http://www.hatena.ne.jp/!!!:detail]
簡単に言えば他人の話であったり、フィクションだから変な言い方だけど安心して感動できるんじゃないでしょうか?自分の物語であったりすると気づかなかったり、感動する余裕がないのでは?
ほんとうですよね!その通りだと思いました。
なぜ、涙を流すほどの感動は、自分の人生ではないんだろうって
考えちゃいました。
思ったのは、本人は必死。
当の本人だったら、必死ですよね。
その姿をみて、心を打たれるというか
やっぱり、現在進行形で私がもし何かをやり遂げたり、成功したりするさいちゅう、途上状態だったら
自分の姿に感動している暇なんてないかもしれません。
別な意味でそういう人はいるかもしれませんが。。。
自分の物語で感動できる人は、死ぬ直前に人生を振り返ってとか
そうでない場合、当の本人はとても必死にほかの事を考えてる余裕なんてないから
だと、そう思います。
「暇」「余裕」ができたときに「振り返る」。
このあたりがキーなのかもしれないですね。
かん‐どう【感動】
[名](スル)ある物事に深い感銘を受けて強く心を動かされること。
つまり、客観的な立場で見ているからこそ人は感動するのです。
もし、自分がとても感動できる物語の主人公と同じような立場であったとして、同じような最終場面に立ち会ったとすると、その感情は「喜び」や「悲しみ」など別の感情だと思います。
他人の気持ちを想像する、他人を応援する。その気持ちを得て、ハッピーエンドを迎えると感動しますよね。
かくゆう私も電車男には感動しました。
テレビ版は原作とあまりにイメージが違ったので見てませんけど・・・こちらのサイトはお勧めです。有名どこなので知ってたらすいません。
いえ、電車男関連はwebも本も映画もTVも、なにも見ていません。
せっかく薦めていただいたのに申し訳ないのですが。
「客観的な立場で見る」も必要そうですね。
「コイツ、まぁよくやってるよな」ってふうに見てみると、自分の物語にも感動できるかも?
自分には自分の求めているような感動はなく、
ドラマや映画などのロマンチックな感動がないから、
他のもの、つまり他人やフィクションの感動を求めるんだと思います。
URLは参考程度にどうぞ。
や、URL、参考になりました。
ロマンは欲しいですよねー。
自分の目で自分は見えません。
自分を一番知らないのが自分で、知っているのも自分です。
だから、面白さは他人を見ないと感じないのだと思います。
他人の目で見た自分を知らせてもらったら、
それを面白いと感じられるでしょうか?
感動するほどの苦労を自分で行っていないから存在しないと言い切ってしまうのかもしれませんよ。
たとえばオリンピック選手が金メダルの瞬間なんていうのはこの日のために今までがんばってきたんだって気持ちが溢れ出るからだと思います。
これがもし自分だったらどうでしょうか?
気持ちの持ちようが比較にならないほど違うと思います。
みんなからの期待やプレッシャーを背負って戦っているのです。
だから応援してあげたくなり、一緒に戦ってその人が感じる感動を一緒に共感するのではないでしょうか?
なんにせよ、自分が主役になって使命を果たすことが出来た時に感動を味わえるのではないでしょうか?
感動できるっていいですよね。
自分もそんな感動を味わえる人間でありたいです。
「一緒に戦って」って、「その人」以外が言うのはナシだと思います。
ていうか、労苦が必要なんでしょうか?
