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ディズニーのキツネ史:『ピノキオ』から『ズートピア』まで/前編

目次

Twentieth Century Foxes in Disney

 『ズートピア』については

『ズートピア』におけるハードコア反復/伏線芸のすべて - 名馬であれば馬のうち

 で作品内情報から組み立てたミクロな記事。

 
『ズートピア』の制作史、および『ズートピア』のテーマは「差別」であるのか? - 名馬であれば馬のうち

 で作品の縦糸をたどった記事を作ったわけですが、そうなってくるといっちゃんマクロな記事が欲しくなってくる。

 『ズートピア』という作品がこれまでのディズニーアニメ史のなかでどのようなポジションを占めているのかが気になる。具体的にはジェネラルなアニメーション史よりもモチーフの変遷が気になる。キツネが気になる。キツネが。

 というわけで。
 この記事では、ディズニーがいかにしてキツネという動物を描写してきたか、その変遷を簡単にたどり、積み重ねられてきたイメージが『ズートピア』でいかにして活用されたのかを見ていきつつ、『ズートピア』を歴史的な文脈に位置づける感じで満足を得たい。

 よって、以下の作品のネタバレを含みます。
 『ズートピア』、『ピノキオ』、『南部の唄』、『ロビン・フッド』、『きつねと猟犬』、『チキン・リトル』(2005年版)、「チキン・リトル」(1943年版)、「きつね狩り」、「ドナルドのきつね狩り」

 
 あと前編は作品ごとのアウトラインをなぞる感じなので、作品鑑賞済みなら大体あらかじめわかります。
 『ズートピア』と上記作品群との関連を手っ取り早く参照したい場合はすっとばして後編へどうぞ。

proxia.hateblo.jp

 結論だけ言っとくと、『ズートピア』のニックは恵まれないディズニーのキツネたちの魂を救済するために現れたヒーローだったのです。


1930年代:ディズニーのキツネ前史

「キツネ狩り」(The Fox Hunt、1931年、ウィルフレッド・ジャクソン監督)

 あらゆるものに前史があるように、ディズニーのキツネにも「『ピノキオ』以前」が存在する。1931年に短編シリーズ〈シリー・シンフォニー〉の一篇として発表された白黒フィルム「キツネ狩り」がそれだ。

 上映時間は七分。ストーリーは相応に素朴だ。


 大勢のハンターたちが、たった一匹のキツネを狩るため、猟犬や馬を駆ってよってたかって追いかける。キツネはとにかく突っ走り、犬も馬も追いつけない。しかし、多勢に無勢。キツネは、中が空洞になった倒木まで追い詰められ、まわりを完全に包囲される。
 ハンターが倒木の節目へ手をつっこみ万事休す、かとおもいきや、出てきたのはスカンク。ハンターたちは恐れをなして一目散に遁走する。
 倒木からゆっくりキツネが出てきて、してやったり、スカンクと握手するところでハッピーエンド。


 この記念すべき「ディズニー最初のキツネ」はいかなるキツネだったか、といえば、「ただのキツネ」としか表現しようが無い。
 最後に入れ替わりトリックをしかける頭の良さを備えてはいるものの、基本的には人間たちから追われる可哀想な野生動物だ。作画もフラットで、擬人化されている様子はない。あくまで、一介の動物として描かれている。動物は動物であり、善も悪もクソもない。
 1931年時点のディズニーのキツネは、そういう存在なのだった。


「ドナルドのきつね狩り」(The Fox Hunt、1938年、ベン・シャープスティーン監督)

 ところが、ディズニーのキツネ観はわずか七年後には一変する。ベン・シャープスティーンがドナルド・ダックシリーズの九作目として1938年にリメイクした「ドナルドのキツネ狩り(The Fox Hunt)」を見てみよう。

 ハンターが人間からドナルド・ダックやグーフィーに入れ替わっただけで、31年版とあらすじはほとんど変わらない。
 ただ細部を眺めてみると、キツネのずる賢さがより強調されているのがわかる。31年版では逃走一辺倒だったが、ドナルド版ではドナルドをちょっとした奸計にかけておちょくるシーンが追加されている。

 キツネの顔つきも白面に吊り目といったいかにも「策士顔」で、さらには舌なめずりする癖まで追加され、あきらかに「ずる賢いキツネ」として描かれている。ラストシーンもスカンクと入れ替わるところまでは一緒だが、スカンクと握手を交わすシーンは削られていて、なんとなく異なる印象が後をひく。
 そう、1931年版と1938年(ドナルド)版で決定的に異なるのは、キツネにある種の性格が付与されている点、言い換えれば擬人化がなされている点だ。

 この擬人化された「ずる賢いキツネ」像をシャープスティーンは自らの監督作で発展させていく。
 1940年、ディズニー長編アニメ第二作、『ピノキオ』だ。


1940年代:「悪人としてのキツネ」確立期

『ピノキオ』(Pinocchio、1940年、ベン・シャープスティーン&ハミルトン・ラスク監督)

 動物を擬人化する発想は長編第一作『白雪姫』の時には見受けられなかった。『白雪姫』の冒頭、いたいけな少女であるスノウホワイトが歌うと鳥やウサギといった森の獣たちが吸い寄せられように集まってくるが、彼らはしょせんスノウホワイトの純粋さを強調するだけの存在にすぎず、喋りもしなければ一個の存在として意思表示することもない。人間と獣が完璧に二分された世界だった。

 翻って、ピノキオは現在の視点からしても不可思議な世界観を持っている。
 いちおう我々の知る人類の世界であるらしいけれども、洒落者のコオロギが喋り、クジラや金魚が感情豊かにふるまい、服を着たキツネが街を闊歩する。かと思えば、二本足で歩くネコがいる一方で、まったく言葉を解さない動物としてのネコも同時に存在する。
 そうした境界の曖昧さが『ピノキオ』一流のファンタジー世界を成立させる一助となっているわけだけれども、さて、キツネの話だ。

 『ピノキオ』に出てくるキツネは”正直(オネスト)”ジョン・ワシントン・ファウルフェローという大層な名前の詐欺師で、ディズニーの悪役商会たる〈ディズニー・ヴィランズ〉にも名を連ねている。

 ファウルフェローはディズニーのキツネ史上でも屈指にうさんくさい顔貌を有する。「ドナルドの狐狩り」のキツネから引き継いだとおぼしきつり上がった眼、極端に濃い眉毛、とっちらかって貧相なヒゲ、大きく裂けた口。これにぼろぼろの着物とやたら芝居がかったオーバーアクションを加えればファウルフェローの出来上がりだ。

 彼(と相棒のネコ、ギデオン)は都合二度ほど劇中に登場する。
 そのどちらも世間知らずのピノキオを舌先三寸で騙して怪しげなおっさんへ売り飛ばす、という、まあ、ろくなものじゃない。*1

 キツネが『ピノキオ』に配役された理由は単純かつ明白だ。彼は原作となるコッローディの童話『ピノッキオの冒険』にも出てくるキャラで、そのときからキツネだったのだ。
 もっとも、原作と映画では微妙に悪っぽさが違う。原作のキツネとネコは名無しのならずもので、ピノキオをアグレッシブに殺そうとしたり、「金のなる木が生えてる場所に案内してやる」といって金貨を奪ったりとかなり野蛮で荒削りな面が強い。

