URLを必須としますが、本の紹介にご利用ください。ただし、本の羅列はご遠慮ください。あくまでも、回答者の意見を主体としてください。また、小説は排除しませんが、小説偏重の論旨は避けていただきたいと思います。どうかよろしくお願いします。
http://www4.ocn.ne.jp/~wander-k/profile/tj_book.htm
↑私のサイトではありません。
私にとって「よい本」とは、内容、もしくは一場面、台詞の一つが、心に残る本です。それは、感動でもいいし、恐怖でもいいし、笑いでもいいと思います。
他人に、「○○って本、知ってる?」と聞かれた時に、すんなりと「あれは、どこそこがおもしろかったよー。」と言えるくらい、印象に残る本があれば、それはその人にとって、よい本だと思います。
私にとっても、いくつかそういう本があります。
「こういう場面で、こんな台詞が出るんだー。」という意外さをもったものもあるし、「そうだよね、こういうしかないよね。」と共感を覚えたものもあるし、いろいろです。
ジャンルに一貫性はなくていいと思います。その時々で、感じ方も変わるのだから、読んだその時に、強く印象に残った本が、よい本だと思います。
やはり、何度読んでもおもしろいと感じる本が良い本だと思います。ほとんどの本は一回読めばもういいやって思って二度と読まないとおもうけど、良い本は結末がわかっていても、また読みたくなります。あと結末が納得できるかどうかですね。最後が、なんなんだよこれみたいな終わり方だと、いままでの時間とお金を返してくれとおもっちゃいます。
これも当たってますね。でも良い本に出会うにはとにかく読書の範囲を広げて読み進むしかなく、その過程でなんだこりゃみたいな経験もするでしょうね、いやだけど避けて通れませんねお互い。
私は自分で探すのが性にあっているようで、書評とかにはひねくれた反応を示します。
私には「アルジャーノンに花束を」について昔あらすじを紹介している文章を読み、感激して、これは良い書物だと思い・・・・・いつか読もうと思って未だに読んでない・・・・・という情けないエピソードがあります。
ところで、バガボンドを紹介してくださいましたが、コミックの世界は
>なんなんだよこれみたいな終わり方
が多い世界ですね。要するに人気がないと連載打ち切られるので、小説家に比べ過酷な環境ですね。バガボンドが蒼天航路のように結末まできっちり書き上げられるといいですね。
私の「よい本」の定義は、
読んだ後「どんな本だった?」と聞かれときに、
即答できないような「記憶にあまり残らない本」。
すらすらあらすじを語れたり「この場面が印象的だった」などと
語れる本は、所詮人間の理性で処理できる本。
本当によい本は感性に訴えるので、あまり記憶に残っていないことの方が多い。
おすすめは、
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163242104/qid=11501723...
読んで泣いたが、ほとんど記憶に残っていない。
なるほど、理性より感性重視ということですね。
私の場合記憶力には自信がないので、別な意味ですが、「すらすらあらすじを語れ」ないことも多々あります。(ああ恥ずかしい!)
ただ、本には科学系(社会科学も含め)の論理の展開を主軸とした本もあります。これらはどう取り扱ったらよろしいのでしょうか?
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/female_monarch/?1150168...ダミーです。
私の考える良い本とはその読む人が持っている考えとはまた別の考えや知恵を授けてくれたり、新しい発見、感動を与えてくれる本です。
これこそ読む喜びですね。
人生の中において逆境を感じた際にその中の一節が脳裏に浮かび我を励ましてくれるモノ。
http://www.amazon.co.jp/gp/browse.html/503-2040143-3191924?node=...
うわーこれ読みましたよ。
このおじさん昼食を供にするだけで3000万でしたっけ。
でもたとえは悪いですが、疲れたときにリポビタンもいいのですが、平常時にきちんと精神を鍛えるトレーニングもあるかなぁと思います。
良書三原則 ~ 読んだら捨てよ ~
1.いつでも、どこでも、だれでも読める。
虚構は、事実よりもつまらない。
http://d.hatena.ne.jp/adlib/20020804
── 松本 清張《昭和史発掘(全十三巻)19780725-19790125 文春文庫》
2.お風呂で、読み捨てることができる。
虚構は真実の母であり、事実は虚構の父である。
── 《Gesprache mit Goethe in den letzten Jahren seines Lebens,1836-1848》
Eckermann,J.P./山下 肇・訳《ゲーテとの対話(全三巻)1968-1969 岩波文庫》
3.反復せず、ひたすら簡潔に語られる。
友を選ばば史記を読み、六分の論理、四分の情。
~ 与謝野 鉄幹《人を恋ふる歌 1897 三高寮歌》のパロディ ~
http://www.guoxue.com/shibu/24shi/shiji/sjml.htm
── 司馬遷《史記(全百三十巻)1975-1991 岩波文庫》
うーん 一つ一つのお説はそれなりにごもっともなんですが、表題と1-3項はどのような有機的な関連にあるのでしょうか?
>虚構は、事実よりもつまらない
と
>虚構は真実の母であり、事実は虚構の父である
はとくに矛盾しているような・・・・
私は「お風呂で、読み捨てることができる」本は一冊たりとありませんので、というか風呂に本は持ち込みませんので、何かの寓意をこめられているのかも知れませんが、理解できません。
「読んだら捨てよ」も同意できません。これも寓意がこめられているのでしょうか。
司馬遷についてはとても簡潔とはいえないような気がします。考証の怪しい風説を沢山取り込んで文章のボリュームを増やしていますし、さらに潤色したりしています。司馬遷という人はそういう人です。まあ、文章上反復はしてないかもしれませんが、執筆パターンは反復していますね。
ただ司馬遷の名誉のために付け加えますと、考証の怪しい風説にも飛びつくし、潤色というか創作してしまう部分もあるのですが、それはあるエピソードや人物の輪郭を明瞭にするために使われており、荒唐無稽な話を創作しているわけではないですね。
私の考える良い本は、世代を越えて長く読み継がれていく本。
たとえば宮沢賢治の一連の作品なんかは、
おそらくほとんどの世代で一定の読者数を確保していると思いますし、
子供の頃に一回読んで、大人になってからまた読んでみたくなる時がある。
そんな二重の意味で、世代を超えて長く読み継がれていく作品かなあ、
と思います。
TomCatさん、私に宮沢賢治を出すのは禁じ手ですヨ。
もう、泣けちゃいますから。
高校の時、全集を読んでいます。ますむらひろしがコミック化したものも全部持っています。映像化されたものも大半見ているはずです。私はグスコーブドリの伝記が好きです。賢治の妹の敏子さんに対する思いが反映されていてとても魂をゆすぶられます。
さて、あらたな知見が加わりました。
「世代を越えて長く読み継がれていく本」
私が考える良い本というのは、まず第一条件として、読み始めてすんなりとその作品の世界に入り込めるものです。
それは作品によって違うのですが、雰囲気だったり、背景や小道具の詳細な描写だったり、さりげないながらもきっちり書かれた感情表現だったりします。
そして夢中になって読み耽った後、しばらく作品世界から意識が戻って来られないような状態になったことがありますが、そういう体験をさせてくれるのが、本当に良い本だと思います。
例えば司馬遼太郎が人気あるのは、その時代の人物達が活躍する様を、まるで見て聞いてきたように同じ視線で淡々と書かれている作品が多いからだと思います。
※代表作のみ挙げます
逆に良くない本というのは、それらが等閑になっていて、間違いに突っ込みたくなったり、雰囲気が合わずに冷めてしまうような本ですね。
なるほど。
すいません司馬遼太郎出すのも私にとって禁じ手なんですヨ。
司馬さんといえば、新作を始める前の資料集めで、神田の古書店街の主だった店がそれぞれトラックに古書を積んで大阪の司馬さんの家を訪れたそうですね。超膨大な古書の中から取捨選択しても、相当な量の古書が買い取られたようです。それを丹念に読み込むことから新作の構想を練られていたようですね。また、自分の不得手な分野(たとえば科学関連)については、あえて子供向けの解説書を読み、学習されていたようです。また、作品で取り上げた土地にも必要と感じればどんどん行ったようです。(もっとも現地が変わり果てている場合はいくのを忌諱する場合もあったようですが)
司馬さんの家に隣接して現在資料館が建てられています。私もいきましたが、資料館より家のほうが気になりました。資料館に行くには司馬家の門を入って、玄関の前で左に曲がり、書斎の前の庭を通っていくようになっています。書斎は生前のままにしてあり、こちらのほうがよほど感動的でした。(神戸に1年住み甲子園には行かなかったのに2倍以上の時間のかかる東大阪の司馬さんの家には行った私です)
>そして夢中になって読み耽った後、しばらく作品世界から意識が
>戻って来られないような状態になったことがありますが、
>そういう体験をさせてくれるのが、本当に良い本だと思います。
至福の体験ですね。本を読む愉しみがまたひとつ定義されました。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/250-28019...
