シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

はてな匿名ダイアリーという“心理テスト”----名前以外は丸見え----

 
 “はてな匿名ダイアリー”は名前は隠すけれども、名前以外は何も隠してくれない。
 むしろあけすけに暴露する。
 
 
俺はこいつとか、 http://anond.hatelabo.jp/20090213024442 こいつとか、 http://anond.hatelab..
個人ニュースサイトを有難がってる情弱に攻撃されたって痛くも痒くもねえよ。
オタクが攻撃されたときのパターン
http://anond.hatelabo.jp/20090308152436
 
 
 以前から私は、“はてな匿名ダイアリー”はどこか危ういサービスだなと思って手をつけないようにしていたが、上の4つのエントリを並べてみて、やっぱりこれは危ないと結論づけることにした。名前(id)は隠してくれるけれど、それ以外の自意識やら執着やらパーソナリティやらがダダ漏れになりすぎる。「はてなで言うなら、id:○○みたいなやつ」といった形で、誰が書いたのかをある程度まで推定されやすいサービスだと思う。
 
 そこまでいかなくても、「この文章を書いた奴の自意識は醜く歪んで、エゴイスティックで、いつも言い訳に必死ですね!」みたいに突っ込まれるリスクは高いし、自分の自意識の一番痛い所をインターネットで世界中に配信する*1というのは、自己開陳のやり方としても巧くない。
 
 
 こう書くと、反論する人がいるかもしれない。
 
 「文体なんて、幾らでも隠せますし、ごまかせますよ。」
 「匿名ダイアリーのエントリは、釣りです。思考実験です。ネタです。」
 
 果たして、そうだろうか。
 
 文体を隠すというのは意外と難しい。一人称を変更したり「だ・である調」を「ですます調」に変えたぐらいで文体を隠したつもりになってはいないだろうか。句読点の位置や形容詞の使い方まで全部変えても、それでもなお隠しがたく滲み出てくるのが文体の癖ってやつで、その痕跡を消し去るのは言うほど簡単じゃない。「当人だけが文体の痕跡を消し去ったと思い込んでいる」みたいな、痛々しいパターンに陥らないほど訓練された書き手というのは、そんなに多くは無いんじゃないかと思う。
 
 むしろ、「匿名」という条件で脇が甘くなったり、人前では隠している執着までもがダダ漏れになったりすることで、かえって特定個人としてアイデンティファイされるリスクが高くなっているふしがある。顕名のblogをやっている場合は、「あの人と同じ執着の匂いがするぞ!」ということになるし、匿名ダイアリーにしか書き込まない人の場合でも、「たぶん、以前見かけたあいつだ。あの痛いやつだ!」といった具合にアイデンティファイすることは可能だ。個人の執着・関心・自意識・パーソナリティがあまりにも明け透けに漏れ出ているので、どういう名前(id)の書き手なのかは特定できなくても、どんな人間性の書き手なのかは非常に特定しやすい。
 
 この観点からみると、「釣りエントリです」「ネタです」という割り切り方も考え物だ。実際に“はてな匿名ダイアリー”を観察している限りでは、「釣りエントリ」「ネタ」といった割り切りは、読者に対しての割り切りというよりは、執着と自意識をスッポンポンに開陳する自分自身を正当化するための言い訳でしかないようにみえる。「釣りエントリ」「ネタ」と言い訳できるということが、明け透けに書ききってしまうことへの抵抗感を脱ぎ捨てるためのワンクッションになっているふしさえ、あるように思える。
 
 だから、“はてな匿名ダイアリー”は、名前(はてなid)は隠してくれるけれども、それ以外の様々な属人性(自意識、執着、性格、など)をかえって浮き出させる。顕名idのブログや実地の人間関係では口に出すのを憚るようなものまで顕われてくるさまは、まるで、ある種の心理テスト*2のようである。
 
 “はてな匿名ダイアリー”にとりとめもなく書くと、普段は自分自身でも意識しないような、グロテスクなものを書いてしまうかもしれないし、匿名とはいえ、それがインターネットを介して全世界に配信されてしまうかもしれない。だから私などは、“はてな匿名ダイアリー”には怖くて書き込めない。私は自分のことを、聖人君子でも何でもない、ただの俗人だと思っているので、普段は抑圧していて意識にのぼってこないようなグロテスクな書き込みをやらかしてしまうんじゃないかと警戒せずにはいられない。
 
 

“2ちゃんねる”とは違う“はてな匿名ダイアリー”

 
 匿名で書き込みできる場所といえば、“2ちゃんねる”を忘れるわけにはいかない。普段の人間関係では吐き出しっこないような、自意識やパーソナリティを丸裸にしたような書き込みの飛び交いやすい場所という点では両者はとても似ている。
 
