シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人について

 
 まとまりのある話ではないけれども。
 
 「君は正しかったんだよ」と言って貰いたがっている人が、たぶん沢山いる。
 診察室の内側にも外側にも。
 
 もとより、普遍的に正しい生き方は存在しない。正しい生き方は人の数だけ存在する。高収入なら正しい、家庭を持てば正しい、統計上、平均値や中央値以上に分類されれば「君は正しかったんだよ」となるようなものではない。正しさ生き方、正しい人生の形はたくさん存在する。
 
 価値観が多様化したとよくいわれる。然り。価値観の数だけ正しさが生まれた、ということだ。人間の数だけ正しさがジェネレートされなければならなくなった。そして各人が自分自身の正しさを、自分自身の審級でもって評価しアセスメントしなければならなくなった――処女と性行為に及ぶことが正しさというなら、その正しさへ!年収八百万の男と結婚することが正しさなら、その正しさへ!――極論を言えば、そういうものである。
 
 もちろん現在においても、周囲の声、世論が個人それぞれの正しさを修飾することはある。けれども、身分や生まれやイエの方針といったものによって「正しさ」が決定づけられていた時代に比べれば、現在の正しさは内骨格的であって外骨格的ではない。
 
 こうした「正しさ」が骨太で安定した「正しさ」か、それとも骨粗鬆症な「正しさ」かは於いておく。どうあれ、価値観が各自のものとなり、その個人的な価値観のままに生きることが良いとされた以上、その正しさの内容と履行状態は個人の問題*1とみなされるようになった。
 
 
 問題は、そうした人生の「正しさ」、あるいはもう少し表現を和らげるとして人生の「妥当性」に自信が持てる人っていうのがどれぐらいいるのか、ということだ。先日、以下のような短文がはてな匿名ダイアリーに投稿されていた。
 
普通に生きることが難しい時代
 
 リンク先に書かれているように、実際、普通と呼ばれるものをかき集めるのは難しい。
 
 普通に仕事する――もし、この基準を正社員とやらに求めるなら、そんなに確実なものではあるまい。
 
 普通に結婚する――婚姻率の低下は知ってのとおりだ。結婚に回せるリソースや甲斐性がなければ結婚できまい。
 
 普通に子供作る――不妊治療が行われる現代においても、子どもは天からの授かり物である。高齢出産問題がクローズアップされている状況では尚更だ。
 
 リンク先の「普通に生きる」ということは、どうやら人生の多くの側面において、平均値、中央値から遠くないポジションを生きることらしい。あるいは最大多数に属することらしい。そして自分自身の生き方がそれに合致しないと評価しているからから、辛いと感じている。余談だが、そうした「普通」を複数の領域でかき集めると、案外普通ではなくなるというか、確率的に低くなってしまう。例えばAの領域、Bの領域、Cの領域、Dの領域で確率80%の「普通」の範疇におさまる確率は40%程度*2だ。この40%に所属しなければ、どうやら正しくないらしい。
 
 尤も、世の中にはオリンピックの金メダルのごとき低確率をクリアしなければ「正しくない」とみなす価値観もあるのだから、確率の高低はたいした問題ではない。リンク先の例とて、“「正しさ」とは確率論ではなく個人の主観的な価値観に依る”ということの一証左でしかない。
 
 

「こんなに頑張った私に、正しかったって声をかけてよ」

 
 人生の「正しさ」や「妥当性」から自分自身が逸れてしまっていると感じる人は、不幸に感じる。生き甲斐が無いように感じる。死んだほうがマシとさえ言い出す人もいる。繰り返すが、こうした「正しさ」や「妥当性」は個人の価値観に大きく左右される問題なので、「正しさ」や「妥当性」を変更できれば不幸の体感度はおのずと下がる。もちろんこんなのは理論上の話で、人の価値観というのはそう簡単には変わらない。心理療法や認知行動療法を受けることで変わる……こともある。残念ながら変わらないことも多い。自己啓発系の本を読み、一瞬変わったように感じた場合などは、本を閉じて30分ほどで元の自分に戻ってしまうだろう――成分化された文字列は、法のような「正しさの外骨格」を形成するには適した素材だが、価値規範や美意識といった「正しさの内骨格」を形成するにはあまり適さない。個人それぞれのなかで体験をとおして咀嚼されない限り、なかなかうまくいかない。
 
 そもそも、「正しさ」や「妥当性」といったエモーショナルで欲望にまみれた領域、過去にインストールされた傾向にたやすく引きずられやすい領域が、ロジックや確率論的期待値によってたやすく説得できるわけがないのだ。主観とは、世間同様、理不尽なものだ。理不尽な世間もまた、エモーショナルで欲望にまみれ、過去の人々によってつくられた傾向にしばしば引きずられがちである。そんなわけで、案外、主観的な「正しさ」や「妥当性」は変わらない。ブレない。フレキシブルに変更できないからこそ、「正しくない」「妥当じゃない」という苦しみを抱え続ける個人が存在するとも言える。自己啓発本一冊でなんとかなるなら、もっと世の中の総-不幸体感度は低くなっている筈だ。
 