既に素晴らしい回答が出てますので屋上回を重ねる愚を犯すようですが・・・「聖書」です。
欧米人と会話(私は外国語が苦手ですが)、聖書・ギリシャ・ローマ神話の1節を引用する(それを外国語でならさらに効果的)だけで実際の私の人格より随分と高く評価された経験がありますので、後の実生活に深みと高みをもたらしてくれる本を「良い本」として回答したいと思います。
なるほど。出ましたね大物が。
しかしこの問いは具体的な作品に特化することを指向するものではないので、できれば何故聖書・ギリシャ・ローマ神話なのかをもう少し噛み砕いて、皆さんにわかりやすく説明していただければと思います。(社交上の効用ではなくて)
私のリクエストとしては、お手数ですがもう一度投稿していただいてその辺をご教示いただければ幸いです。
>後の実生活に深みと高みをもたらしてくれる本
の実態を明瞭にしたいのです。
かくいう私も聖書・ギリシャ・ローマ神話には並々ならぬ興味を持っています。それが社交上の効用としてのみ紹介されるのはとてもさびしい気持ちです。できれば再論をお願いいたします。
お疲れ様です。
一般的な「よい本」を語ることはできませんが、回答者の意見主体で良いということですので参加いたします。
私にとって「よい本」は、私が欲した時に求めたもの、またそれ以上のものを与えてくれた本、もしくはいい意味でその求めを裏切ってくれた本です。
例えば知的好奇心を満たすために手に取った本が、それを満たしてくれれば、とりあえずは私にとって「よい本」になります。
逆に一般的にどんなに良いと言われていても、その時の自分が求めていない内容ならば「よい本」ではなくなってしまいます。
また、正直なところ根源的な意味での「悪書」というものはないと思っています。
本とは情報伝達方法の一つであって、それを活用する個人の情報リテラシーや環境や時代、文化などによって良書にも悪書にもなると思います。
そういったことから、私の本の良し悪しの基準は「今の自分を満たすかどうか」ということなのだと思います。
ちなみにその判断をいつ下すのかということも重要な気がします。
私は基本的に読了後にならいつでも判断できるとは思いますが、後々になって理解できたり、再読して満足したりする場合は、理解・満足できた段階でその本は私とって「よい本」に昇格します。
そうしたことを念頭に、私は「よい本」と出会えるべく、自分の読書能力を上げたいなぁと思う日々です。
↓は私の「よい本」の一つです。
http://www.fukkan.com/vote.php3?no=3234
http://www.kanshin.com/keyword/777965
(現在復刊交渉中なんですけどね…)
やや、また新たな切り口が登場しましたね。
論調もシンクロしやすいですね。
ここまで皆さんの貴重な回答を拝聴し、おそらく決定的な「良い本」論は形成されないだろうという印象を持っています。(実は最初からそう思っておりました)
私が6番の決め付けるような回答に例外的に強く反発しているのはその影響でもあります。
とはいえ、今回の「お題」で愉しい意見交換ができていることは、今回の「お題」の成果かなぁと思います。
できれば、この、本の大海に乗り出す羅針盤になるような知見が、さらに湧き出してくることを望みます。
「マルセランとルネ」ですか面白そうですね、私も復刊に1票入れておきましたよマダムrikuzai様!
私の経験談ですが。。
何年も前のことですが、私は大学院(経済系)の試験勉強のために、せっせと毎日のように図書館に通い専門書を読み漁っていました。専門書の中には自分の手には負えないような難解(文系にとっては手痛い数学の方程式がぎっしり)な本もありましたが、当時の私はそれでも何とかがんばって理解しようと、(鼻息を荒くして)踏ん張っていました。
そんなある日、それら本の中でも特に数学びっちりの本の作者(当時T大の教授)に偶然出会うことができ、「先生の本はとても難解で、大変です。」と恐る恐るいったところ、その教授は「では、君にとって既に理解されていることが書かれている本を読むのに何の価値があるのかな?僕の本が解からないといったが、それでも努力して理解しようと試みることに価値があるんだと思うよ。」とおっしゃられました。それを聞いた私は、その場で”その通りだ!”納得させられ、自分の拙さを感じていました。
しかし、事態は一変します。その後、自分が在学している大学教授にこの話を伝え、もっと勉強がしなくてはいけないのだと訴えると、教授は私にこういいました。
「ああ、あの先生の本ね。私も読んだけど全然解からないよ。」
「ええ?(驚)先生でも解からないんですか?」
「うん。というか、解かりにくいよ。あれは。いい本ではないね。」
「はぁ。(まさか、自己弁護?)」
「いいかい、○○君(私の名前)、経済学でい良い本っていうのはね、難しい現象をシンプルに説明しているもののことをいうんだ。専門書って確かに読み手にある程度のレベルを要求するけど、数学はあくまで道具であって必要以上に複雑にするためにあるわけではないのですよ。学者の中にはあえて難解な数学を使って複雑にして、見栄えをよくしている人もいるけど、それはあまり感心しないことですよ。その先生が最後にいったことは、一理あるけども、僕は賛成しないなぁ。うん。僕ら(たぶん学者のこと)が一番力を注ぐのは、答えを導くことであって、すでにわかっていることを理解させるのに高いハードルかけて、それで喜ぶ学生はいても、やっぱり納得はできないよ。そういうことを君にも理解して欲しいと思ってる。あ、話変わるけど明日授業の時間変更だからみんなにいっといて。それじゃね。」
「わかりました。さよなら。」
そういって、私は教授の部屋から出て行きました。いろいろ考えましたが、教授は自己弁護であんなことを言っているのではなく、本心なんだなと思いました。最低限、研究に必要なスキルは無くてはならず、そのための勉強は必要だという点で、あのT大の教授が私に言った言葉は当たっていると思いましたが、何のために研究を行うのかといった、インセンティブや目的という面では自分の大学の先生に共感しました。(T大の教授にも学者としてのきちんとした姿勢(私が考えている以上のもの)はあると思うのですが、私にとってはきちんと説明してくれた自分の大学の先生に共感を覚えました。)後日談ですが、その後、私はその教授のもとで自分の大学院に入学し、卒業しました。
長い話をして申し訳ありませんが、私のいた大学の教授が言った言葉をお借りすると、良い本とは、多くの人にわかりやすい言葉で難解なテーマ(学問でも、小説でも)を取り扱っていることではないかと考察いたします。
ということで、私のお勧めするものはこんなものです。
J.R.Hicks「価値と資本」(上・下)http://d.hatena.ne.jp/asin/4003414616
*専門書ですが、ゆっくり読めば、経済学が垣間見れます。
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」
http://d.hatena.ne.jp/asin/4102010106
*とても長い長い小説です。人間について書いてあります。
貴重な体験談ありがとうございます。科学系の視点が議論に欠けていたと思っていたので、待ってましたという感じですね。
ただ、私も苦手ですが、数学というものは純粋論理言語というべきものですから、数学は権威を高める飾りではなく、論理そのものであるべきです。この辺が社会科学の自然科学との違いなのでしょうか?なにか歯がゆいものを感じます。
もちろん一般人向けの書物では自然科学でもそんなに数式を使わずに図表を多用する努力がされていますね。日経サイエンスみたいにね。でも研究者用の「論文」では理論としての数式もしくは実験による数値こそ説得力があります。
社会科学では数式の使用について一定のコンセンサスが得られていないのではないでしょうか。それは科学の発展にとって障害とはならないでしょうか。杞憂であれば良いのですが・・・・・
私にとって「よい本」とは、自然に泣ける本です。
読んで、自然になにかがわき上がってくる本が、私にとっては「よい本」だと思います。
例えば、
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4167646013/503-9926201-074873...