 かたや、我らがファウルフェローは暴力を振るわないスマートな紳士(と自分では思っているの)であり、あくまで穏やかかつ強引にピノキオと「交渉」する。
 こうした改変は、原作の時代と映画の時代とでのそれぞれにおける「世間で遭遇しうる悪」の違いが反映されているのだろう。
 1800年代のヨーロッパでは野盗や追い剥ぎがまだまだリアルだったのに対して、1940年のアメリカでは世間知らずな坊やをペテンにかける都会の詐欺師のほうがより身近で現実的な脅威だった。


前史の前史:キツネはいつから悪者であったのか。

 『ピノッキオ』(原作)は十九世紀のイタリアで生まれた。
 この事実は、すくなくともその頃までに、フィクション中の動物の役回りとして「キツネ=ずるい、悪い、詐欺師」という定形概念がヨーロッパに膾炙していた事実を示唆する。
 ではいつからキツネは「ずるがしこい悪者」扱いされていたのか。

 最初からだ。

 紀元前4世紀ごろに古代ギリシアの哲学者*2アリストテレスが著した『動物誌』にキツネの性格に関して以下のように述べている。良識ある読者は動物に性格もクソもないとおもうだろうけれど、なにぶん2000年以上前の人の言うことなので許してあげてください。*3


 ……また、キツネのように、ずるくて、悪さをするもの、……


p.28、『動物誌』アリストテレース、島崎三郎・訳、岩波文庫



 紀元前におけるキツネのステロタイプはイソップ寓話でより特徴的に出ている。イソップ寓話でキツネが表題に入っている寓話は二十八ある*4といわれ、狡猾に立ちまわって利益を得るか、そのしっぺ返しを喰らうかするパターンが多い。
 たとえば、肉を咥えたカラスをおだてまくって肉をせしめる「カラスと狐」や井戸に落ちて困っているところにのこのこやってきた純朴なヤギを騙してハシゴがわりに使う「狐とヤギ」などは前者、鶏を謀ろうとするも逆に騙されて鶏の友人である犬に食い殺される「雄鶏と犬と狐」などは後者に分類される。基本的に、イソップのキツネは騙しにかかってくる詐欺師だ。
 イソップ寓話の起源は紀元前七世紀から六世紀にかけて生きた古代ギリシアの奴隷アイソーポス(英語読みでイソップ)であったというけれども、当然アイソーポスが現存する寓話をなにもかもこしらえたわけではない。とはいえ、キツネがかなり文明史のかなり早い段階から「ずる賢い」というイメージで語られていたことがわかる。
 そうした動物寓話が中世に結実していわゆる『狐物語』が生まれるわけだけれども、これについては『ロビン・フッド』と絡めて後述する。

 で、じゃあなんでヨーロッパ人が歴史的にそんなキツネに負のイメージを押しつけていたといえば、要は害獣だからだ。害獣のなかでも、悪目立ちする害獣だったからだ。
 キツネは家畜を襲い、農作物を荒らす。鳥やネズミなどと違って体格も大きいため目につきやすく、頭も良いため人間側が対策を講じてきてもやすやすと破ってしまう。
 また、キツネは野生動物であるけれども、比較的人間に近いところを生活圏にしている。野生と文明との間に立つ、近くて遠い存在、それがヨーロッパにおけるキツネという生き物だった。


 ネコにもイヌにも似ており、狩猟の対象であるが食べられはせず、境界上の生き物である。
 つまり、柵のならび、森の周辺、小屋の前庭、野原のはずれ、そして昼と夜の境目の生き物である。彼はわれわれの約束事を破るものであり、それゆえに、のがれるすべもなく、退屈で、固定した予測可能な生活にとらわれていると感じるものたちの秘密のアイドルなのである。


 p.222、『動物論―思考と文化の起源について』、ポール・シェパード、寺田鴻訳、どうぶつ社



 いくら神秘的とはいえ、害獣であることに変わりない。時代がくだるにつれ、ヘイトをためていく。ついには「ギリシア人はアルヒロコス以来狐の八六〇の悪業を知っているが、セム人は既にそれよりもっと多くの悪業の数々を知っている」*5などとdisられ、おそろしい魔女や悪魔*6と結び付けられる始末。
 中世までの民衆におけるキツネのイメージは、聖書や博物学者のコメントをまとめた古代博物譚『フィシオログス』に能く要約されている。


 フィシオログスはキツネについてこう語る。キツネはまったくずる賢い。メギツネが空腹になってえさがないと、彼女は抜け目のない計略をたてる。……(中略)……悪魔もまた、その業はすべて、悪賢い。その肉に加わるものは死ぬことになる。悪魔の肉とは、わいせつ、強欲、売春、好色、殺人である。どうしてヘロデはキツネに譬えられたのだろう。あのキツネにいえ、こう主は言われたのだ。*7


p.47、『フィシオログス』、オットー・ゼール、梶田昭・訳、博品社



 ヘロデとはキリスト生誕当時のユダヤ人の王だ。『マタイによる福音書』では「新しい王」であるイエスが生まれたと聞いて怯え、ベツレヘムで二歳以下の男児を全て殺害させたとされる。
 そんな新約聖書最大の悪役と重ねられるくらいだから、キツネがいかにヤな印象を持たれていたかが知れる。

 もともと作物や家畜を盗み食いするので迷惑がられていたところに、動物を擬人化することによって教訓を語る「寓話」という説話形態が現れたので、みんなよってたかってキツネの性格=ずる賢い、悪い、詐欺師というステロタイプをべたべた貼り付けていった、という、まあそんな認識でさして間違ってないんじゃないかと思う。思う程度なので、本当のところを知りたい人は専門家をさがすかものの本を読んでください。
 そして、この「キツネ=狡猾な悪役」のイメージが『ズートピア』のニックにまで連綿と保存されてきた。
 けれどそれはあくまで一般レベルでの現象であって、『ピノキオ』から『ズートピア』に至るまでずっとキツネの株価が横ばいだったといえば、そんな簡単でもない。


「チキン・リトル」(Chicken Little、1943年、クライド・ジェロニミ監督)

 さて、ここでもう一つ短編を挟む。
 『チキン・リトル』という題名を聞くと、2005年の凡作長編『チキン・リトル』を思い出す人が多いとおもうけれども、あれは1943年に発表された本短編のリメイクだ。
 といっても、あらすじはだいぶ違う。他の有名作とは違ったあまりに知られていない短編なので、アタマからケツまで筋を割ろう。


 あるうららかな午後、キツネのフォクシー・ロクシーが農場で飼われている鶏たち(なぜか人間のように文明化されている)に目をつける。
 ところが農場は堅固だ。柵で囲われている上に、下手すれば農場主に銃で撃ち殺される恐れがある。
 そこでフォクシーは心理学の本をヒントに一計を案じる。いかにものろまそうなヒヨコ、チキン・リトルに目をつけると、神のお告げを騙り、「空が落ちてくるぞ!」と囁く。
 チキン・リトルは驚倒して「みんな逃げろ!」と農場に触れ回るものの、鶏たちのリーダー、コッキー・ロッキーの論理的な演説によってたちまち混乱は終息する。

