シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

それが起こったとしても、誰も第三次世界大戦と呼ばないし、そんな風にも見えない

 
2025年が始まった。私は正月に放談をやるのが好きで、今年も例外じゃない。今年は世界全体について、めちゃくちゃなことを書きたい。
 
去年のお正月に私は、『正月放談・2024年は戦前か?』という文章を書いた。ウクライナ情勢をはじめ、世の中はだんだんきな臭いほうに傾いていて、第三次世界大戦前になってきているのではないか、みたいなことを書いたわけだ。
 
で、2024年の間にはさらに色々なことが起こった。
ウクライナ情勢ではウクライナが劣勢、北朝鮮軍の姿がみられるようになったと聞く。中東ではハマスのテロをきっかけに、イスラエルによる破壊が繰り返された。国際情勢はビリヤードの球のように連鎖する。私たちが見聞きできる範囲でも、ロシアより南、イスラエルより北では色んなことが起こっているようにみえる。
 
アメリカではトランプ大統領が再選した。帰ってくるトランプ大統領は介入主義者ではなく、アメリカ軍があちこちで人員や金銭を消費しないよう望んでいると聞く。となると、2025年から2029年まで、アメリカは“世界の警察”を降りる可能性が高く、そのことはアメリカのライバル国家をエンカレッジし、従来の国際秩序を改変したい勢力をもエンカレッジするだろう。
 
ってことは、2025年以降は2024年以前よりも“力による現状の変更”がやりやすく、“地図の引き直し”が起こりやすくなるんじゃないか? 実際、2024年の段階でも素行不良国家による現状変更の試みが行われてきた。それらが成功裏に進めば、国際社会はそのような試みを許容する、あるいは、試みを止めるすべを失っていると皆は見るだろう。コロナ禍とそれに引き続くインフレーションに苦しむ国は多い。なかには、国内問題を国外問題に転換したいと望む国/指導者/国民もあるかもしれない。
 
そうしたなかで、国防力を急速につけようとしている東欧諸国や北欧諸国の痛みは想像するにあまりある。このインフレーション下で国防力に力をまわすのは、かなりしんどいはず。それでも国防力に力を注ぐ国々の姿に、背筋の寒いものを感じずにいられない。そういえば日本も、いつの間にか国防力の拡充に舵を切っている。国民はいざ知らず、指導層はそういう判断をしているということか? いや、案外日本人の多くが軍靴の足音を聞く思いを持っているのかもしれない。
 
 

第三次世界大戦は来ない/来る

 
私は楽観的/悲観的なので、第三次世界大戦は来ない/来ると思っている。まずは以下を。
 
去年の正月に id:ka-ka_xyz さんに教えていただいた、国会図書館の資料からの抜粋だ。以下のグラフは「第二次世界大戦」というキーワードの出現頻度を引っこ抜いたものだ。
 

※出典:Ngram viewer
 
「第二次世界大戦」というキーワードの出現頻度は1939年から上昇している。興味深いのは、「第二次世界大戦」という言葉がいよいよ語られるようになったのは戦後になってからという点だ。出版状況の違いや言論を巡る体制の変化のせいかもしれないが、日本で第二次世界大戦というキーワードが本当に人口に膾炙したのは、それを通り過ぎた後だった。そして21世紀になって第二次世界大戦はあまり登場しなくなっている。
 
ついでに「第三次世界大戦」というキーワードも見てみる。


※出典:Ngram viewer
 
これも興味深い。グラフからは、朝鮮戦争やベトナム戦争といった対立局面で「第三次世界大戦」というキーワードが頻出していることが読み取れる。それはそれで面白いのだが、一層興味を惹くのは、「第三次世界大戦」というキーワードも、21世紀以降は出番が少なくなっていることだ。眺めるに、「第二次世界大戦」「第三次世界大戦」といった概念は、20世紀的な概念だったのだろうか。その影におびえる度合いは、21世紀になってからはあまりない様子である。第一次世界大戦も20世紀的な概念だから、いわゆる第〇次世界大戦という概念じたい、前世紀の遺物なのかもしれない。私が「第三次世界大戦は来ない」と言う時、その理由のひとつはこれだ。
追記:ryou-takano さんから、資料の年限がぜんぜん手前だよとはてなブックマークでご指摘いただきました。ありがとうございます&訂正線を入れておきます。googleトレンドを見てきたところ、第二次世界大戦という言葉はちゃんと使われているし、第三次世界大戦という語彙はロシアがウクライナに侵攻した時にはかなり使われている様子でした。
 
