説明できない・いけない理由はない・ケースバイケース、という類の回答はご遠慮ください。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4140806605/249-7303960-...
Amazon.co.jp: いじわるな遺伝子―SEX、お金、食べ物の誘惑に勝てないわけ: 本: テリー バーナム,ジェイ フェラン,Terry Burnham,Jay Phelan,森内 薫
人を殺してもいいとする社会は、自滅したからではないでしょうか。
自滅とは、互いに殺しあうということばかりではなく、次のような例も含まれます。
ある殺し合いを容認する社会では、常に緊張が耐えなかったので技術が発達しなかった。そのため、隣の国に滅ぼされてしまった。
まあ、これがほんとかどうかはわかりませんが、なんらかの理由で殺し合いを禁止した(最初のきっかけはわかりませんが)われわれの社会が今も生き残っているのではないでしょうか。
この回答も「法律」または「倫理」相当です。
きっと誰だって、死ぬのに殺されるのなんかイヤだからです。
病気とか事故で死ぬのは諦めがつくけど、自分でない誰かに死なされるのはむかつきます。
では、「他人に殺されても別に構わない」と考えている人であれば、他人を殺すのは許されますか?
http://masudahp.hp.infoseek.co.jp/Expo70/expo70b.html
EXPO'70-参加国・企業・団体
すべての人は人類全体の進歩と発展に貢献するために生きています。世界中のすべての常識ある国家は、進歩と発展のためには、お互いの理解と友情が大切であると考えています。一人一人がその真理を心身ともに悟ることができたとき、人を殺していけない理由はその人の中で明白なものになります。
http://www.expo2005.or.jp/jp/A0/A1/A1.12/index.html
4つの柱 | EXPO 2005 AICHI,JAPAN
これは「宗教」ですね。
安全も利益もいらないなら殺して構いませんか?
こどものもうそうblog
URLは関係ありません。
この設問の場合、「いけない」というのは、社会的な判断を前提としています(よね?)。
社会を維持するには、複数の人が必要です。「人を殺してよい」という設定にすると、人が減って、社会が維持できません。だから、(倫理・宗教・社会とは関係なく)「人を殺してよい」というルールは社会を維持するのに都合の悪いルールです。そのため基本的に「人を殺してはいけない」と「社会」は言わざるをえないのです。
「いけない」というのは、社会的な判断を前提としていません。
http://www15.ocn.ne.jp/~satori/karakuchi/kara_002.html
���]�Q�@�{�V�Ўi���@�u���̕ǁv
何というか、「そんなの当たり前」と思われていることですね。説明してくれ、と言われても難しいことです。
逆に「人を殺してもいいよ」と言ってみたらどうですか。怖いでしょう。自分は他の人を自由に殺してもいい代わりに、自分はいつ誰に殺されるか分からない。今の日本ではちょっと考えられない世界です。
でも、こういった世界は自然界では当たり前になっている部分もあるんですね。共食いする生物もいれば、自分の子や親を食べる生物もいます。他人のことを考えている余裕なんてありません。他人の幸せを奪って、自分が幸せになるためにみんな必死なんです。でも、人間同士でそれをするのはさみしい・・・。せめて、仲間なら・・・。まあ、人間も他の生物の幸せを奪って生きているわけですが。
自分がいつ殺されるか分からない世界が嫌だ、という訳で「人を殺してはいけない」というようになったと考えられます。
もうひとつは、殺してしまったらもう生き返らせることは出来ない、というのもあります。最低な人間だと思っていた人を殺してしまって、後で実はいい人だったんだということがあっても、もうその人は戻ってこないのです。取り返しがつかないわけです。
ただ、人を殺すことが公に認められていることもあります。賛否両論ありますが、安楽死、死刑、戦争、等等・・・・・・。
これ以上はなんとも言えません。
「情に訴える」または「倫理」ですね。
ikiru.com
人を殺す自由というものは当然あるのだろうが、人が生きる権利を奪う正当性を説明できなければ、社会が安寧にならない。こう、考えれば人を殺してもよい、その必然性があると認められるケースも説明がつくのではないか。
必ずしも社会の安寧を希望していない人もいると思いますが、そういう場合は「仕方ない」ですか?
【インフォシーク】Infoseek : 楽天が運営するポータルサイト
「人を殺してはいけない」ということを倫理抜きに説明すること自体が不可能なことなのかなって感じはしますね。
「人を殺してはいけない」という考えはそもそもそれ倫理的な考え方からきているものだと思うからです。
倫理観があるからこそ人間は人を殺さないのであって、人間からこの倫理観が無くなれば、人間だって動物ですから、他の多くの動物と同じように(他の動物が人間より劣っているという意味ではありません)同種の動物を殺してはいけないという理由は無くなってしまいます。
例えば先ほどの回答で「他人から殺されたくないから自分も他人を殺さない」というのがありました。
動物である以上「人から殺されたくない」と思うのは人間として当然です。しかしそこで「だから私も他人を殺してはいけない」と思えること、そしてそういう考え方につなげるのが「倫理」なんだと思います。
人が嫌なことは自分も嫌。そういう考え方は、長年人間が培ってきた倫理観からきていることです。
もしその人間にそのような倫理観が何も無ければ、別に人間を殺してはいけないという理由は何にもありません。ですからその人が、他の多くの動物と同じように同種を殺しても不思議ではないんだとおもいます。
質問に対する直接的な回答にはなっていませんのでポイントは要りません。
一つの個人的な意見として受け取ってください。
ありがとうございます。
ただ、こういう質問を投げる以上、そのあたりまではわたしもすでに考えているのです。
その先はないのか?ということです。
http://www66.tok2.com/home2/marimolog/discussion/0001-0100/0076-...
