ったことではないと思っていました。それにあまり報道などで攻撃されたという気持ちはなかったですよ。私はそれなりに経験もあったので。若い審判だったら辛かったかもしれません。

 

そして度々話題になる「誤審」は、日本の場合はわざとやっているわけではないんです。海外でレフェリーに対して怒るのは、八百長しているんじゃないかという気持ちがあるからなんです。だからサポーターが本気で怒る。そして八百長の可能性もあるかもしれない。

 

でも日本の場合は八百長なんて120パーセントないと言えます。どちらかに荷担すると言うことはありません。だから自分のチームにとって不利な判定をされても、それはわざとやっているのではなくて、正しく判定しようとしたけれど間違ってしまったということなんですよね。

 

同じ試合で相手チームも不利に判定されたと思っていることはあって、それは自分のチームにとって利益になっているはずなんです。でも人間は、自分の不利益になったことだけが記憶に残りやすい。損したことばかりがその審判の印象になりますが、それで得していることもあるんですよ。審判に「ヘタクソ」と言う人がいますが、「ヘタクソ」だから得したこともあるんですけどね。プラスの評価をもらうのは難しいですね。

 

審判に対して「今のはファウルだろう!」と言う前に考えてほしいことがあります。海外の超一流の選手が相手だと、日本の選手はファウルをさせてもらえなかったんです。バルセロナが来日したとき、ロナウジーニョ選手を日本の選手がトリッピング(足を引っ掛けること)しようとしたのに、その伸びてきた足を自分の足でブロックしてドリブルを続けたんです。倒せないし、反則もさせてもらえない。超一流の選手は引っかけられたらプレーできないと、そうさせないような技も持っていました。日本人の選手にもそれくらい逞しくなってほしいと思っていました。トリップしても倒されないような選手に出て来てほしいと願っています。

 

 

最後の年は体がボロボロ…「ジャスティス」と呼ばれてうれしかった

私に「ジャスティス」というあだ名がついていたのは知っていました。名前をそのまま英語にしてもらって。そう呼ばれていると聞いたときはうれしかったですよ。あだ名がついている審判はいなかったですし。憶えてもらったということですよね。

 

それまで辞めたいと思ったことはなかったのですが、2010年で引退することにしました。その年はケガが多かったんですよ。もう体がボロボロでしたね。ふくらはぎをずっと痛めていて、前半終わってホッとして、後半終わって安堵するという状態だったので、これじゃけないと思いました。これ以上続けても満足なレフェリングは……そこそこはできたかもしれないのですが、それまでのパフォーマンスは出せないと感じてました。だから辞めたのは間違いではなかったと思います。

 

審判に引退セレモニーはありません。最後に笛を吹いたのは2010年12月4日、横浜FMvs大宮です。試合後のピッチでは横浜FMの最終節後のセレモニーなどが行われていました。そのセレモニーを横目にピッチから下に降りていくと、他の審判関係者や家族が来ていました。それが引退セレモニーみたいなものです。審判に引退セレモニーは……今後はやっていいと思いますが、私たちの時はあれでよかったんですよ。あくまでも主役は選手ですし、我々は黒子ですからね。

 

今は地元の国分寺の子供たちの大会で笛を吹いています。年に3回大会があって、そこでは1試合ずつスケジュールを合わせて吹くようにしているんですよ。引退したときに1級審判員の資格は返上したので、今は3級の資格を取り直して、それで笛を吹いています。資格がないと笛は吹けませんから。だから今は3級審判員です。

 

今の審判に一番言いたいことは……。審判は週末の休みがいつもないし、毎日トレーニングをするために家を空けるので、家族の協力がとても大切なんです。だから家族サービスができるときはちゃんとやれよ、と言っておきたいですね。家族が協力してくれることで自分が試合に出る環境が作れる。自分だけの思いで審判をやっていたら家族が悲しい思いをすると伝えたいですね。

 

私は結婚する前、家内に自分は審判をやっていて状況はこうだからとちゃんと説明していたので、後で家内は何も言えなかったですけど(笑)。でも、自分がここまでやってこられたのは家族のおかげです。本当に感謝しています。

 

現役を終えた後もパスタは食べていますが、現役時代ほど量は食べられなくなりました。私が現役を終えたので、家内も料理を気軽に作れるようになったと思います。あとは出てくる食事に酒の肴が増えましたね。

 

 

岡田正義 プロフィール

f:id:g-gourmedia:20161219192814j:plain大学在学中より審判員に転向し、1993年には国際主審に登録される。

1998年にはW杯フランス大会イングランドvsチュニジアで主審を務め、2002年には日本でプロフェッショナルレフェリー第1号となる。

2010年に現役を引退した。東京都出身、1958年生まれ。

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

f:id:g-gourmedia:20150729190216j:plain

佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本サッカー協会公認C級コーチライセンス保有、日本蹴球合同会社代表。

ブログ:http://morimasafumi.blog.jp/

 
                           
ページ上部へ戻る