フィクションや「他人の物語」は、他人の目を通して描かれている分、雑念が入りにくいのではないかと思います。語られる物語(もしくは出来事)に集中しやすいというか。そして、そういったものを読んだり聞いたりしている間はその話に或る程度意識が集中します。そうすることにより、その物語や出来事に入り込みやすいと思われます。
逆にそれが自分のことである場合、その出来事が進行している間にも日常の動作が入ることにより、その出来事に集中しにくくなるのではないでしょうか。
ここに何でもいいのですが、涙溢れるほどの感動的なエピソードがあったとします。そうですね…ベタですが、様々なトラブルを乗り越えて愛し合う二人が結ばれる、みたいなものでもいいかと思います。
これを物語として知るとき、その物語はおそらく「あえない辛さ」「あえたときの喜び」「襲い掛かるトラブル」「トラブルを解決」「幸福な結末」などの要素を持って語られることと思います。感動を与えない要素は、最初から弾かれた状態で紹介されます。しかし、それを自分が体験するとなると、間に「寝坊して遅刻した日」「便秘で辛かった日(汚くてゴメンナサイ。分かりやすくするために極端な例えを使います)」「布団から出るのも面倒な日」「親と喧嘩した日」などが入り込んできたりします。そのため「あとから振り返れば感動的だけど、そのときはそう思わなかった」ということが発生したりするのではないでしょうか。
たしかに。悲しくてもお腹は空きますよね。
そこがたぶん、人間のいいところなんでしょうけれど。
@nifty
URLは仮です。
違った意見を述べさせて下さい。
私は以前「自分は生かされているんだ」という体験をしました。色々な人と触れ合いながら助け合いながら、自分の人生は自分一人のものではない、他人のために尽くすことになっているのだと心底感じ大変な感動に包まれたのです。これはフィクションではありませんし他人の話しでもありません。私は普段、冷静なタイプなので余計に不思議に感じました。このようなことが特別なことなのかmichiakiさんのご質問で疑問に思いネットで「自分は生かされている」を検索しましたら様々な方が同じような経験をしていることが分かりました。サイトを表示しようとも思いましたが個別的なものなのでやめました。自分から主体的に感動するケースもあるということを申し上げたかったのです。ご質問ありがとうございます。自分の体験を思いだすことができました(ポイント結構です)。
回答ありがとうございます。ご主旨は承りました。
ただ、こちら方面は、わたしが求めている類の回答とは異なりますので、以降の方は、
「わたしは自分に感動できる」「質問文がおかしい」
というような種類の回答はご遠慮願います。
【tenki.jp】日本最大級の天気・気象情報サイト
一つには、フィクションのようなドラマティックな出来事はなかなか現実世界では起こらない、からでしょうか。
現実世界で起こったすごく感動的なことを「ウソみたいな話」と呼ぶことがあります。
我々の中には、現実世界ではそうそうドラマは起こらないのだ、という無意識があるのでしょうね。
もう一つには、フィクションや「他人の物語」は長期間に及ぶ出来事を圧縮して聞かされるため、
(フィクションの中で)ある出来事が起こったとき、その背景をすぐに想起しやすいということがあるでしょう。
現実世界では、何かいい事があっても
とたんにそれに関する過去の出来事がフラッシュバックして
「いい事」に至るまでの経緯が頭に浮かぶということはまずありません。
後から思い出して「あんなこともあったなぁ」としみじみ・・・というのが大抵の場合でしょう。
血のにじむような苦労、信じられないような悲劇などが背景にあると思うと、
ささいな出来事も酷く感動的に感じられたりするものです。
外国土産のお菓子のようなものかと思いました。「珍しく」「食べやすい」
(しかし外国のお菓子は奇妙な味のものが多い気がするので、適切な例えじゃないかも)
お百姓さんの苦労を思うと、ふつうのごはんもより美味しく感じられる、とか。(それもなんかちがう?)
