シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

すぐに結果が出ないと我慢ならないメンタリティ

 
なぜ大学で即戦力は育たないか - 雑種路線でいこう
 
 即戦力、即戦力…。
 
 すぐに結果を出せる、すぐに戦力になる人材を求めている企業。大学で学んだ人はすぐに使い物になるべきだ、というのは「人を育てる」「人を抱える」という視点からみれば短絡的にみえる。そんな事では、失敗に対して臆病で、即戦力かもしれないけれども可能性が頭打ちにされた人材が育つことになってしまいそうだ。尤も、「指揮官クラスはヘッドハンティングしてくれば良い」と企業が考えているとすれば、金の卵を苦労して育てるインセンティブなど存在しないかもしれないけれど。育てるより引き抜くほうがローコストだとすれば、育てることなどそっちのけになるかもしれないが。
 
 以下、エントリの論旨とは大分ずれた話になるけど、即戦力や即業績というのって、必ずしも企業側だけのメンタリティじゃないような気がする。学生の側だって案外そうなんじゃないのか?すぐに戦力になりたい、すぐに業績を出したい、すぐに認められたい。そのどれもが無理だというなら、「俺は仕事を辞めるぞジョジョー!」と言い出したり、本当に辞めてみたり。この図式って、本当に「すぐに業績の出ない新入社員に企業側が苛立っているが故」だけなのだろうか。逆に「すぐに業績を体験させて貰えない企業側に新入社員が苛立っている」成分も含まれているのではないだろうか。モノを教える側も教える側で、すぐに覚えられない人がいると「最近の学生は云々」という人がいたり。教わる側も教える側も、成長プロセスに対する寛容さはどこに行ってしまったんだろう?
 
 “とにかくすぐに結果が出なきゃヤダヤダ!”
 
 長く待っていられない。失敗を含んだトライアンドエラーのなかで人を育てる・自分が育っていくというより、即戦力とか、今結果が出せるかどうかとか、その瞬間勝ったか負けたかという視点。時間の流れや連続的文脈のなかに失敗や不成功を位置づける事のないまま、眼前の結果だけに一喜一憂する姿勢が、教え子や社員に対してだけでなく、自分自身に対してまで浸透しているのが私達なんじゃないか?と思うことがある。即結果・即戦力、というメンタリティは、一度の成功や失敗で有頂天になったり鬱を自称したりするメンタリティと地続きのように感じられ、また同時に広い範囲で観察されるもののような気がする。このようなメンタリティの蔓延は、果たしてどのような人材を育てるだろうか。人材が本当に育つのだろうか。自分自身、成長可能なのだろうか。そしてそういうメンタリティに溢れた社会というのは、どんな社会なのだろうか。そういえば、今の日本の世の中じたいが、悠長な成長とかミスを含んだトライアンドエラーとかに不寛容極まりない社会になっているのだった。結果!結果!すぐに結果!まるで、万人が万人に対して*1我慢の利かない幼児のようだ。
 
 私自身も、どちらかといえば我慢の利かない、目先の結果に束縛されやすい人間に育ったなぁと思う。結果がすぐに出ないと不安を強く感じやすく、結果がすぐに明瞭になるような、わかりやすい選択肢をわかりやすく選ぶことを好んでしまいがちだ。ミスや遠回りは、単にその瞬間にどうであるかだけでなく、時間の流れや(その人の)連続的文脈のなかでどういう意味を持つのかがしばしば重要になることがある。結果として、そのミスや遠回りが、後日の糧となったり駆動力になることもある筈なのだが。だというのに、私も含め多くの人は、目の前の結果・即座に分かる結果に一喜一憂してしまいがちだ。すぐに出る結果でなければ我慢しきれずに、無意味だったとか言い出してやめてしまいがちだ。そんなことで、他人(や自分自身)を伸ばしてやれるんだろうか?
 
 
 

*1:勿論自分自身に対しても!