�l�͂Ȃ��l���E���̂��H - �p�p�p���܂�������<HOME> ( 04/25 14:12:48 )
質問者さんに怒られるのを覚悟で(汗)
倫理・宗教・法律を持ち出さずに、質問者さんのこの質問んみ対する内容を納得させるには今の私の中では「本能」としか言いようがありません。
倫理・宗教・法律があるからこそ人間同士の殺人はダメだと定義付けているだけで、これらが無ければ「本能の赴くままに」どうぞ・・・となると思います。
つまり・・・今までの回答にもあるように倫理・宗教・法律があるからこそ人を殺してはいけない=倫理・宗教・法律がなければ殺しても良い になるかもしれませんね。
だから倫理・宗教・法律には回答がないように思えます。
敢えて回答を出すとすれば、人を殺してはいけないという「本能」が働いているから殺してはいけない。
本能とは「動物個体が、学習・条件反射や経験によらず、生得的にもつ行動様式」とありましたので、本能によって人を殺してはいけないということが人間にはノンノウとして備わっているからだということだと思います。
本能。とある国では20世紀に入るまで食人の習慣があった、と聞きましたが。
http://www.hatena.ne.jp/ダミーです:detail]
人間はそもそもが動物です。動物には道徳観念は無いので善悪という観念もありません。だから人間は人間を殺しても良いのです。しかしミッシングリンクと呼ばれたある時点を境に人間には知識が出来ます。その知識故に人間は欲深くなり、罪悪感も抱くようになり、人間を殺す事によってストレスが生じるようになりました。このストレスは知識を持ったことで想像する事が可能になったため、相手の痛みを想像する事で自身も痛み、相手を知識として知った事を葬り去る事に罪悪感を感じるためでしょう。また共生という概念が知識によってルール化、制度化される事で、人間は人間を殺してはならないというふうに進化していったのではないでしょうか。人間はこの共生制度によって、外敵・天敵を排除しましたが、人間そのものが天敵となる事になったのです。この場合の解答は、人は知識を持ってしまったが故に「人を殺してはいけない」のです。
「人間を殺す事によってストレスが生じる」
この観点は少しいい気がします。
まず、人は自分の意思や力で生まれ生き永らえているのではないのではないでしょうか。
自分が認知しない”過去”を背負い、自分が垣間見れない”未来”という大きな希望という可能性を持って生まれ、その可能性を次の世代の可能性を持つ子孫にバトンタッチする責任も持ち合わせて生きているといえます。たった一人がたくさんの可能性のある未来へコマをすすまめる責任を背負って生れてきたのだとすると、それを犯そうとする物は動物的にいうと「天敵」で、人間的なら「極悪非道」と表現されるでしょうか。
命を絶やすことは、今現在だけのことでは済まされないので、してはいけない事だと思います。
極悪非道な人に「殺してはいけない」と説明することは、やはり無理ですか?
http://blog.goo.ne.jp/get_amplifier_99/e/c5144b93861836b6e70f7b5...
最終的に砕け散って:なぜ人を殺してはならないのか?を、もう一度
自分の遺伝子を残すためには「殺しあうこと」が「殺しあわないこと」に比べて不利だからです。
まあでも、これを突き詰めるとケースバイケースとなって、質問者の回答遠慮くださいに当てはまってしまいますが...
そうですね。「死刑になっても構わない」と思ってる人には当てはまりませんね。
http://logic.bbs.thebbs.jp/1095837687/
���� �Ƃ� �ǂ��Ӗ��ł��傤���H
urlは半分ダミー。
「なぜ人を殺してはいけないか」とのこと、回答によせられたコメントを見るに、殺す主体は「人」ってことでよろしいかと思います。(7番まで回答コメント見てます。)
ついでに「いけない」って言葉をとりあげて、「誰かが決めて、多くの人が賛成しているルール」とした場合、法律などに該当するため勝手に排除して考えます。質問の意図と違ったらゴメン。
そんなこんなで、
「あらゆる人にとって、人が人を殺してはいけないと納得せざるを得ない理由」を問うているものだとして回答します。
ここまでがーがー書くのは、倫理と宗教と法律と情が使えない以上、物事の定義と誰にとっても自明なことから導き出すのがよさそうなので。
http://en.wikipedia.org/wiki/Human
Human - Wikipedia, the free encyclopedia
urlはwikipediaのヒトに関するページ。ヒトの定義には殺しちゃいけないなんて書いてませんでした。ついでに人間の定義も同様。
どこからどこまでが人なのかってのを放置したまま先に進むと、次にぶちあたるのは、「殺す」って動詞。
http://en.wikipedia.org/wiki/Killing
Killing - Wikipedia, the free encyclopedia
死の定義は自明とし、殺すとは生きてるものの命を奪って死に至らしめること、と簡単に定義したならば、殺しちゃいけない理由。
『不可逆的で、いきかえせないから。』
殺す人は、完全な情報を得ることは不可能のため(人間の脳は有限だしね)、不完全な情報からは完璧な判断ができないのは自明。
どんなに突き詰めても、「ある程度の妥当性をもって」という条件つきでしか殺しの判断をすることができない。新しい情報が手に入って殺すべきでないと判断される可能性は必ず存在するため、後戻りできないので殺してはいけない。
完璧な判断なんぞいらないよって突っ込みが聞こえてきそうなので補足。
それでも殺すか、殺さないか、殺すべきか、殺すべきでないかといったことを決めるのは主観だったり社会の規範だったり個人の覚悟だったりするのだと僕は思ってます。
余談ですが「殺してはいけないか」ではなく、殺しが排除される理由だったら、
いままでのところ、殺したい人より、殺したくない人の方が長い目で見て強いからじゃないでしょうか。
「あらゆる人にとって、人が人を殺してはいけないと納得せざるを得ない理由」 はい。だいたい、その通りです。
「理由」はともかく、思考の流れはわたしに近いので、追いやすいです。
人を殺してしまえば、「なぜ人を殺してはいけないか」と思索を巡らせることができなくなるから、という理由ではダメでしょうか?