 
ついでに言えば、20世紀の架空戦記モノにあったようなNBC兵器使いまくりの第三次世界大戦、赤軍戦車軍団がヨーロッパを蹂躙し、西側諸国が戦術核兵器で応戦しながら戦われるような第三次世界大戦もあり得ない*1。世界じゅうの巨大都市に核兵器が降り注ぎ、核の冬がやって来るような第三次世界大戦もあまり起こりそうにない。それらは20世紀に説得力を持ちえたイマジネーションだったのであって、ソ連崩壊からしばらくはもちろん、21世紀以降に似合うものとも思えない。
 
と同時に、私は「第三次世界大戦は起こる」とも書いた。
ただ先にも書いたように、それが第三次世界大戦と呼ばれる可能性は低く、世界大戦として皆に知られるのは事後かもしれない。そもそも今の国際情勢下において、第一次世界大戦や第二次世界大戦のようなかたちで戦争が始まるとは思えない。もし、これから世界大戦が起こるとしたら、それは世界大戦という体裁では始まらないだろう。戦争、という体裁で始まるとさえ思えない。
 
現に、ロシアはウクライナ侵攻のあれを「特別軍事作戦」などと呼び、戦争ではない風を装っている。だからというわけでもあるまいが、英語圏では「Russia-Ukline war」という表現に並んで「Ukline War」や「War In Ukline」といった少し曖昧な呼び方をしばしば見かける。日本でも、あの侵攻を「イラン・イラク戦争」のように「ロシア・ウクライナ戦争」と呼んでいるさまはあまり見かけない。ざっと見た感じでは、「ウクライナ情勢」「ロシアのウクライナ侵攻」「ロシアウクライナ危機」といった具合に、少し曖昧な表現が多い。
 
であれば、これから起こる国際紛争も単刀直入に戦争と呼ばれる可能性は低そうに思える。そもそも、わざわざ戦争という語彙を用いたい人が今どこにどれだけいるのか見当がつかない。みんな、戦争という語彙から逃げたくて、認めたくなくて、仕方がないんじゃないだろうか。
 
戦争は起こっていない。よろしい、世界は平常運転で株価が毀損されるような事態はやって来ない。他方で、戦争という呼び名を与えない限りにおいて、2020年代の国際社会はまだまだ無茶苦茶なことがまかり通ってしまいそうで、国境線の引き直しはできてしまいそうだ。戦争と呼びさえしなければ、戦争未満でさえあれば、国境線は力づくで引き直せる──世界じゅうの国がそのように認識したら? いや、既に世界じゅうの国々がそのように認識した後の世界が、2024年だったとしたら?
 
過去の歴史を振り返ると、皆がくたくたになって、こりごりになるまで現状変更の季節、調整局面の季節は続くのだろう。誰もくたくたになっておらず、誰もこりごりになっていないなら、政治判断としての軍事行動は選択肢として活き続ける。過去との相違点は、経済がものすごくグローバル化していること、人間の値段が高くなっていること、テクノロジーが軍事面でも統治面でも20世紀とはだいぶ違っていることぐらいだろうか。
 
2017年の正月に書いた『2010年代とはどういう時代だった(である)のか』という放談を、私は以下のように締めくくっていた。
 

言うまでもなく、ここに書き散らかした放言は私自身の主観に基づいた、きっと自分自身の年齢だから考えてしまうものなのだろう。これらが良い意味で外れて、「ハハハ、2017年の俺は心配性だなぁ、空を見上げて空が降って来ると思い込んでいるよ、この人は。」と笑い飛ばせるような2020年が来て欲しい。世界が平和で、日本も平和で、「秩序」が思ったほど動揺しなくて、みんなが健康で、インターネットが楽しい、そんな未来が来て欲しい。

2020年代の世界は、8年前よりもはっきり混沌としてきた。欧米中心の体制は2017年よりも動揺しているし、であるから、それに誰もが敬意を払い服従するとは到底思えない。個人では決して逆らえない大河の流れに、私(たち)自身はどのように適応すべきなのか、個人として何が選択し得るのか? そうした憂慮が加速するばかりの2025年の新年だったことを、ここに書き留めておく。
 
 

