追記:少子高齢化人口減少社会はもうどうしようもない「すばらしき新世界」

nounai-backpacker.hatenablog.jp

生来考えをまとめるのが苦手で、今回開き直って思うところをショットガン式に書いてみた所、意外に反応が多くて恐悦至極です。

さらにありがいたいお言葉を頂戴し、考えをまとめることの手助けに相成りました。

前回記事で書き足りなかった事を追記として続けてみます。

 

 

 

ド田舎ムラ社会生活が善と思っているわけではないです

前回の記事は「日本中がド田舎ムラ社会になれば子どもが増えますよ!素晴らしいですよ!」という意味では決して無い。

あの記事は簡潔にいうと、システムが人間をツールとして使うようになった現代において、相対的に不要となったド田舎で、システムから切り捨てられた「子ども」が増加しているという大いなる皮肉を論じたもの。

ここでいうシステムとは、経済・政治・社会・文化などなど、現代人の生活を担う全てであり、労働や民主主義や官僚性もシステムであるし、ドナルド・トランプや前澤社長1億円プレゼントもシステムの副産物である。

マルクスは、主に経済と労働からこのシステムを早々と指摘していた。マックス・ウェーバーやイマニュエル・ウォーラーステイン、最近ではマルクス・ガブリエルなんかもそうだ。

だがマルクスの時代では考えられないくらいに、このシステムは人間の生活だけでなく生命や意識のレベルまで入り込んできている。

※なので「システム」としか呼びようがない。

その最たる現象こそが、「少子高齢化人口減少社会」であり「ド田舎での出生率の高さ」なのだ。

前者はシステムの真っ只中として、後者はシステムに消費し尽くされた更地として。

 

ド田舎ムラ社会とは、日本の歴史の殆どを覆っていた農業共営集団生活において形成された。

なので、西洋哲学から生まれた自由や自然権などから見れば、差別的で不自由な牢獄だろう。

かく言う僕もそう思う。僕をどうしても消防団に入れたい近所の爺さんたちから逃げ回っているくらいだ。

だが、厳しい日本の自然・小作農稲作・均質的な民族構成を考えると、ムラ社会こそベターな集団形成であり、今の民主主義みたいなものだったのだろう。

現在問題になっているのは、西洋哲学から生まれた資本主義システムの真っ只中にあり、かつその競争原理が激化しているというのに、社会の基盤が未だに「ムラ社会」だということだろう。

これは前回の記事でも指摘したが、夏目漱石が明治時代から指摘をしていたニヒリズムであるが、それの社会インフラ版だろう。

 

よって、

①システムにより廃棄されたド田舎で子どもが増えていることは、システムの問題が現象として表れている現場であるといえる。

②ド田舎でしか子どもが増えていないのは、かつてド田舎ムラ社会で行われていた協業による子育て労力の分担が、現代の社会保障やインフラで賄いきれていないということ。

 

現在、①は仕方がない事として放置されている。

ムラ社会という農業だけに適した集団を破壊し、システムにとって効率的な社会へと作り変えた結果、ムラ社会的な不自由さは廃れ、経済的に豊かになった。

だが、その代償として少子高齢化人口減少社会が訪れた。

本来であるならば、ムラ社会で行われていた子育てや介護を社会保障やインフラ整備で助けてやるのが道理のように見えるが、日本はそれを怠った。

いや、東アジアの国々はたいていうまくいっていない。

ここに夏目漱石のジレンマがある。

 

個人の自由を得たように思えるが、それはシステムにとって効率の良い範囲での自由であり、経済的なコストが物差しにされている。

欧米はここに現代の奴隷である移民を流入させることで、「個人の自由」を守りながらも社会をうまく運用させていた。最近までは。移民の反乱はまさに同じ構図である。

東アジア諸国は、(時世的な悲劇であり同情の余地あり)システムを形振り構わず導入した。そのため経済的な物差しだけで独自のハイブリッドシステムを作り出したため、子どもや女性や老人などのシステムにとって優先順位の低い人々を蔑ろにしていた。