人を殺害してしまっても疑問を抱き続けることができるでしょうが、「なぜ人を殺してはいけないか」という一見同じ疑問が殺す前と後で異質なものに変わってしまうと思います。
人を殺したことのない私にそんなことが分かるわけがないと思われるかもしれませんが、単純に、
人を殺していない人が「なぜ人を殺してはいけないのだろう?」と考えるときと
人を殺した人が「なぜ人を殺してはいけないのだろう?」と考えるときでは
必ずその人の心理状況とその疑問の起因点にズレが生じるはずと考えます。
前者は純粋な思索であり、後者は欺瞞や弁解です。
思索を続けたいと思うのなら、人を殺すのは愚行でしかないと考えます。
なるほど。これは新たな観点であり、考えてみる価値があると感じました。
(もう殺してしまった人に「それはいけないのだ」と説く手立ても、よかったらお願いします)
http://www.rakuten.co.jp/m-bros/
【楽天市場】MEXICO BROS:インラインスニーカーから限定、未発売モデルまで取り扱いあります
↑ダミー
「なぜ人を殺してはいけないか」それは
本来殺し合いもしていたが、食料が豊富になって、コミュニケーションの能力も上がり、殺しあう理由が少なくなったので、殺してはいけなくなったようなきがします。
「殺しあう理由が少なくなったので、殺してはいけなくなった」 ここ、つながりがわかりません。
趣味でハンティングをする人はいると思います。
Yahoo! JAPAN
URLはダミーです。
類人猿の時代(まだ道具とかを使える知能が無い状態を仮定します)は人を殺すことは非常に労力を使うことでした。
体は分厚い体毛に覆われ、噛み付きや、引っかき程度では怪我はしてもそう簡単に死にません。
また、喧嘩をする目的は餌や縄張り関係などに限られ、負けたら逃げればよく、勝者は勝てば喧嘩の原因となったものを手に入れることにより満足し、追い討ちまでかける必要など無かったはずです。
# 現在の野生の動物も喧嘩はしますが、基本的に殺すまで至りません。
もう一点、人間は猿から進化した動物であり、基本的に群れで生活を行います。
群れが大きいほど他の群れや外敵からの攻撃を撃退できる確率が上がります。
ここで、故意に相手を殺すまで戦うことには以下のデメリットがあります。
・殺してる間に餌などが奪われてしまう。(第3者に漁夫の利を与えることになる)
・群れの人員が少なくなり、外敵を撃退できる確率が減る。
・殺すにはそれ相応の体力を使い、次の喧嘩で負ける確率が上がる。
喧嘩が絶えない群れは外敵に滅ぼされ、それなりに喧嘩が少ない群れは繁栄し、その文化が類人猿から継承され、進化した人間がその経験を倫理として言葉で表現しなおしたのではないでしょうか?
ここからは蛇足ですが、
自然淘汰の間に無意識ですがそういう良心というものを持った人間ですが、常に突然変異は存在します。
ごくわずかですが、目が見えない人間や耳が聞こえないが生まれてくるように、良心を生まれながらに持たない人間もいるはずです。
そのような人間に「なぜ人を殺してはいけないか」という説明は盲目の人に月の存在を説明するのと同じように難しいと思います。
では「小学生にもすぐわかるように」ではどうでしょうか。
この回答ではちょっと難しそうです。
確かに。衝動的な場合を除き、死体の処理は大きな悩みですよね。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS...
夜回り先生と夜眠れない子どもたち: 紀伊國屋書店BookWeb
もし自分の好きな人が死んだら悲しいし、その上、それが天命によるものではなく、誰かの手によるものだったら、その悲しみは何倍にもなることでしょう。
誰からも大切に思われていない人はまずいないはずです。“人が死ぬ”ということは、必ずその人を大切に思う誰かが悲しむことに繋がります。だから人を殺してはいけないと思います。
これは「情に訴える」ですね。
国土交通省道路局|渋滞情報
「人を殺してはいけない」という質問者さんの前提が間違っているので、どんな回答が寄せられても納得できないのではありませんか?
刑法は「人を殺したら、その殺し方の種類によって刑罰を定める」としているだけです。
もちろん刑法を援用して「人を殺してはいけない」と読んだり感じたりしてもかまわないんですが、掘り下げて考えようとするとき、つまずく前提の提示になってしまいます。
それと刑法は、国家が犯人に、制裁を与えるか教育して別の道を生きさせるか判断させるための国家オフィシャルの裁量見積もり表であるに過ぎないんです。
「人を殺してはいけなくない」ということが世の中に言われて弘まってしまったら、世相は乱れるし人間が減って国力が落ちちゃうじゃないですか。
それに、一番楽しい「自分という人を殺したらいけなくない」ということが、皆に知られて弘まってしまったら、こんな世相と時代ですから若い真面目で正直な人たちが、ぶら下がるは跳んじゃうはで、葬式だらけになって道が混むじゃないですか…
「人を殺すのは、健康に悪い」という回答が来たら、超納得しますよ。
また、「人間なんかいないほうがいい」という人も世の中にはいます。
(そこまでカバーした回答を求めてはいませんが)
姿かたちが自分に非常に似ているから。というのはどうでしょうか?
言葉に置き換えてしまうと「同属殺し」なのかな?