 コッキーを難敵と見たフォクシーは、さらなる謀略を練る。
 柵に空いた節穴を利用して鶏たちに「コッキーは全体主義者だ」などとありもしない流言を吹きこみ、リーダーに対する不信を煽ったのち、チキン・リトルに再び語りかけ、「コッキーにとって代われ、おまえが真のリーダーとして皆を導くのだ!」と吹き込む。
 すっかりその気になったリトルは皆の前で「僕についてこい!」と一席ぶつが、コッキーは「『空が落ちてくる』なんて大ぼら吹いたあいつについていくのか?」と論難する。
 そこに星の絵が描かれた板が柵の外から飛んできて、コッキーの頭にぶつかる。もちろん、キツネが投げ入れたゴミだ。
 ところが、何も知らないニワトリたちは「本当に空が落ちてきた! リトルは正しい!」とパニックに陥り、リトルの信奉者になる。

 しかし、空が落ちてくるとして、どこに逃げればよいのか。
 フォクシーはリトルに「ほらあなに逃げ込め」と吹き込み、リトルはみなを柵の外にあるほらあなまで先導する。
 ニワトリたちが一匹残らずほらあなに入りきったところで、フォクシーは「さて、ディナーの時間だ」*8とナプキンをクビに巻く。
 このまま、ずる賢いキツネが勝利してしまうのか?
ナレーターは「心配ありませんよ。お話の結末はハッピーエンドと相場は決まっているものです」と視聴者に語りかける。

 が、次のカットでは腹を膨らませて満足そうに骨をしゃぶるフォクシーの姿が映る。ニワトリは全滅したのだ。
 ナレーターは驚愕し、「こんなの間違ってる! こんなオチは僕の脚本にないよ!」と文句をつける。
 キツネは葉巻をふかしながら心理学の本に肩肘をつき、不遜な顔で、「おや、そうかい? 本に書いてあることを何でも信じるもんじゃないぜ、兄弟!」とうそぶき、ジ・エンド。


 1943年版「チキン・リトル」は擬人化された動物のイメージ利用の極致だ。
 というのも、フォクシー・ロクシーはあきらかにヒトラーを指示している。政治利用である。
 2004年に出たDVDのコメンタリーによれば、劇中に登場する心理学の本(表紙に「心理学(Psychology)」と書かれている)は当初ヒトラーの著書『我が闘争(Mein Kampf)』が予定されていたらしく、事実フォクシーが読み上げる一文は『我が闘争』からの引用だ。
 その上、フォクシーがニワトリたちに吹き込む流言の内容も「コッキーは全体主義者だ」などとやけに政治的で具体的だったりもする。
 本作が枢軸国と激戦を繰り広げていたアメリカの銃後における情報戦や思想戦の注意喚起を呼びかける内容であることは一目瞭然だ*9。あるいはナチスに踊らされて食い物にされるドイツ国民や親独国家へのあてこすりという面もあったかもしれない。*10

 とにもかくにも、ウォルト・ディズニー(「チキン・リトル」ではプロデューサーとしてクレジットされている)は長年築き上げられてきたキツネの負のステロタイプを史上最悪の虐殺者と連結させる、という戦争犯罪を犯した。しかし彼もまた世界第八位の海軍力を擁する軍事国家の独裁者だ。*11我々には裁きえない。
 フォクシー・ロクシーは『ピノキオ』のフォウルフェローに輪をかけて凶悪な顔つきをしている。ワニのようにするどい牙をむき出しにニヤリと微笑むカットなどからはフォウルフェローに残っていた道化的な愛嬌などかけらもない。


『南部の唄』(Song of the South、1946年、ハーブ・フォスター監督)

ウサギどんキツネどん―リーマスじいやのした話 (岩波少年文庫 (1003))

ウサギどんキツネどん―リーマスじいやのした話 (岩波少年文庫 (1003))



 ラバのことを知りたいからって、何もラバの脚に蹴られる必要はない。それはワシがリーマスだってことと同じくらい確かなことさ。
 ブレア・ラビットやブレア・フォックスの物語は人間の世界にも当てはまる。
 でも、動物の話なんか役に立たんと思う人は耳を傾けようとはしない。
 忙しいというより、悩みに気を取られて余裕がないんだなあ。


 『南部の唄』冒頭のリーマスおじさんによるナレーション



 終戦後からの長い期間、いわゆるディズニー・クラシックスの映画にキツネは出てこなかった。
 その間に、ディズニーは動物擬人化によって人種や差別問題を隠喩的に描きつつ子どもも楽しめるエンタメの手法を確立した。たまにカリカチュアが過ぎてマイノリティから反発を喰らうことがあったにしても、だ。

 たとえば『おしゃれキャット』(1970年)のミュージカルシーン「みんなネコになりたいのさ」に登場するピアニスト兼ドラマーのシャム猫*12は明らかに中国人(に代表されるアジア人種)のコメディチックなステロタイプにのっとったキャラクターだ。*13
 彼には箸でジャズ・ピアノを弾きながら「ホンコン、シャンハイ、エッグ・フー・ヤン*14! フォーチュン・クッキーはいつもハズれ!」と歌うパートまで割り当てられていたのだが、九十年代にリリースされた『シングアロング-ソング』ビデオシリーズ*15やサウンドトラック・コンピレーション・シリーズ『Classic Disney: 60 years of Musical Magic』ではそのパートがカットされている。近年のコンピレーションやサントラで聴けるのは、この短縮ヴァージョンのみだ。*16
 劇中で使用されたミュージカル曲をフルレングスで収録したことがウリだった2015年の『The Legacy Collection』シリーズで『おしゃれキャット』が出された時も、シャム猫のパートから歌が消え、ピアノの伴奏だけに編集されている。ここまで徹底的にサントラからシャム猫を排除しておきながら、現行のソフトではまだ残されているのがよくわからない。

 しかしまあ、『おしゃれキャット』などは、まだ幸せな方だった。ディズニー映画の中にはあまりに抗議の声が高まったために、フィルモグラフィから事実上抹消された映画すら存在する。
 終戦の翌年、1946年に公開された『南部の唄』だ。

 『南部の唄』を観るすべは現状存在しない。90年前後に二度LDとビデオ*17が発売されたきりで、BlurayどころかDVDも出ていないし、本国アメリカでも86年に再公開されたきりでソフトはビデオ時代から今日に至るまで一本も発売されずじまいだ。
 原因は全米黒人地位向上協会(NAACP)によるクレームを受けての自主規制、と一口にいえば簡単だけれども、これ自体論じると本が一冊できるくらいのアレになるらしく、実際アメリカでは二三冊、『南部の唄』封印問題についての本が出ている。


ディズニー映画「南部の唄」"SONG OF THE SOUTH"とスプラッシュマウンテン

http://www.shueisha-int.co.jp/machiyama/?p=564


 まあ要するに、「奴隷制の時代が舞台なのに、主人の白人と奴隷の黒人があたかも対等であるように描いているのは歴史の歪曲だろが」ということだ。*18
 かならずしも人種描写云々が問題視されたいうわけでもなく、実写とアニメの混成した手法の特殊性によって、『南部の唄』は〈ディズニー・クラシックス〉のナンバリングからは除外されている。*19よって厳密には、本作は「ディズニーの長編アニメ作品」ではない。
 ないけれど、キツネは出てくる。それこそが我々唯一の興味だ。