http://www.hatena.ne.jp/(;;):detail]
まず、なぜ「フィクションや「他人の物語」のなかにしか存在しない」と定義されたのでしょうか。
と申しますのは、私はそう思わないからですが・・・。むしろ、現実の方が(回数は少ないものの)、感動の数値は大きいような気さえします。
ですが、ここでは「「他人の物語」のなかにしか存在しない」とした上で、なぜかと言う理由を考えてみると、やはり感動を引き起こす体験とは、ちょっとした結果や出来事では起こらないからではないでしょうか。
わかりやすい例ですと、長い時間かけて、様々な苦労や出来事や苦難や障害・・etc.それらをやっとの思いで越えた時なんかに感動することも多いと思いますが、そのように、感動を呼び起こすような事柄というのは日常にごろごろしているわけではないですよね(ここでは何かの理由等で「日々全ての事柄が感動に値する、と思う人のことは省く)。
たくさんの歳月、またはたくさんの想いが積み重なってこそ、それに値する大きな感動も生まれてくるというもの。おそらく、生きた時間(歳)と共に、現実での感動というのも、徐々に多くなっていくのではないでしょうか。
そのため、感動や涙をそそるラストが必ずと言っていいくらい出てくる物語を見た時、ご質問のように思えるのかもしれないです。
とりあえず、「8番の回答へのコメントはご覧いただきましたか?」と、念のため書いておきます。
わたしは、感動につながる苦労より、ただの苦労に終わる苦労のほうが多いような気がしますが。
http://www.hatena.ne.jp/ダミー:detail]
フィクションは才能ある人がメッセージを伝えるために物語を上手く切り取った加工物です。編集された物語です。
一方、自分がフィクション以上に感動するには、自分の体験を感動へと昇華させるだけの編集を自分自身で行えないといけないから……だと思います。
すると「才能ある人」自身はそれができるわけですから、
「すごい……俺すごいよ……」と、感動して涙することもできる、ということでしょうか?
http://homepage1.nifty.com/~watawata/psycho/b8.htm
このページは移転いたしました。
涙するほどの感動とは「純粋さ」や「非現実的」な場面の中に多いからだと思います。
TVだと視覚でその感動にいたる過程をストーリー性を持たせてみせている所や音楽などの効果を使っているところに感動という感情が動くのではないでしょうか。
日常で慣れてしまった事に感動したりする事はまず無いので今の自分には無い非日常的な所に感情が動かされるのではないかと思います。
音楽は重要そうですね。
自分が入院した暁には、ぜひそれっぽいシーンでそれっぽいBGMを流してみたいです。
(↑ふつうに、音楽とか怒られそうですが)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%a5%ab%a5%bf%a5%eb%a5%b7%a5%b9
カタルシスとは - はてなダイアリー
あくまで私の場合は、ですが。
自分の事だとカタルシスに到達する前に、疲れきってしまっているからです。他所事であれば余裕を持って感情の解放だの浄化だのができますが、自分が「他人が見ていたら感動するような場面」の当事者だった場合、私自身は大抵いっぱいいっぱいなんだと思います。なので、もしかしたら精神的に余裕のある人(心の体力が強い人)は自分の事でも涙するほど感動できるのかもしれないなぁ、などと思ったりしました。
1や2の回答とかぶってますね。。。
逆に、なぜフィクションや他人の物語に涙するほど感動するかと考えたら、自分の求めているもの・自分のこだわり所(カタルシスの説明にある抑圧されている部分)を、その中に見出しているからなのかもしれません。そう考えたら自分の物語を、フィクションや他人の物語で再確認して(振り返って)涙しているのかも。
まとまってない回答ですみません。
自分に近いもののほうが、理解できる部分が多いだけ、感動も深くなるかも知れませんね。
あんまり近すぎると嫉妬も出てくるかも、という気もしますけれど。
http://blog.hanamarl.com/index.php?itemid=141
感動について - あっちこっちケイイチ
感動は、“フィクション”や“他人の物語”の中にあるのではありません。感じている感動はそれとは無関係にあなた自身の物です。
書ききれなかったので、ブログの方に書きます。
ブログの方、拝見しました。自分しだい、ということですね。
「才能」であればどうしようもないと思いますが。
アルプスの少女ハイジ
「共感」が鍵だと思います。
「うんうん。そうだよね。」「わかるわかる。その気持ち。」となった場合に感動で涙するんじゃないでしょうか。自分の話じゃ共感・共鳴のしようがありません。既に自分なのですから。
自分の人生を振り返ってみて、いくら輝かしい人生であっても、苦難の人生であっても「なんて良い話なんだ!」と感動して泣くのは難しいでしょう。泣くとしてもその時の感動が甦って、とか、悔しさが甦ってであり、「物語に感動して」ではないはずです。
「その時の感動が甦って」? ここは自己発振でしょうか。
じゃ、あれですね。自分も他人を感動させられるようにならないと、吸ってばっかりですね。
URLはダミーです。
誰の人生においても一度は感動があるはずです。
例えば結婚式。新郎新婦の両親は子供達に感動していると同時に子供を育て上げた自分の人生に涙しているといえませんか?