コオロギなんかは共食いしあっちゃいますが、
何かそういう器官が壊れているのかもしれません。
かなり漠然としていますが、人間以外のものを殺すよりも、人間を殺すほうが自分への影響が大きい気がします。
または、他の動物は全貌を見渡すことができるけど、人間に対してはそれが難しいから。
なんていうのはどうでしょうか。
…だいぶずれてますね^^;
いっそそのままずらして、人とそれ以外の動物を区別する理由はどこにあるのか、と
発展させた方が面白いかも知れませんね。
「生かして欲しい」と「殺して欲しい」の数を比べたとき、現代は明らかに「生かして欲しい」の方が多いからではないでしょうか。ようは多数決の論理によるところが大きいかと。少数の論理が尊重されないのは、「死ぬ」と「生きる」が完璧な排反事象であり、同時に実現することができないからです。倫理や宗教・法律は、それら大多数の論理を確実なものにするための後付であり、だから矛盾もあるしこういった議論も起こるのだと思います。
現代こそ「倫理・社会・法律」による禁止が機能しにくい、と思ってるので、
それを持ち出さない回答をお願いしています。
http://news.bbc.co.uk/2/hi/default.stm
BBC NEWS | News Front Page
端的に言うならば、人を殺すことは自分を殺すことになるからだ、ということです。
①殺人とは他者の存在を否定(消去)することである。
②自己は他者の存在によって初めて存在しうるものである。(=他者のない自己などない)
①、②より、他者を否定することは、自己を否定する、すなわち自分を殺すことを意味するのであります。
人は皆「生きたい」という生物学的欲求をもっています。(自殺願望者も含め)
すなわち、自分の存在を否定したいと心から思っている人はいないはずです。(本当に否定したいのなら、誰にも何も言わず、既に消えているでしょう。)
自己の存在という概念が他者の存在に依存している以上、他者の存在を否定することは許されないのです。
(※これは倫理ではなく、論理です)
わたしは自殺肯定論者です。
必ずしも自殺は自己の否定が目的でなされるものではないと思います。
(すみません。ひとつ上のコメント、社会→宗教でお願いします)
BRO�z�[���y�[�W
URLはダミーです。
殺す人も殺される人も人の子だから。
殺したら親が悲しむし、
殺されたらまたその親も悲しみますよ。
「情に訴える」
完全に全く身寄りのない人が、殺し殺されするのは構いませんか?
http://www.hatena.ne.jp/1124114353#
人力検索はてな - 倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で、「なぜ人を殺してはいけないか」を説明してください。 説明できない・いけない理由はない・ケースバイケース..
『なぜ人を殺してはいけないのか?』という問いかけは、倫理学的なものです。
そのため、倫理(内面的な善悪の判断基準)を持ち出さずには、その理由や根拠を語ることができないという前提で私の考えを述べさせて貰いますね。
『~してはいけない。~すべきだ』という行為の規範性を説くものは全て倫理(善悪の判断)ですから、『人間を殺してはいけない』という命題自体が倫理であることになります。
倫理は、心理的な行為規範であり、法律とは物理的な行為規範、宗教教義とは形而上学的(神を価値の根源と置く)な行為規範であると考えられます。
倫理は、その根拠を、『論理的(生命維持の本能や遺伝子保存といった目的によって善悪を語る)』、あるいは、『功利的(何を行うのが得で、何を行うのが損なのか)』に考えることが出来ますが、倫理(~してはいけない)がある人に通用する為には罪悪感を感じる良心が内面に形成されていなければなりません。
ですから、先天的な共感感情の欠損(反社会性人格障害など)や対人コミュニケーションの障害(情動に関する発達障害など)を抱えていて、感情的に人を殺す事に対する抵抗感(罪悪感)を感じない人間には、『何故、人間を殺してはいけないのか?』を本質的に理解させたり納得させることは出来ません。
また、人間社会の倫理の根源は『自己生存欲求の相互承認』にありますから、『生命そのものに価値を見出さない人=自分は死んでもいいし、他者を殺してもいい』には、人を殺してはならない理由を理解する前提が欠けています。
『人を殺してはならない』という倫理規範を理解し、それを受け容れるためには、最低でも3つの前提条件のどれかを満たしていることが必要となります。
1.自分が生きていたい。
2.自分以外の誰かに生きていて貰いたい人がいる。
3.自分以外の他人の苦痛や不幸に共感できる。
これら3つの前提条件全てを否定する人にとって、『何故、人を殺してはいけないのか?』という倫理規範を受け容れる必然性や合理性がありません。
自分が死んでもよい、逮捕され死刑になろうが投獄されようが構わない、自分の家族や恋人、友人なんか死んでもよいかはじめから存在しない、この世界や社会そのものがなくなってしまえばよいと考えているような人には、あらゆる倫理(善悪)は通用しません。
倫理(善悪)は、三者以上が共同生活をする『社会』において生まれ、社会(共同体)の存続維持に貢献するものを『善』とし、社会の存続維持を不可能にするものを『悪』とします。
そして、大多数の人が、その倫理を守らなければならないと自発的に思い、その倫理に従う最大の理由は3点です。
1.自分が他者から殺されずに生きていたい。
2.自分の大切な人が安心して暮らせる社会をつくりたい。
3.自分以外の他人の苦痛や恐怖に共感できる私は、できるだけ他人の苦痛は見聞きしたくない。
また、それら3点の理由に当て嵌まらない人のために罰則を伴う法規範が用意されていると考えることが出来ます。
4.私は身体の自由を奪われたくないし、死刑に処せられたくないから、他人の苦痛や恐怖などどうでもいいが法律には従っておいたほうが得だ。
