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自分が本当に欲している事が何なのかということをよく考えることが、自己防衛や他人にかける迷惑を最小化することにつながるのではないか、ついでに言えば自己満足を得るためのコストを最小化することにもつながるのではないかと、僕は思っています。
なぜ自己防衛になると考えるのか。
僕がなによりダメージを受けるのは、自分ですら気付いていない本音を他人に看破された時です。「ああ、なんかいいこと言ったかも」といい気分になっている時に「お前のそれは一見もっともな批判に見えるが、出発点はただの嫉妬じゃないか」「お前のそれは自分を責めているのではなく、自虐を装って他人からの攻撃をガードしているだけじゃないか」という風に指摘され、それが事実だった時の恥ずかしさといったら、他に比べられる物はありません。
でも自分の本当の本音がちゃんと分かっていれば、「気付いていないことを指摘される」ダメージを避けられます。これが自己防衛ということです。
なぜ他人にかける迷惑を最小化できると考えるのか。
自分の気付いていない本音を看破された時、僕はファビョります。「自分は他人にそんな指摘を受けるようなみっともない人間ではありたくない」→「そうであるはずがない」→「そうだつまり相手の指摘の方が間違っているのだ」という風に現実をねじ曲げて自分に都合の良いように解釈し、自分の優越感を維持するためにありとあらゆる卑怯な手を使います。自虐で逃げますし、関係ない話を持ち出しますし、「いや、僕の言いたかった事はそういうことではない」とのらりくらり言い逃れしますし、人に泣きつきますし、「ボクたんかわいそうでしゅウワァァァァァン」アピールだってします。そうして被害を拡大させます。関係ない人まで何時間でも何日間でも巻き込み続けます。見栄を張りつづけるためだったらどんな犠牲も厭いません。
でも最初からそれが自分の本音だと分かっていれば、それ以上ファビョらずに済みます。「そうですね、まったくあなたの言う通りです。困った物ですね。」これだけで終わることができます。これが、迷惑を最小化するということです。
なぜ自己満足を得るためのコストを最小化できると思うのか。
実体の掴めないモヤモヤした欲求を持っていると、それを満足させるために余計なコストを支払わなくてはなりません。なんかこの机は気に入らない……こっちの机も何だかピンとこない……この机もダメ……ああでもこっちはちょっといいかもしれない……そんな風に、店の中にある机をかたっぱしから試してみても結局決断を下せない。時間的コストの浪費ですし、人を付き合わせているならその人にだって迷惑をかけます。
でも、どうしても譲れない一点が明らかになっているなら、あるいは求める事項の優先順位がはっきり分かっているなら、妥協もできれば諦めもつきます。この机は棚が付いていて形がすっきりしているからこれを買おう。引き出しが付いていないのは重要度が低いから諦めよう。この店には最低限の要求事項を満たす品物が無かったから何も買わずに帰ろう。目的は買い物ではなく商品を見ることだから、商品を見ることだけに専念しよう。そういう風に、到達するべき目標が明確になればなるほど、それを解決するための最短距離を突っ走れるようになりますし、目標との間に横たわっている解決すべき問題も明らかになってきます。余計な試行や手探りのトライ&エラーを繰り返さなくても済みます。これが、自己満足のためのコストの最小化ということです。
その裏返しだと思いますが、僕は、自分が本当にしたいことは何なのか・どうしてそういう行動に自分が出たのかということを深く考えてみない人、自分の気づいていない本音に嘘をつき続ける人があまり好きではないようです。なぜなら、前述したことの全く逆の事が行われる、すなわち、無駄に勝手に傷つき、無駄に僕に迷惑をかけ、お金や資源を無駄にすると思うからです。それでは本人も他人も誰も幸せになれないと思います。自分をいじめて他人を幸せにするか、他人に迷惑かけて自分を幸せにするか、自分も他人も両方幸せにするか、とにかく少しでも生産的な方が僕には「マシ」だと思えます。
前のエントリのようなキモイ自虐エントリを書くことで僕は、自分の考えを整理して、前述のような諸々のコストを最小化することができます。だから、僕にとってはこれはただの不合理な演技やストリップショーやプロレスではなく、合理的な選択の一つだと思えるのです。もっとも、それが自分以外の人にとっては不愉快な文の垂れ流しにしかなっていないということは否定できませんが。その点において僕は、他人に迷惑をかけてでも自分を最も低コストで幸せにすることを選んだ、と言えると思います。
この結論に辿り着くにあたってきっかけになったかもしれない最近読んだ関係ありそうな話:「本当の本当のところは『嫌ンなるのに理屈なんざねェ』わな」
悟りを開けばいいと思うよ。
「他人に迷惑を掛ける」だの「他人の幸せだの」
そういう概念を捨てきれないうちはダメだね。
まだ「だれかに評価されたい」「集団の中である程度の地位を築きたい」
という極めて人間らしい欲求が残っている証拠。
つまり「周りの人」が優先されているってことだね。
そこから一歩ふみこんでその「他人の評価」すら
結局は自分の勝手な思い込みによるひどく曖昧なものだと理解する。
極端な例を上げると
「他人から褒められる」→「うれしい」
この「うれしい感じたこと」はその人の中でのみ完結していることであって
「他人から褒められる」→「くやしい」
こういう風に感じることも場合によっては可能であるということ。
>現実をねじ曲げて自分に都合の良いように解釈し、
↑この行為を
>自分の優越感を維持するためにありとあらゆる卑怯な手を使います。
↑さも悪いことのように書いてる時点でダメ。
他人の、もう少し言えば「一般的な意見」にとらわれ過ぎてる。
「他人の評価すら含めてすべてををねじ曲げて自分に都合の良いように解釈する」
この高みに到達できてこそすばらしい人生がきみをまってる。
なぜならそこにきみの優越感を邪魔するものはなにもないのだから。
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