しかし、自分は一人なのに対し、他人やフィクションはたくさん存在します。だから他人の物語で涙することが多く、他人の物語でしか涙しないと感じてらっしゃるのではないでしょうか?
また蛇足ですが、私は感動と労苦は直接関係があるわけではないと思います。高校時代の恩師の口癖は「お前ら泣く程がんばってんのか?」でしたが、がんばるとやっぱり泣きます。ただそれは労苦を厭わないほど本気になってるってことが大事なんです。上に挙げた子供の結婚式にしろ”本気で”子供のことを思ってるから泣くわけで。だから本気になっていない、いやいやながらの労苦はいくら積み上げても感動にはならいでしょう。
自分の人生のなかの感動だけでは、供給が不十分なのでしょうかね。
あと、労苦も、まぁ本気でやるのはもちろんとして、ふつう感動しようと思ってやるわけでもないですしね。
不意に気づくこと、が必要なのでしょうか。
【インフォシーク】Infoseek : 楽天が運営するポータルサイト
こんにちは。URLダミーです。
それは、感動を持っている他人ばかりに、
michiakiさんの意識が向いているからではないでしょうか?
感動している人に注目しているから、感動が周りに多いように見えるのです。
実際には感動の発生率は自分にも他人にも同じはずで、
感動なんてめったにおこらないはずなのに、
感動する他人ばかりを気にしている、という理解ではどうでしょうか?
簡単な回答ですけど。
まぁ、他人の方が明らかに多いですしね。
でも「感動の発生率は自分にも他人にも同じ」はちょっと言い過ぎじゃないですか?
せいぜい「感動の発生する可能性は誰もが持っている(とされている。人権みたく)」程度かなぁと。
Yahoo!�Dz� - �Dz�����
多くの人の場合普段は平凡な生活を送っているので、フィクションではよくある、すばらしい出来事や涙を流すほどの感動を、なかなか実体験できないからではないでしょうか。
逆に言えば、実体験が出来ないからこそフィクションに感動を求め、作品を作る側もその要求にこたえるために、感動的なストーリーを作り出していたりすると思います。
もちろんまったく実体験できないということもまれで、一生のうち1・2回ぐらいはそういう場面に遭遇する人も多いと思いますが、たった人生に1・2回だと、感動に飢えてしまいますから、(言葉は悪いですが)「手っ取り早く感動したい」という要求に応えるのがフィクションではないでしょうか。
多くの平凡な人には、自分の生活だけでは供給が足りないのですね?
人生に1・2回ってけっこうキツイですね。
しかし、「飢える」ってたしかに言いますけど、そもそも必要不可欠なものなんでしょうか?
http://www.pwpa-j.net/2activ/publication/shohyou_1.html
�o�v�o�`�̏��Ђ̏��]
他人の物語=自分が未体験である事実
未体験の事実だから驚きがあり、結末を知らないので、結果感動できるのではないかと思います。
認知学とかの方の話になるのかな・・・。
知らないことであり、まだ経験していないことだから「感動できる」のではないでしょうか。
何も知らない方が感動が大きい、というのは確かにありますね。
でも何度見ても感動する話、というのもありますよね。いつも同じ所で、みたいな。
「涙するほどの感動」は、どこにも、そしてあらゆるところに存在します。
存在しないと思うのは、ただ単に感受性の問題です。(感じる側の問題だと言う意味です。)
昨日登山に行ったのですが、途中の休憩時に水を飲みました。その時に、毎度登山をしている時の水はうまいと知っていたのですが、「うまい」とつぶやきながら、涙がひとつぶ出てきたので自分でも驚きました。
最後にドラマなどでのおいおいと泣く感動は薄っぺらで、後には何も残らない、偽善的な涙が多いですね。
これは自分の経験からです。
感受性がある人が感動するんじゃなくて、感動する人を感受性があるっていうんじゃないですかね。
(つまり、「感受性」ということばになにかを押しつけただけ)
偽善的かどうかはともかく、何をネタに泣いてもスッキリはしますよね。
あれは不思議です。
↑なんか,こんなのありました...