『4』の功利主義(損得勘定)の項目しか、自分の行動の善悪を律する根拠を持たない人は、基本的に反社会的な性格傾向をもっているといえますから、社会治安の状況次第ではいつ殺人や強盗などの行為を行うか分からない危険人物とはいえるでしょう。
例外として、
5.帰依している宗教教義に殺人は罪悪であると規定されているから。
がありますが、この項目は、人間社会の上位の絶対者(神)によってこの世界の秩序や摂理が保たれているという世界観を前提とし、その神の命令に従うことで様々な恩恵や救済を得ようとするものだといえます。
しかし、あらゆる倫理(善悪)の根源は、『生命・自己の肯定』と『社会・他者の肯定』にありますから、それらを根底から否定し、生命や社会の破壊に対する罰則を何ら恐れない人物にとって、『殺人は、~だからしてはいけない』という説得は全く通用しないと考えられます。
その説得を成功させるためには、人を傷つけることによる罪悪感を生み出す情緒的な共感を形成させるため、他者と自己の痛みの類似性について粘り強く語ったり、自分の生命の大切さに気付かせる為のアプローチを継続するしかありません。若しくは、社会を存続させたいという倫理観につながるような、『大切なかけがえのない他者』が現れるのを待たなければならないでしょう。
徹底的に、反社会的な価値観を持ち、人間の生命や幸福に対する嫌悪を持つ人物の大半は、自分自身が社会から迫害され阻害され、誰からも好かれるはずがないと言う強固な思い込みを持っていますから、そういった人に対しては、『社会の内部』に安心できる居場所を作ってあげることが倫理(善悪判断)の芽生えにつながることもあります。
しかし、イスラム過激派のテロリストの自爆テロのように、自己と社会の破壊が不可分に結びつき、その行為の正当性が、『人間社会より上位の宗教教義』によって支えられている場合などには、あらゆる人間の生命の尊厳を前提とした倫理の根拠は通用しない可能性があります。
求めている種の回答とは異なりますが、大変参考になりました。
最後が興味深いですね。
ここでイスラム過激派とそれ以外が同じテーブルに着けるような「殺してはいけない」は、やはり存在しないのでしょうか?
http://www.bbc.co.uk/radio4/index.shtml?logo
BBC - Radio 4 - Home
23への再回答です。
自殺はOKで他殺はNGということでしょうか?
自殺を肯定するのならば、「他人を殺してはいけない」という命題に従う必要はないと思うのですが…。
その辺りは、いかがでしょうか?
変な回答ですみません…。
ちょっとつながりが解りにくいのですが。
他者が自殺するか殺されるかは問題ではなく、その存在自体に意味がある、ということですか?
http://eco.goo.ne.jp/business/csr/lesson/sep00-2.html
遺伝子プールの多様性が重要 - WEB講義 - 環境goo
今のところ,人間が自分たちを絶滅させていない,また絶滅させようとしていないので,人間はこれからも自分たちヒトという種を保存しようとしていると考えられます。
しかし,ヒトの存続を危惧させるようなこと(自然環境の変化,未知の病原体の出現など)が今後起こるかもしれません。その時,それらに対応できる遺伝子を持った人間は生き残ることができます。そこから研究を進めれば,その遺伝子を持たない人間も助けることができるようになる可能性が高くなります。(例えば,HIVに感染してもエイズを発症しないような遺伝子を持つ人たちがいる。それからエイズの薬の研究をしてたりする。)
今後,どんな環境変化が起こり,それに対応するにはいったいどのような遺伝子が必要なのか誰にもわからないので,ヒトの遺伝子プールの多様性を維持しておく必要があります。
目の前の殺したい相手がヒトの存続を左右するような貴重な遺伝子を持っている可能性があるわけです。よって,人を殺してはいけないと考えます。
では、遺伝子だけ保存しておけばいいんじゃないですか?
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%A5%AD
分業 - Wikipedia
一人で生きていくより他の人を利用した方が楽だから。利用価値のあるものを壊すなんて非効率的です。
では、利用価値のない人は殺していいのか?という話になってしまいますが…
たぶん、どんな人にもなんらかの利用価値があるのでしょう。
郵政民営化をしちゃいけないことも証明できませんね。
意志を持ち生命維持活動をしている者の生命を奪うには自らの生命活動に必要若しくは傷害と感じる等の理由が必要でありそれ以外の利己的な理由での殺生は人という知性を持つ生命体として理性の欠落・判断力の欠如状態と思われる。あなたがこの状態であればこうしてここに質問をしていないであろうし殺人に対し何らかの抵抗があると思われる。故に正常な状態にあり正常な判断が出来る者に殺人は出来ないという結論に至る但し生命維持活動の為のカニバリズムについては命を奪う対象を変換することで問題は解決する物と思われる。
これは殺してもよい、と思うほどの人物が、未だわたしの前に現れたことがないだけかもしれません。
倫理、宗教、法律、人情をはずして回答すると、以下のように単純な説明になります。
人はちょっとしたことで死ぬようにできているか弱い存在。
だから、ほうっておけばいつかは寿命で死ぬし、事故だの病気だので死ぬ。
喰ったものはどうせ何時間かしたらくそとしてでてくるからといって、目の前にあるおいしいご馳走を便所に捨てることもあるまい。
いつかはおいしいご馳走もくそになるけれど、口にいれておいしさを味わってみたほうがせっかくついてる味覚のためにはいい。
人はいつか死ぬ、いつか死ぬからといって、早く殺してあげなくてもいいんじゃないか?
生きてれば屁もするくそもする同じ生き物だけど、生きてるからこそ殺しあったりできるんだからさ。
悪くないですが、人生経験が浅いと通用しなさそうです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B...