 さて、キツネはどこに出てくるか。
 『南部の唄』は二つのパートに分かれる。
 一つは南部の白人少年ジョニーが近所に住む少女ジミーや黒人のストーリーテラー、リーマスおじさんと交流を深める実写パートで、もうひとつはリーマスおじさんが語るブレア・ラビットの物語を再現したアニメパートだ。
 後者のお伽話パートでブレア・ベアとともにブレア・ラビットを狙う悪役こそ、我らがブレア・フォックスだ。力任せにラビットを狙う脳みそ筋肉野郎ベアとは対照的に、フォックスは知性派だ。計画を練り、罠をはる。
 フォックスのラビット捕獲作戦は100%うまくいく。『南部の唄』に挿入される小話は都合三つだが、そのいずれにおいてもフォックスはラビットを欺瞞して捕獲することに成功している。三回目など、捕獲の経緯をすっとばしていきなりラビットを捕まえた状態からはじまるほどだ。

 裏を返せば、捕まえたあとの段階で必ずラビットに逃げられているわけだ。
 絶体絶命の状態でラビットは自らの舌先だけを頼りに窮地を脱する。フォックスは罠を張るのは上手いが、ディズニーの他のキツネほどには舌が回らない。まんまとラビットに逃げられ、相棒のベアと一緒にひどいしっぺがえしを受けてしまう。*20

 ここで描かれているフォックスとラビットの関係性はハンナ・バーベラの『トムとジェリー』、あるいはワーナー・ブラザーズのバッグス・バニーとエルマーのものに近い。
 力に勝る強者である悪役が弱者である善玉を追い回すが、最終的には善玉の機知にやられてこっぴどい目にあう、というパターンだ。

 『南部の唄』は手法とメッセージが一致した作品だ。アニメパートだけに着目するといささか平坦に見えるものの、興味深いのは寓話の持つ効力が各所で讃えられる点で、いわば本編全体が一種の寓話論として織られている。
 実写パートの主人公である白人の少年ジョニーは近所に住むクソガキ兄弟から目をつけられている。そして、いよいよいじめられそうになったその時に、リーマスおじさんから聞かされたお話を思い出し、ブレア・ラビットのメソッドを応用することでクソガキどもの因果に応報をキめる。
 「腕力で敵わないなら、頭で勝負するんだ」という少年のセリフはリーマスおじさんのお伽話におけるブレア・ラビットの態度そのものだ。いじめっこたちの造形もフォックスとベアの鏡写しになっていて、少年=ブレア・ラビットの印象が強化される。*21
 少年は寓話から教訓を学び、人生の知恵を手にする。それはイソップ以来の正しい寓話の用法だ。
 ラストのアニメーションと実写が混在し融け合う感動的なシークエンスは、寓話の世界(アニメーション)が現実世界(実写)と地続きであることを示している。

 そしてその感動は同時にキツネへの風評被害をもたらす。
 寓話における動物は、人間の持つキャラクターの一側面を増幅した形態をとる。『南部の唄』のキツネは、もちろん、いじめっこのメタファーだ。
 ブレア・フォックスは『ピノキオ』のフォウルフェローの舌足らずの後継者であり、「善良でか弱い人間」を食い物にする悪意ある詐欺師として描かれる。

 ここまでが、ディズニーにおけるキツネの受難期だ。
 寓話における伝統的なイメージが反映された原作(『ピノキオ』も『チキン・リトル』も『南部の唄』も原作アリ)から「あくどいキツネ(sly fox)」をそのままひっぱってくることで現代におけるキツネのイメージを決定づけた。

 その後、四半世紀以上に渡ってディズニーのキツネは沈黙し、身をひそめる。
 次に大々的に登場するのは、ウォルト・ディズニー死後、1970年代に入ってからだ。

 「大々的に」でなければ、約20年後に登場する。
 60年代におけるふたつの作品でのキツネは、それまでの伝統的なキツネ観に沿ったささやかな脇の脇役だった。


1960年代:チョイ役のキツネ二匹。

『王様と剣』(The Sword in the Stone、1963年、ウォルフガング・ライザーマン監督)

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 主人公アーサーのメンターである魔術師マーリンがライバルの魔女マダム・ミムと魔法による変身対決を行う。
 ウサギに変身したマーリンに対して、マダム・ミムが変身したのがキツネだった。彼女は倒木へとウサギのマーリンを追い詰める。

 古典的な「魔女の化身としてのキツネ」のイメージだ。


『メリー・ポピンズ』(Mary Poppins、1964年、ロバート・スティーヴンソン&ハミルトン・ラスク監督)

 「キツネ狩り」を髣髴とさせるキツネ狩りのシーン。貴族的なハンターたちが大量に猟犬を放ち、キツネを追いかける。そこにメリー・ポピンズの親友であるバートがメリーゴーランドポニーに乗って現れて、キツネを救出し、垣根を越えて競馬場へとつっこむ。

 『メリー・ポピンズ』に出てくる名も無きキツネ(いちおう喋る)は、30年代の「きつね狩り」に見られるような、「人間から追われる弱者としてのキツネ」の系譜に属する。
 彼はディズニーのキツネたちのなかで最も貧弱な体つきをしており、四肢が非常に細い。しかし、お調子者な面も持ち合わせていて、バートに助けだされて自分が有利になったとみるや、追ってくるイヌたちの鼻面を殴ったりもする。

 初登場シーンで石塀の上に佇んでいるのが印象的だ。バートのポニーに乗って、垣根を飛び越えるシーンも。キツネとはやはり境界を行き来する動物なのだ。


1970~80年代「キツネ・ルネサンス」期

『ロビン・フッド』(Robin Hood、1973年、ウォルフガング・ライザーマン監督)

 終戦から三十年近くが経った。巨人ウォルト・ディズニーはすでに亡く、アメリカではカウンター・カルチャーが隆盛を迎え、確実に変化の局面を迎えていた。
 公民権運動、ウッドストック、フリーセックス、ヒッピーカルチャー。既存の価値観への異議申し立ての時代。
 キツネの立ち位置も受難期から一変する。
 なんと今度は主役だ。
 ヒーローだ。
 『ロビン・フッド』。


 十三世紀のイングランドで悪王ジョンに立ち向かった英雄ロビン・フッドの物語は世界的に有名であるけれども、動物たちの世界には動物版の「ロビン・フッド」がある――そんなナレーションで映画がはじまる。
 賢君である兄リチャードが十字軍のため遠征へ出ている隙に、プリンス・ジョンはイングランドを乗っ取ってしまう。
 実権を握ったジョンは国民に対し苛税を敷き、宰相のヘビ、ヒスやノッティンガムの保安官を務めるオオカミなどを使嗾して容赦なく税を取り立てる。民衆は反感を抱くが、ジョンの強大な権力の前に為す術もない。
 そこに現れたのが、シャーウッドの森を根城にするキツネの義賊、ロビン・フッドだ。
 彼は相棒のクマ、リトル・ジョンと共に巧みな変装術と知恵でジョンを謀り、大金を巻き上げて重税にあえぐ民衆に配ってまわる。
 やがて、一向に捕まらないロビン・フッドに業を煮やしたジョンはロビンに味方にする民衆をかたっぱしから牢屋に入れ、彼を誘い出そうと画策するが……というお話。


 さて、『ロビン・フッド』はこれまでディズニーのキツネたちが持ち得なかったある問いを孕んでいる。
 「なぜ、キツネでなくてはいけなかったのか?」という疑問だ。
 ロビン・フッドは伝説の英雄をモデルにしており、もとは人間だ。『ピノキオ』も『チキン・リトル』も『南部の唄』も原作がキツネだったから映画にもキツネが出てきたわけで、『ロビン・フッド』にはそうした正当性の根拠が見当たらない。
 原作にキツネが出てこないのに、なぜロビン・フッドはキツネでなくてはいけなかったのか。