*1:してみれば、『マブラヴ』シリーズや『ガンパレードマーチ』の終末観とは優れて20世紀的な終末観だったのだ、と今は思える

まだ40代の時間があるphaさんへ

 


 
このツイートを見かけた時、年末に時間があったらphaさんに何か伝えたいな、と思ったんですがためらっていました。ところがうちの嫁さんがphaさんの近影を見て、「phaさんも年を取った」などと言ったんですよ。それに背中を押された気がするので、ありきたりではありますがメッセージを届けます。
 
さきほどの「phaさんも年を取った」という嫁さんの発言は、私たち自身が年を取ったことを踏まえた発言でした。みんなみんな、年を取っていくんですね。そんな当たり前のことに驚いたり嘆いたりする。人間の生って、長いようで長くもないのだなぁとしみじみと感じます。私は一足先に50代にさしかかりますが、気分としては既に40代卒業です。数年前と比べても、私は外見的にもバイタリティ的にも老化してしまいました。最近の私の口癖は「この身体はもう駄目だ」です。じゃあ、代わりの身体があれば大丈夫なのか? そんな吸血鬼みたいなことは現実にはできないので、私の身体はもう駄目です。
 
ちょっと前に、gigazineで「人間の老化は44歳頃と60歳頃に急激に進む」って記事があったじゃないですか。私の場合、ちょっと遅れてきて3年ほど前から身体が急に駄目になりました。今まで血液検査で引っかかったことのなかった項目で引っかかるようになったり、午後9時ぐらいまで原稿を書いていたら夜に眠りづらくなったり頭が痛くなったり。それでいて、何もしなければ9時ぐらいに眠くなり始めるんですよ。やばいよこの身体。
 
不摂生や無理や生活リズムの乱れに対して、自分の身体が寛容じゃなくなったと感じています。言い換えになりますが、この身体は簡単にホメオスタシスが崩れてしまうようになったんだと思います。こんなにホメオスタシスの崩れやすい身体で無理を続けたら、比較的短期間で身体は壊れてしまうでしょう。
 
私より一回り二回り年上の人たちは、しばしば「年を取っても勉強も仕事もレジャーもできる」とおっしゃいます。でも、それって条件付きのものですよね? これから先はもっともっと身体をかばいながら生きていかなければならないし、それができた人だけが60~70代になっても活躍・活動できるのだろうなと今は想像しています。昨今、たくさんの高齢者を街で見かけますが、彼らはみんな身体のホメオスタシスを保つ才能か努力か習慣に優れていたのでしょう、そうでない高齢者は、既に亡くなっているか街の表舞台からは消えている。
 
長く健康に生きることが人間にとってどれぐらい大切なことなのか、私にはよくわかりません。ともあれ、もうしばらくでも生きていたければ身体に無理をさせないための努力と技法が求められる年頃なのだと今は自覚しています。無分別に生きてしまったら、この駄目な身体がたちまち壊れてしまう。
 
 

たぶん更年期、たぶん意欲の変化

 
それから男性更年期かもしれない話も。
 
ちょうど血液検査で引っかかるようになった頃、私は意欲や欲求の面でもどこか混乱し、不安定になっていると感じていました。性的なことに極端に嫌悪感を感じたり、逆にあり得ない興味を感じたりするような、へんてこな時期です。少しだけ具体例を出すと、『ウマ娘プリティーダービー』のカレンチャンでしょうか。
 
私はカレンチャンみたいな造形のキャラクターってあまり好きじゃないんですが、妙にグッと来る時期がしばらくありました。「ストライクゾーンがおかしい」「これは異常だ」って自覚しましたし、実際、今となっては信じられない感じです。で、そのストライクゾーンがおかしくなった一時期を除けば、性的なことへの興味、異性への興味が少しずつ・はっきりと低下しているのがわかります。このまま行くと、私は性機能を失うより早く性的関心を失ってしまうでしょう。
 
それから野心。野心も混乱していました。意欲や努力の矛先がわからなくなり、あっちこっちに気が散って、それでいて踏み込みきれていませんでした。あと、情熱の不足。情熱が足りなくても原稿は書けますが、情熱的に原稿が書けませんでした。それって、なんだかおもしろくない。
 