よって東アジア(中国はちょっと違うが)は、人口減少社会に突入している。

もちろん、欧米諸国も移民の人口は増加しているが、先住民?の子どもは減少している。これをシステムによる効率性と見るかどうかは面白いところだ。

だが日本の経団連が移民大歓迎なところを見ると、ずいぶんと『効率的』なのだろう。

 

結論として、ご意見にもある通り、「現在の個人の自由を保持したまま、子どもを産んでもそれなりに楽しく暮らせる社会」を目指すべきだろうが、こちらもご意見にあるように現在の政治家ではまず無理だろう。

なんせ現在の政治家を産んでいるのはシステムだからだ。医師会などの利権団体の政治力を見ればいうまでもない。

我々はグランマ号に乗ってやってくる髭男たちを待つしか無いのだろうか?

 

 

 

じゃあどうすればよいのか?

このシステムから降りることは出来ない。

システムから降りることは、カネで食料や燃料や物資を得ている日本にとって大変冒険的であり、そしてトラウマがある。

かつて日本はシステムから切り離されそうになったことにより、ブチ切れて大博打を売ったことがあった。

太平洋(大東亜)戦争だ。

第二次世界大戦は、システムのグローバル化により噴出した問題を政治で収めることができなくなったために起きた悲劇である。

持たざる国、日独伊三兄弟は独自のシステムを無理やり作ろうと大博打に出てスッテンテンになった。

現在はあの時以上にグローバル化が進み、ヒマラヤの山中でもWi-Fiが使える時代。

システムから抜けることは不可能に近い。

 

では、国内のシステムを変えることはできるかというと、先程書いたように日本の政治家や官僚機構では不可能だろう。

政治家はシステムにより恩恵を受ける各利権団体の代表者の集まりであるし、官僚機構は天下り先という小銭稼ぎシステムを作るのに忙しい。

彼らは馬鹿ではない。非常に優秀な人材が大半だ。もう一度いう。大半だ。

なのになぜ?

ではマスコミはどうか?こちらは政治家以上に酷い。ワイドショー番組なんか見てられない。専門家でもない人間に専門外のことを聞いて専門外の人間が専門外な発言を上から目線でしているショーだと思えば見れなくもないが。

政治運動はどうか?現在各地でポツポツ起きている政治運動は暇な元運動家の同窓会と化している。大きなムラ社会であった労働組合なども破壊されており、もはや烏合の衆をまとめるアイコンすら作り出すことが出来ない。敵は「ベトナム戦争」のようなわかりやすいイメージではなくなり、極小に細分化され、しかもそれが各々の体の中に入り込んでいる。

そして最後の砦、国民は非生産的長時間労働と過酷な子育てや介護で多忙すぎて1gの余力もない。最近の若者は悟りきって何も興味を抱かないらしいが、これは正当防衛である。

 

やはりシステムを変えるしか無いが、その原動力がない。

システムは巧妙に芽を摘んでいる。東アジア諸国の労働環境が過酷なのは、疲労させることで芽を摘んでいるんじゃないかと思うほどだ。爆買いはその意趣返しだ。

個人的になかなか名案が浮かばない。SNS上で起きたシステムへの単発攻撃が一定の効果を見せたプチ抵抗もあったが(日本死ねやブラック企業炎上作戦)、SNSこそが現在のシステムの寵児である。

が、SNSやインターネットを中国が検閲しているところを見ると、「庶民の手軽なAK-47」になれるかもしれない。

 

現在システムに対しての諸々のまとめ作業に入ろうとしているが、

誰か名案やご意見があれば教えてください!!!!

コメント欄でも良いので。

 

 

最後に、前回の記事で「生物は種の保存を第一テーマとして生きている」と書いたのですが、ご指摘にあるように現在ではこの考えは否定されているそうです。

勉強不足でした。良ければわかりやすいおすすめの本なんかあれば教えていただけるとありがたいです。

 

 

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