殻ノ少女 その3(朽木冬子と作中作『殻ノ少女』についての考察)

「私は……自分が判らなくなってしまった」
「逃げて来たんだ――自分から」
「トウコと云う存在は、本当に私自身を示しているのだろうか――」


朽木冬子という名を持つ「殻の少女」。
養子だった彼女は、表面上は何一つ不自由のない生活をしていたものの、どこかに居心地の悪さを感じていた。
――今ここにいる自分は本当の自分ではなく、どこかに自分の生きるべき本当の人生がある
――自分が自分でいるだけで生きていける世界が、どこかにある
冬子の感じていた窮屈さが、自分を縛りつける「殻」となっていた。

この殻は、輪るピングドラムでの「箱」と同じもの。
この中にいるかぎり、何も得られないし、隣の人と分かり合うこともできない。永遠の孤独。

「寂しいよ……先生……」


けれど、殻は弱い雛を守るものでもある。
誰と触れ合うこともできないけれど、誰に傷つけられることもない。

「……時坂さんは強いんだね」
「まだ……強くなんかないよ。掛け替えのない人を亡くした痛みはずっと残っているから。でもそれを言い訳にして、殻に閉じ籠もって居たくはないんだ」
「……やっぱり強いよ。私はずっと殻の中に居るようなものだから」


人間は誰しもが自分の殻の中にいる。
その殻から出て、寂しさを紛らわそうとする人も大勢いる。

例えば、水原透子。
彼女は殻から出て羽ばたく先を、朽木冬子に選んだ。
冬子に自分の理想を見て、冬子になりたいと望んだ。
けれど、バッドエンドで描かれたように、それは叶わぬ夢だった。

冬子にはその結末がわかっていた。
寂しさに敏感なあまり、愛欲に依存してしまえば、望んでいた「本当の自分」にはなれないのだと。

「私たちは弱虫だから――愛に溺れてはならないんだ」
「……ふたりで居れば、離れたとき……もっと弱虫になってしまうよ……」


間宮心像を始め、多くの人々を偏執させた「殻ノ少女」の魅力は、この痛々しいまでの純粋さにあるように思う。
――本当に手に入れたいもののため、殻の中で孤独と戦い続けてきた気高い少女。
――神々しいほどに純真なその存在を、所有する歓び。
――その少女の持つ果てしなく真っ白なキャンバスには、どんな理想を塗りたくることだってできる。

つまり、「殻ノ少女」は永遠の処女性を具現化した作品なのだ。

---

「――人は死んだらどうなるのだろうね」
「生まれ変わる? 何に――誰に? 私は……私にだけは生まれ変わりたくない。……絶対に」
「私は……私が嫌いだから」


冬子は弱虫な自分が嫌いだった。
自分の世界に閉じ籠もり、けれど外の世界に憧れている自分が嫌いだった。

けれど、冬子は主人公と交わることで、一枚の絵を完成させる。
自分を縛る殻から飛び立つ、「瑠璃の鳥」。
これは、今ここにいる自分が「本当の自分」でしかない――自分で自分を認めることができた証なのだ。

「……君から受けた依頼は全て完了したよ。随分と君は、数奇な運命を辿っていたようだね」
「でも、それでも――陳腐な言葉になるかもしれないが、君は君――朽木冬子だったよ。それ以上でもそれ以下でもない。君は君でしかないんだ」
「……君は納得しないかもしれないな。でも――親がどうとか、そう云うものじゃないんだ。君は朽木冬子として生きて来たんだろう……?」
「――これからも、何も変わりはしないよ。君はずっと君のままだ」


冬子の身体がどこに行ってしまったのかはわからない。
けれど、彼女はもはや「殻の少女」ではない。
彼女のたましいは、肉体という殻からすらも飛び立ち、自由な大空へと羽ばたいていくのだった。

『君は絵を描くとき、どんな気持ちを其処に込めているんだい?』
『えっ――? ……そうね、考えた事も無かったわ。そうだね……強いて言うとすれば、自由――かな』
彼女は自由を求めていたのか――
自らの殻に閉じ籠もり、それでも自由に憧れ――
「……君はその前から、ずっと自由だったよ」

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