でも、どの人にとっても「よい本」と言えるわけではないと思います。ひとそれぞれに、それぞれにとっての「よい本」があるはずです。
うーむ またひとつ切り口が加わりました
「自然に泣ける本」
なんか読書傾向にもシンクロしそうな観点ですね。
端的に言って、この定義は本質を突いています。
再読することによりより深く理解できたと感じることはこの上ない愉しみです。
が、ぶ厚い本はさておき、一回読んでだだけでも内容をよく理解できる本はあるように思います。本は厚いだけがとりえかと、考えさせられてしまいます。また本にも一期一会はあるように思います。再読しないから良い本ではないという定義は好ましくありません。
読むたびに違った違った感想を得られるものだと思います。
陳腐なたとえで申し訳ないですが、それは鏡のようなもので現在の自分によって変わってくるものなんだと思います。逆に筆者が書いた絵をただ見せ付けられるようなものは、一見綺麗に見えても自分に何の影響も無く真の意味での読書とは言えないのではないでしょうか。
urlはダミーですが、ここまで書いていてなぜか星の王子様を思い出しました。
なるほど
「読むたびに違った違った感想を得られるもの」というのもひとつの切り口ですね。
少し子供っぽい本ですが読み始めるとかなり読むスピードが上がって、あっとゆうまに終わってしまう本です。
内容は、魔法のことが大半です。かなり面白いです。
最初にお願いしましたように、良い本とはどのような本かという、回答者のお考えを伺いたいのであり、本の紹介をお願いしているのではないのです。
とはいえ面白そうな本ですね。
私がお勧めする「よい本」とは絵本です。
子供の頃に読んだただの絵本なのですが、大人になり、いろんな本を山のように読んだ後、ハイビジョンやwebも当然になった後、
ふと見ると、今まで読んだどの本よりも、ずっとハッとさせられる深い内容を感じさせられます。
絵本は、それぞれがいつか子供を持っても、「お父さんやお母さんが子供の頃に読んだ本」として、子供の最初の愛読書になります。
絵本は長持ちします。
私がお勧めする「よい本」とは、絵本です。それぞれの方の最初の愛読書だからです。
最初にお願いしましたように、良い本とはどのような本かという、回答者のお考えを伺いたいのであり、特定の本や特定のジャンルの紹介をお願いしているのではないのです。「ジャンルを超えた普遍的な考えや思いをご披露願います。」と最初にお願いしているはずですが・・・・
とはいえ、「大人の絵本」とか「大人の童話」という言葉がありますし、お説を独断で整理すると、シンプルでありながら「ハッとさせられる深い内容を感じさせられ」るものがaounさんにとって良い本なのでしょうね。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480082581/qid=11501995...
1.個人の価値観の基準となる思想を提供する書籍、この一言に尽きますね。
2.よって基本的には哲学書しかありえないでしょう。
3.実存主義の基本を確立し、死にいたる病で弁証法の完成系ともいえる質的弁証法を説き、世に広めたキルケゴールの思想は、私の価値観判断基準の根底に深く根付いています。
4.このような各子たる思想を確立した書籍ですね。
ふーん 論理的にジャンルを限定するというお考えですね。しかし、質問の趣旨は「ジャンルを超えた普遍的な考えや思いをご披露願います。」ということであります。
ところで「各子」は「確固」ですか?
1項と2項の間に飛躍がありすぎます。1項を膨らませれば面白い展開になったように思います。
「平家にあらずんば人にあらず」ではありませんが哲学書でなければ良書にあらずといわれると困惑してしまいます。いったい哲学書だけ読んでいれば哲学書が書けるというような完璧な自己完結した世界なのでしょうかね哲学というものは。
もしキルケゴールに良書とは何かと聞いたらなんと答えるでしょうか。とても興味深いですね。
本について語れるほど本を読いるわけではありませんが、質問者さんがお優しい方なので、参加させていただきます。
私にとって良い本とは、探してもないのに自分の前にタイミングよく現れてくれる本です。
たまたま手に取った本が、そのときの自分の悩みを解決に導いてくれたりした経験ってあると思います。
ビジネス系の本を手にとったはずなのに、そのとき悩んでいた家族の悩みを解決する糸口が書かれていたり。何か新しいことをしようとしていたところ、たまたま入った定食屋に、週刊誌にまぎれてそのことについて書かれた本が置いてあったとか(定食屋には似合わない本なのに)。
そのときの自分の心理状態にドンピシャもしくはそれ以上に嵌まる本、それも予想もしないところから現れてくる、これが私にとって良い本、というより運命の本かな。
何冊か紹介します。
仕事に役立てば、と思って買ったつもりだったのに、その後、作者の本を読み漁る羽目に・・・(買った当時は河合さんのことは全く知りませんでした)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062721287/qid=11501997...
とにかくすごい人です
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062734249/qid=11501999...