 実のところ、答えは『ピノキオ』のときと大差ない。
 「"元々の原作”の主人公がキツネだったから」だ。

 話は『ロビン・フッド』制作以前に遡る。1960年代、ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオはある古典物語の映画化を考えていた。
 その物語の名は『狐物語』。中世ヨーロッパで成立した諷刺物語で、主人公の狐レナード*22は世をすねたトリックスターだ。王様のライオンをはじめとした他の動物達を次々と計略に陥れてとことん馬鹿にし、快楽を極めつくす。*23そんな姿が王権や教会といった既成権力に反感を持つ民衆のあいだで人気を博し、フランスでは「ルナール」といえば狐を指す代名詞にまでなった。
 ウォルト・ディズニーはレナードを主人公をすることに難色を示した。いくらなんでも他人の女を寝どったりするアンチ・ヒーローをディズニー映画の主人公に据えるわけにはいかない。*24そこでレナードを敵役に配置換えし、『シラノ・ド・ベルジュラック』の作者として有名なエドモン・ロスタンの戯曲『東天紅(Chanticleer)』*25の雄鶏カンテクレール*26を主人公に『カンテクレールとレナード(Chantecleer and Reynard)』という作品を構想する。
 しかし、結局スタジオは競合案である『王様の剣』(1963年)のプロジェクトをすすめることを決め、レナード狐の企画は頓挫してしまう。*27

 『狐物語』とりやめになったものの、そのマインドは70年代の『ロビン・フッド』へと継承された。
 ケン・アンダーソン*28は『ロビン・フッド』のキャラクター・デザインを担当するにあたり、レナード狐の企画からそのままデザインを流用したのである。*29

 たとえば、ロビン・フッドはレナード狐から、悪役であるオオカミの保安官はレナードのライバルであるアイゼングリム狼*30から、そしてプリンス・ジョンはライオンの王様から、といった具合に。*31『ロビン・フッド』におけるロビンのキツネ顔は、悪役時代のディズニーのキツネたちに特徴的な長いマズルがぐいっと引っ込み、より親しみやすいすっきりした造作になっている。どちらかといえば、ネコに近いか。

 一見正統派ヒーローであるロビン・フッドと欲深いアンチ・ヒーローであるレナード狐とでは水と油に見える。けれども、両者とも「王権に反抗し、搾取する側から逆に盗む市井の知恵者」という点では一致する。
 先述したように『狐物語』は王様や教会といった権力に抑圧されまくっている一般民衆の憂さ晴らしが含まれていて*32、それは後に「欠地王」として大国イングランドの栄華を墜落せしめたジョン王の痴政*33に対して草の根の英雄ロビン・フッドを夢想した*34イングランド国民とも軌を一にしている。

 要は民衆の願望が投影された庶民派アウトサイダーという点では変わらないわけで、レナード狐をロビン・フッドに重ねたケン・アンダーソンの慧眼は特筆に値する。

 何度も繰り返すようだが、キツネは野生と文明のはざまにたゆたう境界線上の動物だ。そのキャラクターの複雑さがキツネを悪漢とヒーローの間を行き来する存在へと仕立てあげる。
 本人たちにもその自覚があったようで、物語冒頭、相棒のリトルジョンがロビンフッドに「俺たちって良い人間なのかな、悪い人間なのかな?(Are we good guys or bad guys?)」という疑問を投げかける。「貧しい人たちに分け与えているとはいえ、盗みは盗みだし」
 ロビンは「盗んでないよ。借りてるだけさ」とはぐらかす。
 彼の「正義」はそこで棚上げされる。
 権力によって執行される正義は、その権力が正統である場合はまだいい。だが、その権力が正統性を欠き、間違った統治を行っている場合は?
 顛倒した権力を前にした抵抗もまた、顛倒した形で顕現する。目には目を、詐欺師には詐欺を。

 ロビン・フッドは弓の腕前こそ一級品だが、あまり腕っ節は強くない。彼の真の武器はキツネ伝家の宝刀、口八丁の狡知と逃走だ。
 『ロビン・フッド』には変装のシーンが頻出する。保安官やプリンス・ジョンなどのヴィランの前に現れるときはほぼ何らかの変装を行っている。
 序盤にたいそうな大名行列を従えて練り歩くジョンから大金や財宝を騙し取るシーンでは、ロマの女占い師に化けてジョンに近づき、庶民から保安官が税金を強制的に絞りとるシーンでは盲目の乞食として登場する。
 彼が真の姿を晒すのは庶民やヒロインであるマリアン姫の前だけだ。
 兄王をたぶらかすことで本来自分が握る権利のない支配者の座を手に入れたジョンは国民に対して常に自らを偽った状態にある。そうした王を装う王への礼儀として、ロビンも本来の自分ではない姿でジョンに拝謁するわけだ。
 逆に、正直に生きる民衆やマリアン姫の前ではロビンも正直な自分を晒し、ジョンを打倒し、すべて本来通りに恢復された暁にはロビンもまた変装する必要がなくなる。

 また、彼はほとんど戦わない。常に逃げている。クライマックスともいえるジョンとの直接対決のシーンでさえ、焦点となるのは「ロビンが逃げ抜くことができるのかどうか」だ。これは他のディズニーヒーローたちとは趣味が異なる点だ。
 弓矢という武器のチョイスも、彼が蛮勇とは無縁であることを証している。暴力による支配に対して非暴力的な手段で抗う。
 ロビン・フッドは間違いなくカウンター・カルチャーから生まれたヒーローだった。

 余談になるが。
 『ロビン・フッド』とおなじく『狐物語』に多くを負いながらも他の作品を直接の原作とするアニメ映画が存在する。
 2009年のウェス・アンダーソン監督『ファンタスティック Mr.Fox』だ。このストップモーションアニメはストーリーの部分はロアルド・ダールの『父さんギツネバンザイ』を元にしつつ、ストップモーションアニメとしての血統はポーランドの伝説的アニメーション監督ラディスラス・スタレヴィッチの『Le Roman de Renard』(1937年)に起源する。『Le Roman de Renard』の英題は『The Tale of the Fox』。そう、『狐物語』の映画化だ。
 ウェス・アンダーソンはこの事実に自覚的であったように思われる。というのは、『ファンタスティック Mr. Fox』には『ロビン・フッド』の劇中歌「Love」が流れる一幕があるからだ。キツネ映画の先達として、『ロビン・フッド』にオマージュを送ったのだろう。

 『ファンタスティック Mr.Fox』は『ロビン・フッド』の血を継いでいる映画であって、『ズートピア』とはいとこみたいな関係にある。そんなわけで『ファンタスティック Mr. Fox』と『ズートピア』を比べてみると色々と面白いわけだけれど、本記事はディズニーのキツネたちについて述べる場であって、残念ながらジョージ・クルーニー演じるイケメンナイスミドルキツネのための席は用意されていない。


『きつねと猟犬』(The Fox and the Hound、1981年、アート・スティーブンス&テッド・パーマン&リチャード・リッチ監督)

 ウォルト・ディズニーからディズニー王国を託されたウォルフガング・”ウーリー”・ライザーマンを筆頭とする伝説的なアニメーター集団「ナイン・オールドメン」は60年代から70年代にかけてウォルト不在のスタジオを支え、ディズニーのブランドに不滅の名声と信頼をもたらした。
 ナイン・オールドメンが引退し方向性を見失った80年代は一転してディズニーの暗黒期とみなされる事が多い。*35

