シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ヤンキーもオタクも、思春期アイデンティティとして大して役に立たなくなってしまった

 
 終業式が終わり夏休みが始まりました。ロードサイドのショッピングモールで、今では地方都市の定番となったヤンキースタイルの男の子やキャバ嬢メイクの女の子の姿を沢山見かけるのも、そのせいかもしれません。
 
 ところで、ヤンキースタイルに限らず、昔は思春期のファッションやスタイルって、大人世代や親に対するカウンターとしてかなり重要だったと思うんです。昭和時代後半の「ツッパリ」なんかが典型的ですが、たとえ親や社会から鼻つまみ扱いされようとも敢えてそのスタイルを選ぶのは、心理的に自立していくプロセスの一環としてそれなりに意味がありました。もちろん、そういったヤバいファッション・ヤバいスタイルを選ぶからには親や教師から睨まれてしまいますし、やりすぎて非行に至ってしまうリスクもあります。けれども「親から自立したアイデンティティの構築」という思春期の発達課題をクリアするにあたり、そういった社会的逸脱を必要とした人は決して少なくなかった筈です。
 
 

「一代目のヤンキー」と「二代目のヤンキー」は全然違う

 
 ところが最近、昔なら考えられなかったような風景を見かけるようになってきました。「親子揃ってヤンキースタイル」「親もヤンキー、子どももヤンキー」――そんな人が珍しくなくなってきたのです。
 
 こうなると、見かけ上は親子似たようなものでも、ヤンキースタイルのニュアンスは全然違ってきます。親や教師や社会から異端視されていた頃、ヤンキー的なものは「親から距離を取りながらアイデンティティを確立していくプロセスの一環」として十分機能しましたが、親がヤンキースタイルの家庭では、子どもがいくらヤンキースタイルを採っても、親から心理的に距離を取るためのツールとしては機能しません。
 
 ヤンキースタイルが思春期の心理的なアイデンティティ確立の助けになるのは、その代限りなのです。
 
 この点において、「一代目のヤンキー」と「二代目のヤンキー」は全然意味が違います。
 「一代目のヤンキー」は、鼻つまみ者扱いされてはいても、親や親世代から心理的距離を取るfunctionがすこぶる高かったと言えますが、「二代目のヤンキー」はこの限りではありません。もし、親との心理的な距離を取っていくなら、何か別の領域で差異化・差別化をハッキリさせていかなければならないでしょう。もし、それが出来ないなら……親からの心理的自立に手こずることになってしまいます。
 
 ところが現実には、「親もヤンキー、子もヤンキー」というのは決して珍しくありません。もちろん、世代間で嗜好や流行の違いはあるでしょう。けれども過去のヤンキーに比べれば、親世代との鮮烈な心理的コントラストは期待できません。少なくとも、親子揃ってヤンキー映画を楽しむような家庭では、ヤンキースタイルは親子間のアイデンティティを差異化するアイテムとして大して機能しないでしょう。
 
 

カウンターカルチャーとしての神通力を失った「ヤンキー」「オタク」

 
 こうした事情のために、現代のヤンキースタイルは、思春期の心理的な自立には貢献しにくくなっていると言えそうです。親や社会から認められたヤンキー、“安全な”“親公認の”ヤンキーなんてものは、カウンターカルチャーとしての神通力を失った、去勢されたサブカルチャーでしかありません。
 
 そして、たぶん似たようなことが「オタク」にも当てはまります。「ヤンキー」と同じく、「オタク」も、大人から敬遠されるカウンターカルチャーとしての機能を過去には持っていました。しかし、そうしたネガティブで非社会的なイメージの強かった筈の「オタク」も、広く薄く拡散して社会的に容認されるようになるにつれ、カウンターカルチャーとしての神通力を急速に失いつつあります。
  
 かつては水と油のようにも見え、それぞれにカウンターカルチャーとしての意味合いをそれなりに持っていた「オタク」と「ヤンキー」は、今、なし崩し的に融合しながら、思春期アイデンティティの牽引役としての強みを失いつつあるように見えます。
 
 大人がヤンキーをやっていても誰も後ろ指を指さない時代。
 アニメに夢中な学生もネクラだと笑われない時代。
 
 ある意味では、とても幸せな時代と言えます。しかし別の見方からすれば、親や社会とは違った、自分自身の・自分達の世代のアイデンティティを模索する旅路に、それらのアイテムは最早たいして役に立たない、ということでもあります。親や先行世代とは全く違った何かを、新しい世代は見つけ出さなければならないのかもしれません。
 
 

「おっさん、いつまでヤンキー(オタク)やってるの?ウザいんだけど?」

 
 ところが少子化が進み、しかも先行世代がなかなか思春期*1を手放さない時代がやってきましたから、新しい世代は、自分達だけの新しいカウンターカルチャーを創出するのが難しくなっているように見えます。というのも、いずこのサブカルチャー圏であれ、既に人口ピラミッドが壺型になっているために、上の世代の影響が相対的に強まりやすくなっていますから。
 
 先輩達の影響力を排して新勢力を打ち立てるためには、今まで以上に並はずれたエネルギーが必要でしょう。ただでさえ「最近の若者は元気がない」と言われがちなうえ少人数な新世代の人達に、果たしてそれが可能でしょうか?
 
 この問題をスムーズに解決する一つの方法は、上の世代がヤンキーなりオタクなりをやめて、新しい世代のための空席をつくる事です。それも、単にやめるだけでなく、「あんなのは思春期の遊びだったんだな」と心理的にも卒業することです。しかし、現代の日本で「俺ももう大人になったんだから、ヤンキーを卒業して大人らしく生きよう(またはオタクをやめて大人らしく生きよう)」といった主旨替えが流行するとは到底思えません。現に、ヤンキーはヤンキーのまま加齢し、オタクはオタクのまま加齢していっています。
 
 もう一つの方法は、まだ上の世代が手を付けていないフロンティアを見つけて、そこを自分達のカウンターカルチャーの場として生かす事です。最近の実例としては、ヤンキー文化圏側であればケータイ小説が、オタク文化圏側であればライトノベルが、まさにそのような「先輩達の手垢のついていないフロンティア」として開花したように見えます。ただし、このやり方も、より人数の多い年上世代が流入しはじめればフロンティアではなくなりますし、そもそも新しいメディアの登場にタイミング良く遭遇する幸運を必要とします。
 
 いずれにせよ、ヤンキーにせよオタクにせよ、サブカルチャーは若者の専有物ではなくなり、おっさんおばさんがひしめき合うフィールドになりました。そんな時代のなかで、思春期の心理的な自立を補助してくれるようなカウンターカルチャーを、若い世代がどこにどうやって求めていくのか?これは、社会変化としてはたいしたことのない部類にもみえますが、思春期の心理的な発達上、本当にたいしたことが無いと笑って済ませて良いものなのか、私にはわかりかねます。しかしこうした変化とは無関係に、現代の親や社会の側は、思春期を迎えた子ども達にいままで通りの自立を促してやまないことでしょう。こういう面でも、今の若い世代は大変です。
 
 

*1:と思春期に身につけたサブカルチャー