まず感動というものがどういうものかを考えますと,これは私見ですが,そこには「経験したこともないような驚き」という要素が必要な気がします.
哲学の始まりは驚異(タウマゼイン)だといわれたりします.
他人の話などは,大体新奇な物語のハズなので,驚く確率が高いのではないかと思います.
また,初めて見た壮大な風景や素晴らしい音楽などに感動するも,そこにやはり驚きが存在するからではないかと思われます.
一方,自身の内側にあるもの(体験や思い出など)に関しては,それを知覚した瞬間(つまり入力の際)には感動したのかもしれませんが,後でそのことを意識したり思い出そうとしたときにはすでに自分の中である程度消化されていて「驚き」ではなくなってしまい,感動に結びつきにくくなるのではないのでしょうか.
根拠は薄弱ですが,私はこう考えます.
冒険型の感動を好む人間だと診断されてしまいました。そんな気もします。
新鮮な驚き×数の多さで、外部にばかりある、という印象が強くなるのでしょうね。
検索デスク SearchDesk スタートページ
URLはダミーです。
『脳の初体験』ってのが前提条件になっているんじゃないかなぁと思います。
何度も見聞きしたり体験すると、感動も慣れてきますよね?
自分自身のことの場合、先を予見して行動しますから、その時点で疑似体験してしまうから感動しなくなるのではないでしょうか。自分の過去の出来事に関しても基本的には同様。
…でも、もしかしたら『新たな視点・考え方を発見する』『視点・考え方を変える(視点・考え方が変わる)』ことで、過去の自分の出来事に関して感動することは可能なんじゃないかとも思います。
即ち、“過去の自分≠今の自分”により、擬似的に“過去の自分≒他人”が成立する状況もあり得るのではないでしょうか。
ん、それは可能かも知れないけど、そこにもう1つの視点、
「“自分に感動している自分”を恥ずかしいと思う自分」が出てきて、
なんかこっそり邪魔しそうな気がしてきました。
http://f.hatena.ne.jp/sui-ren/20051007171426
sui-ren's fotolife - 参照用 (黒板似描かれた「ドラマ」)
(回答が行き違ったようですみません。今回、再度ですので、オープンのポイントなど、お送りしておきます。二つを合わせて1つと見なして下さい。)
10の回答を書いて、一度新着を確認したのですが、その後修正等していたら、新しいコメントがついていたようでした。すみません、まだあのコメントは読んでおりませんでしたため、改めまして、別の回答をしてみます。
高校の新学期、国語の先生が入ってくるやいなや、黒板にURLのような図を書き始めました。私たちは???という感じでしたが、さらに、「これがドラマです。物語はドラマです」と、おっしゃいました。(そんな先生がドラマにも見えましたが・・(^^;)
要は、何か心に響いたこと、何かの展開、心の動き、それらの一纏まりを切り取った物が、すなわちドラマであり、また物語なのだ、という話でした。
たしかに、言われてみればそうだな、(&しかしなんだかすごい先生がきた)と、印象的な第一回の授業でした。
先生のその言葉が、この質問の回答に近いのではないのでしょうか。長い日常の中からそのドラマのある部分だけを切り取って(=他人の物語)、また、特に、ドラマになりそうな部分だけを、完璧な形で作って本の中に入っている(=物語)とすれば、本を見た時、ご質問のような気持になるのは自然な成り行きなのかもしれない、と思いました。
ポイントに関しては、適当にいきたいと考えています。
では、ドラマを切り取られた「残りのもの」は、いったいなんなのでしょうね。
「悲惨な状況下」の話と、「悲惨な状況下で、花に水をやる」話とか。
「花に水」の部分ををていねいに書くと「人間的」とか言われちゃいそうです。
http://plaza.rakuten.co.jp/damepo
だめぽ - 楽天ブログ(Blog)
上記はダミーのアドレスです。
つまり「隣の芝生は青く見える」の感覚なのでしょうか。
自分自身の持っている体験ではなく、他人の体験をもしてみたい(でもできない)ため、感情移入の仕方が変わってしまうのだと感じます。
自分の家の芝生をちゃんと見る勇気がありません。
http://www.hatena.ne.jp/1128613033#
人力検索はてな - なぜ「涙するほどの感動」は、フィクションや「他人の物語」のなかにしか存在しないのですか?