 そんな過渡期に生まれたのが1981年の『きつねと猟犬』だった。本作はライザーマンら旧世代の引退作である一方で、ティム・バートン*36、グレン・キーン*37、ブラッド・バード*38、ロン・クレメンツ*39、ジョン・ラセター*40、マーク・ディンダル*41、マーク・ヘン*42、マイク・ガブリエル*43、ケリー・アッシュビー*44、クリス・バック*45などの新世代の台頭も予感させるフィルムとなっている。*46

 本作はつまるところキツネと猟犬、本来ならけして交わることのないふたりの禁断の愛を描いたBLであるわけですが、そろそろ自前であらすじ書くのがめんどくなってきたので、ウィキペディアから引用します。

 母を殺され、人間に育てられた子ギツネ・トッドと、その隣人の猟師の元へやってきた、猟犬の子犬・コッパー。2匹は、将来敵同士になるとも知らず、親友となります。月日が流れ、大人になったトッドは森へ帰り、コッパーは立派な猟犬へ。もはや敵同士となって再会した2匹。しかし、そんな彼らの前に、巨大なクマが現れ……。

 サンキューウィキペディア。と言いたいところだけど、いくらなんでも雑い。なんだそのクマは。唐突すぎるだろ。っていうか、あらすじ直下の登場キャラ紹介のところで「クマ:恐ろしい巨体クマ。キツネのトッドと猟犬のコッパーの戦いで敗れた」とか書いてんじゃねえよ。

 で、補足すると、コッパーにはチーフという猟犬の師匠がいて、その彼がトッドを追ううちに鉄道事故に遭って不具になってしまい、そのことでコッパーはかつて親友だったトッドにヘイトを向けるのです。

 それはさておきつ、『きつねと猟犬』の主軸になっているのは「生まれの違うもの同士の友情」だ。ほとんど『ロミオとジュリエット』的とも言ってもいい。憎しみ合う二つの家系に生まれた二人が愛し合ってしまったがばっかりに悲劇にまきこまれてしまう。
 友情ではなく恋愛に対象に拡げれば、ディズニー映画における「身分違い」や「生まれの違い」は枚挙にいとまがない。戦前戦中のディズニー長編でそもそも恋愛をまともに描いたのは『バンビ』くらいだったが、プリンセスものとの相性の良さもあいまって戦後には「身分・生まれ違い」の恋愛が増えていく。

 嚆矢はやはり、1950年長編第12作『シンデレラ』(ベン・シャープスティーン監督)だろう。その後も1955年第15作『わんわん物語』(ハミルトン・ラスク監督)、1970年第20作『おしゃれキャット』(ウォルフガング・ライザーマン監督)、そういえば『ロビン・フッド』のロビンとヒロインのマリアン姫も身分違いだった。
 80年末代末以降のいわゆる〈ディズニー・ルネサンス期〉に入ってくるともはや身分違いでない恋を探すほうが難しい。1990年28作『リトル・マーメイド』(ジョン・マスカー監督)、1991年第30作『美女と野獣』(ゲイリー・トゥルースデイル監督)、1992年第31作『アラジン』(ジョン・マスカー監督)、1995年第33作『ポカホンタス』(マイク・ガブリエル監督)……。
 特定の作品*47を除き、身分・生まれ違いの恋愛は常にハッピーエンドで終わる。この点はどの作品でも共通している。原作が悲恋に終わる『リトル・マーメイド』すらもハッピーエンドに書き換えられていた。

 ところが『きつねと猟犬』の結末はハッピーエバーアフター主義のこれらの作品と一線を画す。ハッピーエンドといえば一応ハッピーエンドであるものの、どこか苦い余韻を残すものとなった。見てみよう。

 終盤のクライマックス。猟犬のコッパーはトッドを追う途中、クマに襲われる。キツネのトッドは恋人のキツネとともに一旦は逃れかけるが、絶体絶命のピンチに陥っているコッパーを見て舞い戻り、身を挺してクマを撃退する。
 その直後、コッパーの飼い主である猟師のスレイドが姿を表わす。
 何も知らない彼はトッドに銃を向け、その前に立ちはだかっているコッパーにどくように命じる。が、コッパーは動かない。命がけで自分の命を救ってくれたかつての友を、自分もまた守ろうとする。
 飼い犬の頑なな態度に何かを悟ったスレイドは、銃を下ろす。
 コッパーとトッドの友情が復活する。
 しかし、もはや以前と同じように、とはいかない。仔犬時代のような密な付き合いをするには、お互い違う時間を生き過ぎていた。
 コッパーは猟犬として人間と共に生きなければならない。トッドは野生動物として妻とともに森で生きなければらない。
 ふたりは笑顔を交わし、無言で別れを告げる。

 ラストシーン、トッドの元飼い主である老婦人に甲斐甲斐しく世話をやかれて不面目そうな猟師を見やりつつ、師匠のチーフとともに犬小屋で穏やかにまどろむコッパー。カメラが引いていくと、その彼を、遠く、森の入口から眺めるトッドとその妻の影が映る。
 もはや二度と交わらないものの、ふたりの友情は永遠であろうことがそのショット一発で示される。

 叙情感とエモさだけでいえば、ディズニー史上トップクラスと言っていいラストだ。これで涙しない人間は人間ではない。
 ところで、なぜ、ふたりは離れ離れにならなければいけなかったのだろう。なぜ、『わんわん物語』のレディとトランプのように、『おしゃれキャット』のダッチェスとオマリーのように、仲良く暮らす結末にならなかったのだろう?


 IMdbのトリビア集を信じるならば、原作となったダニエル・マニックスの小説ではそもそも二人は友達ですらなかった。チーフも映画ではトッド追跡中の不幸な事故による骨折、という描かれ方がしていたが、原作ではおもいっきり故殺されている。トッドはそれぞれ二匹いた妻と仔をハンターに殺され、自身もコッパーとの追跡劇の果てに射殺されてしまう。
 しかし、コッパー自身も介護施設送りとなった飲んだくれのハンターの手で「置いてけぼりにするよりは」と撃たれて殺されてしまう。
 救いというものがまるでない話だ。ディズニー映画基準では暗い方に分類される『きつねと猟犬』も、原作に比べれば大甘な味付けといえる。
 これは監督のアート・スティーブンスが映画で「死」を直接的に描くことを嫌った結果でもある。もともとの脚本では、チーフは原作同様死ぬ予定だったが、彼によって変更が加えられたという。*48

 幾分原作の残酷さが希釈されたものの、それでも「トッドが猟師のうちに迎えられて、いつまでも二人仲良く暮らしました」とはならかった。むしろ、「狡兎死して走狗煮らる」エンドな原作とは別な方向での救われなさが際立つようになってしまった。
 猟犬は猟師のもとでキツネを狩るのが生業であり、キツネは人に飼われず森に暮らすのが本性だからだ。そのふたつはけして共存できない。


 仔犬時代にこんなシーンがある。
 トッドがいつもどおりコッパーのもとへ遊びに出かけると、コッパーが犬小屋に縄でつながれている。猟犬として本格的に仕込むべく、猟師がコッパーを拘束したのだ。
 コッパーはぼやく。
「つまらないよ。どこにもいけないんだ」