 しかし、“2ちゃんねる”と“はてな匿名ダイアリー”では、書き手・読み手の自意識の持ち方に大きな違いがあると思う。
 
 “2ちゃんねる”の場合、まずはじめにスレッド名ありきで、スレッドのテーマに沿う形で書き手/読み手が参加する構造になっている。すべての書き込みは、スレッド全体の1000の書き込みの一つとして書き込まれるのであって、スレッド内で個々人がアイデンティファイされる必要は無いし、アイデンティファイされるという期待を持って書き込む人も多くは無い*3。一般に、『2ちゃんねる』において個性や属人性を帯びるのは、スレッドそのものであって、個々の書き込みや個々の書き込みを行う個人ではない。
 
 それでもなお、変なコテハンや粘着厨房が湧くことはあるけれども、こうした人達は“2ちゃんねる”の主流ではないし、自己主張が強すぎれば叩き出されるかNGワード登録されてしまうのが関の山である*4。
 
 これに対して、“はてな匿名ダイアリー”にはスレッド構造が無いため、“2ちゃんねる”のようにスレッド全体がアイデンティファイの対象になるという構図が成立しない。しかも、書き込みする際に自分のidを打ちこんでログインしなければならず、そういう意味でも「これは俺の書き込みだ」という意識を排除しにくい。個々の書き込みに対しツリー形式の返答がついたり、はてなブックマークが集まったりした場合も、“自分自身の書き込みに対して”レスポンスがあったという意識づけに向かいやすい。例えば、自分が書いた記事に大量のブックマークがぶら下がったのをみた書き手は、「“匿名ダイアリー”が注目されているなぁ」とは感じずに、まず「俺の書き込みが注目されているなぁ」と感じる筈である。
 
 つまり、“はてな匿名ダイアリー”は、名前(id)の匿名性という点では“2ちゃんねる”に似ているけれども、個人としての自意識のレベルでは“2ちゃんねる”とは似ても似つかない、どちらかといえば顕名の掲示板に近いアーキテクチャだと言える。これがために、“はてな匿名ダイアリー”では、書き手の側がオレイズムや自意識をグロテスクに開陳しやすく、読み手の側も“なかの人”の自意識や執着へと焦点を絞りやすい。そして、個別の書き手を識別したり想起したりしやすい。スレッド単位の個別性に焦点の向きがちな『2ちゃんねる』では、こういう現象は起こりにくい。
 
 

結論:“一年ROMってろ”

  
 まあ、“2ちゃんねる”“はてな匿名ダイアリー”どちらにせよ、匿名だからといって危ない書き込みを繰り返していればろくなことにならない、という点では同じなのは言うまでもない。“2ちゃんねる”で馬鹿な書き込みを繰り返せばスレッドがクソスレ化するし、“はてな匿名ダイアリー”で自意識過剰な裸踊りをやらかせばブッ叩かれる。「匿名」という条件だけでタガが緩んでしまうような人には、どちらもお勧め出来ない。
 
 特に“はてな匿名ダイアリー”の場合は、個々の書き手の個別性がアイデンティファイされやすく、自意識や執着や性格が極端な形で露呈しやすい。この、“匿名心理テスト”のような、書き手のプロファイリングを許しやすいという特徴にはそれなりに注意が必要だろうし、そのことに気付かない裸踊りには相応の報いが待っているだろう。名前だけを隠してみたところで、露出するものが醜ければ、すぐにアイデンティファイされ、プロファイルされ、痛い痛いと叩かれることは避けられない。
 
 個人的には、“はてな匿名ダイアリー”は“2ちゃんねる”よりも難しい場所だと思う。“2ちゃんねる”が半年ROMってろなら、“はてな匿名ダイアリー”は一年ぐらいROMってからのほうがいいんじゃないだろうか。自意識フリチン全開状態の書き込みがボコボコに叩かれ、“増田”が涙目になって言い訳している姿をみるたびに、そう思わずにいられない。
 
 
[↓関連書籍:]

アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか

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*1:しかも、ブクマコメントなどの厳しい指摘を沢山ぶら下げた状態で、全世界に配信されるのである!

*2:例えば投影法のような

*3:これは、“やる夫シリーズ”の投稿者にも言える。一見すると、“やる夫シリーズ”は投稿者自身がアイデンティファイされているようにみえて、その実、アイデンティファイされているのはスレッドそのもののほうだったりする。やる夫というキャラクターは、スレッドそのものをキャラクター化し、わかりやすいシンボルとしてまとめあげるうえできわめて有効な手法だと思う。

*4:このあたりは、“ニコニコ動画”のコメントとも類似している