URLはダミー
A
「涙するほどの感動」を体験した人はそういう体質。「感動屋」なので。
あなたはそうではない冷静な人だから。
B
あなたが涙を流すほど感動した話をした「誰か」と比較して、
あなたは同程度固執する対象を持っていない。
しかし、話を聞かせている「誰か」に共感する能力はある。
という二つのパターンを考えました。
Bのほうがすこしいいな、と思いましたが、
なにぶん自分のことなので、どちらだか、それ以外だか、わかりません。
では、観客としての感受性をもっと鍛えることにしましょうかねぇ。
どうでもいいですが、禁煙ファシズムが横行したらこのAAも使い所が減るんでしょうか(´Д`)y-~~
フィクションや「他人の物語」のほうが先の展開の予想はつきやすいと思います。特に、感動モノといわれるような作品の場合はかなりパターンに忠実なので、「こいつここで死ぬなー」とか「この人そのうち裏切るな」とかだいたいわかるかと。わかっててなぜ泣く?といえば、そういうパターンで泣くように学習しているのではないかと。お約束、という言葉があるくらいなので、人は先の展開がわかることを忌避してはいません。とはいえ、作者がここで泣かそうとしているなと思いながらきっちり泣くような奴は少々かわいくないかもしれません(私だ)。
そういう、筋に沿って感情を波に乗らせた上での感動が「物語の感動」です。
それとは別に、前兆もなく突然やってくる感動というものがあります。それは、美しいものを発見したよろこび、です。この感動には「いま、ここ」しかない。後になってしまうと、感動したということはおぼえていても、その感動そのものをよびおこすことはできない、「一瞬の感動」です。美しいものといっても実際に見聞きするものだけでなくフィクション世界にもあり、特にSFやミステリにおける感動はこちらのものが多いと思います。発想の美しさ、論理の美しさ、です(ミステリは本当に論理的か、というのは措いといてください)。(ちなみに、美しいものそのものに対する感情は、感動というよりも畏敬の念のようなものかと思います。)
「涙するほどの感動」といいますけど、正確には「涙するような感動(=ここでいう「物語の感動」)」なのではないかと。とすると、この問いは「なぜ自分の人生を『物語』として認識しないのか?」に展開できます。……できないか。「物語」として認識した上で、「感動できない」という可能性もありますね。まあ、たいていの人の人生には筋道が通ってないだろうとは思いますけど。
……と、ここまで考えたところで力尽きました。
深い考察をしていただき、ありがとうございます。
ぼろぼろ泣くような感動が「物語の感動」であれば、自分自身を「物語」としては認識しにくい→感動しにくい、というのは、納得できる気がしました。
美にたいする感動はたしかに別物ですね。
日本語では一緒くたに「感動」って言っちゃってますが、違う単語が割り当てられている言語もあるかもな、と思いました。
では、ここらへんで終了とさせていただきます。
ありがとうございました。
なるほど。「安心して感動できる」ですか。
いきなり的を射ている気がします。