回答ありがとうございます。
7番の回答者の言うタイミングと共通しますね。
河合さんですかまた大物が出てきましたね。
すんません。先ほど、12番目の解答者として自分の体験をはなしたものです。質問と逸脱してしますのですが、社会科学では、社会現象(個人の消費活動、株価変動等)をモデル化し、数学の論理性を追求したものがあります。経済学は対象が人間の経済行動であり、それは不完全なことも多い(自然科学と異なり実験ができない等)のですが、数学は社会科学の中でも立派に存在し、確実にその機能を発揮しております(特にダイナミクスの分野では、オイラーやハミルトンなど数学無しには解けない問題が存在します。)。また、最新の経済学の研究者には理数系出身者も多く存在しています。先ほどの私の話で誤解を生んでしまいました。どうも、失礼いたしました。
また、学術系な本を紹介してしまいますが、これも長年愛されているいい本だと思います。
高木貞治「代数学講義」
フォローありがとうございます。安心しました。
その時々で気分や必要などが絡み合って読みたい本が変わります。良い本とは、読みたい本であり、更に充分条件として読んだ後満足できた本です。以前読んで良かった本でも今は違うかもしれません。ただ読みたい本を決めるとき、以前の記憶が参考になります。最近は内容の重い本は敬遠しています。時間に余裕が出てくると、くそ難しい本にチャレンジしたくなります。まあ基本的にタレント本などはパスしますが。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4094020012/250-8473407-824426...
最近読んだ中で良かったのはこれでした。これは重いのか軽いのか、どうでしょう。
miharaseihyouさん先日は大変お世話になりました。
>良い本とは、読みたい本であり、更に充分条件として読んだ後満足できた本です
なるほど シンプルに定義していただきました
井沢さんの「逆説の日本史」については、彼の基本的な主張には共感するものがありますが、ちょっとくどいのと、彼の持ち出す「例え話」が時空を縦横無尽に駆け巡るのがどうもなじめません。小説だと思って読むとちょうどいいのかも知れませんね。解説で高橋さん(井沢さんの畏友だそうです)も、まるで小説みたいな誉め方してました。・・・・ということでなんだかんだ言いながら私も読んでるわけですが・・・・著者は重い話を一生懸命読みやすく書こうという姿勢のようです。その意味では重いとも軽いとも、読み手の受け取り方で変わるような気がします。
それにしても宮内省管理陵墓の学術調査をすれば確実に古代史が書き換わるのですがねぇ。
良い本は、結局人それぞれではないでしょうか。
私は、私に何らかの気持ち、もしくは良い知識を与えてくれた本を「良い本」だと思っています。
本棚にとっておきたい本、っていうのかな。
まぁ、「大した本じゃないなー」と思っていたら、
授業で扱ってその本の奥深さに気づいた、なんて事もあるので自分の観点だけじゃアテにならない事もあるのですが…。
物語だけじゃなくって、(私も、宮沢賢治は好きです!)
物語以外の本でも、実用書や哲学や簡単な絵本でも、
自分が何らかの思いを抱いたり考えたりシンプルに本を読んだ喜びを得ることができたら、
それは私にとっての「良書」です。
そうですね、それぞれなんですが、それぞれの意見を聞かせていただいてとても愉しく思っております。ありがとうございます。
予期もしていなかった人が読み始めてしまい、あまりにも面白くて、ぶっとうしで読んでしまい、最後には熱狂的なファンになってしまう本ではないでしょうか。
■高い城の男 フィリップ・k・ディック
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4150105685/
昔、そんなにSFが好きでなかったわたしが、
「もし友人をSFファンにしたかったら、『高い城の男』か『たった一つの冴えたやり方』を読ませろ」
というSFファンの逸話に興味を持って読み始めたら、あっというまにSFにはまり、特にディックは70冊ぐらいはある邦訳を絶版まで含めて捜し歩く羽目になりました。
■ヘロドトス 歴史
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003340515/
ブルタークを読むための基礎歴史書として選んだつもりが、実はエジプトやペルシャの神話や言い伝え、風俗、気候などを地理書に近い本だと知ったのですが後の祭り。あまりにも面白くて、十何時かんぶっ続けで読んだ記憶があります。
うわぁエネルギー高いですね。
でも確かに「ハマル」という現象は止めようがないですね。
なるほど、また新たな定義が現れました。
自分の人生をどんなカタチや方向であれ、前進させる本は良い本。
深く考える、笑う、悲しむ、とりこになる、興味をもつ、揺さぶる、快感になる。
http://www.hatena.ne.jp/(ダミーです)
回答ありがとうございます。
なるほど
7番の回答とも共鳴するような感じですね。
より再利用されている本は、よい本といえると思います。
再利用とは、本や会話などで引用、転載されることを
イメージしております。
より多くの人に影響を与えているという意味で。
この場合、世界史上No1は聖書ということになるでしょうか。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/search-handle-form/250-86432...
おや、明快な定義が飛び出してきましたね。
科学論文の場合どれだけ引用されたかが価値評価の大きな指標となっていますしね。
No1は聖書であることは揺るがないでしょうが、グローバル化が進展しているとはいえ、一体化した地球文明が成立しているわけではないので、聖書に無関心な人々もいるわけで、No1といっても所詮西欧文明の枠内のものです。この際ベスト100くらいの統計が欲しいところですね。(無理だろうなぁ)
http://www.transview.co.jp/pr/02.htm#%90X%89%AA%90%B3%94%8E
「人がそれを知りたいために考えるのは、いつだって、現象すなわち人生の本質を知りたいために決まっている。「本質」と言って難しければ、「本当のこと」と言えば間違いようがない。人が考えるのは、本当のことを知りたいためだ。本当のこととウソのことが一緒くたになってうごめいているこの世間、この人生において、本当のこと、変わらないことだけを見抜き、捉え、力強く生きてゆくためだ。この世の誰がいったいウソのことを知りたいために考えたりするものだろうか。」
「本当のこと」の存在を信じて、求めつづけ、あがきつづける僕らに、天啓といわずとも小さなヒントでも与えてくれるようなすべての本、かな、と。いかがでしょう。みなさんのご回答もとっても興味深くって、よいご質問をありがとうございますです。とお伝えしたかっただけやもしれませんが。
いえいえ私自身が一番愉しませていただいています。
「小さなヒント」が大きな飛躍を起こすこともあると思います。
引用文を含め、紹介していただいたURLも興味深いですね。
ありがとうございます。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4022596589/250-2801943-131621...
再度回答を許されたので調子に乗って試みてみます。
西欧文明の基本はギリシャ・ローマ文明とキリスト教であることは論を待たないところですが(こういう決め付けはお嫌いでしたっけ?)、やはりこれらを押さえた上で話をしなければより深い(高い)相互理解が得られないと感じて前回、聖書と両神話を取り上げました。単に社交場の技巧として受け取られたとしたら私の言葉(舌)足らずでした。
あなたが外国の方と話をされるとき、日本の歴史や仏教・儒教などに理解を示すなら親近感を抱きませんか?