チキンゲーム - Wikipedia
http://civitas.e.yamagata-u.ac.jp/EvoGame/lectures/evogame-intro...
第3回 2 x 2 ゲームの ESS その 2
とりあえず現在何故法律が殺人を禁じているかというと、おそらく上記のゲーム理論で説明出来ると考えられます。
つまりしっぺ返し(刑法)がある社会は、タカ派(殺人者)の混入に強く、それ自体の安定性が高いからです。
小学生にはこれを出し抜くロジックの創出が困難であることを、理屈ではなく実際に作ってもらって体感してもらった方がよいと思います。
で問題なのは、我々は殺人禁忌を持っているのか、殺人回避をルールとしてもっているのかと言うことではないでしょうか。
質問だけではどちらの説明を求めているのか、ちょっとよく分からないのですが、ゲーム理論の結論から回避の方はなんとなくいけそうな気がします。
一方、禁忌の問題はどうでしょうか。
タブーというのは何となく分かって頂けると思いますが、破られる可能性ことを前提にしたルールです。
殺人回避が基本的な人間の性質であるにもかかわらず、現実にたくさんの殺傷事件が起きていますし、その中には殺人をしたことによって大きな利益を上げることも稀ではありません。また利益自体求めていない、自傷的な人もいます。
そういう人たちにとって、利益云々は無意味な話なので、全く異なる論理を使い分けしなくてはならないでしょう。
そういうわけで、殺人禁忌の論理性が質問内容でしたらポイントは要りません。
禁忌は非殺人者の実践(宗教・倫理・法律)の中にしかないと考えているので。
ゲーム理論も「持ち出さず」に加えておけばよかったと思いました。
社会を前提としない説明を、なるべく希望です。
それはそれとして、人を殺してはいけない理由をゲーム理論で説明するのも、
ある種の人々の不評を買いそうではあります。
Bloglines
人は生きるうえで選択し続ける義務があります。また、選択することは権利でもあります。
殺してはいけない理由は相手から未来の選択肢を奪うことになるからです。
同じ理由で自殺することも許されません(「自殺することを選択する」という解釈は間違いで、「選択することの放棄」が自殺するということです)。
それでは「単なる死」は悪ですか?
飢餓を解決して不老不死を目指すべきでしょうか。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4877282432/
Amazon.co.jp: 新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論: 本: 小林 よしのり
公共心から。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/447837242X/
Amazon.co.jp: MBAゲーム理論: 本: グロービスマネジメントインスティテュート,鈴木 一功
メリットとデメリットを考えて、デメリットのほうが多いと判断するから。
では、皆が一致して、メリットの方が多ければ、殺してもよいのですね。
http://www.annie.ne.jp/~schim/ultima_ratio/joubun/keiho/226.html
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殺人は連鎖してしまうからではないでしょうか。
ある一定以上人が死んでしまうと繁殖できなくなってしまう上に、最後の二人まで連鎖できてしまうからです。
殺人の動機の一つに怨恨が上げられます。
殺人が許される時点で、殺人を動機にまた別の殺人を起こすことが許されてしまいます。これによって連鎖的に殺人を起こす動機が生まれてしまいます。
また、生物全ての本旨である「種の保存・繁栄」に、生命を奪うことが反しているからだと考えます。
「人を殺してはいけない」のは、つまり「同種を殺してはいけない」ということであり、他の動物にはあたりません。
これが、「殺人を否定する」を条件にした場合の説明になるのではないでしょうか。
ご満足いただけなかったらすみません。
そろそろ繁栄しすぎてる気もしますがいかがですか?
http://www.socius.jp/sociorium.html
Socius_ソシオリウム【総合案内】
URLは直接関係がありません。
殺してはいけないことはないのかもしれません。死刑制度もあれば、正当防衛が殺人に及んだ場合も無罪の判例があります。また22週までの胎児を「人」ではないとか、脳が死んだら「人」ではないと日本の法律で決めているから、中絶を認め、脳死を人の死と規定しているのであって、法律を無視するのであれば、それらの規定を殺人と呼ぶ人もいるでしょう。法や倫理を無視すれば、殺人事件は日常茶飯事です。ただ法や倫理によって罰せられるだけです。
説明できない説明になって申し訳ありません。倫理・宗教・法律を持ち出さず、かつ情に訴える以外の方法で「殺してはいけないか」を説明するには詭弁を使うしかないと思います。うまい詭弁は思いつきませんでした。
詭弁で構いません。
ハッと「腑に落ちて」納得できてしまえば、それでいいと思います。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C7%D8%CD%FD%CB%A1&...
国語辞典 英和辞典 和英辞典 - goo 辞書
URLは半分ダミーです。
皆さんの回答を全て読んではいないので、重複回答でしたらすいません。
もし、人を殺してもいい社会があったと仮定したら、どのような社会になってしまうかを考えれば、回答が見つかると思います。
で、仮定してみると、人を殺しても良ければ、人類が死滅してもいい社会であることになります。
(皆が殺し合いを重ねて人口が減り続け、最後は人口が0になるということです。)
人類が死滅してもいい社会というのはありえないものと考えて良いのではないでしょうか?
