シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

我欲と暁美ほむら

 

 
 『劇場版まどかマギカ叛逆の物語』が公開されて12日経った。そろそろネタバレの絡んだ感想を書いても怒られにくいかなと想像して、暁美ほむらがやらかした事、やってくれた事について、印象深かったことを書き残す。
 
 

暁美ほむらは、「愛よ」と言った

 
 『叛逆の物語』の終盤、重要なシーンで暁美ほむらは「愛よ」と言った。
 
 その直後、彼女は円環の理を“違反”し、概念と化したまどか神から、学生まどかを引っ張り出した。この一連の出来事について、ほむらは「まどかの決定そのものを覆したわけではない」と断ったうえで、自分自身が円環の理からはみ出したことは認めている。驚くキュウべぇには、そんな自分自身を「悪魔」と比喩してもいた。
 
 私は思った。
 
 「ああ、やっとほむらは自分の欲望にストレートになったなぁ」と。
 
 ほむらの行為を、「愛」と呼ぶべきかどうかは分からない。呼んでいいような気もするし、足りないものがあるような気もする。なんにせよ、今回のほむらは、学生まどかをまどか神から(ややこしい!)抜き取ったのだ。自分の意志で、「愛よ」という言葉と共に。
 
 これまでのほむらは、「まどかとの出会いをやり直したい」「まどかを守れる私になりたい」と願ってきた。TV版の流れからすれば、『まどか☆マギカ』成立上、必要不可欠な願いだったと言える。ただ、ほむら自身が本当に願っていたのは、「まどかと友達でいたい」「まどかと一緒にいたい」だった筈だ。他の魔法少女の命運を差し置いてでも、まどかと一緒に過ごせる未来こそが肝心だった。
 
 ところがTV版後半のほむらは、「まどかと一緒にいたい」という目的と、そのための手段である「まどかを守らなければならない」がひっくり返ってしまい、まどかと疎遠になることすら厭わず延々と戦い続ける道を選んでしまった。繰り返すが、この願いが無ければ『まどか☆マギカ』は作品として成立しないので、一視聴者たる私は、ほむらに感謝すべきだ。だが、『叛逆の物語』を見終わった今にしてみれば、そうした目的と手段の顛倒した状態を延々と続けていれば、そりゃあソウルジェムも濁ってくるでしょうよ、とツッコミたくもなる。
 
 挙げ句、まどかは神になってしまい、「まどかを守る」はもとより、「まどかと一緒にいたい」という一番の望みが成就不可能になってしまった。TV版では、微かに残るまどか神の徴候に微笑んでいたし、あれはあのラストで良かったと思う。それでも、ほむらが魔法少女になると決めたのは、まどかと一緒にいたかったからであって、去り際のまどかとの約束を守りたかったからではなかった筈だ。まどかに貰ったリボンを身につけ、約束を守る姿勢は天晴れだが、それは一種の代償行為ではなかったか。
 
 対して、今回のほむらは「まどかと一緒にいたい」を最もストレートな手段でやってのけた。
 
 まどかの遺したルールを守るでもなく。
 まどかと一緒にいられない現実を呪うでもなく。
 まどかをもぎとった。
 
 『叛逆の物語』を見終わってしみじみ思うのは、「まどかを守りたい」「まどかを守れる私になりたい」というTV版のほむらの願いは、御託に過ぎないというか、迂遠だった、ということだ。そういえば、どうしてほむらは「ずっとまどかと一緒にいたい」と願わなかったのだろう?
 
 このあたりは、さやかの契約や杏子の契約ともどこか似ている。さやかは上条と仲良くなりたかった筈だ(だから杏子に図星を突かれて激高している)。しかし彼女はそう願うのは“いけない”と悩み、実際に選んだ奇跡は「上条の手を治したい」だった。杏子の場合も、彼女自身の願いは「家庭円満」だったのに、聖職者としての父親に皆が耳を傾けるよう願った。
 
 奇跡を自己中心的な願いのために使わず、愛する者のために行使する姿勢は見上げたものだし、“良い子”だな、と思う。結局そこがこじれ、さやかは呪いの化身に成り果て、杏子は家族を失うのだが。そういえば、まどかだって自分自身の欲求のために奇跡を行使したと言えるのか、ちょっと怪しい。奇跡を行使する以外に選択肢の無かったマミさんはさておいて、少なくともこの四人は自分自身の欲求のために奇跡をすり潰そうとはしなかった。じつに見上げた娘達である。
 
 比べて、自分自身の欲求をストレートに願い、円環の理を自己都合で違反したほむらは、なるほど悪いやつだ。少なくとも“良い子”ではない。誰もが欲望の果実を遠慮しているストーリーのなかで、円環の理を破り、堂々と果実をもぎ取ってみせる人間は秩序を乱す者である。そういう意味では、ほむらが“悪魔”になったというのはその通りかもしれない。
 
 けれども、我欲をストレートに願ったからこそ、ほむらは魔女化の彼岸にたどり着き、新しいかたちのソウルジェムを手にできた*1。彼女自身が仄めかしたように、この出来事は、将来新しい火種を生む可能性がある。それでも、終幕直前の描写をみる限り、彼女の新しいステージは祝福されているようだったし、私は一連のプロセスと結果を応援したくなった。ほむらは、これでいいんじゃないか。
 
 自分自身のためにストレートに奇跡を願うのは、そんなに悪いことだろうか。
 そこのところが、『叛逆の物語』を観ていて一番気になった。
 

*1:もちろん、このプロセスはほむら単独で辿り着けたものではなさそうにみえる。他の魔法少女達とのやりとりがなければ、たぶん、うまくいかなかっただろう