 それまでキツネと猟犬の垣根なく、ふたりでどこへでも自由に遊びに行けた。しかし、猟犬としてトレーニングを積むならそれも叶わなくなってしまう。
 大人になる、ということの残酷さがここに描かれている。
 犬はキツネを狩り、キツネは犬に狩られる。犬は文明の側にあり、キツネは野生の側にある動物だから。
 野生の動物とはどういう生き物か、といえば、それはつまり童心を保ったまま大人になったもののことを指す。猟犬とは、自分を殺して社会へと組み込まれる文明側の大人だ。
 「野生=自由」「文明=順応」のイメージはウェス・アンダーソン監督の『ファンタスティック Mr. Fox』などにも現れている対立だ。だが、『きつねと猟犬』は価値観の優劣の話はしない。
 ただ、(人間によって措定された)体制が野生の自由を許さない、その冷徹さを淡々と描いている。
 私とあなたでは「違う」から、どんなに想い合っていても別々の場所で生きるしかない。戦後アメリカの国民統合の中心理念だった文化多元主義の挫折と時代的にシンクロするこの結末は、あるいは制作現場におけるライザーマン要する旧世代派と新世代の衝突を反映したものだったのか。

 本作に描かれているキツネは、上記で紹介した短編「きつね狩り」における猟犬に追われる弱者としての系譜にあり、他のディズニーのキツネたちのような狡猾さはあまり発揮しない。むしろ、純真な存在だ。
 そして、ここでもやはり「境界上の存在」だ。トッドは野生に生まれながら物語序盤を優しい老婦人の「飼いキツネ」として過ごし、後半からは森で野生動物として逞しく生きる。
 しかしどちらかといえば、やはり野生の存在なのだ。キツネというのは。

 40年代に悪人・詐欺師として擬人化されたディズニーのキツネは、60年代の不遇を経て、70年代の反動でロビン・フッドとしてまず悪役としての汚名を返上し、80年代に『きつねと猟犬』で四ツ足で歩く一介の動物としての本性を取り戻した。

 だが、それでキツネの世間一般的な詐欺師的イメージや悪評が払拭されたか、といえば、そんなことは全然なかった。


1990年代:幻のキツネ

『ライオン・キング』(The Lion King、1994年、ロジャー・アレーズ&ロブ・ミンコフ監督)

 『ライオン・キング』にはブハティなる名前のメスのキツネが登場するはずだった。
 彼女は子ども時代のシンバとナラの遊び友達であり、「ずる賢い悪友」だったらしい。
 しかし、彼女はディベロップメント作業のいずれかの時点でナラの弟ムヒートゥと共にカットされた。*49

 90年代のディズニー長編アニメ10作品いずれにもキツネの姿はない。


2000年代:ますます遠くなるキツネ

『チキン・リトル』(Chicken Little、2005年、マーク・ディンダル監督)

 この映画自体が語るに値しないのと同様に、この映画に出てくるキツネもまた論ずるに値しない。いや、しかし、好き嫌いで飛ばすわけにもいかない。とりあえず、トライしてみよう。

 本作はもちろん1943年版「チキン・リトル」と同じくイギリスに伝わる寓話『ヘニー・ペニー』を基にしている。
 ただ、内容は1943年版とまったく別物だ。

 『サザエさん』の花沢さんの声でしゃべるムカつくニワトリの子供(白く換毛してとさかまで生えているのでヒヨコではない)チキン・リトルがある日「空が落ちてくる」と騒いで街を大混乱に陥れたものの、結局勘違いだったということで以後オオカミ少年扱いに。
 ホラ吹き野郎呼ばわりされつつチキン・リトルは惨めな学園ライフを過ごしていたが、ある日宇宙人が街にやってきてので「空が落ちてくる」のは夢だけど夢じゃなかったと判明。おかげで微妙な関係だった父親のバック・クラックとも和解して恋人もできて映画化もされて毎日がウハウハです。

 登場するキツネは短編版「チキン・リトル」に引き続き、フォクシー・ロクシー。Foxy という単語が女性を連想させるからだろうか、性別が女に変わっている。悪役ではあるけれども、事実上の主役といってもよかった短編版からは役割がかなり縮小している。
 フォクシーはチキン・リトルの通う学校のクラスメイトで、いじめっこ。他人を馬鹿するのが趣味の性格最悪暴力女で、ことあるごとにチキン・リトルとその友人(アヒルと金魚とルーニートゥーンズに出てきそうなブタ)をいびりまくる。
 スポーツ万能で地元の弱小少年野球チームのスターでもあるが、リーグ優勝をかけた最終戦でヒーローの座をチキン・リトルに奪われてしまい、街中が勝利に湧く中「あんなのまぐれよ!」と一人だけキレる。特に和解とかはない。
 その後、宇宙人が街に出現したさいは無謀にも立ち向かってアダプテーションを食らい、そのショックで頭がおかしくなる。
 騒動解決後、それまでシャツにサスペンダーといったワルガキルックからなぜか縦ロールの金髪かつらにフリフリのお嬢様ドレスといった装いで傘を指して蝶をおいかけるヤバいキャラに。
 改心した宇宙人が「おや、治してあげないと」と申し出るが、そのお嬢様ヴァージョンに惚れたリトルの友人のブタが「このままでいい! 彼女は完璧だ!」と治療を拒否し、彼女と交際をはじめる。
 クソみたいだが大体こんな流れだ。


 長編版『チキン・リトル』の数多ある欠点の一つに「キャラクターの薄っぺらさ」が挙げられ、フォクシーにはそれが最悪な形で表出してしまっている。
 彼女は背負うべきドラマを何も与えられず、ただ理不尽にリトルを抑圧する存在として立ちはだかり、最後には精神が壊れてよかったね。なにをどうすればこんなキャラを愛することができるのか。どこをどうすればディズニー長編アニメにこんなキャラを出せるのか、責任者はどこか。
 そのうえ、これまで良きにつけ悪しきにつけ脈々と綴られてきたディズニーのキツネたちの記憶がまるごと欠落してしまっている。
 『ロビン・フッド』における名誉回復は忘れ去られ、さりとてフォウルフェローや短編版のフォクシーのような悪漢としてのおちゃめなチャーミングさをふりまいてくれるわけでもない。それはイソップの語るキツネですらない。テクスチャが貼り付けられた無だ。まるで1930年代以前どころか石器時代へ退化したみたい。

 ピクサーがディズニーによって買収され、ジョン・ラセターがクリエイティブ部門のトップにつくまでの2000年代のディズニーは興行的にも批評的にも散々な戦績を重ね、よく「低迷期」だとか「暗黒期」だとか*50呼ばれた。
 『チキン・リトル』はジョン・ラセター以前の最後の作品にあたる。
 疲弊しきったディズニーの喘鳴が、そのまま練りきらないキツネのキャラクターに響いてしまったわけだ。

 それから十年が経過する。

2010年代:キツネの神

『ズートピア』(Zootopia、2016年、バイロン・ハワード&リッチー・ムーア&ジャレド・ブッシュ監督)

 いわゆる結論部分にあたるわけだけれど、ここまでであまりに文字数が膨れ上がりすぎたので別記事を立てます。

proxia.hateblo.jp

*1:ヴィランではあるものの、ファウルフェローは「お仕置き」をうけない。ピノキオをコーチマンに引き渡してそのまま映画からフェードアウトする。もともとは彼らになんらかの罰がくだされる予定だったらしいが、尺の都合により脚本段階でカットされたらしい。

*2:今でいうところの無職

*3:古代のヨーロッパにおける最も有力な博物学者といえばプリニウスだろう。が、彼の『博物誌』では驚くほどキツネについての叙述に乏しい。象については十数節を割くほど熱中してるくせに、キツネは立項すらされていない。アリストテレスもそこまで詳しくキツネのことを記述したわけではないけれど、紀元後のローマは紀元前のギリシャより都市化が進んでキツネとあまり遭遇できなかったのだろうか?