(ここで「ありえる」と答えられてしまうと、苦しいのですが・・・)
で、「人を殺してもいい社会」が間違っていることを証明できていれば、「人を殺してはいけない」ということを証明したことになると思います・・・
ちょっと背理法を使って考えてみましたが、何とも心細い回答です。
如何でしょうか。
「人を殺しても良ければ、人類が死滅してもいい」
ここは飛びすぎですね。日本にも死刑制度はあります。
(日本は「人類が死滅してもいい社会」である可能性もありますが)
殺人が許されたら秩序がなくなり、怖くて、社会一般のレベル低下と共に個人の幸も減るでしょう。
いわば政策的にも殺人は善悪問答を越えて、許されないのです。
また、法秩序警察治安の地球上では、個人的に有益でない割が合わないということがあります。
警察に追われる、警察に捕まる可能性がある、殺人鬼と呼ばれる、子孫までクソッと呼ぶ人がいる、捕まれば前科者として就職が難しくなる、見つからないように逃げなければならない、嘘を吐いていなければならない、だから見つからなければいいというものではない、亡くなった人のことを考えると悪い気がする、亡くなった人のことを気の毒に考えない残酷な人柄でなければならない、やはり自分は特殊少数者であるという自覚がある、他人のように真面目に神仏を拝んでいられない、心から人命尊重の社会活動に参加できない場合がある、などがあると思います。
これだと、高位の政治家であれば人を殺しても問題なさそうな気もします。
自分が殺されない為です。
なおこの答えは、あなたがどう思うと、倫理・宗教・法律は持ち出さず、かつ情に訴えていません。
真理です。
宇宙論理は禁止していません。
大きな理由の1つとしては、それが「もっとも取り返しのつかない行動」の1つだからだと思います。
殺人を問題の解決手段にしてしまうと、後にそれが誤解であったり、他の解決手段があると判明しても、元の状態をリカバーできません(特に殺された人のほうにとって)。
誤りだと判ったときに修正できない行動はリスクが高いので避けるべき、というのが殺人禁止の論理的な答えにはなりませんでしょうか。
これが進んでいくと
「俺はお前らを殺さない、だからお前らも俺を殺すな」
という相互契約的な法律へとなっていくのだと思います。
その論理なら死刑を禁止できるはずなのですが…。
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人を殺してしまうと自分や周囲のへの影響がかなり強い。
し損じたら自分も殺されてしまうかもしれないし、彼らの仲間が私を殺しに来るかもしれない。
自分の生存自体が極度に危ぶまれる。極度に不安定な状態に陥る。
自分は生きて行きたいなら極度に自分の死亡確率が高まる事は出来るだけやらない。
#自分が死ぬのなんかしったこっちゃないと思っているのはまた別の話になる
もちろん死ぬ気はなく、かつ確実にばれない、という場合もありますね。
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003679.html
Passion For The Future: 神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡
現代人の心の中には、自分が自分をとらえるのと同じ回路を使って、他人の存在や行動をシミュレートする部分があるために、その回路でとらえた「他人」はある程度「自分」に近く、「他人」を殺すことが(自分を殺すことと似て)極めて不快に感じられるのではないかと思います。(仮定に仮定を積み重ねてますが。)
11番の回答に近いです。
問題は「それは本当に不快なのか?」ですね。
Last.fm - The Social Music Revolution
義務を果たせないということがすなわち「悪」になるということはありません。もちろん、義務を果たすために最大限の努力をする必要はあります。
飢餓については自らの飢餓状態は解決すべきですし、不老不死については目指すべきというのがこの件での回答になりますが、人類全体、あるいは地球全体で考えれば、別の答えになるかと思います。
ちょっと戻しますが。
そもそもいちばん最初に「この世界で生きていくこと」を選択したわけではないと思うのですが、
そこだけは強制ですか?
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001298.html
Passion For The Future: 天才と分裂病の進化論
不快と言うよりは、意識というものの成立に不可欠な部分(意識くんは意識くんが動かす主体がいないところでは機能できないですよね)のため、殺人は「想定の範囲外」であって、ショートしてしまうのではないでしょうか。(今の人類の多数を占めている遺伝子が作る脳では。)
もちろん、そう感じない(「意識」という仕組み自体使っていない)ヒトが一定の割合で存在していて、例えば心の理論のテストとかやると引っかかる人の中にそういう人がいる…というのは偏見ですか?
自殺サイト殺人の人とか?
ああいう人を「仕方ない」で済ませてしまうことに
ほーんのすこしだけ申し訳ない気がするのです。
二回目の回答になりますが、michiakiさんの疑問点を整理してみますと、『社会(共同体)の秩序や存続を前提としない殺人禁止の根拠はあるのか?』という事になるのだと思います。
結論から言いますと、社会(他者との相互関係)を前提としないヒトには『ヒトを殺してはいけない理由』はありません。
また、『ある倫理体系(善悪の分別の体系)を有する社会(共同体)を前提としない人間』は、通常の人間の存在形式からは想像できないし、言語・倫理・情緒を獲得する機会が存在しないために野生動物と類似した生態になるため『殺人禁忌の考察』から除外して良いと思います。
人間は、非常に無力な状態でこの世界に誕生するため、一人で生きていけるようになるために必ず親の保護や養育を必要とします。
あるいは、親を持たない場合でも児童福祉施設の福祉士や担当教官などの養育者を持ちますから、必然的に社会(他者との関係)を前提としてこの世界に存在していることになります。
例外として、狼に養育された人間アマラとカマラのような事例もありますが、人間でないものによって養育された場合、言語機能や対人関係による感情体験を持ちませんから『何が正しく、何が間違っているのか』という善悪(倫理)の認識可能性そのものを持っていません。