そう、なんだかおもしろくなくなりもしたのです。性的な事柄も社会的なことも執筆的なことも。できなくはないけれど、あの頃あったはずの爆発的な何か、たぶん、おもしろさが戻ってこなくなりました。ブログも続けているし、商業出版だって続けているけれども、私の内側で何かが変わってしまいました。総合するに、これってテストステロンの低下ではないでしょうか。ものわかりが良くなって、穏やかにもなったけれども、大事な何かを私は失いつつあるのだと思います。で、それは今後も低下していくのでしょう。それって老人ってことじゃないでしょうか。
  
www.nhk.or.jp
 
NHKのウェブサイトを見ると、世間の人は「初老」を60歳ぐらいとみているようです。が、これは世間の人が誤っていると私は確信しています。生物学的に考えるなら、40歳こそ初老で50歳はだいぶ老人で60歳は老人の最たるものではないでしょうか。40歳が初老じゃないように思えるのは、外見的な若作りが進んでいるためや、社会的加齢が遅くなっていて現役期間も伸びているからでしかありません*1。例えば女性の平均閉経年齢は、女性の平均寿命ほどには先送りできていません。11年前にも書きましたが、伸びたのは余生であって若さではないのです。
 
phaさんは、30代の頃にも『病気と健康の話ばかりする中年にはなりたくなかった』というブログ記事を書いておられました。私と同じく、元々phaさんも自身の変化に対して敏感な感性をお持ちなのでしょう。でも、30代に起こった身体的変化と、この更年期らしき40代の身体的変化では、後者のほうが質的変化が大きい気がします。たぶんphaさんも、それはお気づきなんじゃないかと推察します。
 
 

phaさんには人生の情景を言葉にする力がある

 
ですから、少しだけ年下のphaさんに私が言いたいのは、「今できることを、一番うまい具合にやってください」です。
 
もう私にはできなくなっていても、phaさんにはまだできることがきっとあるように思います。そのなかには、phaさんが50歳や60歳になった頃にはできなくなっていることもあるでしょう。phaさんの身体ももっともっと変わっていくでしょうし、それに連動して野心や情熱も変わっていくのでしょう。だから、今できることを、悔いが残らないようにやっていただきたいと願うのです。それを、phaさんにとって一番うまい具合になさることを田舎から祈っています。
 
それと、これからはますます身体が要件になるので、今まで以上に身体の声を聴いてあげて、身体が悲鳴をあげた時にはご無理されないようにしてください。身体を大切にしてくださいと言いつつ「今できることを、うまい具合にやってください」とは矛盾した物言いだと思うのですが、そう言うほかないし、たぶん、上手くやっている中年はだいたいその矛盾を折り合いづけているだろうとも思うのです。
 
 

 
パーティーが終わって中年が始まった後も、人生の情景は変わっていくし、折々に戸惑いや哀しみや喜びはあります。ご近著でも、phaさんはそれを結構あれこれ記してらっしゃったように思います。そうした折々の情景を、これからphaさんはどんな風に表現していくのでしょうか。私はそれを読んでみたいので、勝手なことを申しますとphaさんには生きながらえていただきたく思います。そして中年の情景、ひいては老年の情景を記していただきたいのです。私も、2050年のphaさんのエッセイが読めるよう、できるだけ生きながらえられるように努めたく思います。どうかよいお年をお迎えください。
 
 
[たぶん関連]:体力や健康も才能のうち - シロクマの屑籠
 
 

*1:あと、社会全体が老いてしまって相対的に40歳が“若手”とみられやすいせいもあるかもしれません

「未成年と推し」について考える

 

 
 
2024年1月に出版された『「推し」で心はみたされる?』は年末になっても色々な方面からリアクションをいただいていて、底堅く読まれているなぁと驚いています。そうしたリアクションのなかには、学生さんから推し活について質問いただくものもままあり、業務のさしさわりにならない範囲であれこれ答えてきたつもりです。
 
そうして考えるきっかけが溜まってきたので、「未成年と推し」について私なりの意見を書いてみたいと思います。
 
推し活は、そのルーツをたどると、元々はアニメやゲームのキャラクターではなく、アイドルやタレント、歌手や役者さんを応援するような活動で。「推し」や「推し活」がまだオタク全体の言葉でも日本人全体の言葉でもなかった頃、その担い手の多くが成人、または18歳以上の人たちではなかったかと思います。
 
