昨日の「靖国問題と言論へのテロ」の続きになります。
日本の議会政治は、その出発以来、板垣退助、大隈重信などのテロ受難を経て、近年でも、浅沼稲次郎刺殺、河野一郎宅への放火、宮沢喜一首相私邸前での割腹自殺未遂事件など、右翼の攻撃を受けている。
言論へのテロとしては、中央公論社長宅での刺殺事件、朝日新聞阪神支局への銃撃事件などがあり、小泉首相の靖国参拝をめぐっては、小林陽一郎富士ゼロックス会長宅への銃弾の郵送や火炎瓶の置き去り、日本経済新聞本社への火焔瓶投入などの脅迫事件が続き、そのあとに加藤紘一議員宅への放火と割腹自殺未遂が発生したのである。
靖国神社への小泉首相の参拝が、右翼妄動のチャンスをつくり、それをもちあげる右派マスコミや評論家が、排外主義とナショナリズムを煽り、結果として右翼の決行をうながしたのだ。その意味でも、小泉首相の論理性のない感情的な行動が、日本の暗部に伏在していた野蛮さを外に引きずりだした。その責任は大きい。
小泉首相が、この言論にたいするテロへの批判をしたのは、事件から13日もたった、8月28日になってからだった。
「首相の靖国参拝がナショナリズムを煽っているとは考えないか」との記者団の質問をかわして、彼は、「よその国に煽り立てられ、よその国を煽り立てるような報道は戒められたらよろしいのではないか」とマスコミ批判に矛先を転じた。テロを批判しながら、同時に報道をも槍玉にあげた。この不徹底、無反省は彼が自己中心主義だからである。
一方、安倍晋三官房長官(当時)も、やはり13日もたってから、記者団に質問されて、ようやくおざなりのコメントをだした。
このように、政権を握っているものが、言論へのテロを、民主主義への挑戦と受け止め、徹底した批判をできないのは、右翼に対して甘いからだ。歴史に無知であり、飼い主の手は噛まない、と高を括っているからだ。
まして安倍官房長官は、『文藝春秋』2006年9月号で、「国のために命を捨てる」と語っている。また、ベストセラーとなった同社刊行の『美しい国へ』でも、「国を守るために命を捨てる」と書いていて、まるで、テロリストか特攻隊のような、命の安売りを奨励している。靖国神社擁護論の行き着く先である。
これらの言動が、テロを批判せず、バックアップしているとも言える。 マスコミのなかでの、戦略的な、靖国と愛国主義との連動が、右翼の活動の場をつくりだしている。いま、勇気をもって、テロに対時する言論を擁護する時期である。 『いま、連帯をもとめて』大月書店、2007年6月
写真=安倍晋三官房長官(当時)2006年9月24日,Photo by Eckhard Pecher,the Creative Commons Attribution 2.5 Generic license.