玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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NHKで放送された富野の弟子の女子大生の作品の特異さに感動した。

NHK ABU デジスタ・ティーンズ審査委員兼指導員として富野由悠季がテレビ出演しました。

NHK ABU デジスタ・ティーンズ
ABUデジスタ・ティーンズは、Eテレにて2月11日(日)午後4時〜5時に放送されます。
12月26日(月)ABUデジスタ・ティーンズが、盛況のうちに開催されました。
日本時間17時45分(トルコ10時45分)から4時間近くにわたって、タイとトルコのスタジオと結んだ賑やかな国際交流の場となりました。
http://www.nhk.or.jp/abu-digista/

端的に言うと、アジア各国、タイ、トルコ、ベトナム、韓国、ブルネイ、イラン、マレーシア、日本の10代の学生が、その土地の映像作家の指導を受けて、短編映像作品を作るという企画だ。
作品はここで見れる。↓
ABU Digista teens - YouTube


テーマは友情。
しかし、この作品を見て、僕は違和感を感じた。
別に制作技術や制作技法や、各国の文化は特に重要ではない。もっとテーマ的なことだ。
そもそも技術や演出はどれも富野監督作品に劣っているのだ。だから若者の不慣れさは問題ではない。


僕が違和感を感じたのは、どの国も
友情と言うテーマを描くために、戦争、事故、災害、病気、遭難、自殺、自己犠牲、などの不幸を乗り越える物として友情を描いている所だ。
僕はそれはあまり気に食わない。
なぜか。


不幸がきっかけで友情や融和が生まれると言うのは珍しいことではない。去年、自然災害を通じて「絆」が強まったというブームが発生した事は記憶に新しい。
日本だけでなく、戦争中のイランや、国境問題に揺れるトルコ、レズの友情のもつれからスクールカーストで自殺する韓国(ちょっとキマシタワー)、など、いろんな国が同じように、「不幸をきっかけとして友情」を描いているという共通点を見つけた。戦争が起きて、困ったから、友情が生まれて助け合いました、という筋書きが多い。あるいは、不幸が起きて死んだから友情に気付いたとか。
これは、NHK教育の放送では語られていなかったが、僕はそう思う。
あ、富野由悠季監督だけは、「どうして、飢えて食べ物を取り合っていたペンギンのキャラクターが、地面が割れただけで和解するのか、それが描かれていない。飢えと友情の間にはもっと隔たりがあるはずだ」とトルコ人に疑問を提示していた。


そして、それがなぜ、僕が気に食わないかと言うと、「不幸が無ければ友情や幸福は産まれないのか?」と言うことだ。
それでは、幸福は不幸の被造物ということになる。それは幸福の豊かさを減じさせることにはならないだろうか。失って初めて友情に気付くなら、最初からもっと愛し合えよ!っていうか不幸なんかどこにでころがってるんだから、頼まれなくても幸せになれよ!!!
実際、僕は精神障害3級で、ちょっとしたストレスで下痢になったり高熱になったり、歩いてると突然足の感覚を失って転んだりするんですし、金はないし、まあ、割と不幸なんですけど、それと人を愛するって事は別問題だと思うんだ。


だが、富野由悠季が指導した女子高生女子大学生のグループは違う。
そこがすばらしい!
彼女達の最初の企画案だと、引きこもりの少年に美少女の転校生の友達ができると言う話だった。つまり、引きこもりという不幸が友情の造物主で、美少女は不幸のご褒美というドラマの構成である。
だが、そこで富野がもっとシンプルにしろと指導した。2時間もかけて。
彼女達は1週間かけて直して、数週間かけて作画した。


引きこもりの少年は出てくる。だが、それは不幸ではない。引きこもっていてゲームに熱中していた少年は、ゲームチャンプになって、シューティングゲームで操作していたキャラクターがドラゴンになって画面から飛び出し、少年の友になる。
ここがいい。ゲームに熱中する事を不幸としてだけ捉えていない。むしろ、ゲームに熱中したからこそ、ドラゴンが出てきてくれた。こういう肯定的な目線はとてもいい感性だと思う。
そして、ドラゴンは引きこもりの少年を乗せて空を飛び、公演で二人でキャッチボールをしていた少年の所に連れて行く。引きこもりも野球少年も、三人とも同じようにドラゴンにもみくちゃにされる。
理不尽なのだが、そこが神様の理不尽さと言う感じだ。そして、神竜の前での少年たちの平等性の表現になっている。
つまり、引きこもりの少年よりも、外で野球をしている少年たちの方が偉いという単純な価値観ではないのだ。
そして、引きこもりも野球少年も、ドラゴンと一緒にもみくちゃになったことで、なんとなく連帯感が生まれて友達になる。
友情が芽生えたきっかけは不幸ではない。不幸を乗り越える道具としての友情でもなく、不幸の後に気付く友情でもない。ただ、一緒にいて過ごすだけで友情は温かい、ということだ。
この、不幸の無いピースフルな感覚は、実はほとんど富野チームだけなのだ。


確かに、不幸を乗り越えるために友情は有益だ。不幸な人の友情は感動的ですらある。
だけど、友情それ自体が幸福だ、ってもっとあっけらかんと認めてしまって良いんじゃないだろうか?
難しい事とか真面目な事を言おうとして、不幸と友情を結びつけてお涙ちょうだいにするのは僕は気に食わない。
もっと幸せになって良いんだ。ただ、一緒に居るだけで幸せは産まれるはずだし、そっちの方が嬉しいよ。


富野が数週間、数時間指導しただけの女子高生でも、これだけテーマ的に際立ったものが作れると言う所に、やはり富野信者としては富野監督の非凡な哲学性と、深い人間愛と、洞察力と、構成力と、オーラ伝達力を感じる。
富野監督の育てたスタッフの人たちにはこれからも活躍してほしい。

富野に訊け!

富野に訊け!


ていうか、やっぱり富野監督は才能あるし、ちょっと女子大生を指導するだけでこの非凡さだから、やっぱり監督をやって、もっと豪華なスタッフを指揮して新作をやってほしいなー。

NHK ABU デジスタ・ティーンズ | 参加作品紹介