と同時に、そうした実在の人物を応援する活動にはトラブルもついてまわったのでした。たとえば「追っかけ」が高じて良くない行動に出てしまうとか、そういった逸話が聞こえてきたものです。現在でも、推し活が高じて身上つぶしてしまう人がいます。そして身上をつぶすような推し活になりかねないような課金システムというかコンテンツというかは、まあどこにだってあったし、今日でもどこにだってあるわけです。
 
こうした事情を踏まえると、成人が自己判断によって推し活を行うのと、未成年が保護者による保護のもとで推し活を行うのは、同じってわけにはいかないでしょう。それこそ、思慮分別をこれから身に付けていく未成年と、推し活の甘いも辛いもよくわかっているベテランのオタクの人を同列に論じることなどできません。ベテランのオタクの人ならば耐えてみせる経済的・精神的負担の大きな推し活も、未成年には荷が勝ち過ぎるかもしれません。20世紀末あたりまでは色々とおおらかでしたから、未成年が悪い推し活につかまって餌食になったって構わなかったのかもしれませんが、令和の今日ではそういうわけにもいかないでしょう。
 
では、未成年にも勧められる推し活とは、どのようなものでしょうか。ここでは、いわゆるコンテンツと呼ばれ得る部類のものを推すこと、なんらか経済的負担を伴う推し活であることを想定してまとめてみます。
私は、いきなりディープで無軌道で推しの対象との距離感があいまいになりがちな推し活は、おすすめはしないほうがいいかな、と思っています。ひとことで推し活と言っても、深いものから浅いものまでありますが、この場合、浅いものをお勧めするのが良いでしょう。望むらくは、浅瀬がどこまでも続いているのでなく、成人後にだんだん深いところまで分け入っていけるようなものがいいですね。実在の人物を推す場合も、これは可能なことだと思います:未成年のうちはおこずかいで買える範囲のファングッズを買い、未成年らしい範囲で動画をみたり友達と一緒に応援したりする、コンサートなどに行くのは年に一度、ぐらいだったら実在の人物を推す場合も適切な距離が保たれ、いきなりぬかるむ確率は低いのではないでしょうか。経済的・物理的・心理的な距離感がめちゃくちゃになりにくい推し活なら、いきなりリスキーなことにはなりにくいでしょう。
 
ゲームやアニメなら、そうした深すぎない推し活はもっと可能であるように思われます。小さな子どもから大人までファンのいる『ポケモン』のようなコンテンツはもちろん、『FGO』や『刀剣乱舞』のようなコンテンツでも、無体な推しにならない楽しみ方はいくらでもあると思います。保護者側は、それらのコンテンツを未成年が危なく推さないように手助けするのが本来は好ましいでしょう。しかし現実には、経済的・物理的・心理的に前のめりになり過ぎてしまう場面も、起こりえると思います。そのような時には、前のめりになり過ぎてしまいそうな背景がどのようなものか、なるべくわかったうえで保護者側が対処したいものですね。前のめりになり過ぎてしまいそうなリスクが高いと思われる未成年の場合、そうでない未成年に比較して推し活の安全マージンは広く設定せざるを得ないかもしれません。そのような未成年が、たとえばガチャ圧やコレクション圧の強い作品に触れる際、そうしたリスクがあることを早い段階から親子で話し合っておくのが好ましいと思います。
 
「それが簡単じゃないんだ」、というのはそうでしょう。未成年といっても思春期は、親の知らないところで知らないものを吸収してくる時期ですし、それが親からみて都合の良いものばかりとは限りません。そうでなくても、親のいうことに唯々諾々となる年頃ではないでしょうし、唯々諾々となり過ぎていてもそれはそれで心配です。ですから推し活に限らず、思春期青年期の未成年の楽しみに大人があれこれ言える度合いはそんなに多くないとも私は思っていますが、他方で子どもは親のいうこと・考えていることを意外なほど聞いているものなので、身を案じているという気持ちはきっと伝わると(少なくとも初手では)信頼していい気もします。だって、大人から信頼されていない時、その気配を子どものたちまち察知しますから。ですから、保護者側から見て少し心配かなと思う推し活を未成年が始めた場合も、初手はとにかく信頼、ではないかと思います。「ちょっと心配だけど、安全にね」ぐらいのことは伝えてもいいように思いますし、そういう会話が親子の間で可能なことのほうが肝心なのかもしれません(それを言ったらおしまいよ、という気がしなくもないですが)。
 