人間(他者)のいない世界で生きる動物的なヒトには、『人間を殺してはいけない理由』は存在しませんから、私たちが、アマラとカマラのような野生のヒトと自然界で出会えば捕食対象として殺される可能性は絶えずあります。
また、彼らは言語機能あるいは感情体験、教育履歴を持ちませんから、殺すことに罪悪感や抑制を感じることはないでしょう。
この事から言えるのは、先進国の文明社会であれ途上国の部落社会であれ『社会環境に生きざるを得ない人間だからこそ、殺人の禁止を受け容れる』ということです。
『社会環境に生きない言語・情緒・知識の発達していないヒト』ならば、その社会規範としての『人を殺してはいけない』を受け容れる必然性と合理性がありません。
しかし、現代という時代に限らず群居動物である人間は、『他者と共に集団を構成して』生きてきました。
現代の社会では生まれながらに、国籍や親子関係によって社会環境の中に置かれざるを得ません。
よほど未開の地域のジャングルか山林かで、自給自足の生活を野性的に送るなどしなければ、私たちは『社会の外部』で他人と関わらずに生きていくことが出来ません。
また、親(養育者)がいなければ、新生児や幼児は自力で生存を維持することがまず不可能ですから、私たちのほぼ全てには親あるいは親代替の大人がいることになります。
私たちが、『人を殺してはいけない』とする倫理観を自然に受け容れる基盤は、この親子関係や家族関係の中で獲得する『人間に対する基本的な愛情や信頼』にあると考えられます。
この基本的な愛情や信頼は、成長過程において、まず友人へと拡大し、異性へと、恋人や配偶者へと拡大していきます。
そして、自分の子孫に安心して生活できる社会、他者との殺し合いや奪い合いの少ない社会を残したいという倫理的精神が形成されると考えられます。
これを敷衍すれば、社会環境に生きる大部分の人(人間に対する基本的な愛情や信頼のある人)には、『他者を殺したいという切迫した欲望や衝動』がありませんから、『何故、人を殺してはいけないのか』について考える必要がそもそもなく、『殺してもいいよ』と言われてもまず人を殺しません。
社会環境で生きざるを得ない人間の多くには、『自分以外に大切な他者がいて、社会から相互扶助的な恩恵を受けている』ので、『他者や社会を破壊したいという欲望』が生まれないからです。
その為、『何故、人を殺してはいけないのか?』という倫理学的な問いかけに対する答えは、『自然界で孤立する非社会的なヒトではなく、社会的な存在である人間であるから』ということになろうかと思います。
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/00408402/
Yahoo!ブックス - 狼に育てられた子 カマラとアマラの養育日記 / J・A・L・シング/著 中野善達/訳 清水知子/訳
>ここでイスラム過激派とそれ以外が同じテーブルに着けるような「殺してはいけない」は、やはり存在しないのでしょうか?
この質問に答えるためには、『何故、人を殺してはならないのか?』ではなくて、『何故、人を殺さなくてはならないのか?』を考えたほうがいいでしょうね。
イスラム過激派が、テロリズムを実行して殺人をするのは、『殺人が好きだから、殺人を欲望するから』ではありません。
『人殺し(テロリズムによる恐怖)以外の方法では、自分たちの主張(政治的・経済的・宗教的な主張)を国際社会に認めさせる方法はない』とテロリストたちが確信しているからです。
彼らと同じテーブルにつく条件であれば簡単です。
彼らの故郷である中東地域から全ての外国軍隊を撤退させ、彼らの政治的主張であるナショナリズムに基づくアラブ人による国家統治を承認すること。
そして、先進国の生活水準を落としてでも、徹底的な経済援助を行い、アラブ共同体から貧困や被差別、不公正感の意識を排除することです。
しかし、先進国も自らの国益を捨ててまで、アラブの人々の生活水準を押し上げようとは思いませんし、前近代的なイスラム原理主義や熱狂的アラブ主義による中東の国家統治も国際社会の安全保障の観点から容認しないでしょう。
人間が人を殺すとき、あるいは、既存の社会秩序を破壊するときとは、何らかの『不幸・屈辱・怨恨・収奪・欲求不満』があるときだと考えられますから、その不幸や不満を取り除く事が『殺人禁忌』を相手に認めさせる最も実効的な方法だといえます。
結局、『人を殺してはいけない』という殺人禁忌は、『自己・社会・他者の肯定感覚』によってのみ普遍的な正当性を保ち得るということです。
『人を殺してはいけない』という規範を普及させたいのであれば、『この社会に生まれてきてよかったと思える人・愛する恋人や配偶者・子どもと生活を楽しめる人・不当な差別や迫害を受けず、致命的な貧困や屈辱の状況下に置かれていない人』を社会の中に増やす以外に方法はありません。
幸福な状況にある人、愛する他者がいる人、社会環境に生きることを肯定する人は『人を殺してはいけない』という倫理をあっさりと受け容れることが出来ます。
反対に、圧倒的に不幸で不自由な状況にある人、愛する他者も愛してくれる他者も全くいない人、この社会や世界に生きていることが嫌で嫌でたまらない人は『人を殺してはいけない』という倫理を容易には承認し難くなります。
模範解答のように美しいですね。(チャカしてるのではありません)
噛みしめて読みたいと思います。
ただ、美しいけれど、わたしのための回答ではない気がします。
わたしはあまり倫理を支持できないのです。
http://takapan.nobody.jp/tbyk/t_nazehitoo.html
なぜ人を殺してはいけないのか。
人を殺してはいけない理由というより、人を殺すのには理由がいると考えます。
これは究極的には、理由があれば人を殺してもかまわないという意見です。
思うに、普段の私達は他人を殺すほどの強い理由、動機、意志、を持てないんじゃないでしょうか。他のことで忙しいので。
だから、人を殺すことができないのだと思います。
いけない理由はないに該当ですね。
ポイントはいりません。
わたしの(ぼんやりとした)考えに近いです。
衆院選には立候補されますか?
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では、とりあえず締めさせていただきます。
充分納得いく回答はありませんでしたので、
均等配分とさせていただきます。
ありがとうございました。
この回答はたぶん「法律」か「倫理」だと思います。