 そうした「正しさ」「妥当性」に相当する価値規範や美意識は二十代の後半あたりまでに形成されることが多い。まだ社会に出るか出ないかのうちに、自分かくあるべしは「目標」や「理想」とセットで形成される*3。ところが、そうした価値規範や美意識によって自分自身を評価しアセスメントする時期はそれよりも少し遅れがちで、「正しさ」の性質が決定づけられる時期と、「正しさ」にもとづいて自分自身が評価される時期には、10年〜20年程度のタイムラグが生じるのが常だ。
 
 このタイムラグを踏まえて現状を顧みると、10〜20年前に流行していた「正しさ」が全く通用しない風景が眼前に広がっている。そもそも、10〜20年前は、現代に比べてまだしも「正しさ」は個人的なものである以前に世間的なものでもあった。「正しさ」を世間から喜々としてインストールした人も多かっただろう。しかし、10〜20年前に内面化した「正しさ」のとおりに生きられる人はそうおらず、必然的に、多くの人が自分自身の「正しさ」に合致しない自分自身を発見しなければならなかった。ロストジェネレーション。
 
 また、ロスジェネか否かとは無関係に、自分で「正しさ」を見つけてそのとおりに生きるというのは、なかなかに難しいことでもある。世間の声、家族、友人といったものを相対化しつつ、自分の理想や規範意識を身の丈にあわせて設定し、そのとおりに生きられる人が、世の中に一体何%いるというのか?そりゃ、いないわけではないだろう。しかし、そういう個人は強い個人だ。意志力、計画性、自己客観能力、情緒的安定性……そんなものに恵まれた個人でなければ、この自由の大海原をナビゲーションするのは難しかろう。そういった強者にとって、この自由の大海原はどこにでもいける素晴らしいものだけれども、そんなに上手く生きられる人間はそうざらにいるものではない。まして、人生のナビゲーションに失敗した時に「これでよし」と言える人間となると、絶無に等しい。
 
 そうした自分自身の「正しさ」に裏切られ、うちひしがれた時、どうすればいいのか?アメリカの金持ちだったら、カウンセリングという手もあるのかもしれない。お金がなければ宗教もアリだろう――なんやかやいっても、宗教は精神を守る最後の砦、自分はうまくいかなかったと思う者にとって最後の救いだ。しかし、そうした役割を果たしている宗教に所属している人は、この国には決して多くは無い。
 
 個人によって「正しさ」を自己決定するという習慣も、その「正しさ」に裏切られた時の安全装置もないまま、「正しさ」を自己編纂し自己評価するように世の中が変わってしまえば、いろいろとこんがらがるのは道理ではある。
 
 案外たくさんの人が、自分自身にインストールされた「正しさ」にそぐわない自分自身に葛藤を抱えている。東京のような、自由度の高い街、思い通りに自己決定できそうな外観を呈した空間では尚更だろう。少なからぬ個人が「こんなに頑張った私に、正しかったって声をかけてよ」と思っているんじゃないだろうか。なぐさめの言葉を待っているのではないだろうか。ワンルームマンションのベッドの上で。人気の無くなったリビングルームで。かくあるべし、かくあるべし、かくあるべし、という内なる声に疲れた人達が求めているのは「あなたの正しさは間違っています」ではないようにみえる。「あなたの認知は理不尽です」でもないようにみえる。「あなたはよく頑張った、だからもういいんだよ」ではないか。自分自身の正しさに対する赦しの言葉ではないか。
 
 そうした赦しは、誰が個人に与え得るのだろうか?すべてが個人主義の社会では、そうした赦しすら自己生成しなければならないのかもしれないし、それを「甘え」と呼んで忌避する人もいそうである。しかし誰かが赦さなければ、そうした魂は浮かばれないのでは無いか。では誰が赦すのか?“自己内面化した「正しさ」とそれに対する赦しの問題”を取り扱う適任者といえば、私はどうしても特定の宗教を連想したくなる。宗教の外側では、例えば、心理療法はそうした赦しを取り扱って良いものだろうか。もし、取り扱うとしたら、どのような態度が求められるだろうか。そんな器量も無いところの一人の人間が、「赦してください、こんな私に正しかったと声をかけてください」と空気を読むようクライアントから要請された時、どのように相対すれば良いのだろうか。
 
 最近、こういう事を時々考える。考えても結論らしきものは出ず、結局治療者患者関係のコンテキストに流れに身を任せるのだけれども。
 

*1:そうとも、個人の「こころ」の問題だ!今日日は精神科医さえ逃げてまわる「こころ」という幽霊のような現象の問題である!!

*2:40.96ï¼…

*3:幸か不幸か、目標や理想を持たずに生きていく人は、正しさや妥当性に由来する不幸を回避できるけれども、どこにも向かえず堕落しやすい問題を抱えてもいる