長くなってきたのでまとめましょう。
未成年の推し活は、はじめは浅いところからスタートできるものが望ましく、そのうえで成人後に拡張性のあるようなものが好ましいかもしれません。が、ともあれ当初はリスクが高すぎないものがおすすめではないでしょうか。ただし、深みにはまってしまうリスクの大小には個人差がありますから、保護者サイドとしてはその未成年の性質を踏まえて、必要であれば、推し活の安全マージンを広くとったほうが良い(つまり深みにはまりそうなコンテンツは推奨しないほうがいい)かもしれません。とはいえ、一番肝心なのは、保護者と未成年のあいだで、そうしたリスクなどについて話し合える状態であること、信頼関係が維持できていることかもしれません。これは推し活に限った話ではありませんよね。親子関係において信頼の重要性はひきもきらない──書いているうちに、そんなことを再認識しなりました。
 
 
*以下は、推し活について未成年の方の質問に答えた内容をちょっと書き換えたものです。わざわざ課金して読むものではないと思います。常連のかただけ、ちょっとご覧になってみてください。
 
 
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体力や健康も才能のうち

 


 
年の瀬は仕事が忙しい。診療、執筆、打ち合わせなどが立て込んでくると、体力がぎりぎりだと感じることも多い。もう少し身体が弱かったら、これだけの業務はできなかったか、健康を害して退場していたと思う。
 
若かった頃、才能といえば「早くて正確な読解力」「一を聞いて十を知る力」「アイデアのひらめき」とか、そういったものを連想していた。「コミュニケーションの機敏」も大切だ。でもって、それらが社会適応にとって重要で、創作活動にも仕事にも重要だという認識は中年期を迎えた今も変わらない。
 
しかし、この年齢になって特別に高く評価するようになったものがある:それは、体力と、その体力の土台となる健康だ。
 
人間は体力が続く限り努力できるが、体力が尽きれば努力できなくなる。健康も同様だ。ロールプレイングゲームでいえば体力や健康とはヒットポイントにあたり、これが尽きてしまえば戦闘不能になる。知識レベルでは「体力や健康が尽きれば戦闘不能になる」とは前々から知っていたが、実感がぜんぜん足りていなかった。健康を害して生きることで精いっぱいだった時期でさえそうだったし、化け物みたいな体力で超人的な働きをしている人を間近に眺めてさえそうだった。
 
ところが半世紀近く生きてみて、体力や健康に対する見方が大きく変わった。なぜなら、若かりし頃に素晴らしい才能を発揮していた人々が体力や健康がボトルネックになって力尽きていく姿を、しばしば見かけるようになったからだ。あんなにアイデアの火花が美しかったのに、あんなに精力的に活動していたのに、あんなに人の心を掴むのがうまかったのに、体力や健康に問題が生じて去っていった人の多いこと! そうした人たちのなかには、体力や健康が尽きる前に作品を残せた人もいる。でも、そうして名前と作品を残せた人は幸運な部類で*1、そのまわりには体力や健康が足りないために原石のような才能を研磨できなかった人や、研磨の過程で力尽きてしまった人がたくさんいることを私は知ってしまった。
 
対照的に、若い頃から一貫して活躍し続ける人々は皆、体力があり、健康をも維持している。彼らは技芸に優れているだけでなく、体力オバケ・健康オバケであることが多い。
 
スポーツ選手などはその最たるものだと思う。
長く活躍するスポーツ選手は故障が少ない。故障が少ないぶん、たくさん練習でき、たくさん試合に出ることができる。生まれ持っての強靭さも大切だろうし、ライフスタイルやトレーニングの工夫、健康管理のプログラムなども大切だろう。どこまでが先天的でどこからが後天的かはわからないが、とにかく、故障しないこと自体が長い活躍やさらなる熟練を可能にするから、体力や健康は才能の基盤というほかない。
 
芸能人や政治家や研究者も同様だ。タイトなスケジュール、泊まり込みの仕事、野戦病院のような環境、等々でも体力がもつ人・健康を害さずやっていける人は、ライバルたちよりもチャンスを得られる。芸能人なら仕事をこなせるだろうし、政治家なら有権者のもとを回れるだろうし、研究者なら論文を読んだり研究したりできるだろう。それって有利ですよね? 逆に、体力が乏しく健康を害しやすければ、こなせる仕事量も、握手できる有権者の数も、読める論文の数や挑める研究の数も、少なくならざるを得ない。
 