それと同様相手の文化への共感を持つことが相互理解の役に立つと思うので候補にあげました。
以前相手の名前がエマニュエルと名乗ったので、Oh,which means GOD with us ? と軽く言ったら相手は急に親しみを込めて対応してくれるようになりました。
回答を催促してしまいお手数をかけました。
>西欧文明の基本はギリシャ・ローマ文明とキリスト教であることは論を待たないところですが
この点については同意いたします
願わくばnischiura2006さんなりの聖書や両神話に対するお考えをもっと掘り下げて聞きたかったかなぁと思います。
私のリクエストの意図もそこにあったのですが言葉足らずでうまくお伝えできなかったようです。
なにはともあれご回答ありがとうございます。
あなたのリクエストは伝わってましたが、私の言語能力が及ばなかっただけであなたの「言葉足らず」ではありませんでしたよ。
http://www.fujiwara-shoten.co.jp/book/book428.htm
↑これはあまり意味がありません。話しが拡散してしまったので次の2点に収束したいと思います。
①よい本とは
②聖書や両神話について私なりの考え
①について
既にキラ星の如く素晴らしい回答が出てる上に回答するのもかなり勇気が要ります。よい本とは「意図しなくてもその1節がすらすらと口をついて出てくる」ような本です。10代に冒頭・掉尾にかぎらずその作品の中の1節が何かの拍子に思わず出てしまうような本に出合えたことはとても幸せなことだと思っています。
②については、新約聖書に話を限定します。
コンスタンティヌス帝の意図を汲んだ編纂が透けて見え、正確な歴史とは到底言えません。
前王朝を武力で倒した現王朝が「正史」を叙述する中国史を見るまでも無く、歴史書は史料の収集・編纂にかなりのバイアスがかかっており、史実としてではなくそこに何を見るかと言う点でヨーロッパ人の深層心理を垣間見る一級の史料だと考えています。
はてなに回答して時に不快なコメントを頂戴することもあるのに今回のような楽しいサロンに招待いただきありがとうございます。
本当にたびたびコメントをいただきありがとうございます。
>「意図しなくてもその1節がすらすらと口をついて出てくる」ような本
うわぁこれも素敵な切り口ですね
聖書についてはなるほど現行版の編集には当時の政治的意図がかかわってくるのでしょうね。キリスト教のなかの教義争いも絡むのでしょうかね。
ところで私は不勉強で、エマニュエルという名前がヘブライ起源とは知りませんでした。「神はわれらと共にあり」という意味なのだそうですね。それがキリスト教ではキリストそのものを指す言葉になるということで大変勉強になりました。名前の意味の変化に三位一体説がかかわっているような印象ですね。
専門書を読む機会が多い自分にとって、良書を探すときには以下の点を考慮しています。
この選び方は自分の勘がそう言っているのであって、どうしてこのような基準で選ぶのか理由が分からない方は、この選び方はしてはいけません。
・Amazon.co.jpのカスタマーレビュー数が多く、評価が高い(具体的にはカスタマーレビュー数が4以上で、評価が4.5以上の本など。高ければなおさら良い)
・翻訳が下手でないか(Amazon.co.jpのカスタマーレビューを見ると翻訳が下手な場合はそのことに触れられる文がよくある)
(例)
・生き残りのディーリング決定版―相場読本シリーズ<10>矢口 新
カスタマーレビュー数:25 評価ほぼ5
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4939103323
・バーンスタインのデイトレード実践
カスタマーレビュー数:6 評価4.5以上
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4775970135
・システム英単語 Ver.2
カスタマーレビュー数:22 評価4.5以上
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4796110593
・JavaScript オライリー・ジャパン
カスタマーレビュー数:11 評価4.5以上
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4873110270
・居酒屋
カスタマーレビュー数:5 評価ほぼ5
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4102116036
自分はAmazon.co.jpで本を検索するとき
検索結果画面でカスタマーレビュー数が一緒に表示されるので
以下のサイトを使うと便利です
へぇーなるほど
これも「はてな」とは違うスタイルですが人々の叡智を集めるひとつの方法ですね。
ただし、これは良書を求めるためのスクリーニングの一手段であって、いわば前処理の段階だと思います。
とはいえ、これまでとはまったく異なる切り口のコメントをいただけて大変愉しく思います。
私は今までカスタマーレビューを無視してました。あまり見ないし書いたことは一度もありませんでした。
これは反省しなければなりませんね。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4022596589/250-2801943-131621... ← 意味ありません。
質問が終了するまでコメントできませんので、ここへ投稿させていただきます。(つまりこれは回答ではありません)
love-and-peace(ジョン・レノンを連想してしまいました)さんの優しいお言葉に甘えての再訪をお許し下さい。
(はてながいつもこのように和やかなサロンである事を望みます)
20歳(はたち)の誕生日に自分へのプレゼントとして明治書院の新釈漢文大系「史記」を読み始めたところ、最新の研究で現在の史記には司馬遷本来の筆によらない語・文が所々挿入されており(巻頭の三皇本紀からして唐の司馬貞の補筆であり)、全てを彼の責任に負わせることはできないにしてもそれでもやはり小説的な潤色・脚色は免れ無いところでしょう。宮城谷昌光氏は自身で史記から年表を作成し、その意識的及び無意識的な錯誤を指摘しておられます。詳しくは春秋・戦国名臣列伝(文藝春秋)を参照して下さい。
ところで今から10年以上前の話ですが、近鉄電車を降り駅前の横断歩道を渡ってるとき、前方から散歩中の見事な白髪の老夫婦とすれ違う際に会釈をされたので、無意識に挨拶を交わしたのですがこの近辺に知り合いはいないはずなのになあ・・・と思いながらも大して気にも留めずその後所用を済ましてる時に何気なくこの話をすると「それ福田さんだよ、この近所にお住まいだから」と指摘された懐かしい記憶を紹介させてください。
実は適当に回答の上限を3回に設定していたところ、3回に達する方が現れたので5回に移しました。nischiura2006さんももう少し言いたいことがあるかなぁとの思いもありました。
司馬遷の話題から始め福田定一さんの話題で締められるという素敵な談話を聞かせていただきました。本当にありがとうございます。
6番の回答では司馬遷に象徴してコメントしていますが、テキストの分析としては「全てを彼の責任に負わせることはできない」ということを彼の名誉のためにも同意しておかなければならないでしょうね。6番の回答に対するコメントは大雑把でありました。
宮城谷さんは司馬遷以前の資料を駆使できる状況でありますので、司馬遷については新たな知見を沢山指摘していただきましたが、現在の三国志を書き上げた後、それ以前に戻るのか、それ以降に進まれるのかわかりません。ただ、三国志が彼の作品群におけるメルクマールになることは、彼の執筆姿勢というか現れた作品においてにじみ出ておりますね。
ところで、これから周恩来の遺徳が花を咲かす時代になると思います。すなわち、彼は古代遺跡の発掘に関し、技術的に十分な準備が整うまでむやみに発掘して目先の功を競うことを戒めました。これは現在日本の遺跡で作業員の過失とかカビとかで貴重な遺跡が損傷していることを想起していただくとわかりやすいかと思います。
中国のテクノロジーは既にグローバルな水準にあります。しかも「宮内庁」がありません。
これから、古代史を塗り替える新たな成果が大いに期待できます。その成果を手にするのは宮城谷さんの世代でしょうかそれともそのあとの世代に託されるのでしょうか。
定一さんとみどりさんの散歩に遭遇されるとは!