*4:p.52、可知正考『日独の民俗・諺にみる動物比較 序論』鳥影社

*5:『ドイツ俗信中辞典』

*6:「民間信仰では、狐は変装した悪魔、あるいは古い異教の神と見られていた」――可知『日独の民俗・諺にみる動物比較 序論』

*7:"ちょうどその時、あるパリサイ人たちが、イエスに近寄ってきて言った、「ここから出て行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。 そこで彼らに言われた、「あのきつねのところへ行ってこう言え、『見よ、わたしはきょうもあすも悪霊を追い出し、また、病気をいやし、そして三日目にわざを終えるであろう。”――『(口語訳)ルカによる福音書』第十三章より。

*8:にもかかわらず、ほらあなの入り口に「ランチ中!」という看板を立てる

*9:アメリカにもナチスドイツに賛同する勢力は少なからずあったし、アメリカ人の方にも敵国の血をひく人々への不信感や警戒感があった

*10:戦時中のディズニーがプロパガンダに注傾していたのはよく知られた事実だ。アカデミー短編アニメーション賞を受賞したドナルド・ダック・シリーズ短編「総統の顔」ではより直接的な形でヒトラーや東条英機といった人物を諷刺している

*11:「ソ連のフルシチョフ首相が一九六〇年にアメリカを訪れたとき、ディズニーランド行きを希望したが、警備が困難という理由で実現しなかった。フルシチョフ首相と同様、ウォルト・ディズニーもがっかりしたという。完成したばかりのアトラクションの潜水艦八隻をずらりと並べて、「首相、これがわがディズニーランドの潜水艦隊でありまして、世界で八番目の規模を誇っています」と自慢したかったからだ」――粟田房穂, 高成田享『増補版 ディズニーランドの経済学』

*12:シュン・ゴンという名前がついている

*13:アジア原産種であるシャム猫に黄色人種を象徴させるのは『わんわん物語』でも行っていて、こちらは完全な悪役である。

*14:中華風オムレツ、芙蓉蛋のこと

*15:ディズニーのミュージカルシーンにカラオケ用字幕が入って一緒に歌える子供向けシリーズ

*16:日本で比較的手に入りやすい『マイ・ファースト・ディズニー』や07年版『おしゃれキャット』サントラなどもこのヴァージョン

*17:あとベータ

*18:この要約だけ読んで「また自主規制厨か〜」とほざくような人はその手の問題を論じるのに向いてないので、レゴブロックでも買って知育に勤しんだほうがよい。

*19:同じ手法で描かれた『メリー・ポピンズ』や『ロジャー・ラビット』も同様の扱い

*20:ただし、フォックスはベアと違って学習できるほどには知性があるため、三度目の挿話のときはラビットのほら話を最初から看破する。

*21:推測だが、リーマスおじさんはあらかじめワルガキどものキャラを知ったうえで、作為的にフォックスとベアに反映させたのではないか

*22:英語読み。フランスではルナール、ドイツではライネケと読まれる

*23:とはいえ、常に勝利していたわけではない。後述のカンテクレールのように弱者を騙そうとするときは逆にいっぱい食わされるケースが多い。そういう意味では『南部の唄』のブレア・フォックスもレナード狐の血を継いでいるといえる。

*24:2018年6月追記:2017年に邦訳された『ディズニー伝説の天才クリエーター マーク・デイヴィス作品集』(講談社)では『カンテクレール』と『狐物語』の企画についてアニメーション史家のチャールズ・ソロモンが触れている章がある。ウォルト・ディズニーは『狐物語』の企画について「『だれがコック・ロビンを殺したか』(1935)を見て憤慨した観客がいたことを思い出し、主人公のキツネ、レイナードに対する不安を口にした。「我々がつくろうとしている作品の主役はペテン師で、ロビン・フッドのような義賊とも無縁だ。彼は愚か者だけをかもにするようなやつなんだ」(p.101)。また、1960年における『カンテクレール』のミーティングで「(『カンテクレール』に出てくる)キツネは狡猾さの象徴で、いつも誰かをだまそうとしている……」と述べているところからもウォルトのキツネ観がうかがえる。

*25:堀口大學の訳題。日本で現状『東天紅』を読むのは困難だが、子供向けに翻案した劇を絵本化した『カンテクレール キジに恋したにわとり』が2012年に朝日新聞学生社から出ている

*26:もとは『狐物語』に出てくるニワトリ

*27:英語版ウィキペディアの「Reynard」より。

*28:長編第一作『白雪姫』の頃から77年の『ピートとドラゴン』までの長きに渡り美術監督や脚本を中心として多くの分野で活躍。ディズニーランドでもファンタジーランドのアトラクションやEPCOTセンターに携わった。91年にディズニー社によって〈ディズニー・レジェンド〉に列せられる

*29:https://thedisneyproject.wordpress.com/2012/07/03/robin-hood-1973/#more-553

*30:フランス語読みではイザングラン

*31:『ロビン・フッド』のキャラクターデザインには、1945年に出版されたアメリカ版『狐物語』であるハリー・J・オーウェンズ『The Scandalous Adventures of Reynard the Fox』のキース・ワードによる挿画からの影響が指摘されている。http://willfinn.blogspot.jp/2007/07/robin-hood-confidential-pt-2-keith.html

*32:岩波文庫『狐物語』の解説より

*33:まあ史実ではそんなに悪い王様でもなかったらしいけど。文句ならリチャード三世ともどもシェイクスピアに言ってくれ

*34:最近では実在説も強いらしいが

*35:クリストファー・フィンチ『ディズニーの芸術』

*36:『バットマン』シリーズや『ビッグ・フィッシュ』などで今やハリウッドを代表する監督の一人

*37:〈ディズニー・レジェンド〉の一人。『リトル・マーメイド』や『塔の上のラプンツェル』などのキャラクターデザインなど

*38:『アイアン・ジャイアント』監督後、ピクサーに加わり『ミスター・インクレディブル』や『レミーのおいしいレストラン』を監督。その後は『ミッション・インポッシブル:ゴースト・プロトコル』や『トゥモローランド』など実写映画にも活躍の幅を広げている

*39:『リトル・マーメイド』や『アラジン』などを監督。ディズニーのアニメーターでも現役最長老で、2016年公開の『Moana』の監督も務める

*40:ピクサーの総帥

*41:『ラマになった王様』及び『チキン・リトル』の監督

*42:『ムーラン』の作画監督

*43:『ポカホンタス』監督

*44:『シュレック2』などの監督

*45:『ターザン』の監督

*46:一方で制作中の対立でドン・ブルースなどの人材も失っている

*47:ネタバレになるので明言はしない

*48:http://disney.wikia.com/wiki/The_Fox_and_the_Hound

*49:http://disney.wikia.com/wiki/Bhati

*50:ディズニーの歴史研究で博士号を取ったクリス・パラントは『Demystifying Disney: A History of Disney Feature Animation』のなかでのこの時期を「Neo-Disney」と呼称している