人脈づくりも、体力や健康に大きく左右される。体力や健康に秀でている人は、そうでない人がドン引きするほどパーティーや飲み会に出て回れる。それらはお酒の飲みすぎや御馳走の食べ過ぎといった健康リスクを伴うけれども、本当に顔が広い人は、そうしたことをしていても案外健康が保たれていたりする。社交力とは、案外体力や生命力の反映かもしれないのだ。
 
もちろん、そんなのは体力や健康のもたない人には不可能な芸当だし、できているつもりでいてもじきに健康を害してしまう人も多い。とてもじゃないが、「彼らを見習って夜の街を飛び回りましょう」だなんて言えない。ところが、体力や健康のオバケみたいな人はいるもので、20~30代の頃はもちろん、還暦を回っても社交的であり続けている。
 
繰り返すが、体力や健康がどこまで先天的な素養に依っていて、どこから後天的なライフスタイルやトレーニングや管理プログラムの賜物なのか、私には区別がつけられない。しかし健康面や体力面においてレジェンダリーな人たちはだいたい両方に秀でていて、ハードワークに耐えているだけでなく、身体を酷使しすぎないようなインターバルを入れているものだ。それで言うと、効率的に休めることもまた才能であり、健康や体力の一部といえる。ロケの移動中に熟睡できること、激務の最中でも食欲が落ちないこと、研究室の硬い床に寝転がってもへっちゃらなことは、体力という才能、健康という才能の最たるものではないだろうか。上を見ても下を見てもきりがないことだが、そういう、いつでもどこでも回復できる人が私はうらやましい。回復が早ければ、そのぶん体力も健康も維持しやすくなり、そのぶん、“手数”も増えるだろうからだ。
 
それから意志。意志は、意志の強さやしなやかさと、それを支える諸要素*2から成り立っていて、それ自体、体力や健康に匹敵する才能だ。意志薄弱では、どうあれ何事もなすことはできない。
 
だが、その意志は体力や健康と根っこで繋がっていて、体力や健康を害されながら強い意志を持ち続けるのはとても難しい。たとえば痛みや不眠といった悪条件が積み重なれば、たいていの人は意志が弱くなり、維持できているつもりでもしなやかさを失う。ときにはねじれ、強い願いが強い呪いに転じてしまうかもしれない。一般論としては、体力や健康が保たれているほうが意志は強くて柔軟で建設的な状態を維持しやすい。逆に、半年や一年程度ではビクともしない強い意志も、健康問題に長時間曝されていれば徐々に変質する。
 
人生がダカールラリーのような様相を呈してくるにつれて、活躍の与件としての体力、才能の一環としての健康の重要性がしみじみわかってくるようになり、「ああ、私の体力と健康では残りのトライアルの回数はたかが知れているだろう」と自覚するようになった。また、そうした重要性が若いうちにはピンと来ず、ある程度年を取ってからでなければ実感がわかないところに、人間をやっていくことの難しさを思った。
 
 
長らく最前線で戦い続けている人がなお、「健康寿命はあと20年、あと20年は戦える!」って言えるのは、大変な強みだと思います。私もあやかりたい。
 
 

*1:力尽きてしまっておいて幸運もなにもないよ! という考え方も捨てがたい。が、人はいつか力尽きるまで生きるものだから、その考えに固執し、まるで平均寿命まで生きなかったら幸運ではないと断言するような姿勢を取るのも私は躊躇する

*2:例えば、どういうモチベーションを持って活動しているのか・できるのか等

自分自身を振り返るにはいい機会でした>45歳うんたら説

 
blog.tinect.jp
 
今年はSNSの騒がしい界隈で45歳で狂うだのなんだのといった言説が流行り、しまいにブロガーの黄金頭さんがご自身の45歳を振り返ってあれこれとおっしゃっていた。私はそれを読み、どうあれご安全に中年期を航行してください、と思った。中年期に限らず、人生とは一歩先は闇であり、世の中は無常だ。
 
私たちの生は儚い。もし今、平穏や平安を手にしていると感じている人がいたら、それらの与件を精査し、平穏や平安がしばらく続けられるならそのままでいいけれども、じきに崩れてなくなるとしたら、崩壊に備えるであれ、時間を使い切ってしまうであれ、決心し、行動したほうがいいと思う。
 