なんとうらやましいことでしょう。私は講演会で2度ほどお姿を拝見しただけです。
とても印象的だったのは、講演会の開催地に関するとてもゆったりとしておおらかな賞賛です。講演会の普通のレベルの講師であれば開催地つまりご当地と自分のつながりを喧伝し聴衆を引き寄せようとしますが、彼は褒め上げるのです。まるで寿ぐようです。それでいて批判精神は失わず要所は締めていました。
私が赴いた開催地は戊辰戦争とかで重要な地政的な要地ではなく、古代史に名を残す程度の場所でしたから、彼も少し警戒を緩めたのか「私はあまりにお率直にその土地を批評することにより、無用な敵を作ることはしたくないと考えている」という趣旨のことを率直に述べられていました。
これを聞いた当時の私といえば、「街道をゆく」の冒頭の強烈な批判精神に感化されていたので、かなり戸惑ったのが正直なところです。でも今は
彼がどれだけ自分のメッセージを多くの人に伝えることに苦衷していたかということがわかるような気がします。
余談ですがlove-and-peaceはまさにジョン・レノンに由来します。決して、脳天気にピースサインなどを安易に振舞うほにゃほにゃした骨のない輩とは同一に思ってほしくないというのが真情です。
さらに、日本国においてはオノ・ヨーコの影響で少々潤色された形でジョン・レノンの情報が伝わっているような印象があり、ジョン・レノンミュージアム(埼玉副都心)に行ってみてもなにか釈然としない思いを抱いています。
本当はGODの詩のように明らかな戦う姿勢が求められているのです。詳細はおくとしても、彼がCIAの監視下にあり、その死さえCIAの謀略がうわさされているのですから。(CIAが監視していたことは公文書の開示により確定しています)
でも私は、How do you sleep?のように相手を拒絶しあるいは罵倒しそれでも衆望を得るような存在ではありません。(時々噛み付きますが・・・・)ですから、福田定一さんの生き方を参考にしたいと思います。
いずれにせよ、今回は本当に沢山の回答をいただき大変愉しい思いをさせていただいております。この上なく芳醇な気分に酔わせていただいております。・・・実は、点数やいるか賞や全体のまとめがうまくいくのか不安です。「良い本」について談笑するサロンとしては機能できても、優劣をつけるのには適さないという思いがあります。
ま、サロンで許して頂戴ね!
まず確認しますがURLはダミーでよろしいですね。
>翻訳というフィルタを通っても、なお、愛されかつ忌み嫌われる本
「翻訳というフィルタ」という指摘は今までありませんでしたね。でも最初から日本語で書かれている作品はどうするのかな?
「愛されかつ忌み嫌われる本」というのは11番のマダムrikuzaiさんの観点と共鳴しますかね。
私が「良い本だなぁ」と思う本は
筆者が作中で提示した問題全てに、なんらかの答えを出して終わっている本です。
最初に大量の問題を投げかけておいて、そのうちのほとんどに解を与えないまま終わってしまう本は、読後に消化不良を感じます。
読み終わった後に、作者は答えを書いているのだろうけど、自分の読解力不足で理解できず、くやしいなぁと思う時もあります。
何年か後に読み返した時に、その答えを見つけられた時の感動はひとしおです。
自分がなぜ本を読むのかを考えた時
他人の問題提議→解決のプロセスを知りたいからではないかと思うのです。
趣味の読書は、自分がその答えに満足するかどうかは別として、その『問い』から『解』へ至る工程を楽しむためにしているのだと思います。
問いを効果的に発した上で、その全てに答えている本は
洋服にたとえると、読み進める中で発見したボタンが、最後にちゃんと全部かかったような感覚を受けます。
このボタンはかなり初期に出てきたのに、ここでやっとかかるのですか!
うわ、こんなところに飾りボタンなんて最高のセンスです!!
こっちのボタンはここで留まったと思いきやここではなかったんですね!
なんて、複雑に配置されたボタンを一つ一つ留め、最後に筆者の伝えたかったこと(その本全体の解)を最高の形で読者が得られるような本が、良い本だと思います。
例えが悪くて、分かりづらいでしょうか…。
本の紹介は、私が初めて『良い本』の定義を考えた本にします。
児童文学でごめんなさい。森さんの本は、主人公たちの問題をやわらかに、丁寧に解決していく作風がとても好きです。
とても愉しいコメントでした。紹介いただいた本も面白そうですね。
>趣味の読書は、自分がその答えに満足するかどうかは別として、その『問い』から『解』へ至る工程を楽しむためにしているのだと思います
気を悪くされたら申し訳ないのですが、これは所謂エンターテイメントのカテゴリーのものでしょうか。
本のカテゴリーの中には問いを発することに終始するものもあると思いますし、論理的に解を提示することが主眼のものもあると思います。
その意味では、これはジャンルをクロスオーバー(古いなぁ)する定義にはならないかも知れませんね。
その辺のキィワードにもなると思いますが、私は読書を趣味には含めません。読書は当たり前のことであって、趣味の分野に貶めるものではないと、幼年期に頭に叩き込まれました。
振り返ってみると10代から20代にかけてかなり計画的に基礎教養を漁っていたと思います。その結果私はには大望がが生まれ、それによって挫折を味わいました。
大望とはすなわち「森羅万象」のすべてが知りたいということであり、挫折とは実生活を省みて自分の才能と一生ではとてもとてもおよばないと思ったことです。
それで30代から40代は開きなおって絞込みを行いました。それはたとえば「天体物理学」、「地球物理学」、「古生物学」、「東アジア古代史」、「ローマ史」、「ケルト史」などです。
私にいえるのは、書物が問いを発し、その問いを受け止めて、それを考え続け、折に触れ、あるいは時の流れを経て、その問いに対する答えが深まっていく・・・そのような書物との関係もあるように思います。
31番の補足
URLはダミーです。
良い本とは、
(1)記述された言語に関係なく評価される
(2)翻訳の需要が大きい
(3)翻訳家が翻訳したくなる(翻訳の供給も大きい)
以下は補足の補足。
(1)図書館によっては禁書処分となる
(2)発禁処分にもなる(国によっては焚書)
(3)検閲を受けても、なお輝きを失わない。
ほー これは新しい切り口が出てきました。
「補足の補足」をとりあえず置くと、25番の回答と共鳴するような印象ですね。
「補足の補足」についてはなかなか気骨のある発言ですね。個人的にすごく共鳴するものがあるというか、そういう本のリストを入手したいですね。
しかしなんだか良書の定義というには狭き門のような気もします。
それから翻訳の機会というのは一般にはまずその本が書かれた国もしくは文化圏において一定の評価と商業的成功を勝ち得る必要があると思いますので、特に商業的に成功しなかった「良書」は翻訳の機会が得られないような気がします。
反面、独裁国家とか政治宗教的状況によっては取るに足らない本も発禁処分になるという「栄誉」を獲得してしまいます。
さて、昨日の朝日の夕刊ではエジプト議会が全会一致で現地13日に「ダビンチ・コード」の映画上映禁止と書籍の回収(翻訳はされていなかったらしい)を決めたそうです。これにより「ダビンチ・コード」については回答者の言う良書といわれる条件を獲得したことになります。
しかし「ダビンチ・コード」といえばグローバルなマーケティングをメディアミックスの手法も取り入れビジネスとして成功した事例であり、もちろん本が面白くなければこのような成功はあり得ないとはいえ、本の世界も音楽同様に巨大資本の投下と回収のためのマーケティングが支配する世界になりつつあることが、歯がゆくてなりません。
「翻訳の需要が大きい」「翻訳家が翻訳したくなる」という観点が市場の論理やマネーゲームの観点でかく乱されている状況は難しいものがあるようです。
すると、「良い本」を他の文化圏に伝えるための地道な努力を怠らない必要がありそうに思えます。多くの良書を翻訳する努力です。そうすると翻訳する本を選ぶための定義がおのずと必要になると思えます。「翻訳家が翻訳したくなる」本とはどのような本でしょうか。