で、例の"45歳うんたら"説、正直あまり良いフレーズとも思えないけれども、いろんな人が自分自身の人生を振り返るきっかけになったのは、良かったのではないかと思う。45歳で狂うのか狂わないのか・独身だととりわけ狂うのか……といった抽象的な言説をとおして確たることなんて何も言えない。しかし自分自身の依って立つものが砂上の楼閣でしかないことに気付いたり、中年期に急激にだめになっていく人々を反面教師にしたりする機縁として、自分自身のために活用する道はある。これから中年期に突入していく人にも警句として響くだろう。
 
私は2007年に「オタク中年化問題」を書き、2014年に『「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)』という、もともとは『年の取り方がわからなくなった社会』という出版企画だったはずの本を上梓するぐらいには自分自身の加齢と変質に警戒的だったけれども、実際に四十代を終えようとしている今、思うのは、「警戒し、年上の人たちの中年期をどんなに参照しても、やっぱり自分自身でなってみないとわからないことだらけだった」だった。
 
とりわけ健康維持にかかるコストの上昇については40代の後半にならなければ自覚できなかった。さながら民間生命保険の保険料の上昇のようである(ということは、70代や80代の健康維持コストは一層重たいのだろう)。今、20代や30代の頃と同じような食生活やライフスタイルを続けていたら、血糖値や血圧やコレステロールがたちまち高まってしまうと思われる。それは老人の兆候だ。昔の人々が初老として40歳を定義したのは正確なことだったと思う。
 
2010年にNHKが行ったアンケートでは、多くの人が初老期を五十代後半と答えているが、これはアンケートに答えた多くの人たちが間違った認識をしているのだと思う。身体の次元では40代は老人への入口であって若者の維持ではない。そうしたことが、今は知識としてではなく実感としてますます強まっている。
 
冒頭の黄金頭さんへの私信っぽく付け加えると、何歳で中年期の変化を感じるのかは、生物学的な個体差や社会的境遇などに基づく個人差があるよう思う。私の場合、45歳の頃は社会秩序について書きたい本が書けたばかりだったので危機感は皆無だった。そのかわり47歳の頃は公私ともに落ち着かず、自分が何をしているのか、自分に何ができるのかまるでわからなくなっていた。身体的にも急に老けたと感じた。この身体では無理はきかないと思い、2024年だけは身を削る思いで活動したけれども2025年からは同じことはしないと決めている。なぜなら、この身体でもできることは、かつての身体にできたことに比べて減ってしまっているからだ。
 
黄金頭さんが何歳でそうした変化を痛切に感じるのかはわからないけれども、そのとき、狂うかどうかはともかく慄然とするんじゃないかと思う。私の場合は、慄然とした。落胆もした。それからやっと諦めて、諦めたなりに残りの身体をどう使うか考えている。この、慄然→落胆→諦め→再出発 のプロセスに支障が生じたら、それは傍目には「あの人、どうしちゃったんだろう」感のある行動に繋がると思う。たとえば自分がもう変わってしまったのに変わる前に必死にしがみつこうとする人は、傍目に見ればかなり無理のある行動を連発する思われるし、実際そういう人は散見される。ギャップが大きいのにしがみつこうとする度合いが高ければ、それが精神疾患を招き寄せる場合すらあるだろう。
 
しかし黄金頭さんが停滞や変化に慣れている場合は、慄然としないのかもしれない。それがどうした、としか思わない可能性すらある。少なくとも40代まで順風満帆だった人や健康を害したことのない人と同じになるとは考えられない。あまりに健康で、あまりに美しく、あまりに巧みだったからこそ、不健康や老化やままならなさに対して脆い場合はままある。そのような脆さが命取りになってしまうこともあるのが人の世と人の心の難しいところだと私は思う。もちろん皆が皆そうなるわけでもない。だからかえってわからない。
 
どうあれ人は変わっていくものだ。
前にも書いたが、「不惑」とは、惑わなくなるではなく惑えなくなることでしかない。自分自身が変わっていき、周囲も変わっていき、時代までもが変わっていく。過去と現在と未来のギャップは拡大する。書いていて、憂鬱な気持ちになってきた。なぜなら、結局私は変化に対してうろたえていて、外面はともかく内面としてはいつも自分自身と娑婆世界の変化に対して後手でしかないからだ。
 
悲観的になってしまっていけないですね。寒くて暗くてしようがないからかもしれない。黄金頭さんにおかれましては、冬至のメランコリーにやられることなく、お元気でご安全にあってください。では。