我々日本人のようにかつて中国文明の辺境に位置し、現在はアメリカ文明の辺境に位置しながら独自の「文化」を保ってきた存在にとって、日本文化固有のクオリアと(仮想の)世界文明に通用するクオリアの間に違いがあることは、ある意味で日本文化の高い自立性を表す誇るべきところであり、反面他国の人々が日本文化を理解しにくくするバリアとして存在するものです。
文化の中に文明の萌芽を見出しそれを大事に取り扱い紹介する努力が翻訳の仕事の重要な要素なのでしょうね。
しかし、こてこての文化のなかにもええモンはあるんやでぇと開き直られると、そうやな、ええもんはええなぁとうなずきたくもなりますね。
回答が難しい質問ですねぇ。
答えがひとつしかないなら回答しやすいですけれど、単一の回答は無いと言ってもいいわけで…。
これまでの回答はどれもそれなりに納得できるものだと思いますが、あえて書かせていただきます。
「良書とは売れる本である」と。
こうも言い換えてもよいかもしれません。
良書とは、コピーされ、大量に販売され、多くの読者が手にする本。
あるいは、誰もが持っている本。テキスト。
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/entertainment/bestseller/
ご回答ありがとうございます。
回答に触発されて頭の中がぐるぐる回っています。二律背反の気分です。
仕方がないのでお許しいただきたいと思うのですが、音楽を例題にとって少し論述して気持ちを落ち着けたいと思います。
ロックという音楽について概観します。私が小学校の上級の頃、ラジオで洋楽の番組を聞き始め、その頃の最大の話題がビートルズの解散だったと思います。ですから、ビートルズは私にとって前の世代のシンボルともいえますが、ごく身近には思えました。この当時から中学にかけてよく聞いたミュージシャンを上げると、ソロになったジョン・レノン、レッド・ツェッペリン、マウンテン(クリームは解散していました)、ピンクフロイド、グランド・ファンク・レイルロード等でしょうか。
高校になると当時のムーブメントも影響してT・レックス、デビッド・ボウイ、イエス、ディープパープル、そして遅ればせながらキング・クリムゾン。
高校から大学にかけて、レゲェの台頭によりボブ・マーリーやジミー・クリフがあらわれサードワールドが続きます。それからパンクムーブメント。テクノと呼ばれる内省的な音楽空間。マイク・オールドフィールドに代表される民俗音楽をリミックスしたバージンレーベル。ニューヨークではトーキング・ヘッズに代表される知的でダンサブルなサウンド。まさに百花繚乱の様相でした。
前置きが長くなりましたが、当時友人たちと話していたことは「ロックは売れないとだめだよね」ということでした。孤高の存在で満足するのではなく、より多くの人の耳にその音楽を届けてこそロックだ。という認識です。
この認識は当たりました。でも最大の成果は予想外のものでした。ワールドミュージックという言葉で一括りにされることが多いのですが、アフリカ、南アメリカ、アジア、東ヨーロッパ等でロックに触発された音楽が勃興したのです。つまりグローバルな環境でロックはデファクト・スタンダードになったのです。この動きは勢いがありとても印象的です。
私個人について言えば、この頃次第に当時日本で使われた言葉で言うクロスオーバー、後のフュージョンに興味が移行していました。ただしいわゆるジャズ・フュージョンですね。ジャズそのものへの興味も増してきた時期でした。
ワールドミュージックの側でも音楽の進化の中でより高度な音楽を志向するミュージシャンはフュージョンやジャズを吸収していきました。
このような状況を概観すると、ロックが商業的に成功し、世界中に輸出されることがワールドミュージックの勃興を促したことは賞賛してもし足りない気がします。
しかし各国、各文化圏の固有の文化は固有の高度で伝統的な音楽(固有の思想、楽曲、楽器、演奏技術)を元来保持しており、ロックはシンプルすぎた部分もあると思います。その部分を補ったのは、ロックで開拓されたマーケットに乗って流入したフュージョンやジャズではないでしょうか。
そうしてみると、「良書とは売れる本である」というのはきわめて納得できる回答であると供に、それだけでは条件として十分でないと供に、例外もあることを認識せざるを得ません。
まず、後代に影響を与える革新的な思想とか、人々の心に響き長く影響を与える温厚な思想を内包しているとか、強い影響力が求められるでしょう。それから、その書物に触発されながら物足りないものを覚える人にソリューションを与えうるより深化した書物群も必要になるでしょう。
ですから、ベストセラーが単なる打ち上げ花火なのか、後代に深甚な影響をもたらすレボリューションや堅実な思想(思い)を内蔵しているかで、同列には論じられないように思えます。
そして次に何を読むかがとても重要な事のように思います。それは大して売れていない本かもしれませんが、そこでやっと溜飲を下げる人もいるでしょうね。その本の売れ行きはこの際関係ありません。
最初に頭がぐるぐるするといったのはこの定義を朴訥に当てはめると、週間少年○○○○が該当してしまうので・・・・・・
漫画がいいです!!
書いているのは大人です。
発想が豊かです。
実在しない場合が多いので、何でも出来ます!
前職の社長さんも読んでました
叩き上げです!
ちなみに図書館に置いてある本は全部読みました
読んでいると、解る事ですが全てをみる必要はありません!
テクニックを紹介!
まず最後を見ます
誰がいつ買いたか
目次を見ます
どういう事が書いてあるのか
最近は漫画と新聞しか見てません
本は卒業しました。
ネットは目が回ります。
最近控えてます!
おやおや前のコメントにコミックについて少し腰の引けた回答で締めくくったと思ったら、コミック礼賛論が次に登場しましたね。
私について言えば、幼稚園から週刊、月刊の漫画本を読み漁り、ほとんどの漢字は漫画のルビで覚えたという過去を持っています。
大学時代は実家からの仕送りでつつましく生きながら、バイトを複数こなし、それで得たお金で、コミックとレコードを買っていました。ただし3年生までのことで4年生のときは卒論の必要文献のコピー代(当時1枚10円)に消えていきましたが。
その後もコミックは買い続け、引越しのたびに古本屋に引き取ってもらう繰り返しでした。
普通の本も人並み以上に買っているのに、何でこんなことになるかというと、やはりコミックは読み終わるまでの時間が短いから、満腹するのに普通の本の数倍のボリュームを買わないと満足できないのでしょうね。
さて、コミックについては手塚治虫さんの縁のある人で確か藤子・F・不二雄さんだったと思いますが、「漫画というのは、絵画と小説という二つの表現様式をかね合わせたもので、より発展した総合的な表現様式なんだ」というような発言をされています。何度か同様なコメントを目にしていますから、当時の漫画家の気概をあらわしているのでしょうか。
ところで、表現様式が多様化するということは、情報量の増加を意味します、現在のようにデジタルファイルとして容量を明示できる時代ではもう明瞭で、ただの文書(せいぜいkBレベル)、画像(数MBレベル、漫画の文字も画像として処理するので同じ、漫画1作で数百MBレベル)、動画(数GBレベル)、HD動画(数10GBレベル)となります。つまり情報量が飛躍的に増えるわけです。
あえて先の発言者を手塚治虫の縁者といったのは底意があり、手塚治虫こそコミックやアニメにおける日本のパイオニアであると同時に、手抜きの手法を開拓し蔓延させた張本人であると思っているからです。
だから、大友克洋は革命家とみなされアートとして取り上げられました。
私は現状としてはコミックは可能性として総合芸術としての高みに手の届くポジションにいながら現状に安住し、そこそこの画力とそこそこの構成力で、商業的に成り立っている現状を改革する意欲のない停滞した市場のように思えます。
志のある人は飛び出していきます、大友克洋とか士郎正宗とか。ああ、世代は前になるけど宮崎駿も含めてもいいかなぁ。
ということで、私もコミックを楽しんでいる一人ですが、元来ジャンルを超えた良い本とは何かを
お答えいただきたいのであり、コミックに限るというお答えは同意できません。
余談ですが、
>ちなみに図書館に置いてある本は全部読みました
というのは、目次と刊末を読んだという意味でよろしいのでしょうか。それでも大した努力ですが、図書館というものを甘く見ていませんか?
図書館の閲覧室にある本は、図書館の蔵書の一部でしかなく、図書館には一般立ち入り禁止の「書庫」というものがあるのをご存知ですか?
追伸)指定URLにはてなで儲かるようなことが書いてありますが、はてなのポイントはお遊びですよ。こうやって記述する時間を単金に換算して得られるポイントと比較すればわかることです。はてなで儲けようという発想は感心できません。
悪書三原則 ~ 読んでも語るな ~
良書は髪に触れ、悪書は脇腹を突く。さらに悪書は良書を駆逐する。
ひとりで読んでいると、かならず誰かが議論を吹っかけてくる。
以下、もっとも多く引用されるが、誰も通読していない古典三部作。
1.著者の印税は煙草代にも及ばなかったが、翻訳者は蔵を建てた。
http://www.osaka-ue.ac.jp/tosyokan/kityousyo-3/資本論-10.jpg
── マルクス&エンゲルス/向坂 逸郎・訳《資本論(全九巻)1867-1970 岩波文庫》
2.極東の孤島に実在した中世朝廷文化の地獄絵のような虚構文学。
http://www2m.biglobe.ne.jp/~ZenTech/money/banknote/p11_japan/yen...
── 紫 式部/山岸 徳平・校注《源氏物語 1011-196711‥ 岩波文庫》
3.カトリックとイスラムを凌駕したプロテスタントの情報革命。
http://lib.u-air.ac.jp/insatsu/12.jpg
── グーテンベルグ・版《四十二行聖書 1455 Germany》152209‥ ルター・訳
── 聖書翻訳出版常置委員会・訳《舊新約聖書(文語訳)1917 日本聖書協会》
── 新改訳聖書刊行会・訳《旧約聖書 19850901 日本聖書刊行会》
ははぁ 前回よりは表面的にまとまりのある論旨ですね。
でも、何が言いたいのか良くわからないのはそのまんまですね。
私は資本論と、源氏物語と、聖書と通読してますが・・・・最も精通しているとは言いがたいですがね。
ここに投稿している人のうち多くの人も読んでいると私は思いますよ。
貴方の単なる思い込みではないですか?
「悪貨は良貨を駆逐する」というのはだいぶ古代にさかのぼる格言ですが、「悪書は良書を駆逐する」というもじりは根拠がわからなくて最初困惑しました。
さて前回のご回答では「良書三原則」という題をつけられましたが、良い本とは何かという要素もありましたが、読み方のご指南をいただいた部分が印象に残ります。なるほど良書はお風呂とかどこかで読んで捨てていれば、手元には貴方が読了しない「悪書」が残るわけですから、悪書は良書を駆逐するというのは、貴方の場合筋が通っているのですね。この発見をしても何も面白くありませんけどね。
それから、良書として上げられた3冊と悪書として上げられた3冊?では「もっとも多く引用されるが、誰も通読していない」という観点で言うと五十歩百歩ではないでしょうか。
さらに「極東の孤島に実在した中世朝廷文化の地獄絵のような虚構文学」ですが「実在」と「虚構」が引っかかる妙な日本語ですね。「実在」という言葉は文飾とみなすべきですか?いりませよね。それから文学は基本的に虚構ですのでわざわざ「虚構」とつけること自体意味不明です。これも文飾?
地球物理学的に言って日本の島弧は孤島と呼ぶべきものではありません。「孤」でなく「弧」であれば許容できます。
追伸)どうしてプログレッシブな発言ができないのでしょうかね??
…… プログレッシブ(progressive) 〘名〙① (形動) 進歩的なさま。
革新的なさま。また、そのような人。進歩主義者。〔外来語辞典 1914〕
33の補足。
J.D.Salinger
The Catcher in the Rye
村上訳
野崎訳
日本では聞きませんが、
アメリカでは禁書になったという名作。
ジョンレノンを殺した男が持っていたとか、伝説も多い。
作者の意思により、アメリカで正式に出版できるのは後期の作品のみだが、初期の作品をまとめた海賊版がでるくらいの人気。
当然ながら、
評論家は古本屋でその海賊版を見つけて狂喜するという・・・
日本だから公式に読める作品:
(私は未読。)
サリンジャーの謎については:
が面白い。
---
キャッチャーの翻訳者の村上さん自身も、
世界で愛されている作品を書いてますね。
普遍的言語の文学なのかも知れません。
(私は読んだことありませんが)
---
さて、ダン・ブラウンの件ですが、
「良い本とは、体制や宗教的権威にとっては忌み嫌われる存在である」という意味で良い本でしょう。常識・習慣に疑問を持つきっかけを与えたことを評価したい。(私は読んでないですが)
逆説的ですが、
本そのものの存在を否定する考えについては:
ブラッドベリ「華氏451」
の主人公の上司の焚書官の説教を参照のこと。
3回目の回答ありがとうございます。
最初から比べずいぶんとご意見の輪郭が明瞭になってきた印象ですね。
大変参考になる意見・情報をありがとうございます。
「よい本」とは身体全体に染み渡る本のことだと思います。
あまり最近は本を読まない私の言えたことではないかもしれませんが、年を重ねていく度に、自分の育っていった環境から、自分のオリジナルの思想が出来上がっていきます。そうすると、どんなに周りが感動したといったベストセラー本でも、わたしにとっては、ただ周りが騒ぎ立てているものとしか感じず、伝わってくるはずのものでさえも、伝わってこないことがことがあります。それに対して、ちいさい頃は見るもの、聞くものすべてを受け入れ、吸収でき、小さかった身体全体に染み渡っていたんじゃないかと思います。だから、簡単で単純な言葉のみで綴ってある「絵本」こそが、私にとっての「よい本」です。
ちなみに私の一番好きな絵本です。
ご回答ありがとうございます。
冒頭のコメントはジャンルを横断するお考えなのかと思いましたが、少々曖昧だなぁと思いつつ読み進めていきますと、結論としては、
>「絵本」こそが、私にとっての「よい本」です
ということですか。
17番の回答と共鳴しているようですね。
本の良し悪しを判断するのは人それぞれなので、なんとも答えきれないことですね。
価値観や経験は誰一人として同じ人はいない、だから本に対する扱い、読み方、感じ方、感想どれをとっても同じではない。例えどんなベストセラーでもつまらん人にとってはつまらないし、どんなに駄作といわれても面白いと思う人もいる。
例:哲学書は一般の人から見れば何を書いているか分からないが、その道の人が見れば面白いと思える。
個人的には小説も理論書も漫画もどれも好きですが、あまり現実ばなれしすぎないで、少々哲学的で笑いがるやつが好きですね。
最近はまったやつ↓
「人それぞれ」は重々承知の上での今回の質問です。皆さんの意見を愉しませていただいております。
>あまり現実ばなれしすぎないで、少々哲学的で笑いがるやつ
ですか。なるほど。ご回答ありがとうございます。
なるほど。
そうですよねー印象に残るというのはとても大事な要素ですね。